「令和」新時代的考察…「からごころ」から考える大嘗祭の秘儀 【『皇室と論語』(二十五)】

 ここまで紹介した、神道および皇室祭祀に精通しておられる諸氏の説はそれぞれ強い説得力があります。まさに「心、誠に之を求むれば、中らずと雖も遠からず」(『詩経』『大学』)と言ったところでしょう。しかし、古い起源を持つ祭儀の意義には、本来、理による解釈を拒むようなところがあるのではないでしょうか。

 本居宣長によれば「かんがえる」、すなわち「かんがふ」とは、「かむかふ」の音便で、「かれとこれとを比校(アヒムカ)へて思ひめぐらす意」だといいます。これは今で言う「比較考量」の意ですが、小林秀雄はこれをたたき台に、「むかう」を「身(む)」「交(か)う」と解していいなら、自分が物事を考えるということは、物事をむかえ、これと親身に交わることだ、ということを言っています。物事を親身に感じて、思いをめぐらしながら生きることで、その経験によりようやく啓ける認識が知であって、宣長はこういった経験を持たない、すなわち考えるということをまるでしない「世の物しり」と言われる人々、今ならさしずめ知識人やインテリと呼ばれる人々を大変嫌悪しました。

 荻生徂徠もまた、シナ儒教の伝統についてですが、同様の思考をめぐらした人物です。徂徠は朱子学の「格物窮理」あるいは「格物致知」の説を批判して、『大学』のいわゆる「格物」というものについて、先王の教えに遵ってその事に久しく習ううちに自然に得る所があり、その後にはじめて知る所は明らかになるものだが、宋儒の説くところの「格物窮理」とは、これらを経ずして、是を是とし、非を非とする類の世俗の知にすぎない、と。
 徂徠学において「格(いたる)」は古文辞により「きたる」と訓ぜられ、「物格(きた)りてしかるのち知至る」と解釈されることになります。久しく習熟する内に真理は向こうからやってき、知はそこから啓ける、というのです。
 朱子学の重んずる所の「理」というものは、事物に自然にあるもので、我が心を以てこれを推度し、その必ずまさにかくのごとくなるべきと、必ずかくのごとくなるべからざるとを見ることである、と徂徠は言います。人の見るところは各々その性を以て異なるもので、だから「理」というものはどこにでもあり、何にでも引っ付く、定準なきものとなる。この「理」を一定するには窮め尽くす必要があるが、天下の理のような大なるものは、聖人だけがその性を尽し、また人の性を能く尽し、物の性を能く尽し、天地とその徳を合することでようやく窮め尽くすことが出来るのである。そして、その結果、聖人が立てた窮極の定準こそ、「礼」と「義」に他ならない、というのが徂徠の主張です。だから、学者は須らく聖人が創作したところの詩書礼楽を習熟し、聖人の礼儀を立てし所以の理を得なければならない。
 これが徂徠の「知」や「理」に関する考えです。
 徂徠が批判したのは主に朱子学者ですが、宣長の「かんがふ」に近い態度であることが分かると思いますが、それもそのはず、宣長は徂徠の著作の愛読者だったのです。

 理はその性質上、言葉によって表現されるほかありませんが、古来「言の葉」は所詮「事の端」であり、事の本体そのものではありません。
 「理」という漢字そのものにしてからがそうで、「王(玉)」と「里」から成りますが、その「里」は「田」と「社」の初文である「土」から成り、農地を意味し、その条理整然たる様を表すようになり、これが「王(玉)」と結びついて、「理」は「玉」の文(あや)を指すようになったのです。『説文解字』に「玉を治むるなり」とあり、『韓非子』には「王、すなわち玉人をして玉を理(をさ)めしむ」とあるそうです(白川静『字通』)。そこで、原石としての璞(あらたま)を磨いて、その美しい文・理を明らかにすることを意味するようになったのです。
 われわれ現代人は玉の文理、すなわち「理」をその実体と勘違いし、それで理解したつもりになりがちですが、そうなれば「理」は玉そのものから離れていくばかりです。名あっての物ではなく、物あっての名である。つまり、玉あっての「理」であり、「理」は玉の一面を表すに過ぎない、ということを忘れてはならないのです。
 日本人はこれまでこの「理」という漢字を「おさめる・ただす・みがく・ととのえる」あるいは「あや・すじ・きめ」「みち・のり・まつりごと・ことわり」などと訓じてきました。
 「理」という多様な意義を持つ漢字を、深く理解してきたことが窺えますが、中でも「ことわり」という訓は、古人の思惟の深さを示していて興味深い。
 「ことわり」とは「言・割り」あるいは「事・割り」であり、物事を割ってその内部まで分け入ることです。そのことによって物事をより深く、よりよく知る。しかし、それで割り切ってしまえば、見えるのはその断面のみで、かけがえない実体そのものは失われてしまいかねません。「ことわり」という訓は「理」というものの性質の一端を見事に表現しているのです。

