神霊の存在-日本人の本来的自己喪失(参) 【『皇室と論語』(二十二)】

 『かのやうに』の主人公五條秀麿の父の精神上の教養は、その世代にとって一般的であった、朱子の註によって『論語』の講釈を聴いたぐらいのものであったという設定になっています。それは当時一般に行われていた慣習に倣っただけであって、明治になって、ユダヤ・キリスト教をバックボーンとする西欧文明という新たなパラダイムに対応せねばならなくなったときに(それは留学から帰った息子がもたらした)、祖先の神霊を祭るに在ますが如くしてきたが、果たして自分は神霊の存在を感じても、信じてもいないのではないか、という自問自答となるのは知的誠実というものでしょう。
 知識人たるものこれに答える義務があります。
 いくら科学が発展し、近代的知性によって、神霊(鬼神)の存在が否定されたからと言って、先祖代々の存在があって奇跡的に自分という個性が今この世に存在することの重みを否定することはできません。
 また、同様に、いくら過去を否定したところで、過去の積み重ねによって現在がある、その逆ではない、という事実の重みを決して否定することは出来ないのです。 
 いくら精緻な理論を構築する才能があっても、ここを踏まえていない理論は、つまり知の限界を弁えていない理論(解釈)は、それこそ無駄、いや時に有害ですらあります。
 鷗外は「かのやうに」という差当っての解決策を提示した後、明治天皇の崩御と五條子爵のモデルとされる乃木希典の殉死という衝撃的事件に直面して、殉死というテーマに取り組むことになります。人は、精神的な弱さから来る自殺ならともかく、信じてもいない存在のために意識的に死を択ぶことはできません。ならば、鷗外の五條子爵の心情への忖度は浅はかであったと反省されざるを得なかったでしょう。明治の一長者は一体何を信じていたのか。それが以後の鷗外の創作動機になったと思われます。
 乃木大将の辞世の句は次の通りです。

神あがり、あがりましぬる、大君の、みあとはるかに、をろがみまつる

うつし世を、神去りましゝ、大君の、みあとしたひて、我はゆくなり

 神霊となられた明治天皇を遠くから拝み、祭る。
 その御跡を慕って、私も神霊の世界に行く。
 やはり天皇の御存在に、神霊の存在を感じ、これを信じていたとしか解釈の仕様がありません。乃木大将は多くの人々の死を見つめてきた人物です。彼の座右の銘である山鹿素行の『中朝事実』に則って、天下の本である国家に、国家の本である民に、民の本である君(天皇)に、軍人として尽くす過程で、多くの部下を失いました。旅順のいわゆる二〇三高地においてロシア軍を相手に甚大な人的損害を被ったのは周知の事実です。ここで彼は二人の息子も失っています。
 その悲哀を深く心に刻み込んだ彼が英霊達を忘れて、殉死するまでの余生を過ごしたとは思われません。彼にとって戦死者は、後の唯物論者がそうみなしたような消費された人的資源であったはずはないのです。
 大将は戦後、膨大な数の「鬼神(神霊)」を背負いながら、明治天皇に仕え、その大御心に従って、学習院の初代院長に就任し(学習院の名は『論語』の「学びて時にこれを習う」に由来している)、皇孫・裕仁親王(後の昭和天皇)の教育に力を注いだのです。
 大将は『中朝事実』の「人、いまだその父祖を思はざるなし」という言葉が好きだったといいます。彼は、殉死の二日前、明治帝崩御して既に実質的な皇太子であらせられた裕仁親王に特に拝謁を願い出て、自ら手写した『中朝事実』を献上し、涙で頬を濡らしながら数時間に亘って、御進講を行いました。
 これを遺言となし、殉死した乃木大将は忠臣として鬼籍に入り、乃木神社に祭られて神となりました。孔子の言葉を借りるなら、乃木大将は、明治天皇という至尊の人に事え、「鬼」籍に入られた天皇にさらに事えようとした、ということになります。それをさらに忠実に行うには、祭るという人事は他の者に任せ、自らも鬼籍に入らねばならない。それは同時に、間接的にこの国の「神」に事えることを意味しました。主君にして至尊である明治天皇の父祖に思いを馳せれば、それは神話に行き着かざるを得ないからです。つまり、大将は敢えて、自ら鬼となることで、神に事えようとしたことになるのです。
 現代人は大将の辞世の句を読んで、素直に共感できないかも知れませんが、理解できぬなら、せめて「敬してこれを遠ざく」ぐらいの伝統的な知的謙虚さがあってもいいのではないでしょうか。
 五條子爵は、息子秀麿の手紙を読んで、祭りは在す如くしている自分の心的態度を自問自答しましたが、明治天皇に仕えた当初の乃木希典も、他の多くの武士と同じく、神霊の祭りごとにはプラグマティックに取り組んでいたかもしれません。しかし、明治天皇に仕え、忠義を、人事を尽すうちに、その背後に神霊の存在を感じるようになったのではなかったでしょうか。
 乃木大将が到達したと思われる世界観は秀麿の父も一部共有していたと言っていいでしょう。
 一方、息子の秀麿は欧化時代の明治の若者らしく、こういった古典の教養を持たぬまま留学し、西洋の学問、なかんづくドイツの哲学の中に答えを見出しましたが、それは『かのようにの哲学』を援用するまでもなく、幕末維新期を過ごした父以前の世代には解決していた問題であったのです。つまり、父子の葛藤は明治人の自己喪失の典型だったのではないかということです。
 ドイツ留学経験を持つ森鷗外や、ドイツ文学を専攻し、同じくドイツ留学経験もある西尾氏が、そこに鍵を見出すのは自然です。
 繰返しになりますが、鬼神とは神霊のことです。「鬼」とは、先祖の魂その他、人間のなった神、「神」とは、天の神その他、人間以外の神でとのことです。われわれ現代人にとって、それは迷信に過ぎず、渋沢の認識が示すように、文脈から見て彼の言う神仏とは明らかに人間以外の「神」のことで、これは維新の志士も同様の認識でした。渋沢は、引用文にもあった『論語』「八佾」篇の「祭るには在すがごとくにし、神を祭るには神在すがごとくにす」の講義の中で、「神とはもと人なり」との、新井白石以来の朱子学的合理主義の立場を表明しており、要するに彼にとっての神とは、優れた知性、徳を持つ先人、つまり聖人賢者をイメージしていたことがわかります。

