令和元年 西郷隆盛の命日 〈九月二十四日 追記〉

 九月二十四日は西郷南洲翁の命日です。

 この巨大な人物が城山の露と消えてから今年で百四十二年が経とうとしております。


 この百四十二年、明治維新から言えば百五十二年で日本は大きく様変わりしました。
 それは社会的な事象において顕著な訳ですが、人々の内面においてはもっと深刻です。

 令和の新時代を迎えて、日本は、安倍政権が推進したグローバリズム政策によって、日本人の独自性、独創性の根源である伝統が決定的に失われ、その連綿と受け継がれてきた大河の流れは文明開化以来の汽水域から、グローバルな大海に流れ込もうとしているかのように見受けられます。地球(グローブ)との間に生ずる引力である重力によって作り出される川の流れによって下流に流されるのは自然の勢いです。また近代的なテクノロジーの進化発達によって生じるグローバリゼーションも勢いですが、これを無理に推し進めようとするグローバリゼーションはイデオロギーであり、注意が必要です。
 今の日本に対して、なんとなく中島みゆきの歌「ファイト!」の歌詞の一節「あいつは海になりました」を連想してしまうのは筆者だけでしょうか。

 根源を失った文明が再興することは困難です。
 しかし、グローバリズムという虚無思想におおわれた世界で、根源に立ち返ろうという日本人はこれからも常に現れるでしょう。彼らは再び、生まれた川を見つけ、身を傷つけながら遡ろうとするかもしれません。

 筆者もその一人ですが、その大河を再発見する試みとして、明治維新百五十周年に際して書いたのが『西郷南洲翁遺訓と超近代的解説』と『十人の侍』(上・中、下は未刊)です。

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 前者は筆者なりに突き詰めた遺訓の解説ですが、編集作業の中でふと思いついたのが「超近代的解説」という副題でした。どこが「超近代的」なのかは読者のそれぞれに読み取って頂ければと思っております。

 また『十人の侍』は明治維新という偉業、そしてその中心人物である南洲翁がどのような武家政治の伝統を背景に生まれたのかを明らかにするために書いたもので、おそらくこれまで存在しなかった視点の内容です。
 中巻で廃藩置県までを叙述しておりますが、下巻に当たる「征韓論破裂」「西南戦争」については拙著『(新)西郷南洲伝(下)』(高城書房)で詳述しておりますので、興味のある方はそちらをご覧ください。
 また、簡単にですが、当ブログに連載した『皇室と論語』中に、大東亜戦争に至る流れとして、すでに書いておりますのでそちらをご覧ください。

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 ただ、これらはエンターテイメント性の高い、いわゆる「小説」ではなく、強いて言うなら「大説」というべき内容ですので、よほど意識の高大な人でないと面白さが分からないでしょう。
 それは認識の冒険であり、エデンの園にある生命の木に生る果実の一つかもしれません。聖書にあるように、そこに至る東からの道のりを天使と回る剣の炎(雷雲と稲妻)によって守られた生命の木を危険を冒して食べたものは現代の楽園を追い出されるかもしれません。
 しかし、それは厳しくも、時にやさしい温和な顔を見せる大自然と生きる人の道を取り戻す事でもあるのです。


〈九月二十四日追記〉

「自由・平等・博愛」はフランス革命以来の近代民主主義社会を特徴づける理念・標語ですが、これが実は、ある人々によって、われわれ戦後日本人が幼い頃から喰わされてきた毒饅頭であったとしたら、皆さんはどのように受け止めるでしょうか。

 筆者は今から二十年近く前、「自由」な立場から、アナクロニズムである西郷南洲翁の思想を道として選択しました。そして一昨年に『西郷南洲翁遺訓と超近代的解説』を上梓しましたが、この直観的に付けた「超近代的」という副題の言葉がずっと気になっていました。これは昔から日本の知識人の間にあった一つのテーゼである「近代の超克」ということですが、これを成そうとすれば当然、「近代」とは一体何であったのか、ということを把握し、これを乗り越えることが必要です。

 文明開化以来、多くの知識人がこの難題に取り組んできたわけですが、筆者はつい最近になってようやく「近代」とは一体何であったのか、ようやくその見えない推進者の尻尾をつかんだように感じております。
 昨年末以来のエッセイで筆者はしきりに「パンドラの筐」が開いたと言ってきたのはこのことです。

