皇室祭祀の本義-大嘗祭(弐) 【『皇室と論語』(二十四)】

大嘗祭という、この広大にして神秘的な儀式の歴史・伝統を山に譬えるなら、日本というものを表象する山である富士山がもっともふさわしい。その秀麗にして神秘的な姿は山頂部のみで成立しているわけではなく、その広大な裾野を含む、総体的なイメージが万峰に屹立した霊峰としての美しさを際立たせているのです。もちろん清楚で美しい山頂部を支えているのは、広大な中腹から山麓にかけての部分で、高森氏の『民と天皇の大嘗祭』は概ねこの部分をスケッチしたものです。古代より現代までの膨大な数の民との関係が、あるいは、その歴史が、天皇という存在を下から支えています。大嘗祭という祭儀にもそれは十分象徴されています。高森氏がそれを改めて世に問うたことは非常に重要なことだと思われます。
 高森氏は昭和三十二年、戦後の生まれです。
 戦後の日本はその再出発点において精神的荒廃の芽を胚胎していました。戦勝国や共産主義者たちは日本の伝統の荒廃を目論んで、様々な策略を仕掛けてきたし、多くの日本人も自信を失って茫然自失となっていました。昭和天皇もまたそれを心配され、敗戦後初めて迎えた正月元旦の「新日本建設の詔書」(いわゆる人間宣言)で、すでにその心配を告白されています。
 それが次のくだりです。

 「惟(おも)ふに長きに亙れる戦争の敗北に終りたる結果、我国民は動(やや)もすれば焦燥に流れ、失意の淵に沈淪せんとするの傾きあり。詭激の風漸く長じて、道義の念頗る衰へ、為に思想混乱の兆あるは洵(まこと)に深憂に堪へず。」

 そこで天皇と国民の直接的な関係を取り戻そうと訴えられたのが、続く、いわゆる人間宣言とされるくだりなのです。

 「然れども朕は爾等国民と共に在り。常に利害を同じうし休戚を分たんと欲す。朕と爾等国民との間の紐帯は、終始相互の信頼と敬愛とに依りて結ばれ、単なる神話と伝説とに依りて生ぜるものに非ず。天皇を以て現御神とし、且日本国民を以て他の民族に優越せる民族にして、延て世界を支配すべき運命を有すとの架空なる観念に基くものにも非ず。」

 そういった天皇と国民の関係性の再確認を念頭に置いて、日本人が一丸となって新日本を建設すべき指針として御示しになられたのが、詔の冒頭に置かれた「五箇条の御誓文」であったのです。「五箇条の御誓文」は偉大なる祖父明治天皇が皇祖皇宗の神霊を招いて誓われた大御心であり、日本古来の現人神思想をまで否定するものではありませんでした。昭和天皇が否定したのは、引用の最後のくだり、いわば右翼的な思想でしょう。しかし、これは近衛文麿が指摘した如く、國體の衣を着けた共産主義なのです。
 しかし、戦後生まれ、戦後育ちの日本人にそんなことは理解できません。「人間宣言」という米占領軍の洗脳工作はじわりと効果を発揮し、戦前の日本人は皆、天皇を絶対神(ゴッド)と崇め、米占領軍のおかげで天皇の「人間宣言」が行われ、日本人の多くはその迷妄から醒めた、解放されたのだ、との新たな戦後神話が信ぜられるようになったのです。
 高森氏が『天皇と民の大嘗祭』を世に問うた数ヶ月後、平成の天皇の大嘗祭を前にして『鈴鹿家文書』の公開出版に携わった鳥越憲三郎氏が『大嘗祭 新史料で語る秘儀の全容』を上梓し、世に問うていますが、そこには次のようなくだりがあります。

 「ところが第二次世界大戦の敗戦の直後、昭和天皇は現人神であることを否定された。天皇が大嘗宮の八重畳の寝座に伏すことは早く廃れはしたが、それは死してのち現人神として甦ることを意味した。さらに正確にいえば、皇祖天照大神の直系の子孫として、天照大神の御霊を体現する生き身の神として再生し、宇宙の至高神である日の神のもつ絶対的権威のもとに君臨することを意味するものであった。しかし今ではその現人神の思想もなくなった。…もはや践祚大嘗会としての意味を失った大嘗会の儀礼は、ただ形式的なものにすぎなくなったといえよう。」