「…神はもと人なり。耶蘇教(キリスト教)のいわゆる造物主にあらず、ゆえに神に事うるには人に接する道を以てすべし。人に接するには信を主とす。信の実体は人に対して誠を尽くし、言行一致して表裏なきにあり。神に事うるにもこの心を推して敬虔の意を表するより外に道あるべからず。」

 孔子でさえ答え得なかった鬼どころか、神への事え方を論じているわけですから、渋沢の知は孔子以上ということになり、行き着くところ、神話も合理的に解釈されて、歴史ととらえられることになります。しかし、これは『論語』の深い読みでは、窺知しがたいことを知で捉えるタブーを犯すことになります。荻生徂徠の朱子学に対する批判も同じ趣旨です。これはプラグマティズムの限界を示すものであります。しかし、渋沢にはこの態度によって、幕末・維新を経て近代日本の確立に貢献してきたという、経験に裏付けられた確信があったのでしょう。
渋沢はやはり、先の引用に続けて、この鬼神に対する理解、そして態度から一種の國體論を導き出しています。

 「しかして神を敬するはすなわち己の祖先や社会の先達を尊崇する所以にして、大和民族の一大家族的の一致結合も、郷土における淳風美俗も、実に敬神の旨より生ぜざるはなし。」

 鬼神(神霊)に対する態度は日本人としての生き方、日本の國體観の根本をなす。だからこそ、この問題を掘り下げてみる必要があるのです。
 近代社会を合理主義的に生きていると自ら信ずる一般庶民にとって、神仏とはすなわち迷信であると言っていいかもしれません。ですが、先祖の霊である「鬼」に関しては、神霊としての存在は信じられなくとも、自分が今ここに存在している以上、近代科学による証明を待つまでもなく、かつて先祖がこの世に存在したことは確かな事実です。さかのぼれば、顔や性格や事跡は不明であっても、いつの時代にも先祖は確実に存在したのです。
 祖先の祭を疎かに出来ない最低限の根拠はここにありますが、祭を正心誠意執り行ったとしても、神霊の存在を感じられるようになるとは限りません。
 渋沢は神仏を迷信としているし、秀麿の父もそれを告白している。
 だからといって、祭を決しておろそかにすることはない彼らは漢学を通じて「かのように」の哲学を身につけていたと言えます。
 しかし、先祖の事跡や言葉が口承伝承や古典籍などを通じて確かめられる場合はどうしょうか。
 幕末の重要人物で言えば、水戸の貴公子徳川慶喜は、父から口伝された光圀(水戸藩初代藩主徳川頼房の三男にして家康の孫)の遺訓に強く縛られていました。
 彼は『昔夢会筆記』という談話筆記の中で、水戸黄門様の遺訓を次のように述べています。