 このことは皇室の祭祀についても言えそうです。
 大嘗祭に関する先賢の解釈は玉を大事に磨き上げた、意を尽くしたものですが、それで割り切ってしまえるようなものでもありません。もちろん、これは「理」として述べた先賢への批判ではなく、それを読んで「理」を得ようとするわれわれの側の態度を問題にしています。

 ここで本居宣長がいうところの「からごころ」で大嘗祭を考察してみましょう。
 というのは、古代の精神を伝えるもっとも有力な史料は文字記録であり、それは漢字、すなわち「からごころ」を満載した文字で記されているからです。これを潜り抜けなければ、そこにたどりつくことは難しい。
 「令和」の新元号発表から間もなく、新札発行が発表されましたが、これまで明治のオピニオン・リーダーで文明開化の精神の象徴的存在であった福沢諭吉が務めてきた一万円札の新たな肖像は渋沢栄一となりました。現在の世界の潮流は道徳を欠いた拝金主義であるグローバリズムですが、渋沢栄一はこれとは反対に、『論語と算盤』でよく知られるように、道徳と経済活動を結びつけることを説き、人生をかけて実践した人物です。「令和」にしても、新札の肖像に渋沢が選ばれたことにしても、要するに、そこには安倍内閣のアンチ・グローバリズムの希望が込められているのです。渋沢の説く道徳は『論語』に集約されますが、そもそも「経済」という言葉も漢語の「経世済民」に由来し、同じ根を持つものです。これまで書いてきた筆者の主張、すなわち「からごころ」を潜り抜けた上での「やまとごころ」による考察が、復古思想という極端なアナクロニズム(時代錯誤)に見えて、実は時代を先取りしたものであったことを表しています。ニーチェが『反時代的考察』で示したテーゼが実は時代を先取りしたものであったことと同様です。新思潮の便乗者は勘違いしているかもしれませんが、実はグローバリズムこそ、現れ方は違っても、ユダヤ思想に深い根を持つ古い古い思想にほかならないのです。

 「からごころ」を満載した漢字の書物として日本に最初にもたらされたのはすでに触れたように『論語』ですが、孔子の祭に対する態度はすでに紹介しました。

 「祭ること在すが如くし、神を祭ること神在すが如くす。」

 これは古言の引用という説もありますが、孔子が祭において実践してきたのは確かです。そして、続けて次のような感想を漏らしています。

 「吾れ、祭に与らざれば、祭らざるが如し。」

 これは『論語』巻第二「八佾」篇の一条ですが、この篇は「礼」に関する問答が中心となっていて、その前条で孔子は次のように言っています。

 ある人が天子の大祭である「禘(てい)」の祭の意義を孔子に尋ねた。
 孔子答えて曰く、

 「知らざるなり。其の説を知る者の天下に於けるや、其れ諸(こ)れを斯(ここ)に示(み)るが如きか。」

 そう言って、その掌(たなごころ、手のひら)を指された、といいます。

 白川静『字通』によれば、「禘」という漢字は、「五歳一禘の祭祀は王者にのみ許されるものとされ、卜辞では上帝や祖先神、また金文では直系の先王を祀るときに禘という」とのことです。
 『礼記』の一部をなす『中庸』の一節には「禘嘗」という言葉が出てきますが、これはまさに「宗廟の大祭と秋の時祭」を意味しています。
 「嘗」という漢字は、「供薦して神を迎え、神の詣(いた)ること」を意味します。これに「新」を加えた「新嘗(しんじょう)」という漢語は「新穀を以て祀る」ことを意味し、『礼記』「月令」篇に「農乃ち穀を登(すす)む。天子、新を嘗(な)む」とあって古い漢語です。わが国での用例と同じですが、折口信夫も述べたように、俗に言う「なめる」という意味ではありません。物忌みして贄を奉り、神を迎えることです。
 「神嘗」という漢語のほうは出典を明らかにしませんが、神が供饌を食すことです。
 「宗廟の大祭と秋の時祭」という意味だけなら、わが国の大嘗祭・新嘗祭は「禘嘗」と同義になってしまいますが、この漢語は使われません。
 