 古代史に関する多くの著作を持ち、大嘗祭に並々ならぬ関心を持って、新史料の発掘、学問的分析に携わった大正末年生まれの学者ですらこの程度の認識なのです。
 大嘗祭を、形骸化し、死んだ祭儀と見ている学者に、この大祭の本義がわかるはずもありません。現に氏の当該著作は、祭儀に関する事実は豊富に記述されていますが、その意味するところの考察はあまり豊富とも、深いとも言えず、その全容を捉え切れていない印象をぬぐえないのです。
 このような戦後の思想状況を考えれば、昭和天皇がお考えになられ、そう実践されたように、また平成の陛下がその大御心を継いで現在の皇室の在り方をお考えになられてきたように、高森氏が民と天皇の関係から大嘗祭を捉えなおそうとしたのは大変重要な意義があります。
 しかし、天皇という存在の尊貴さとその天皇が民とともに在る事の実感は、戦前の大半の人々にとっては自明のことであり、戦前の思想家や学者がそういった実感を前提に、祭儀における天皇の儀礼的行為に注視し、その本義を究めようとしたのは当然であったといえるでしょう。
 全体に占める割合はわずかであっても、山頂部はその山の全容を、本質を象徴する部分です。山頂部によって、山を象徴させることは出来ても、たとえ大部分であっても、それを欠いた残りの部分で山の特質を象徴的に描き出すことは非常に困難なことでしょう。

 富士山は日本最高峰の霊山にして活火山です。普段は端整で物静かな姿を見せていますが、そこには秘めた激しさがあり、側面からの観察ではわかりにくいですが、山頂部には火山口があり、その奥深いところにマグマが通じています
 それは万世一系の皇統をさかのぼると古代史に通じ、神話の世界に溶け込んでいくわが国の特質を思わせます。
 このマグマは、時代の転換期に、大地を震わせ、激しく噴き出す。
 神武天皇の創業の精神に立ち返ることが謳われた、幕末から明治初期に掛けての王政復古維新運動はまさにこれですし、昭和の激動期に、国史・国学を柱とする國體論が盛行し、神武天皇の言葉に由来する「八紘一宇」の精神が高々と掲げられ、西洋列強のアジア侵略に立ち向かった起死回生の偉業・大東亜戦争はその一つのピークでした。それが楠木正成の精神伝統に則った戦いであったという新たな見方をすでに提示しておきました。
 「小日本人」はこの歴史を振り返ったとき、満州事変以来の「十五年戦争」での大日本帝国軍閥の行った罪悪として捉えますが、これは、満州事変以来、アジア完全制覇を目前にしていた西洋列強、そして、その背後にいてこれを敵視した特定のユダヤ人勢力が、唯一、この大勢への抵抗勢力として反抗を続ける大日本帝国の勢威をいよいよ許せなくなった歴史の裏返しであり、敗戦による自信喪失から歴史否定という自虐に走った大部分の日本人が、閉ざされた言語空間にあって、非常に狡猾に行われた勝者の洗脳工作を受け入れてしまったからです。利口なものほど、敵の洗脳工作を、反省と称して、自ら心地良く受け入れてしまったのです。
 今や希少な存在となった「大日本人」は須らく、一連の事件を、幕末明治以来の東亜百年戦争の一環と捉える視点を持つべきです。今では戦国時代のキリスト教との邂逅以来のキリスト文明との対決の位相も提示されています。すなわち西洋文明との出会い以来の歴史は、日本の神々とキリスト教文明の絶対神との相克の歴史であった、というのです。
 この歴史認識はこの論考のテーマに深く関わってくるものです。先に挙げた「新日本建設の詔書」を「人間宣言」と見るか否か、という問題です。キリスト教徒であるマッカーサーは天皇を絶対神とする見方(一部の日本人に限られたイデオロギーでしたが)を許せなかったから「人間宣言」を強制したのです。昭和天皇もそういった、伝統に反する見方を許容できなかったから、「人間宣言」を取り入れて、ごく新しかった絶対神としての現人神思想を否定し、一方で、「五箇条の御誓文」を闡明することで、わが国の伝統的な現人神思想を、国民にそれとなく知らしめようとされました。
 それが詔書冒頭の高らかとした宣言となったのです。
 詔書は次のように始まります。