 「烈公(父・斉昭)尊王の志篤く、毎年正月元旦には、登城に先だち庭上に下り立ちて遥かに京都の方を拝し給いしは、今なお知る人多かるべし。予が二十歳ばかりの時なりけん、烈公一日予を招きて、『おおやけには言い出だすべきことにはあらねども、御身ももはや二十歳なれば心得のために内々申し聞かするなり。我等は三家・三卿の一として、幕府を輔翼すべきは今さらいうにも及ばざることながら、もし一朝事起りて、朝廷と幕府と弓矢に及ばるるがごときことあらんか、我等はたとえ幕府には反(そむ)くとも、朝廷に向かいて弓引くことあるべからず。これは義公(水戸光圀卿)以来の家訓なり。ゆめゆめ忘るることなかれ』と宣(のたま)えり。」

 『大日本史』編纂の発起人・光圀らしい内容であり、彼の事跡に照らしても、遺言は事実であったでしょう。しかも慶喜の実母は有栖川宮家の出身です。その本家である皇室に弓を引けるはずがありません。
 慶喜が単なる水戸の貴公子としてその人生を全うしたなら、この遺言は日本史においてさして大きな意味を持ちませんでしたが、彼は図らずも徳川宗家を継ぐことになって、大政奉還を行いました。彼のあり余る政治家としての能力に、強力な制動力として働いたのが、この光圀の遺言が持つ引力だったのです。
 実はこの『昔夢会筆記』の編纂責任者は渋沢栄一です。彼は尊皇攘夷の志を抱いて武蔵血洗島の農村を出奔して、一橋時代以来の慶喜に仕えた経歴を持っていたのです。慶喜が宗家を継いだことで、幕臣となってしまうという数奇な運命をたどりました。彼は大政奉還、鳥羽伏見の戦、官軍による江戸攻略という動乱の時期に、慶喜の実弟のパリ万国博覧会出席および留学の随員としてヨーロッパに滞在していて、政変そのものを経験しませんでした。帰国後、どうしても政変におけるこの主君の処置に納得がいかなかった彼は、静岡に謹慎中の慶喜に拝謁し、疑惑を質しましたが、重い沈黙にあって疑念は長い間氷解することがありませんでした。それでも長く仕える内に疑念はやがて氷解するようになりますが、それは明治も二十年代になってからのことでした。渋沢は慶喜の真意を次のように解説しています。

 「…かくして追々と歳月を経るに従って、政権返上の御決心が容易ならぬ事であったと思うと同時に、鳥羽・伏見の出兵はまったく御本意ではなくて、当時の幕臣の大勢に擁せられて、やむをえざるに出た御挙動である事、しかしてその事を遂げんとすれば、日本は実に大乱に陥る、またたとい幕府の力で薩長その他の諸藩を圧迫しうるとしても、国家の実力を損する事は莫大である、ことに外交の困難を極めている際に当ってさような事をしては、皇国を顧みざる行動となると悟られたためである事、またここに至っては弁解するだけかえって物議を増して、なおさら事が紛糾するから、愚といわれようが、恭順謹慎をもって一貫するより外はない、薩長から無理としかけた事ではあるが、天子を戴いておる以上は、その無理を通させるのが臣子の分であると、かく御覚悟をなされたのだということを理解したのは実に明治二十年以後の事であった。…」(『昔夢会筆記』「徳川慶喜公伝 自序」)

 このように理解して、渋沢の慶喜に対する尊敬の念慮はいっそう切実なものとなり、やがて世間の誤解を解くべく、事実に基づく「徳川慶喜公伝」編纂事業へと彼を駆り立てていくことになるのです。ただ慶喜の謹慎以後の心情は、おおむね渋沢の敷衍した内容で大過はないとしても、史料を詳細に追っていくと、渦中にあった当時の心境は、もっとぐらついていたのであって、徳川宗家当主としての立場と遺訓にある勤皇の立場との矛盾相克に、引き裂かれそうに、あるいは押しつぶされそうになっていたことがわかります。
 渋沢の解説にあるように、彼自身は政変によって朝廷を独占した格好になっている薩長を正義とは認めておらず、家臣の激昂に一定の理解と共感を持っており、またさらに、幕府の実力を持ってすれば薩長を京都から駆逐するのは容易である、との認識を持っていました。それが討薩を主張する荒ぶる家臣たちの統制を放棄し、一戦敗退を経て、江戸逃帰後の朝廷に対する弁解行為となったのです。
 要するに、当時の彼の現状認識は甘かった、ということになりますが、彼の難しい立場を理解するとき、安易に批判する気にはなれません。慶喜自身も、明治以後、それもようやく渋沢らに心を開くようになってからも自身の行為に納得はしていなかったように思えます。
 彼が自身の歴史的使命、言わば天命を素直に受け入れるようになったのは、勝海舟らの尽力によって、明治天皇への拝謁を許された明治三十一年三月二日のことでした。慶喜はこの日、今は皇居となっている、かつての居城に登城、天皇皇后両陛下に拝謁しました。
 彼は参内の翌日、勝海舟の元を訪れて、次のように語ったといいます。