 「禘嘗」という言葉が出てくる『中庸』の第六章は天子・聖人の大徳を述べたもので、次のようになっています。

 「子曰く、武王・周公は、それ達孝なるかな。それ孝とは善く人の志を継ぎ、善く人の事を述ぶる者なり。
春秋にはその祖廟を脩(おさ)め、その宗器を陳(つら)ね、その裳衣(しょうい)を設け、その時食を薦む。…(中略)…その位を践み、その礼を行い、その楽を奏し、その尊ぶ所を敬し、その親しむ所を愛し、死に事うること生に事うるが如くし、亡に事うること存に事うるが如くするは、孝の至りなり。
郊社(こうしゃ)の礼は上帝に事うる所以なり。宗廟の礼は、その先を祀る所以なり。郊社の礼、禘嘗の義に明らかなれば、国を治ることそれこれを掌に示(み)るが如きか。」

 天子というシナの概念を受容してもいる皇室は天(上帝)と地(土地神)を祀る「郊社」と同義の「郊祀」の祭も行ったことがあります。史料上確認できるのは、平安京を開いた桓武天皇の御代に二度、七十余年後の文徳天皇の御代に一度だけで、これで全てなのか、それともまだ他に行われたことがあったのかはっきりしません。しかし、修辞上のことなら、『日本書紀』によれば、「郊祀」は初代神武天皇が即位して四年目に行われています。

 「四年の春二月の壬戌(みづのえいぬ)の朔(ついたち)、甲申(きのえさるのひ)に、詔(ことよさ)して曰く『我が皇祖(みおや)の霊(みたま)、天(あめ)より降り鑒(み)て、朕が躬(み)を光(てら)し助けたまへり。今諸(もろもろ)の虜(あたども)已(すで)に平けて、海内(あめのした)事無し。以て天神を郊祀(まつ)りて、用(も)て大孝(おやにしたがふこと)を申(の)べたまふべし』とのたまふ。乃(すなわ)ち霊畤(まつりのには)を鳥見山(とみのやま)の中に立てて、…(中略)…用(も)て皇祖天神(みおやのあまつかみ)を祭りたまふ。」

 『日本書紀』は漢語表現、すなわち「からごころ」の引力に引かれた書物ですから、編纂時、高天原に在す皇祖神を以て、天帝に擬えて「郊祀」との漢語を用いたのかもしれませんが、その祭祀の内容は、あくまでも「やまとごころ」であり、斎場を設けて、神勅を享けての事業の報告と神の加護に感謝の意を奉げることです。つまり、折口の見解に従えば、天津神の命令「またし」の執行復奏である「まつり」です。
 この神武天皇が即位後初めて行った大祭祀「郊祀」の内容は、新穀の供進さえ行われていないものの、祝詞の内容を考えると大嘗祭・新嘗祭にも継承されているとみていいのではないでしょうか。すなわち神勅継承の儀式と毎年の事業の報告と、神の徳(めぐみ)への感謝の儀式としての側面です。それはすでに紹介した元文三年の桜町天皇の祝詞にも継承されていますし、今もなお継承されているとみていいでしょう。
 以後、「禘」はもちろん、一部例外を除いて「郊祀」「郊社」の祭は、宮中祭祀として行われなくなったについては、漢語についての理解が深まって、古典の世界においてはともかく、周王朝以降のシナにおけるこれらの語の用例が、皇室の始原と必ずしも一致しないことが強く意識されるようになったからでしょう。「禘嘗」にしても、天命をその正統性の根拠とする周王朝の成立以来、先祖の始原として天(上帝)を祀るようになったシナ歴代王朝の「禘」とは区別して、「嘗」の文字のみが用いられたのでしょう。大嘗祭・新嘗祭は皇室の祖先神を祭る儀式であり、日本において、天(高天原)は場、あるいは空間であって、皇祖神ではないのです。