「茲に新年を迎ふ。顧みれば明治天皇明治の初、国是として五箇条の御誓文を下し給へり。
 曰く、

 一、広く会議を興し万機公論に決すべし
 一、上下心を一にして盛に経綸を行ふべし
 一、官武一途庶民に至る迄各其志を遂げ人心をして倦まざらしめんことを要す
 一、旧来の陋習を破り天地の公道に基くべし
 一、智識を世界に求め大に皇基を振起すべし

 叡旨公明正大、又何をか加へん。朕は茲に誓を新にして国運を開かんと欲す。須らく此の御趣旨に則り、旧来の陋習を去り、民意を暢達し、官民挙げて平和主義に徹し、教養豊かに文化を築き、以て民生の向上を図り、新日本を建設すべし。」

 ここにおいて昭和天皇は「茲に誓を新にして」とさり気なく言っておられますが、これはもちろんわれわれ国民に対してではありません。皇祖皇宗に誓った明治天皇を含む、皇祖皇宗の神霊に対してであり、伝統的な現人神思想を表現したものとなっているのです。
 この深い大御心を理解できなくなって、マッカーサーの偏見を唯々諾々と受け入れている日本人の何と多いことでしょう。この相克は今も続いていて、歴史認識問題や経済問題に顕著な、グローバリズムと名を変えた国際主義(インターナショナリズム、かつての国際共産主義運動もその一種です)との相克軋轢は、その背後にある旧約聖書的世界観との相克軋轢なのです。ヒトラーが指摘していたのはまさにこれです。
 筆者が大嘗祭を論じる背景にはこの問題意識があります。

 ともかくわれわれ日本人は普段は理性的でおとなしいですが、いざとなると原点に立ち返って、熱情的に、大胆に行動することがあります。しかし、それは発する直前まで、理性によって抑制されたものとなっていますから、それに則った行動となります。それをここでは均整の取れた富士の姿に象徴させているのです。
 その山頂付近、噴火口「大内院」を取り囲むように聳える八神峰(最高峰は剣が峰)を祭儀に譬えるなら、その内の最重要の一つが大嘗祭なのです。そこに立ってみないと、その本義を覗くことは出来ない。
 戦後の社会にあって、皇室を敬愛する者として、畏れ多いことながら、山の全容のみならず、この「大内院」を覗き込んでみたいとの思いに駆られるのは、筆者だけではないでしょう。
 そういった近代的な問題意識を持った先駆的な思想家が大嘗祭の本義に関する代表的な見解を述べた民俗学者にして国学者の折口信夫です。
 彼は「大嘗祭の本義」と題された昭和三年の講演筆記の冒頭部分で、次のようことわっています。

 「…ここで申しておかねばならぬのは、私の話が、あるいは不謹慎のように受け取られる部分があるかも知れない、ということである。だが、話は明白にせぬと何もわからぬ。話を明白にするのが、かえってそれを慕うことにもなり、ほんとうの愛情が表れることにもなる。あるいは、吾々祖先の生活上の陰事(かくれごと)、ひいては、古代の宮廷の陰事をも外へ出すようになるかも知れぬが、それがかえって、国の古さ・家の古さをしのぶことになる。単なる末梢的なことで、憤慨するようなことのないようにして頂きたい。国家を愛し、宮廷を敬う熱情においては、私は人にまけぬつもりである。」

