詩と楽 (その二)

 『論語』中の詩に関する言葉を拾っていくと、詩を学ぶことで始まった孔子の言語経験の深さ、弘さを思わずにはいられない。

 「楽に成る」というのはわかりにくいかもしれないが、礼と楽の違いは、『礼記』によると、

「楽は内に動くものなり、礼は外に動くもの」

「礼は民心を節し、楽は民声を和す」もの、

「楽は同を統べ、礼は異を弁まえる」ものだという。

「仁は楽に近く、義は礼に近し」という表現も見られる。

楽は、内に動き、民声を和し、同を統べる、というのは、ポップミュージックのコンサートを連想すればわかりやすいだろう。
 あれはミュージシャンとファンの間でのみ成立する、内に動き、声を和し、同を統べるものだが、共感とか、唱和とか、一体感、というものはあの場に確かに存在しているだろう。
 次にクラシックのコンサートを思い浮かべれば、教養を介してではあるが、世代を超えたそれが存在するだろう。これは歴史の浅いポップミュージックにも見られる現象だ。
 演奏家の間には、指揮者を中心とした調和が実現している。楽そのものが一和の働きを為し、楽譜の演奏者に指示するところが、礼の働きを為して、指揮者を中心とする演奏者相互間の関係を調整するのである。
 クラシックにも聴衆の好みというものは存在するが、モーツアルトやバッハという有名な音楽家ともなると、個人の好みを超えた普遍的な共有感覚がある。

 わかりやすい説明のために引く例が西洋的な音楽となってしまうのは、我々の伝統の断絶を物語っているのであるが、戦前の日本におけるそれが、「君が代」であったり、「海ゆかば」であったり、伝統的感覚に則った唱歌だったりしたのである。それらは西洋風の楽曲に乗せられた伝統的な詩であった。
 伝統的な楽は、世代を超えた、文化を同じくする者の最大公約数的なものであり、その最大公約数的な楽が、民族の内に動き、声を和し、同を統べるのである。
 西欧の刺激を受けて国歌が制定されたにせよ、国歌を歌う日本人の内に働いた感情は、この伝統的な感情だったといっていい。

 これは自説を正当化するために殊更こじつけていうのではない。
 大山巌が愛唱していた「君が代」を国歌に仕立てた経緯を見てみればよい。
 大山は、従兄弟にして、郷中頭(ごじゅうがしら)だった南洲翁に、幼少の頃から読み書きの指導をうけてきたのである。当然四書五経の基礎は南洲翁から叩き込まれていた。その心の内に働いていたのは、この伝統的な詩楽観だったと見ていいのである。 

 こういった礼楽の意義を考えた時、日本国家解体をもくろむ左翼が、国歌、そして、その斉唱の際掲げられる国旗を敵視してきたのは、むしろ必然的であったと言える。
 昭和の歴史は、その前期において、その詩楽的伝統の昇華、凝縮を見、敗戦による伝統断絶から、一気に詩楽的伝統の転落、壊滅に直進してきた。今その終局のところに来ていると考えるのは杞憂だろうか。
 もちろん終局だからこそ詩楽的伝統は再生されなければならないし、再生させる好機としうると言いたいのである。

 戦後教育に深刻な悪影響を及ぼしてきた日教組の代弁者である輿石東氏が、ついに政権与党に入り込んでしまったのは、日本の伝統にとって致命的な危機とさえいえるだろう。 
 最近でも自民党議員で、かつて北教組に所属する教員であった「ヤンキー先生」こと義家弘介氏が、この左翼組織の実態を暴いているが、その中に、北教組支部が作成した「日の丸・君が代強制反対」のための内部文書があったことが判明した。そこには、校長への抵抗方法や、「強制」された場合の超過勤務拒否といった「裏マニュアル」があったという。
 国民の税金で養われた彼らの行っている工作がこれである。
 まさに獅子身中の虫にして、五蠹(ごと・・・きくいむし)である。
 もちろん、そんな輿石氏が参議院議員委員長・幹事長代行を務める民主党の撒き散らす弊害については、票を投じた国民自身が責任を負わなければならないのだが。