 「どこまでも天恩の辱(かたじけな)きに酬(むく)い奉り、祖宗の祀りを絶やさないように勉むる故、この絖(ぬめ)へ『楽天理』と書いてくだされ。」(『氷川清話』)

 これを聞いて喜んだ勝もまた、自分の歴史的使命(天命)は終わったと感じたのです。「楽天理」の境地で祖宗の祀りを執り行った慶喜は大正二年十一月二十二日に薨ずるまで十余年間を生きましたが、勝の方は、拝謁実現の約二月後、すなわち明治三十二年一月十九日に薨じています。天命を果たし、天寿を全うした人生であったのです。享年(天から享けた生年)七十五。

 さて、徳川宗家は源氏長者として征夷大将軍としての任命を受け、幕府をひらいて君臨してきたわけですが、源氏長者は足利義満以来、清和源氏に移行していますから、徳川家も清和源氏ということになっています。清和源氏とは清和天皇の皇子のうち四人、孫の王の内の十二人を祖としています。彼らが臣籍降下して源氏性を賜ったのです。足利家は初代幕府を開いた源頼朝と同じ清和源氏でした。足利将軍家が生んだ驕児・義満は武家の棟梁では満足せず、公家としても最高位にあろうとして太政大臣にまで昇りつめました。この怪物の出現以前、源氏長者の地位は、北朝を擁した義満と対立関係にあった南朝方の主流である村上源氏にありました。村上源氏は同様に村上天皇の皇子を祖とする賜姓皇族です。
 岩倉具視が皇政復古に際して建武の中興に範を取ろうとしていたのは知られていますが、後醍醐天皇が目指した親政を補佐した北畠親房・顕家父子や千種忠顕などの忠臣の多くは村上源氏でした。つまり、村上源氏の天皇親政の理想の背後には、平安時代以来、五摂家を中心に堂上家の主流をなしている藤原氏への対抗意識に加え、清和源氏への怨恨を育てていたのです。幕末当時、この清和源氏の棟梁が徳川家であることはすでに触れました。
 岩倉家もまた村上源氏の支流でした。嫡流の久我家から独立したのは江戸時代の初頭で、第六代の尚具(ひさとも)は桃園天皇の近習としていわゆる「宝暦事件」に連座して、辞官・落飾処分されています。
 「宝暦事件」とは、宝暦年間に、一草莽に過ぎない崎門学徒(山崎闇斎学派)の竹内式部が、摂関家に不満を持つ若手の公卿に影響力を広め、これに危機感を強めた摂関家が幕府に告訴、京都所司代に賛同者が弾圧された事件です。
 竹内式部の主張の眼目は、『論語』の一節を論拠とし、このままでは天下が危うい、というところにありました。彼は町奉行の取調べに対し、『論語』(「季氏」篇)の一節「天下道あれば、すなわち礼楽征伐、天子より出ず。天下道なければ、すなわち礼楽征伐、諸侯より出ず。諸侯より出ずれば、蓋し十世にして失わざること希なり…」云々を論拠に、現在礼楽征伐は諸侯である徳川氏から出ている、当代(徳川家重)は九代だから次代は衰退し、天下は危うい、という本音を告白しています。
 結局、彼は京都追放の憂き目に遭いますが、先の告白によって罰せられたわけではなく、その罪状は、ひとつは若手の堂上との酒宴に参加したことの時処位をわきまえぬ不謹慎ぶり、もうひとつは儒書を講ずるなら四書五経を講ずるべきところ、浅見敬斎の『靖献遺言』を講じた、ということでした。言わば、朝廷の強い要請を受けての余罪による処罰であり(しかも何ら法に抵触していない)、『論語』の権威は幕吏にまで浸透していた、ということになります。                                            
 この事件に連座した尚具は子孫に遺訓を残しました。
 彼は、藤原氏を外戚に持たず、摂関家の権勢を削り、親政を行おうとした賢帝・後三条天皇を補佐した村上源氏の栄光の時代を語り、これに加えて宝暦事件における自身の無念を語り、「忠孝の二字を心肝に刻銘し、奮励奉公して村上源氏の名声を汚すことなかれ」と訓戒しました。
 ちなみに第八代具選(ともかず)は勤皇家で「寛政の三奇人」の一人・高山彦九郎と深い交わりを結んだ人物でした。
 幕末維新に活躍した具視は藤原氏支流の堀河家から養子に入り、この岩倉家の十代当主となった人物です。彼が皇政復古運動に挺身するに至った背景には、この村上源氏としての矜持がありました。だからこそ、安政年間の彼の画策を表立って推進した同志は、村上源氏嫡流の久我建通(たてみち)だったのです。
 他家から養子に入り、家を継いだとはいえ、いや、むしろだからこそ、岩倉具視は、村上源氏の名声を汚すな、との遺訓を肝に銘じた人物でした。現に、彼は挙兵計画延期で宙に浮いた慶応三年十月の王政復古の奏聞書の中で、先に引用した『論語』(「季氏」篇)の一節と他一節を引用して、皇政復古の断行を説いています。