 そんな折口が、戦争が苛烈さを増していた昭和十八年春に、国学院の新入生を前に、現在は国学という学問にとって幸福な時代である、と不謹慎にも聞こえかねない発言をしています。その真意は、国学者が昔から抱いてきた理想を世の中全体が持つようになったからだ、というのです。歴史的にみると、国学が認められるときには世の中の不幸なときが多い。その不幸なときにあって、心の底からの悲しさや激しい憤りをわれわれが共有した時にはじめて、国学は国民に共通の理解を得る。国学という存在はそういった逆説を含んでいる。これは国史にも言えることでしょう。
 大東亜戦争というのはマグマが噴出し、大山鳴動した時代でした。その成果は、世界史的意義を持つもので、西洋列強の植民地支配による世界制覇の達成を食い止めた、という点だけを見ても、「鼠一匹」という矮小化しうるものではありませんでした。
 終戦の詔を拝した折口は箱根仙石原の家にひとりこもって四十日ほどを過ごしたといいます。そして、既に取り上げた「神 敗れたまふ」という歌を詠んだのです。

神こゝに 敗れたまひぬ─。
すさのをも おほくにぬしも
青垣の内つ御庭(ミニハ)の
宮出でゝ さすらひたまふ─。

くそ 嘔吐(タグリ) ゆまり流れて
蛆 蠅(ハヘ)の、集(タカ)り 群起(ムラダ)つ
直土(ヒタツチ)に─人は臥(コ)ひ伏し
青人草(アヲヒトグサ) すべて色なし─。

村も 野も 山も 一色(ヒトイロ)─
ひたすらに青みわたれど
たゞ虚し。青の一色
海 空もおなじ 青いろ─。


 敗戦を神々の敗北と受け止めた彼は、われわれ日本人の神学、世界宗教としての神学を打ち立てる必要性を痛感しました。
 しかし、その志と努力は挫折しました。
 その志を継ぐべき最愛の弟子にして養子でもあった藤井春洋を硫黄島の激戦で失ったことに対する悲しみが大きかったようです。
 これは、仁を以て唯一許した愛弟子・顔回を失った晩年の孔子が「噫(ああ)、天、予(われ)を喪(ほろ)ぼせり、天、予を喪ぼせり」と失意のどん底に突き落とされたエピソードを連想させます。それは自らの志の挫折でもあったのでしょう。

 いまや末梢的なことをあげつらって、皇室に関するもろもろを否定しようという輩が跳梁跋扈している今日では、ますます話を明白にしておく必要があるでしょう。山の全容を明らかにする必要がるのはもちろんのことながら、それを土台に、さらに一歩進めて、剣が峰に登って、「大内院」のそのさらに奥を明らかにする努力が必要でしょう。

 さて、その先駆者、折口信夫の大嘗祭の本義に関する見解です。彼の国学や民俗学の知識を駆使しての考察は容易に要約できるものではありませんが、アウトラインを押さえておきましょう。
 折口は「まつり」について大体次のように述べています。
 
 「まつり」「まつりごと」とは「政」ということではなく、朝廷の公事全体を指して言い、昔から為来(しきた)りある行事の意味である。「まつる」「まつらふ」という語には服従の意味があり、上の者の命令通りに執り行うことが「まつる」、人をして命令通り執り行わせることを「またす」と言った。
 日本の太古の考えでは、この国の為事(しごと)は、すべて天つ国の為事を、天つ神の命令通りにそのまま行っているのであって、神事以外には何もない。本来は、この、天つ神の命令を伝え、命令通り執り行うことを「まつる」というのである。これが後に、意味が少し変化して、天つ神の命令通り執り行ったことを神に復奏することも「まつる」というようになった。これが古典に言うところの「祭り」の本質である。

 次に古代の天皇の仕事とは「食国(をすくに)」の「まつりごと」だとされている。天皇は天孫として天つ神の命「またし」によって降臨し、この国の田の生り物を作り、秋になると「祭り」をして天つ神に奉げる。ちなみに「食(を)す」とは「食う」の敬語で、「食国」とは、召し上がりなされる物を作る国、という意味である。この「をす」から「をさめる(治める)」という言葉が生まれた。

 この一年の終わりの天つ神への報告祭を「おおむべまつり(大嘗祭)」といったのである。「おおむべ」あるいは「おほんべ」のまつりは、各地で行われていた「にひなめ(新嘗)」の大きな祭りという意味で、あるいは壮大・神秘を意味する「おお」を加えて、「おおにひなめ」といって、それから転じたものらしい。