 しかし、それは筆者が最近になって知ったということであって、実はその「パンドラの筐」は五百年以上前に開かれていて、そこからはあらゆる災厄が飛び出して、人類に災いをもたらしてきたのです。

 それは、被害者としてはともかく、加害者としては名前を言ってはいけないあの人たち、すなわちユダヤ人の封印された歴史です。「近代」とは実はユダヤ人たちが起こし、指導したムーブメントであった、と言えば多くの読者はキョトンとするのではないでしょうか。陰謀論だ、オカルトだ、とよく耳にする批判が聞こえてきそうですが、然り、言葉の根源的意味において、オカルトと陰謀は存在するのです。
 これは近代社会、特に国際社会の近代的システムや歴史を、感情や先入観を排して、一つ一つ冷静に見ていくと実は解ける謎です。

 このユダヤ人という存在は、われわれの頭の中でモザイクがかかったようになっていて、被害者としての認識以外持ち得なくなっています。しかし、ずっと被害者でしかなかった民族が、何の生きる知恵も生まず、離散【ディアスポラ】以来二千年になろうというのに生き永らえ、今や世界でもっとも繁栄する民族となっていることの説明がつきません。

 ナチスによるユダヤ人絶滅政策であるホロコーストが捏造である可能性が高いことはすでに触れました。もしそうであるならば、架空の民族絶滅政策を生むような苛酷な思想はむしろ彼らの方にあったということになります。それは、南京大虐殺がチベット人やウィグル人に対する絶滅政策を現在進行形で行っている中国共産党によるでっちあげであり、シナ事変の最中の日本軍の残虐行為を告発、宣伝した彼ら自身の発想に基づくものであったようなものです。

 そして、ユダヤ人のその過酷な皆殺しの思想の根源は彼らの聖書(トーラー、いわゆる旧約聖書)を読めば、神の約束としてあるのですから、思想的根拠としては十分でしょう。

 とは言え、ユダヤ人と言っても、一枚岩ではなく、長い離散の歴史から多種多様な人々から成っていて、その定義は難しいようですが、ここに言う推進者とは、西ヨーロッパに移住したいわゆるセファルディー系の比較的裕福なユダヤ人たちの中でも、莫大な富と権力を手にした、「ディープ・ステイト」と呼ばれるほんの一握りのユダヤ人たちのことです。

 アメリカ大陸を発見したことで誰でも知っているコロンブスはユダヤ人ですが、彼の新大陸発見とほぼ同時に起こったスペインにおける偽装キリスト教徒を暴くための宗教裁判により、七十万のユダヤ人が偽装転向のキリスト教徒(マラーネン)と認定され、スペイン国籍のまま追放処分を受け、その内の十万人ほどがこの新大陸に移住したといいます。彼らは、現地のインディオたちが彼らを「天の使い」と勘違いしていることにつけこみ、土地や財宝を奪い、虐殺しました。インカ帝国の滅亡として世界史に刻み込まれた事件ですが、実はスペインの名で行われたこれら残虐行為の主体はユダヤ人であったのです。
 彼らはこれを元手に支配を中南米にまで広げ、スペインの植民地とするとともに、この歴史的犯罪をスペイン人とキリスト教徒になすりつけることに成功したのです。この成功体験がやがてセファルディー系ユダヤ人が描く世界支配戦略の基礎となったのではないかと思われます。

 こういった経緯を踏まえれば、ホロコーストを生んだことで史上最悪の偽書とされる「シオン賢者の議定書(プロトコール)」もまた、ナチスによるユダヤ人絶滅政策がなかったとするならば、彼らの世界戦略を記した機密文書として、もう一度検証に値する歴史文書と言えるでしょう。ここには孫子や韓非子やマキャベリなどの錚々たる戦略家たちも真っ青になりそうな、壮大にして残酷な世界支配戦略が語られています。実はこの文書は、彼らのターゲットとなり、やがて餌食となったロシア帝国の諜報機関が入手したとされる文書なのです。
 そこではダビデ王の末裔による世界支配達成のために、王政や伝統を破壊するための「自由・平等・博愛」の標語が発明され、そのことによりフランス革命によって王政が倒されたと述べられているのです。これは『あるユダヤ人の懺悔 日本人に謝りたい』を書いたモルデカイ・モーゼの見解と一致しています。