 一方、天を信仰し、天命の実践に人生を奉げた仁(ひと)である孔子を祭る「釈奠」が取り入れられたのは大宝律令の規定に基づき、国学および大学寮で毎年二月と八月(春秋二仲)に行うことが定められてからです。大宝元年(七〇一年)二月四日大学寮において初めての「釈奠」が行われ、翌二年に学令は施行されましたが、その中で、『論語』『孝経』の学習は必須とされています。「釈奠」は後れて国学においても行われるようになったようです。天平七年(七三五年)には遣唐使・吉備真備が唐礼百三十巻を持ち帰り、彼が祭器と儀礼を整備したとされます。彼の右大臣在任中、記録上確認できる唯一の天皇親臨の「釈奠」が行われています。神護景雲元年(七六七年)二月七日、シナかぶれの傾向が強かった称徳天皇の御代のことです。これが唯一の例で、紆余曲折を経て、女帝のシナかぶれは昂じ、ついには禅譲(放伐抜きの自発的易姓革命)に行き着いてしまうのです。有名な僧道鏡への譲位がそれですが、和気清麻呂が持ち帰った「我が国は開闢以来、君臣の分定まれり。臣を以て君と為すこと未だあらざるなり、天津日嗣は必ず皇緒を立てよ。無道の人は宜しく早く掃除すべし」との宇佐八幡宮の神託によって阻止され、やがて称徳女帝は病に罹り崩御しました。「釈奠」の祭に親臨してから三年後の、神護景雲四年のことです。
 宇佐神宮は全国に四万六百社以上ある八幡宮の総本宮で、皇室にとって伊勢神宮に継ぐ第二の宗廟と言われています。主祭神は『論語』と縁の深い応神天皇で、第二の祭神が謎の神・比売大神、第三の祭神が応神天皇の生母・神功皇后です。
 比売大神は『日本書紀』に神代に宇佐嶋に降臨されたとあり、その正体は謎に包まれていて、「卑弥呼」説など諸説ありますが、皇室にとって非常に重要な神であることは間違いありません。ちなみに参拝の作法は通常の二礼二拍手一礼と異なり、国譲りの神話で幽事(かくりごと)の神となった大国主神を祭る出雲大社同様、二礼四拍手一礼です。
 さて、道鏡事件のその後ですが、称徳女帝の崩御により天武天皇の男系継承は途切れ、奇跡的に天智天皇の男系子孫であることに正統性を置く王朝が復活を遂げます。光仁天皇の即位がそれですが、この天皇は天武天皇の女系の血も排除し、すでに触れたように、次代の桓武天皇は公然と、天を祀る「郊祀」の祭りを行ったのです。桓武天皇は父光仁天皇を併せて祀り、「是天上帝に告ぐ」と祭文に述べていることから、天武王朝からの皇位回復を易姓革命ととらえて、あるいは準えていた可能性があります。
 そもそも壬申の乱で、天智男系王朝から天武男系王朝への大転換を遂げた天武天皇自身が易姓革命を意識していた形跡があることはすでに触れました。
つまり、天智王朝の奇跡的な復活は、復古であり、もっと言えば維新だったのです。

 ともかく孔子を祭る釈奠の祭は以後も継続していきますが、親臨は称徳天皇の一回きりで、皇太子に限っても、仁明天皇の御代に皇太子・恒貞親王が親臨したのが唯一の例です。つまり、朝廷の祭祀としては受容されたものの、皇室の祭祀としては受容されなかったことになります。天への信仰と祭祀が皇室の本質と必ずしも相容れないことが判明してきたことが要因ではなかったでしょうか。

 
 先の問答に話を戻しましょう。
 孔子はある人から、天子がその先祖の始原として天を祀る「禘」の祭の意義について問われ、「わからない、それがわかるほどの者ならば天下のものごとについても、ほら、このように手のひらの上で物を見るようなものだろうね」と答えました。孔子はこの天子の祭である「禘」に与る立場の者ではありませんでしたから、祀ったこともなく、「祭らざるが如し」どころか、その意義さえわからない。それを知る者がいるとすれば、祭に与ることができる天子しかいない。当時、これは周王朝の血を引く者に限られます。
 孔子が生きた時代、すでに周王朝は東西に分裂して、西周は滅亡しており、東周は第二十六代敬王の時代でしたが、王朝は衰微の極みにありました。
しかし、孔子は確かに「禘」の祭を間近に観たことがあったのです。
 そのさらに前条には次のようなことが書かれています。

 「子曰く、禘は既に灌(かん)してより往(のち)は、吾れ、これを観るを欲せず。」

 禘の祭で、きびの酒を地に注いで神の降臨を招く灌の儀式が済んでから後は、私はもう観たくない。
 これはいろいろな説があり、孔子の故郷である魯国では、灌から後の礼式が乱れていたからとも、祭に誠意がなくなるからとも言われていますが、皇室の『論語』の先生であった宇野哲人は『論語新釈』の中で、「禘」の祭を行う資格に注目して、次のような解釈を述べています。