 「にひなめ」とは、新穀を「なめる」という意味ではなく、民間の同類の行事を他に「にはなひ」「にふなみ」「にへなみ」などと言った例から考えて、神に奉げるための調理された食物を意味する「にへ(贄)」(調理されない生のものが生け贄である)と助詞の「の」、「いみ(忌み)」が一体化した言葉であり、新穀を神に奉るときの物忌み生活を表す。「嘗」の字は、支那に似たような行事があって、そこから当てられた。

 これらがいつの頃からか忘れられて、天皇の代初めに行われる新嘗を「大嘗祭」、毎年行われる祭りを新嘗祭と使い分けるようになった。

 ところで、天皇陛下のことを「皇御孫命」と書いて「すめみまのみこと」と呼ぶことがある。尊い御子孫、という意味だが、古代においては、「すめ」は神聖、「みま」は肉体・身体を表す言葉で、神聖なる御体のことを「すめみまのみこと」とよんだのである。当時の人々にとって肉体とは魂の容れ物であった。
 天皇としての霊威の根元となる魂のことを「天皇霊」という。この魂は唯一つしか存在しない。天皇が崩御され、この魂が崩御された先帝の「すめみま」を離れ、「みこのみこと」の「すめみま」、すなわち皇太子の尊い御体に入り、これを満たした時に、新たな肉体において「天皇霊」は復活する。つまり、天皇霊は常に同じ一つの魂であり、肉体の違う新たな天皇が誕生しても、霊的にはまったく同じ天皇なのである。「皇御孫命」の「孫」という字は、子孫という意味ではなく、歴代天皇が、天孫瓊瓊杵尊と同様に、天照大神の孫で在らせられる、という意味なのである。

 この魂の継承は、先帝が崩御されてからの物忌みの期間である「喪」中に行われる。
 この「喪」中、天日は物忌みの対象となる。天日に御体をさらすと魂が駄目になると信じられていたからである。

 折口はこの物忌みと天皇霊の継承こそ、「大嘗祭」の本義と考え、「八重畳」の寝具を、神話に出てくる「真床追衾(まとこおうふすま)」と解釈して、次のように述べています。「真床追衾」とは、天孫瓊瓊杵尊が降臨する際、包まれていたとされる夜具です。

 「これは日の御子となられる御方が、資格完成のために、この御寝所に引き籠って、深い物忌みをなされる場所である。実に、重大なる鎮魂の行事である。ここに設けてある衾は、魂が身体に這入るまで、引き籠っている為のものである。」

 皇位継承資格を持つ人の事を「日つぎのみこ」と言い、中でも皇太子のことは特に「みこのみこと」とよんだ。この儀式を通じて、皇祖皇宗の神霊「天皇霊」を継いだ新天皇は「天津日嗣(あまつひつぎ)」となり、現御神あるいは現人神として完成する。その完成された御方が、御立ちになって祝詞を申される場所が「高御座(たかみくら)」である。
 皇位のことを「天津日嗣の高御座」というのはここから来ている。
 この「天津日嗣の高御座」に在す現人神の発せられる祝詞「天ッ祝詞ノ太祝詞」は天津神の御言葉の伝達であり、神の御言葉も同じである。この天神の言葉が発せられる高御座とそれを「まつる」場において地上は天上になる。祝詞が効力を及ぼす地域は天と重なる。高天原の地名と同じものが各地に点在するのもそのためである。

 天皇が高御座に立たれて仰せ言を下されると、今度は群臣が寿言(よごと)を申し上げる。これは魂を献上し、服従を誓うことを意味する。この魂の献上により天皇霊は補強される。
 毎年の新嘗祭をはじめとする稲穂献上の祭りも同様で、諸国から稲穂を奉るのは相手への服従の誓いを意味する。日本では稲穂は神であり、国々の魂がついている。この魂を献上することで、献上を受ける天皇や更に上位の神の霊威は更に力を増す。夏を過ぎてかげりを見せる天照大神の霊力は盛り返し、これと一体の「皇御孫命」の霊力もまた盛り返す。
 このことは同時に、これに服従を誓うものたちの霊力の復活をも意味した。
 この意味で、天皇霊を受け継ぐ大嘗祭は皇室にとって、最も重要な「まつり」なのである。