 慶応年間、京の政界へ復帰後の具視が結んだのは薩摩藩でした。彼との交渉を主に担当し、後々まで深く結んだのは大久保利通でしたが、ここでは薩摩藩を動かした彼ら誠忠組のリーダー格であった西郷隆盛について触れることにします。
 西郷隆盛は有名な勤皇僧・月照との薩摩潟への投海から蘇生後の奄美大島への遠島中、変名として「菊池源吾」と名乗ったことからもわかるように、菊池氏の矜持を強く持した人物でした。彼がその名に託した想いは、菊池氏の出自こそ吾が源泉である、ということであったでしょう。
 菊池氏は肥後の菊池郡を根拠とする氏族で、遠祖は藤原政則とされています。政則は寛仁三年(一〇一九年)の「刀伊の入寇」と呼ばれる異民族(満州の女真族と考えられています)による侵略事件で、太宰少弐として、太宰権帥・藤原隆家の下で戦い、夷狄の撃退、すなわち攘夷に功がありました。それによって、息子の則隆に肥後の菊池郡が下賜されたのです。
 これが菊池氏の起こりですが、第八代・隆能は承久の変に際し朝廷側に与し、第十代武房は元寇に際し、攘夷戦に参加し、軍功を上げています。
 西郷隆盛を語る上で最も重要なのは第十二代当主菊池武時の時代です。
 武時はかの楠木正成が盛り上げた討幕の機運に乗じて、後醍醐天皇の討幕の綸旨に一族郎党を率いて応じました。彼らは九州で兵を挙げ、大宰府鎮台・北条英時を討つ寸前まで追い詰めましたが、味方の裏切りにあって討たれ、跡を継いだ長男・武重は父の遺志を継いで、後醍醐天皇に忠義を尽くしました。
 後醍醐天皇の志は、その諡(おくりな)からもわかるように、醍醐天皇(延喜帝)の跡を継いで、武家から権力を取り戻し、鎌倉時代の公家社会で天皇親政の理想時代とされた延喜・天暦の治の時代に復古することにありました。通常、諡とは天皇の崩御後にその事跡を勘案して贈られる名のことですが、後醍醐天皇の場合、異例にも、生前自らこの名を決めていました。皇太子の義良親王は後村上天皇と諡されることになりますが、これは村上天皇(天暦帝)に倣えという、後醍醐天皇の強い願望によるもので、古代の「宝字称謙孝徳皇帝」同様、天皇のシナかぶれが原因でしょう。『太平記』によれば、後醍醐天皇は「御在位の間、内には三綱五常の義を正して、周公・孔子の道に順い」万機百司の政を怠ることがなかったといいます。村上源氏で、忠臣として名高い北畠親房も『神皇正統記』において、この君について同様のことを書いているし、先代で対立する持明院統の花園天皇も同様の期待を日記に書き残しています。彼らを結び付けていたのは朱子学の正統の観念に基づく天皇親政の理想だったのです。
 南朝の衰勢を決定した湊川の戦において、菊池武重は兵庫の和田岬に陣取った新田義貞軍と行動をともにしていましたが、敵軍の挟み撃ちにあった楠木軍の戦況が気がかりで、弟の武吉を派遣しました。彼が湊川に到着したとき、楠木正成は敗軍の中で、弟・正季とまさに刺し違えて死のうとしているところでした。武吉は去るに忍びず、彼らとともに死を選びました。
 忠臣の鑑とされた楠木正成と行動をともにした西郷の祖先のこれら生き様は、維新の志士の歴史教科書とも言える頼山陽の『日本外史』に活写されています。事実、山陽の『日本外史』『日本政記』は慶応年間の西郷隆盛の愛読書であったと伝えられています。慶応三年、時勢が煮詰まった段階での皇政復古派の用意していた挙兵計画は西郷を中心に練られたもので、建武の中興における討幕戦を叩き台にしたものだったのです。
 これは西南戦争における熊本城攻城戦の大胆略にもつながってきますが、前者が高く評価され、後者が低く評価されるのは、前者は成功し、後者は失敗したからに他なりません。「勝てば官軍、負ければ賊軍」は、歴史事件の安易な評価基準ともなっているのです。大東亜戦争に関する評価にも通底する問題です。理屈をうまく捏ねられるかどうかはともかく、勝ったほうを高く評価し、負けたほうを低く評価するというだけなら子供にでもできます。一方で日本においては、弱者・敗者への共感、言わば判官びいきの感情が、弱者・敗者の怨念(ルサンチマン)に基づく主張を支え、逆に強者・勝者びいきの主張を蔽ってしまうことがしばしばですが、これもまた、対立者に対する理解・批判が不十分という点では同様です。
 ともかく、以上のように、村上源氏として天皇親政の理想を抱く公家・岩倉具視と楠木正成を忠臣の鑑とする草莽たち、薩摩藩・誠忠組を結びつけたのはこの国のある種の伝統でした。
 彼らが命懸けで、先祖の遺志を実現しようとした時、神霊の存在をひしひしと感じる時はなかったでしょうか。これは窺知しがたい領域の問題ですが、実はそういった条件を最も満たしているのが皇室なのです。