 議定書には次のような恐ろしいくだりがあります。

「世襲的君主政治の拠るところは何であるかといえば、政治上の秘密は父子伝来となっていて、王家の人々のみ知られるが、その秘密は何人によっても被支配民に洩れることは絶対なかった。しかし庶民には、世襲的に継承することの意味は分からないから、我々が放った自由・平等・博愛・四海同胞なる語にのせられた。この標語は、実は平和と安寧を破壊し、国民の一致団結を断ち、国家の基礎を覆すものであって、非ユダヤ人の幸福を侵蝕する獅子身中の虫である。これで我々の勝利を促進することを、諸君は後日うなずくであろう。
 国家国民の防護者たる自然的貴族の没落した廃墟には、金力という、我々の知識階級の貴族を元首に据えるのである。この新貴族の資格は、我々ユダヤ人の賢哲によって動かされている科学によって洗脳された者たちである。これらの人々は、物質的欲望に充足することなく、まことに計算高い人々で、人間の独立的主動力である精神の高雅さを殺減した人々である。」

「我々が与えた『自由』とは思想であって、政治上の事実ではない。我々は、自由主義を叫ぶ為政者をもって王政を覆したが、その後に黄金の権力を出現せしめ、かつては、信仰が人心を治めていた如く、黄金によって人心を支配することに成功したのである。」

「自由が敬神を根拠とし、服従を規定せる天地の法則に背反することなく、国家組織の中に無害に存在するときは、国民は神の摂理に従い、教会(キリスト教)に統御されて、謙遜と従順なる慈父の如き牧師の指導に従うものである。それであるから、我々は宗教を根底から覆し、非ユダヤ人の脳裡から神霊の観念を奪い取り、その代わりに個人主義的、打算主義的な利慾と肉体的享楽を植え付けねばならぬ。
 このことを非ユダヤ人に気づかれぬように、心を商業と工業の方面に向けさせねばならぬ。こうすれば非ユダヤ人の眼は、国家社会から離れて、唯々、自己の利益のみを追い、利害戦に夢中になり、自己の共同の敵(ユダヤの世界支配戦略の謀略)に気づかなくなるであろう。
 そして尚、非ユダヤ人社会が、自由によって徹底的に破壊される日まで、工業を投機の基礎に据え、工業を地上から取穫した物の如く錯覚させることによって、いつのまにか投機家(言わば我々の手中)に移るようにしなければならぬ。この極度に緊張した闘争と経済生活に対する衝動とは、絶望的な、しかも悲惨極まる冷酷な黄金万能の社会を実現するであろう。」

 これは現在の日本でほぼ実現しつつある事態です。
 金で買えないものはない、との言葉の蔓延はその現れです。
 これを矯正するには教育しかありませんが、現代の学制における学問とは、この意味での「科学」を学ぶことであって、ここに言う「科学」にお墨付きを与えるのが学位であり、究極的にはノーベル賞でしょう。これに一喜一憂している国際派日本人は、グローバルな人材として、彼らの掌の上で踊らされている人間奴隷(ゴイム)のようです。世を謳歌している政治家・官僚・学者たちのほとんどはこの議定書に指摘されている類の人々でしょう。今回の消費税増税に賛成している人々もそういった人々なのです。

 この賢哲の予言は、国際共産主義運動を含むグローバリズムに受け継がれ、後の世界の歴史においてかなり達成されているように見受けられます。
 偽書であるかどうかは別にして、背筋が凍るような思想です。こういった文書が存在するということはこういった思想が存在することであり、これを描くことが出来る知性が存在するということです。そして、それはユダヤ人の歴史と伝統を背負ったシオン賢者の叡智を身に着けている人ではないか、というのは常識的判断と言えるでしょう。

 とはいえ、しっかりと刷り込まれたわれわれ日本人は「自由・平等・博愛」の理想を簡単に否定することはできないでしょう。むしろ筆者はこう考えています。現在、「自由・平等・博愛」は、言葉は違っても、すでに日本の歴史・伝統の内に、神道を中心に儒仏道などの教えが習合した人の生きる道として存在していたのであり、そちらの方がむしろ真の意味での「自由・平等・博愛」を実現していたのだ、と。

 本日九月二十四日は西郷南洲翁の命日です。

「敬天愛人」すなわち天道に殉じた翁の思想闘争は、この闇の権力に対する抵抗であったとも言えます。
本物の自由人であるならば、こういったことを自由に論じ、そして強い意志をもって自由に生きる道を選択できるのではないでしょうか。

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