 以上が大雑把に把握したところの折口の「大嘗祭の本義」に関する見解です。
 この現人神を通じての神と人臣との相互性、自然との循環性が、江戸期の水戸学を代表とする日本化した儒教によって再確認され、国学の成果も採り入れられ、國體の核心となった、というのが筆者の見解です。この観点から言えば、明治維新によって造られた大日本帝國とは、海外から多くのものを取り入れながらも、芯の部分ではどこまでも神武の創業の精神に立ち返るという、王政復古であったのです。それが日本の急進的な近代化の低い重心となった。
 この日本の歴史の重厚さが見えない浅はかな知ったかぶり知識人がなんと多い事でしょう。

 皇位の正統性は天照大神のいわゆる天壌無窮の神勅に由来します。折口が言うところの天津神の命令「またし」がこれです。
 天壌無窮の神勅とは『日本書紀』本文ではなく、異伝承の採録「一書曰(あるふみにいわく)」の第一書にある、天照大神が瓊瓊杵尊に授けた神勅

「葦原(あしはら)の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂(みずほ)の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾(いまし)皇孫(すめみま)、就(い)でまして治(し)らせ。行矣(いきくませ)。宝祚(あまのひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、当に天壌(あめつち)と窮り無けむ」

が有名ですが、このほかに、第二書にある、天忍穂耳尊(あまのおしほみみのみこと;瓊瓊杵尊の父)に宝鏡を授けた際の神勅

「吾が児、此の宝鏡(たからのかがみ)を視(み)まさむこと、当に吾を視るがごとくすべし。与(とも)に床(ゆか)を同くし殿(おほとの)を共(ひとつ)にして、斎鏡(いはひのかがみ)とすべし」

「吾が高天原に所御(きこしめ)す斎庭(ゆには)の穂(いなのほ)を以て、亦吾が児に御(まか)せまつるべし」

この二つを併せていいます。

 ここに皇統の正統性の根源が示されています。
 宝鏡とは天照大神が天岩戸に御隠れになられた際、石凝姥命(いしこりどめ)が作成した八咫鏡(やたのかがみ)のことで、三種の神器の一つです。『古事記』では天照大神が、この鏡については特に「これの鏡は、専ら我が御魂として、吾が前を拝(いつ)くが如く拝(いつ)き奉れ」と宣しています。神代(かみしろ)、すなわち神の化身として、吾を祭るが如く祭れ、というのです。この内容は『日本書紀』の宝鏡に関する上記神勅と同じで、天照大神が下したと伝えられる金科玉条は、代々の天皇が幼少期に学ばれた『論語』の「在すが如くす」という祭祀の基本態度と期せずして符合しています。

 鏡の他、二つの神器は、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)と草薙剣で、天皇践祚に際して皇位とともに継承されるものです。
 これらの神器の内、八尺瓊勾玉は本体が、鏡と剣は形代(かたしろ)が継承され、玉の本体と剣の形代は皇居吹上御所「剣璽の間」に、鏡の形代は宮中三殿の賢所に安置されている。鏡の本体は伊勢神宮に、剣の本体は熱田神宮に祭られています。形代とは神霊の依り代のことですが、皇居に安置されているこれらでさえ、歴代天皇は実見されたことはないといわれています。
要するにこれまで誰も見たことがないのです。
 江戸時代の学者・富永仲基は「神道のくせは、神秘・秘法・伝授にて、只物をかくすがそのくせなり」と喝破しましたが、ここまで徹底している以上、ただの「くせ」で済ませておくわけには行かないでしょう。神道では、この「くせ」のために、近代合理主義精神からは膨大な無駄としか思えない、費用を含む大変な労力が費やされているのです。ちなみに、下世話な話になりますが、平成の御代の即位の礼及び大嘗祭には約八十一億円の国家予算が計上されました。その上、この大祭の為に当事者が掛ける時間と労力は大変なもので、半年以上掛けて綿密な準備を経て行われる、一日だけの行事ではないのです。皇室が頑なに守り続けるこの「くせ」には、当事者の立場に立ってみないとわからない、存在の根源に関わる奥深い事情があるのです。それはこの国の、延いては日本国民の根源に関わる奥深い事情ということです。
 おそらく、その本義を精確につかんでいる者は存在しません。
 何しろ、神道の宗家とも言える皇室でさえ、神代からの長い歳月を毎日、見たこともない神代(かみしろ)を拝(いつ)き奉ってきたのですから…。
 形代も含めて、三種の神器の保有が皇位継承の絶対条件といえないのは、既に見たように、これなしで皇位を継承した天皇がいたことでも明らかですが、皇室が天照大神の金科玉条を頑なに守り抜き、一方で、目を世界に見開いて後、『論語』という、近代以前の東アジアの普遍思想を援用して、祭を「在す如く」自覚的に斎行してきたことで現在までその本質を継続することができたと理解しておくのが妥当でしょう。
 神代、形代は、あくまで神霊そのものではなく、神と人の媒介をなすものであり、神との繋がりを存在の根拠とする歴代の天皇にとって、神霊とは、『中庸』の中の孔子の表現を再び借りるなら、まさに次のようなものであったに違いありません。

 「子曰く、鬼神(神霊)の徳たる、それ盛んなるかな。これを視れども見えず、これを聴けども聞こえず、物を体して遺すべからず。天下の人をして、斎明盛服して、以て祭祀を承(う)けしむ。洋洋乎としてその上に在るが如く、その左右に在るが如し、と。詩に曰く、神の格(きた)るは度(はか)るべからず、いわんや射(いと)うべけんや、と。」

 歴代天皇もまた、神霊(鬼神)の盛んなる徳を肌身に感じながら、日常、非日常の祭祀を継承してきたであろうことを筆者は疑いません。
 祭祀に用いられる神器をたとえ見たことがなかったとしても、どうせ神霊(鬼神)は、これを視れども見えず、聴けども聞こえず、物を体して遺すべからず、なのであり、神の依り代に過ぎない形代の形状など見たことがなくとも究極的には何のこともなかったでしょう。
 ちなみに孔子は『論語』においても「礼と云い礼と云うも、玉帛を云わんや。楽と云い楽と云うも、鐘鼓を云わんや」(「陽貨」)と言って、礼や楽にとって重要なのはそれに用いる器、すなわち儀礼に用いる玉や帛(はく;絹)といった祭器や、音楽に用いる鐘や太鼓といった楽器が重要なのではない、ということを説いています。
 その点、伊勢神宮に安置されている至宝、八咫鏡も究極的には同じことで、神代の伝承以来、天照大神として様々な神話と共に語り継がれてきた神霊の本体は、神社に、ましてや神器や祭器などに在すのではありません。今もわれわれの頭上に在って、燦然と輝いている日輪こそ、古代人が仰いだ天照大神そのものに他ならないのです。これは本居宣長が喝破したことです。
 われわれの知には限界があり、自らの知を恃む人ほど、理に走って本来の意義を見失いがちです。何事も隠す「神道のくせ」は物本来の姿で保存することで、偏知により見失われた物本来の姿を取り戻す上で、重要なきっかけを与えてくれます。認識の扉は知に囚われていては見えませんが、このベールの向こうのどこかに隠されていて、それを見つけることができるかどうかは、われわれのこれに近づく態度如何にかかっているのです。

 折口信夫は、公家社会において古代からの祭儀や慣習、言葉の意義が失われて、新たな価値観による合理化が行われ、これらの改変を余儀なくされたのは、漢字の受容により「からごころ」が公家社会を席巻しつつあった平安時代と考えていたようです。
 「大嘗祭の本義」の締めくくり部分で次のように述べています。

 「ともかくも、大嘗祭は、平安朝に固定して、今日に及んだものゆえ、神代そのまま、そっくりのものとは考えられない。吾々は、その変化のうちに、隠れているところを見たいものである。」