 「この章は孔子が魯の祭の誠意を失っているのを傷んだのである。
 禘は天子の大祭である。天子が己の先祖の出た所の帝を、己の先祖の廟で祭って、己の先祖をあわせて祭るのである。魯では周公が王室に大功があったので、成王から天子の礼楽を賜ったから、周公の廟で禘の祭をし、文王を先祖の出た所の帝とし、周公をこれに配して祭ったのである
 禘の祭を魯ですることが、既に礼に外れているのに禘の祭を行う魯の君臣が誠意をもってこれを行わないとすれば、これは礼に外れたことを礼に外れた仕方で行っているのだから、孔子が見ていられなくなったのは当然である。」

 周公旦は文王の子で、武王の同母弟。武王亡き後、この成王を補佐して大功がありました。周王朝成立後、旦は曲阜に封ぜられて魯公となりますが、天子を補佐して首都を去ることができず、子の伯禽を封地に下らせて治めさせました。つまり、魯公とは周公直系の子孫なのです。
 周公旦は周王朝の礼楽を定めた人物とされ、孔子はそんな彼を聖人として理想視しました。
 こういった歴史を踏まえれば、確かに魯公は天子ではなく、一王の立場に過ぎない以上、禘の祭を行う適任者とはいえない。しかし、当時禘の祭を行うべき周は混乱続きで、落ち着いて祭を行う余裕はなかったかもしれません。東周の内情は、魯国を活動の拠点としている孔子の知るところではありませんが、天下が乱れている以上、まつりごとは誠意を以て行われてはいない、ということになります。なぜなら孔子の考えによれば、天子に最も近い資格を持つ敬王が、禘の祭を誠意を以て斎行し、その奥義を窮めていたなら、天下のことは掌の上のものを見るように、うまく治まっているはずだからです。
 一方、魯公は一応、文王の子孫ですから、この祖先の霊を祭る資格はあると言えます。だから魯公が禘の祭を行ったとしてもそれは全否定すべきものではなかったでしょう。だから、一応は祖先の神霊の降臨を招く灌の儀式までは安心して観ていられたものと思われます。後世の儒教において「禘」の催行資格は天子に限られるようになりましたが、孔子においては、まだそこまで厳格に規定されておらず、上帝のみならず、祖先神や先王を祭ることも、金文や甲骨文の用例に倣って「禘」という名が用いられたものと思われます。
 だから魯公が「禘」を行ったとしてもそれは問題ではなかったはずです。
 しかし、灌から先の儀式は観られたものではなかった。孔子の遺した数少ない言葉から拝察するに、神を祭るには神在すが如くす、という祭の基本が守られていなかったからではなかったでしょうか。あるいは、魯の君臣に、禘の祭を行うことに関して疑義があり、誠意を以て行う自信がなかったせいかもしれません。少なくとも、魯公の「禘」の祭での挙措は、祭の意義を体得しているようにはとても見えなかったのでしょう。
 とすると、穿ち過ぎた見方になるかもしれませんが、「禘」の催行を魯公に献言したのは、礼の大家として知られるようになっていた孔子であったかもしれません。『論語』のこれらの数条後には、孔子が魯の大廟、すなわち周公の廟に入って事毎に問うた、という話がありますから、一応は重要な祭儀に参列出来る立場にはあったのです。

 孔子は易姓革命で成立した周王朝の時代の人間として、王朝文化の再興を考えた人物であり、易姓革命そのものを理想視はしていなかったとしても、これを否定する思想的立場にはありませんでした。しかし、周王朝成立の過程において、周公と並ぶ功臣でありながら、これと血縁関係になかった太公望呂尚の子孫が治める斉の国に関して、「斉一変せば、魯に至らん。魯一変せば道に至らん」と言っているように、姓は異なっても天子となる道は拓けていましたし、同姓ならばより道(先王の道)は拓けていました。道が人を弘むるのではない。人が道を弘むるのです。
 おそらく孔子が言う「一変」とは周公の創作した礼楽秩序への現状からの一変(変革)ということでしょう。その点、魯は周公旦の子孫が治める国ですから、既にその礼楽秩序の中の一部であり、そこに組み込まれているのです。孔子が魯の政治改革に失敗して失脚し、まず政治亡命したのは衛という国であり、孔子はこの国にこだわった形跡がありますが、ここは周公の弟・康淑の子孫が治めていました。孔子の「魯・衛の政(まつりごと)は兄弟なり」(「子路」)との言葉は、この意味での礼楽秩序内の親近性を踏まえているのです。
 しかし、これは周の礼楽秩序内の話です。
 孔子は周の礼楽文化を礼賛して、次のように言っています。