 「令和」の時代で第百二十六代を数える歴代天皇の事跡は六国史を中心とする各史書に明らかです。皇室の本質を知るうえで最も重要なのは『日本書紀』と最古の史書である『古事記』ですが、これらの書にあって、皇祖皇宗の事跡は初代神武天皇をさかのぼると神代となり、やがて日向の高千穂峯から天に昇って高天原が舞台となります。
 歴代天皇の事跡を学ぶのは天皇の御学問にとって必須の科目であって、それによって大御心は養われるのですが、伝統に則り「忠恕」の心で「(鬼を)祭るには在すが如くし、神を祭るには神在すが如くす」「己に克ち礼に復(かえ)るを仁と為す」と教育されてきた皇室が、日常・非日常の祭祀を通じて皇祖皇宗の神霊(鬼神)の存在を感じるようになるのは自然なことのように思われるがどうでしょう。
 筆者は歴代天皇が神霊の存在を信じてきたことを疑いません。

 以上、筆者なりの解釈を縷々述べてきました。
 聖典にせよ、古典にせよ、伝統にせよ、歴史にせよ、要は後世の解釈です。そして、それらは、あたかも山の景色のように、不動の実体を持ちながらも、われわれが動けば、変わる。
 しかし、われわれ人間が歴史的な存在である以上、生きていくうえで、解釈によって再構成された歴史なり、古典なりを必要としているのではないでしょうか。
 ここまで縷々述べてきたことは、不動の実体に少しでも近づくための一本の道、それもその入り口を示したに過ぎないでしょう。しかも、この道は限界まで突き進んだ時に、忽然と姿を消します。宣長が「直毘霊」で論ったように、敢えて「道」という外来の概念を用いるなら、わが国の古の道は「實は道あるが故に道てふ言なく、道てふことなけれど、道ありしなりけり」というような、逆説的にしか表現の仕様のないものなのです。
 そして、すでに述べたように、日本人と「道」という概念の出合いは応神天皇の御代の王仁によってもたらされた『論語』にまでさかのぼることができます。それは同時に、本格的な文字との出合いでもありました。
 動かない真実を求めるのは確かに無駄かもしれませんが、しかし、それでも敢えて言いたい。
 無駄であることがわかるだけでも動かぬ真実を求めることには意義がある。いや、動かぬ真実を求めなければ、何が無駄であるかもわからないのだ、と。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック