天照大神 【『皇室と論語』 (二十六)】

 「からごころ」による大嘗祭の考察は、要するに、これを創始し、伝統として保持してきた人々の中に、「からごころ」に引かれ、天子の大祭である「郊社」「禘嘗」の祭を誠実に執り行うことによって、その本義を明らかにして、掌を示(み)るように国を治めることが期待されたように、代始めの大嘗祭には、新たに即位された天皇が天津御神、なかんづく天照大神を祭る秘儀を、誠意を以て執り行うことによって、掌を示るように天下を治めることが期待されたのではなかったか、それを問題提議したかったからにほかなりません。
 だとすれば、毎年行われる新嘗祭はその実践的意義を持つことになります。
 この視点に立てば、大嘗祭及び新嘗祭は天皇が天下を治めるための秘儀ということになります。この秘儀が、「からごころ」の影響が特に強く、律令制を整備し、歴史編纂事業に意欲的であった天武王朝時代に整備された、というのはその事を傍証しているように思われるのです。

 ここで大嘗祭及び新嘗祭の主祭神である天照大神について考えてみたいと思います。
 本居宣長は『古事記伝』で、この大神に対する儒典及び仏典による解釈を排して、高天原とは天(アメ)を指して言い、天照大神は、今も目の当り天の虚空(ソラ)に仰ぎ見奉っている日こそそれである、と断言しています。
 「ビ(日・比・毘・霊)」は凡て物の霊異(クシビ)なるを言い、「ムスビ(産霊)」「クシビ(久志毘)」「ナオビ(直毘)」「マガツビ(禍津日)」などの「ビ」は皆これだと言います。
 そして、天地間で最も霊異(クシビ)なる存在こそ天照大神です。

 「高天の原にまします天照大御神を、此の地(クニ)より瞻望(ミサケ)奉りて、日(ヒ)と申すも、天地の間に比類(タグヒ)もなく、最も霊異(クシビ)にますが故の御名なり。比古(ヒコ)比賣(ヒメ)などの比(ヒ)も、霊異(クシビ)なるよしの美称(タタヘナ)なり。」

 ここで現代の生活常識に立ち返って考えてみたいと思います。
 信仰を失ったわれわれ現代人がいかに否定しようと、古代、神代の人びとがそう名付けたように、日が天および天下を照らす尊い存在であることに変わりないし、日の徳(めぐみ)なしで一日とて生命の維持ができないことに変わりはありません。自然の順行が調和を乱せば、往々にして、この神は、容赦なく照りつけて旱魃となり、あるいは雲に隠れがちになって冷害となり、動植物の成長を阻害して、人間の生活に甚大な影響を及ぼしてきました。徳(めぐみ)への感謝は、否応なしに、その背後に畏怖の情を伴わざるを得ませんでした。これらは最新の科学でも否定しようがない厳然たる事実であるし、地球に人類が存続する限り、未来永劫、これを否定することは出来ないでしょう。
 自分の生活にしか関心のない一般庶民でも、朝起きればいつものようにこの神が昇っていることを信じきっているし、この神の顔色を中心とする天気を窺いながら活動しているのです。天気予報はまさに日とこれを隠す雲と天(あめ)から落ちてくる雨の表象で表現され、通常なら、この神が照れば、われわれの気分も晴れやかになるし、逆に照らなければ気分は沈みがちです。そして、夕方になって、山の彼方に、あるいは海の彼方に、あるいは建物の間に、この神が去れば、われわれは休息に向かい、また明日の準備に取り掛かる。われわれの日常生活はこの事の繰り返しです。
 天を照らす大神が去れば天空は深い闇に覆われる。雲がなければこの闇には幾千万の星々が瞬くが、地上を照らし出すほどの明るさではありません。この闇夜を照らすのは月神で、すなわち冷めた月の光ですが、これは日の反射光であり、いわば天照大神の余光であり、残照です。
 夜が明ければ「明日」がやってくる。「明日」という言葉自体、「明くる日」すなわち「次の太陽」「次の日照」という意味です。「明」という漢字自体が「日」と「月」から成っている。暦は明治五年の改暦までは、太陰太陽暦といって、月と太陽の運行で表されました。その名残が何月何日という表現ですが、現在の暦は太陽と地球の公転運動を表す「年」と自転運動を表す「日」で表されています。われわれの四季折々の生活習慣、日々の生活のリズムは日輪の動きを中心に形作られているのです。
 考えてみれば、これ以上、普遍的で確実、自然な信仰があるでしょうか。

 日神の徳を自覚し、その徳に感謝を奉げるために、一年に一度、新穀をこの神に供して生活する人々がおもに九州地方に在住していた。そこは日向と呼ばれる地で、彼らは実際に、日の出る方向に向かって勢力を拡張し、その稲作を中心とする生活文化を携えて、本州に根拠を移していきました。これが神話に反映されています。
 この日神の信仰を持つ人々は「ひこ(日子・彦・毘古など)」、女性は特に「ひめ(日女・姫・比売・毘売・媛など)」と呼ばれました。「邪馬台国」の「卑弥呼」だって、直感的には「やまと」の国の「日の御子(巫女)」と見てまず間違いないでしょう。
 これらの人々の内で、実際に日に向かって冒険的な事業に乗り出す英雄が現われました。「何地(いづこ)に坐(ま)さば、平(たい)らけく天の下の政を聞(き)こしめさむ。なほ東に行かむ。」と勅した神武天皇がそれです。東は「ひむがし」は「ひむかし」で、「日向処」「日向風(し)」の転訛した、日の方角を意味する古語です。
 以下は『古事記』の物語です。
 日出ずる方向への進出である神武天皇の東征事業は困難を極めましたが、この困難は信仰が解決しました。
 「吾は日の神の御子として、日に向かひて戦ふこと良からず。…今者(いま)より背に日を負ひて撃たむ。」
 軍勢は紀伊半島の最南端を廻って、熊野より日を背にして進軍し、現在の奈良の橿原の地に入り、宮を建設して、東征を成功裏に終えたのです。これが記紀に伝えられるところの大和朝廷の起源です。
 ちなみに日に向かって戦って手痛い敗北を喫したのが、大東亜戦争、なかんづく太平洋戦争と呼ばれる対米戦争でした。真珠湾攻撃など愚の骨頂で、日本は日を背に、北西に進んでソ連を討つか、南西に進んで大英帝国を討つことに集中すべきでした。そうすればアメリカは手の出しようがなかったのです。
 話を戻しましょう。

 われわれ現代人は、日の下を意味する「日本」の国号、太陽を表す日章旗「日の丸」を掲げ、太陽の存在を信じ、その徳(めぐみ)を受けながら生きている。この意味で、いまだにわれわれ日本人は潜在的に「ひこ」であり、「ひめ」なのです。

 初代神武天皇以来、現在に至るまで、歴代天皇は天照大神の神勅を守り、この日神の霊力を畏れ、敬い、これを「まつる」ことで、この国を治めてきました。大嘗祭はその神霊を受け継ぐ儀式とされています。
 折口信夫の説は既に紹介しましたが、所功氏によれば、神嘗祭は新穀を供することによって天照大神に神威を盛り返していただく祭であり、新嘗祭は、その神威を盛り返した天照大神の霊力がこの皇祖の子孫である天皇の体内に伝えられ、「皇御孫命(すめみまのみこと)」としての生命力を盛り返される祭である、との解釈を示しておられます。特に大嘗祭については、「その本質は前述の新嘗祭と通ずることであって、神話にみえる天照大神が天孫ニニギノミコトに『斎庭の穂』を授けられたごとくに、天照大神の霊威を皇御孫命たる歴代天皇が受け継がれ、天つヒツギ(日嗣=霊継)のスメラミコトとしての霊力を獲得されるものと考えられる」としています(所功『「国民の祝日」の由来がわかる小事典』)。
 しかし、もう少し整理しておくと、即位直後に行われる一代一度の大嘗祭によって、天照大神の神霊を受け継いで天津日嗣として完成した天皇が、毎年行われる新嘗祭において、交霊を継続し、その霊力の維持に努めている、ということになります。

 いつの頃からかわかりませんが、大嘗祭において、神座に足を踏み入れることはなくなったようです。古式ではそうではなかったという説もありますが、よく分りません。最初から足を踏み入れることがなかったのかもしれません。
 だから布団が「真床追衾」を意味するものなのかどうか分りませんが、少なくとも、神が降臨する神代(かみしろ)として、寝具その他が用意されるのは間違いないでしょう。本儀は日没から日の出までの間に執り行われるのであり、天および天下を照らす大仕事を終え、地上にあるわれわれの視界から姿を消した大神に降臨して頂き、寝具と食事を用意して、これをもてなし、鶏鳴までに天空に御帰りいただく。そして、日の出を迎えるというのは、日本人としての生活感覚から容易に想像できます。日の出、日の入りというのは、一日の中で唯一、われわれがこの神の姿を直視し、拝むことが出来る時間帯です。日が完全に昇れば、われわれはこの神の霊力を温熱として体感は出来ても、その姿を直視することは叶いません。直視すれば、網膜は焼かれ、眼は眩むのです。天日に長くさらされれば、われわれの肌はじりじりと焼かれてしまいます。このように、この神がわれわれに直視を許さない存在であることが、鏡を下げ渡しての「吾が前を拝くが如く拝き奉れ」となったに違いありません。以来、この大神への拝礼は基本的に神代・形代を通してのものとなりました。
 こういった日神認識の痕跡を示しているのが、すでに紹介した『古事記』の雄略天皇の段に採録されている天語歌です。