 おそらく、古代からの伝承や伝統の意味が失われたのは公家社会において、漢学が重んじられるようになった奈良時代から平安時代に掛けてのことでしょう。仏教もまたシナ経由であり、広義の「からごころ」に含めてのことです。その大きな流れを作ったのは、やはり『日本書紀』『古事記』といった、古伝承や古記録の整理と文字化を命じた天武天皇といっていいように思われます。文字化は生き生きとした伝承世界の固定化を生む。それは伝承世界の一部死を意味するのです。
 天武天皇の時代すでに、各家・各地方の伝承は混乱し、その意味は見失われていました。記紀はその編纂方針を見ると、出来るだけ、その保存に努めたことが窺われますが、それでも当時の合理的価値規範による誤解曲解や改変を免れていません。
 その記紀によって伝統を受け継ごうとする公家社会の知識階級は、当時、最も漢字を通じて「からごころ」を自ら進んで学んだ秀才たちであり、当然ながら「からごころ」による合理的解釈に傾いて、誤解に誤解を重ね、伝統を改変することになるのです。それを彼らは善意で行っているのです。
 これはいつの時代でも変わりなく、もっとわかりやすい例を挙げれば、大東亜戦争の敗戦後、公職追放により学会がマルクス主義や唯物論に席巻されたとき、記紀は、当時の支配者の政治的意図による捏造、とのイデオロギーで解体されようとしました。もっとも記紀の編纂に政治的意図による捏造がまったくなかったとはいいません。ですが、それですべてを解釈するのは行き過ぎであり、イデオロギーですべてを割り切ってしまえば、その豊かな内容は死んでしまいます。それは彼らの政治的意図、すなわち天皇制の廃滅をそこに読み込んでいるに過ぎないのです。これは現在のグローバリストも同じことです。
 これは記紀編纂者たちの意図とは正反対の、皇室伝統への悪意の例と言っていいでしょう。 
 物事をありのままに見つめ、これを理解しようと努めることがいかに難しいことか。これは伝統に常につきまとって離れない問題であり、おのが知を恃む人間ほど、俗耳に入りやすい、安易な、時代精神迎合の合理的解釈に陥るものなのです。
 この難しさを認識していれば、伝統の核心と目される部分を、隠し、これを古くからのありのままで保存に努めるという態度が、人間の知性の限界をわきまえた、いかに賢明な態度であるかわかるでしょう。
 それは「鬼神を敬して遠ざく」という、孔子が言うところの知的態度でもあるわけですが、西洋の知識人の言葉に敏感に反応する人にはゲーテの次の言葉を引用しておきましょう。

 「考える人間の最も美しい幸福は、窮め得るものを究めて、窮め得ないものを静かに崇めることである」

 静かに崇め、これをそのままに保存することで、いつかその意義を闡明にする者が現れるかもしれませんが、合理主義的に無駄と浅はかに判断して、これを廃してしまえば、その可能性もなくなってしまいます。

 孔子は悧巧で知られる弟子の子貢が、ある形骸化していた宗廟での祭祀で供えられている生贄の羊を無くそうとした際、なんじはその羊を愛しむが、われはその礼を愛しむ、と言ってたしなめたことがありました。形骸化していても慣習として存続していれば、伝統として礼の精神が復活することもあろう、との含意ですが、これは大嘗祭を始めとする皇室の祭祀全般に言えることでしょう。
 皇室伝統の破壊を目論む唯物論者やグローバリストが無意味や無駄を理由に巧妙に付け込むのはそこです。
 慣習として存続していれば、その意味を洞察して闡明する者、そして、これを新たな時代に復活させようと決意し、その精神で自らを律する人物が現れるかもしれません。そうした時、その偉大な精神、言霊は、そして神霊は、新たな時代にも生き続けていると言えるのではないでしょうか。
 また、それが多くの人の共感を呼び、行動をともにする人が現れたとするなら、神霊の姿は見えずとも、その徳はこの世に何事かを及ぼし続けていると言えるのではないでしょうか。

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