 「周は二代に監(かんが)みて、郁郁乎として文なるかな。吾れは周に従わん。」

 二代とは伝説的な夏王朝と殷王朝のことであり、孔子によれば、殷の礼楽制度は夏のそれを受け継いで、これを改善したものであり、周の礼楽制度は殷のそれを受け継いで、これを改善したもので、現時点では最も洗練されたものです。だからこれに従おう。しかし、天下が乱れている現状では、礼楽は政治的に有効性を失っているのは否定しようのないことであり、もし仮に周を継ぐものがあれば、その延長線上で百世先までも知ることができる。つまり、孔子にとって周の礼楽制度を受け継いで、これを改善して、世を治めるものが現われればそれはそれで可なのであり、周王朝がいよいよだめならば、太公望の子孫が易姓革命を起こして天子となり(一変)、礼楽制度を継承・改善して天下にこれを布いて治めれば(二変)、それは望ましいことなのです。
 周王朝を第三代とすれば、シナの混乱は結局、秦の始皇帝によって収められました。しかしこの四代目は、残念ながら、周の礼楽制度を改善したものではなく、その批判から生まれた韓非子に代表される法家の思想を採用し、天下を治めたのです。秦は一代で滅び、五代目の漢は皇帝の威儀を整えるために儒学を採用し、これが後世のシナ王朝の模範とされるようになった。

 孔子の思想が時代の制約もあって、易姓革命を肯定せざるを得なかったのは無理もありませんが、潜在的に、王朝の始祖の直系子孫による統治を理想としていたことはご理解いただけるかと思います。渋沢栄一は別の根拠から、孔子の易姓革命に関する批判を嗅ぎ取り「不幸にして孔子は、日本のような万世一系の国体を見もせず、知りもしなかったからであるが、もし日本に生まれ、または日本に来て万世一系のわが国体を見聞したならば、どのくらい讃歎したかもしれない」(『論語と算盤』)と喝破しました。
 その根拠とは「八佾」篇にある次の短い文章です。

 子、韶(しょう)を謂(のたまわ)く、美を尽くせり、又善を尽くせり。武を謂く、美を尽くせり、未だ善を尽くさず。

 「韶」は禅譲を行ったとされる伝説上の聖天子・舜を讃えた音楽、「武」は放伐を行った武王の音楽です。ともに易姓革命を行った伝説的人物ですが、舜は、後世の儒者の聖人としての改変を受け、創作されるまでは、そもそも殷王朝の祖先神でした。『春秋左史伝』の外伝的要素を持つ非儒教的な『国語』に「商人(殷人)、舜に禘して契を祖とし、冥に郊して、湯を宗とす」(「魯語上」)とあり、漢初に成立した『礼記』には「殷人、嚳に禘して冥に郊し、契を祖として湯を宗とす」(「祭法」)となっていて、嚳(こく)は舜の別の属性による名です。同様に、俊(しゅん)も神としての舜の別名であり、この複数の名を持つ神は、太陽神としての性質を持ち、『山海経』「大荒西経」によれば、妻の羲和(ぎか)に十の日と十二の月を生ませています。十の日を一単位として旬とするのはここから来ています(白川静『中国の神話』)。
 この太陽神としての性格を持つ舜を祖先神として禘の祭を行う殷王朝は天照大神を祖神として大祭を行う皇室に似ているところがあります。
 白川博士が紹介している、殷の対立部族であった苗族の伝説に、面白いものがあります。
 十の太陽が一時に現れたとき、賢者たちは合議して、弓の名手にこれを射ち落とさせることにした。しかし、一個の太陽がそれを逃れて、西山に入ったまま昇ることをやめ、長い暗黒の時が続いた。そこで、獅子や黄牛が太陽を呼んだが声が凶悪なので太陽は姿を現さなかった。最後に雄鶏が呼ぶと、その美しい声に誘われて太陽が再び姿を現し、世界は光を取り戻した。
 わが国の天の岩戸を少し連想させる話です。
 以上のように、舜が神であったとすると、孔子は後世の儒者が創作した聖人としての舜ではなく、神としての舜を讃えた音楽を、美を尽くし、善を尽くしている、と評価したことになります。一方、武王の音楽は美を尽くしたものではありましたが、善を尽くしたものではないと孔子には感じられた。渋沢はこれを易姓革命への暗喩とみたのです。実はこれは渋沢の『論語』の先生でもあり、皇室の先生でもあった宇野哲人の見解でもありました。『論語新釈』の中で、この条に関して同様の見解を示しています。
 孔子は斉の国で「韶」の音楽が演奏されているのを聞いて感動のあまり、三月にわたって、肉の味を知らず、との異常な経験をしたことがありましたから、この評価は十分体温のこもったものです。そこに孔子の深い思惟の跡をたどることは許されるでしょう。