 「纏向(まきむく)の日代(ひしろ)の宮は、朝日の日照る宮、夕日の日がける宮、竹の根の根垂る宮、木の根の根蔓(ば)ふ宮、八百土(やほに)よし い築(きづ)きの宮、真木さく 檜の御門。
新嘗屋(にいなへや)に生い立てる 百足(ももだ)る槻(つき)が枝(え)は、上枝(ほつえ)は天(あめ)を覆へり、中つ枝は東を覆へり、下枝(しづえ)は鄙を覆へり、…」

 「纏向の日代の宮」とは景行天皇の宮のことで、この宮を「日代の宮」といい、朝日が照り、夕日が陰る宮だというのです。「しろ(代)」は宣長によると「それと定めて区(かぎ)れる処を云」い、「城」に通じるようですが、「代」という漢字は「代替」「代わり」を意味しています。「日代の宮」とはおそらく、日すなわち日神の依り代、日の神が光臨される宮、から来た名でしょう。
 『古事記』が伝えるところによると、雄略天皇の御代に長谷(はつせ)の百枝槻(ももえつき)の下で、豊楽(とよのあかり)の宴会が行われました。豊楽とは後の豊明節会のことで、新嘗祭の翌日に行われる直会(なおらい)の宴会です。その宴会の中で、伊勢の国、三重の采女が盃を献上しましたが、槻の葉が盃に落ちて、気づかぬままに大御酒を勧めることになった。これに気づいた天皇は怒り、采女を打ち伏せ、刀を頸に差し当てて今にも斬らんとしたそのとき、采女が謡い始めた歌が先の歌です。
 歌は次のように続きます。

 「…上枝の枝の末葉(うらば)は中つ枝に落ち触らばへ、中つ枝の枝の末葉は下つ枝に落ち触らばへ、下枝の枝の末葉は、あり衣の三重の子が指挙(さきが)せる瑞玉盞(みづたまうき)に浮きし脂、落ちなづさひ、水こをろこをろに 是(こ)しもあやに恐(かしこ)し、高光る日の御子、事の語言(かたりごと)も是(こ)をば」

 これを聞いた天皇はその罪を赦し、誉めて数多の禄を下賜しました。采女の歌の後、皇后が謡った歌と続けて天皇が謡った歌、三歌を併せて「天語歌(あまがたりうた)」といい、天語連などが歌い伝えてきた物語風の歌なのだといいます。
紀貫之が『古今和歌集』の「仮名序」で言ったように、歌が雄略天皇の心を和らげたのです。雄略天皇は采女の言霊によって、新嘗の祭りを始めたと伝えられてきた景行天皇を想起し、自身が継いだ高光る日の御子としての天皇霊を呼び起こされたのでしょう。

 古代の人々にとって、天照大神が「まつり」に応じて降臨するとすれば、それはこの神が天上天下を照らすという大仕事を終え、休息するはずの、日の入りから日の出までの時間帯しかありませんでした。
 これは神嘗祭、新嘗祭でも同様です。

 平安時代後期の官僚・大江匡房が著した有職故実書『江家次第』によると、新嘗祭神饌の儀の配置は、新儀式においては、中央に南北三行に敷いた神座としての八重畳、その東方に御座畳、その更に東に短畳を設け、主上は神座を背にして、短畳の神座と東向きに相対することになるといいます。大江匡房より少し後の平安時代後期の公家・平信範の日記『兵範記』では、御座と神座を東南に連ねるように斜めに置き、中央神座には神衾を置く、と記録されているといいます。
 これが大嘗祭となると、『江家次第』によれば、中央の神座の東に、御座を半ば重なるように置き、神座中央に神衾と枕を置くといいます。
 このあたりにこれらの秘儀における天照大神に対する認識の混乱、あるいは変化が見られるように思われます。東は当然、旭日を拝む形でしょうし、東南はおそらく伊勢神宮の方角でしょう。大嘗祭で神座と御座を半ば重ねるのは、降臨した天照大神と天皇の交霊の場であることを表すのでしょう。