 彼らは目的のために手段を選ばぬマキャベリストである。
 彼らは福祉のばら撒きで幼稚な国民を手懐けつつ、それでいて国民を犠牲にすることをいとわぬ集団だが、目的が正しければまだよい。間違った目的にとらわれたマキャベリスト、全体主義者がどのような惨禍を巻き起こすかは、ヒトラー、スターリン、毛沢東、ポルポトの事例を見てもわかるはずだ。キリング・フィールド、すなわち信じられぬ規模での人間の大虐殺に行き着くのである。
 小沢一郎氏の言動にそれはすでに見え隠れしているだろう。





〔追記〕

これについて国際政治アナリスト藤井厳喜氏のブログ(http://www.gemki-fujii.com/blog/)に「『遺憾』とはこれ如何?」という面白い記事を見つけた。



(引用開始)
 日本の政治家独特の用語に、「遺憾に思う」というのがある。

 例えば、北教組の違法政治献金問題が明らかになり、渦中の小林千代美議員が、「遺憾に思います」と、記者の質問に答えている。

 鳩山首相も又、この問題に関して、「遺憾に思う」旨の発言をしている。

ところで読者のみなさん、「遺憾」という言葉の意味を正確にご存知でしょうか?

日本で最も権威ある辞書と言われる(私はそう思っていないが…)広辞苑は、
「遺憾」を以下のように定義しています。


【遺憾: 思い通りにいかず心残りなこと。残念。気の毒。】


また、講談社の日本語大辞典によれば、以下のようになっています。
【遺憾: 1.心残り、残念。 用例「遺憾に思う」
     2.気の毒。    用例「事故の責任者として、遺憾の意を表する」】

           
 つまり、北教組の違法事件に関して、小林議員も、鳩山首相も
「思い通りにいかず、残念です」
と、言っているに過ぎないのです。

ここには、謝罪や反省の意味は全く含まれていないのですね。

小林議員からいえば恐らく、「不正行為を隠ぺいして巧い事やるつもりだったが、思い通りにいかず、誠に残念です」
と、言っているに等しいわけです。

詭弁を用いるならば、「公明な選挙をやるつもりだったが、思い通りにいかず、逮捕者までだして、誠に残念です。」
という意味だと、強弁出来ない事もない。

ここまで来ると、詭弁術ですな。(笑)


もう一つの可能性は、講談社の日本語大辞典の第2の方の意味ですね。
そうすると、小林議員が言っているのは、恐らく
「(逮捕された仲間が)気の毒です。」
という意味になるのでしょうね。

 あるいは、最大限、好意的に解釈すれば、
「(国民が)気の毒だ」(笑)という意味にならないこともない。w

いずれにしろ、反省と国民に対する謝罪の意味は全くないと解するのが、正しい日本語の解釈でしょう。

自民党の政治家も、大昔から、何か不祥事が起こると、「遺憾、遺憾」を繰り返してきました。

誠に国民を愚弄にした言い草ではありませんか?

彼らは単に、「思い通りにいかず、残念だ」と言い続けていたわけです。

私は、こういった状況を、「遺憾」とは思いません。

日本の政治家から、遺憾という言葉を追放すべきですね!

反省は反省、謝罪は謝罪と明言すべきです。
大体、言葉の意味も知らずに、しゃべる政治家が多すぎます。

たまには、辞書くらい、ひいたらどでしょうね…(引用終わり)


 政治を理由に行われる、彼らの方便としての言動のひどさは今に始まったことではないが、民主党政権になって、それはさらに昂進した観がある。
 言葉が持つ「まこと」の力を回復させるためには何がなされなければならないのだろうか。その難業を思わずにはいられない。



 

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