 『中庸』は孔子の鬼神観を「鬼神の徳たる、それ盛んなるかな。これを視れども見えず、これを聴けども聞こえず、物を体して遺すべからず。天下の人をして、斎明盛服して、以て祭祀を承(う)けしむ。洋洋乎としてその上に在るが如く、その左右に在るが如し」と表現し、『詩経』から引用して「神の格(きた)るは度(はか)るべからず、いわんや射(いと)うべけんや」と書いていますが、鬼神・舜の盛んなる徳は、音楽を通して、いきなり孔子に格(きた)ったのであり、本来なら、物を体して遺すことがなく、感じ取る事の出来ないはずの鬼神の徳は、天下の人をして斎明盛服して執り行わせている祭祀の中でのみ、楽によって聞き、礼によって見ることができる。
 おそらく孔子は舜の音楽を聞いて、そのことを悟ったのです。その経験は一種の衝撃を伴っていて、三月の間、肉を食べてもその味が分からなくなるような、異常な精神状態が続いた。
 これは恐らく孔子が仁という徳の端緒をつかんだ経験で、後に高弟の顔回を評した言葉に「回やその心、三月仁に違わず、その余はすなわち日月に至るのみ」とあって、自身の経験から、三月の間、仁の徳の端緒をつかんで離さないでいる顔回が、このままいけば日月、すなわち天空に輝いて人々に道を照らし出す存在になるだろう、との言葉を生むことになるのです。
 その点、この「仁」の一文字を授けられて育ち、やがて即位して天神地祇や皇祖皇宗を祀ることになる天皇は、まさに天地に満ち満ちている神霊の徳を最も感得しうる、最も神霊に近い人であるはずです。現御神、現人神との表現は本来そういう意味を込めたものでしょう。

 孔子は聖天子の出現を渇望し、失望の内に世を終えましたが、その聖天子が天、および鬼神と繋がりうる「禘」の祭儀を体得したときに始めて、内に天命は聞こえ、秘儀はその奥深い意味が解き明かされる。その時初めて、聖天子は天下を掌の上の物を自在に扱うようにして治めることができる。孔子はそのように考えました。
 そして、その極意は、最も優秀で、孔子が唯一仁を以て許した弟子、顔回の仁の問いに対する師の解答を引用すれば「中らずといえども遠からず」でしょう。