 これらの大祭は、日中に行われる日常の祭、例えば、天皇が毎日、明け方に行う神拝や伊勢神宮で毎朝夕に行われている大御饌とは異なります。神代に対して「吾が前を拝くが如く拝き奉れ」との『古事記』の神勅に忠実なのがこれら日常の祭儀だとすれば、大祭は夜になって天から御隠れになられた天照大神そのものをその場に招き、わざわざ御越しいただいて、直に言霊による霊の交感が行われる祭として位置づけられているように思われるのです。
 それもこれも、天照大神とは日のことなのだ、との前提に立たなければ腑には落ちないのです。

 こういった日神信仰を核心とする天皇の統治のあり方について、再び本居宣長が『古事記伝』において説くところに耳を傾けてみましょう。
 天照大神は天(雨)を指す高天原にましまして、「汝(な)が命(みこと)は高天原を知らせ」と事依(ことよ)さし賜える伊邪那岐命に随いて、天地(あめつち)とともに無窮(とこしえ;常)に高天原を所知看(しろしめ)して、四海(よものうみ)万國(よろずくに)、天地の表裏をくまなく御照らしましまして、この御霊(みたま)を蒙(かかう)らずということなければ、天地の限りの大君主(おおきみ)にましまして、世に無上至尊(かみなくとふと)きはこの大御神になむましましける。
 君が御国を治め有(たも)ちましますを、「知(しらす)」「食(をす)」「聞看(きこしめす)」とも言う。「所知看(しろしめす)」は文字通り、知り見るということで同じ意。物を見るも、聞くも、知るも、食う(をす)も、皆他の物を身に受け入れるという同じ意であり、君が御国を治め有(たも)ちますは、物を見るが如く、聞くが如く、食(をす)が如く、御身に受け入れ有つ意である。

 これは大日本帝国憲法制定のところでも出てきましたが、これに対比される統治のあり方が「うしはく」です。出雲の国譲りの段で、天照大神は大国主神に問わしめた「汝(な)がうしはける葦原の中つ国は我(あ)が御子の所知(知らさむ)國」という言依(ことよさし)の中に出てくる言葉です。
 「うし」は「主(うし)」、「はく」は「刀を佩(は)く」、「沓を着(は)く」の「はく」で、「身に着けて持つ」を意味し、主(うし)としてその処を我が物と領居(しりを)ることを言う、というのが宣長の解釈です。
 つまり、「うしはく」とは領有支配するということですが、「しらす」というのは高所からのより大きな概念に基づく言葉であることが分かります。
 「しらす」が、宣長の言うように、物を見るが如く、聞くが如く、食すが如く、眼耳口などを通じて、わが身に受け入れるようにして、知覚し、血肉と化す、というなら、一心同体の物として有つことになります。もちろん、君とはその人体を統一するところの心であり、精神であり、頭脳であり、首脳部ということになるでしょう。

 「しらす」は『日本書紀』では「おさめる」と訓ぜられることになる「治」という漢字で表現されています。「治」は治水に由来する漢字で、祓い清めること。「まつりごと」とも訓ぜられます。

 ここで、孔子が「禘」の祭りの本義について、「知らざるなり。其の説を知る者の天下に於けるや、其れ諸(こ)れを斯(ここ)に示(み)るが如きか。」と言って、その掌(たなごころ、手のひら)を指された、といい、天子・聖人の大徳を述べた『中庸』の第六章で「禘嘗」について、次のように言っていたことを思い出して下さい。

「郊社の礼は上帝に事うる所以なり。宗廟の礼は、その先を祀る所以なり。郊社の礼、禘嘗の義に明らかなれば、国を治ることそれこれを掌に示(み)るが如きか。」

 天下を治める究極の統治のあり方、先王の道とは、天子のみが成し得るところの、天を祀り、その祖先の霊を祀ることによって体得した意義によって、掌の上に示(み)るように天下を治めることなのです。
 この孔子の理想を日本において受容、応用し、窮めたと思われるのが大嘗祭で、だとすれば、皇孫としての日御子のみが成し得る皇祖皇宗の道は、高天原から天下をしろしめす天照大神を祀り、天皇霊を体得して、掌の上、あるいは高天原から鳥瞰するように物事を見、かつ聞き、かつ食すように、治める(しらす)ことになります。
 それが天下を表裏くまなく照らすように、ということはわが身に受動的に受け入れるのみならず、能動的にしらすということでもあります。祭祀を中心とする象徴的行為によって、禍事(まがこと;凶悪事)、穢れを祓い清め直して、吉善事(よごと)に立ち復らせる。明治維新で唱えられた天皇親政とは、象徴的行為を祭祀以外にもさらに拡大したものですが、概ねそのような意味合いを含んでいると言えるでしょう。
 それは立憲君主として政治的発言をしないという態度とは異なります。
 昭和天皇以来の英国王室流の立憲君主を模範とする統治のあり方はわが国本来の國體とはこの点で大いに異なるのです。

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