 「己れを克(せ)めて礼に復りて仁を為す。一日、己れを克めて仁に復れば天下仁に帰す。仁を為すこと己れに由る。而して人に由らんや。」

 顔回はさらにその眼目を乞いました。
 老師は答えます。

 「礼に非ざれば視ることなかれ、礼に非ざれば聴くことなかれ、礼に非ざれば言うことなかれ、礼に非ざれば動くことなかれ。」

 仁とは社会的、民族的伝統のことです。それは礼によって自己を厳しく律することによって、行為化される。だから礼は日々の厳しい実践が求められます。そのことによって、一日、すなわちある歴史的瞬間において、仁を体現する者の、何らかの象徴的行為である礼の一挙手一投足の中に、われわれはその仁を感取するのです。
 礼は何も祭の時にのみ、必要とされる行為ではありません。日常、非日常、人間生活のあらゆる領域で、ある種の規範として、玄妙な働きをしています。それは社会的、ということはつまり歴史的動物である人間の精神様式を表すものです。それがより広く普遍的・多元的でありながら民族的合意を有するには、その起源をより深く、古いところに持つ必要があります。
 孔子はこれを「一以てこれを貫く」とか「道」と表現しました。農本的な儒教に対して批判的な工匠階層から生まれた墨家でさえ、孔子の説く「先王の道」自体は正しいと言い、儒教への批判から生まれた『韓非子』でさえ、孔子は天下の聖人である、と認めざるを得ませんでした。党派を成し、非難・対立する集団においてでさえ、否定しえない要素が現れる時、そこに民族的合意を見ることは十分可能でしょう。
 孔子はその意味での、古代シナ文明の伝統の集約者であり、以後のシナの伝統の樹立者でした。そして、それは二千年以上にわたる東アジアの伝統ともなりました。
 それは「学びて時にこれを習う」というように、慣習を日常・非日常の各場面において実習し、追体験することで、個に内在するものとなったとき、はじめて伝統となるのです。それを窮めることで完成された傑出した個性は、個性というものを超克しており、一見するところ、自己主張は後退し、逆説的に個性は希薄化する。それは礼楽秩序という、全体との調和の中に個性を発現することです。そして、主体としての言動の中に、全を、公を体現することになる。これが君子であり、聖人です。孔子が七十にして達したと告白した「心の欲する所に従って、矩(のり)を踰(こ)えず」とはそういった境地でしょう。
 孔子の私淑者たることを公言してはばからなかった孟子は、孔子没後二百年後に活躍した遊説家でしたが、孔子の事業を「集大成」と表現しました。伝統を集めて、大成したのです。彼はこれをさらに、音楽の始まりと終わりにたとえ、「金聲して玉振す」としました。鬼神の徳を讃えた音楽への感動によって仁に目覚めた孔子の生涯の事業を表現するにふさわしい譬えといえるでしょう。音楽の基礎となる楽曲、個々の楽器の演奏と調和。そして、それを受け止める聴き手の感性。
 言わば、聖人とは指揮者であり、君子とは奏者でしょう。あるいは徂徠風に解釈すれば、作曲家と指揮者の関係かもしれません。 
 孔子のいう礼と楽による政(まつりごと)とは、言わば、オーケストラによる演奏を伴った、神話や古典を題材とした伝統歌劇であり、ここに集まった聴衆あるいは観衆が民です。

 日本文明は儒教を取り入れなかったとされます。
 しかし、伝統の集約者、あるいは樹立者の模範として、孔子の思想は十分取り入れられているのです。孔子は異文明が生んだ偉人でありながら、すでに見てきたように、その思想は、われわれ日本人の伝統の核心部分と非常に相性が良く、深いところで習合を遂げているのです。
 「からごころ」を排撃し、「やまとごころ」の闡明に生涯を懸けた本居宣長でさえ、その晩年に「聖人は しこのしこ人 いつはりて よき人さびす しこのしこ人」と後世のさかしらな「からごころ」によって作られた虚像である聖人を否定しつつ、「聖人と 人はいへども 聖人の たぐひならめや 孔子はよき人」と、孔子だけは「しこ人(醜人)」から除外し、善人として認める歌を詠んでいるのです。これはもちろん「やまとごころ」から見て「よき人」との含意です。この歌には学問に志した二十代の若い頃に、荻生徂徠の『論語徴』を初めとする著作に触れて以来温めてきた、彼の十分な実感が込められています。
 これはキリスト教を憎悪しつつ、イエスをある面においては認めざるをえなかったニーチェを髣髴とさせます。
 すでに孔子の思想が日本の伝統の一部となっているのは、日本において『論語』に関する本が、『聖書』におけるキリスト教団のような巨大な宣教組織という背景を持たなくとも、また中国共産党が梃入れし、宣伝工作機関の看板としてのみ名を利用し世界中に設置している「孔子学院」のように、政府がその政策的意図からこれを推奨しなくとも、いまだに書店に溢れて、読まれ続けていることからも明らかでしょう。

 日本文化の最古層、最深層より、現在まで伝えられてきた伝統、特にここでは大嘗祭・新嘗祭を取り上げてきましたが、この秘儀を継承し、おそらくその深い意義を理解する上でも、孔子の思想は欠かせません。皇室はこの秘儀の意味が見失われながらもこれを守り抜く上で、この東アジアの普遍思想を潜り抜けなければなりませんでした。おそらく皇室自体が神勅を頑なに守るだけでなく、伝統と向き合う中で『論語』を座右の銘と位置づけてきたのです。

 以上が「禘嘗」に関する「からごころ」からの考察です。
 わが国固有の伝統にして、その本質に迫るものと言える大嘗祭に関しても、「やまとごころ」のみならず、「からごころ」からの考察を加えた方が、その本質はより理解されることがお分かりいただけたかと思います。
 代初めの大嘗祭に始まり、毎歳行われる新嘗祭を行う資格を有するのは、天皇御一人です。そして、その秘儀を体得し、その意義を感得できる人がいるとすれば、それは天皇その人を措いて他に存在しないのです。ましてや民主的な選挙で選ばれただけの成り上がりの政事家ふぜいに、天下を好き勝手に扱えるわけがありません。
 政事家は須らく自戒すべきでしょう。

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