「かのやうに」神霊を祭るということ-日本人の本来的自己喪失(弐) 【『皇室と論語』(二十一)】

 かつて、西尾幹二氏が、日本の文明観、國體を次のように語っていました。

 〔日本人は天皇を超える神を必要としている。
 日本の文化は二重性があって、神仏信仰で、神と仏の両方があった。天皇を超える仏教という超越原理を持つ文化、言わば形而上の世界があって、この二重性が日本を豊かにしてきた。
 これによって西欧文化を理解することができたが、シナやアメリカには形而上の世界がない。〕

 確かに、表面的な観察では現代のシナやアメリカにはそういったところは見出せないかもしれませんが、西尾氏自身、アメリカはキリスト教原理主義の国であって、日米戦争は宗教戦争であった、という卓見を示しておられます。また、シナの場合も、古典文学の世界では必ずしもそうではなく、政治の場においても、天命思想にもとづく皇帝による専制支配と天を祭る儀式や臣下との関係を規制する儀礼は、それがフィクションであるにせよ、密接不可分の関係にありました。そもそも形而上・形而下という言葉自体、シナの古典『易経』を出典としています。
 日本文化の持つ二重性がこの國を精神的に豊かにしてきたというのは見識ある知識人が夙に指摘してきたところであって、福沢諭吉も『文明論之概略』「西洋の文明を目的とする事」で、別の含意ながら、シナの元素は一、日本の元素は二であるとして、そのことが西洋文明を理解しやすいものにした、という趣旨のことを述べています。福沢の言う二つの元素を今の言葉に翻訳すれば、権威と権力で、日本は言わば権々二分の国であるということになります。
 シナは周末期、諸子百家による多事争論の社会だったが、秦の始皇帝による統一以来、権威と権力が一体となって、一元素の国になった。一方で、日本はよく知られているように、中古以来、武家による権威と権力の分離が行われて、二元素となった。これは日本にとっての僥倖で、元素が一であれば、思想の向かうところは必ず一方に偏し、胸中に余地を残さない。しかし、日本は元素が二で、元素が二つあれば、その自由な運動を許すことになって、その間に一片の道理をまじえざるを得なくなる。このように人心活発は自由の気風を生じ、逆に道理を必要とする。この精神が西洋文明の摂取という困難を、他文明よりは比較的容易にしてきたというのです。
 大雑把に要約しましたが、ダイナミズムに富んだ文明理解と言えるでしょう。
 しかし、それは踏み込んでみれば、日本の神道文化の寛容性が土壌になっている、と言えます。そもそも古神道そのものが、縄文文化と弥生文化の対立・融合、天津神と国津神の対立・融合という二元素で成り立っているのです。
 西尾氏の言う神仏信仰の二重性の継続的発展は、この二元素文明が生じさせたものともいえるだろうし、また別種の二重性をも生じさせてきました。しかし、仏教の教えが育んだ形而上世界の追及は鎌倉時代に最盛期を迎えて、以後停滞、そして沈滞に至ったような印象があります。筆者は仏教のことに詳しくないので断言はできませんが、戦国時代、殺生を禁じられているはずの仏教勢力は、いわゆる僧兵を養って、自ら殺生を行うほど頽廃していたのであって、この勢力を殺ぐべく起ち上がったのが織田信長でした。
 織田信長は狂気のみの英雄ではありません。理性の英雄でもあります。自由と道理は信長の事跡に横溢しているのです。この二つは言わば英雄の中に生ずる二元素なのです。
 彼は大名に比肩する実力を蓄え、城塞を構えて世俗政治に干渉しようとした仏教勢力を乱世の一要因と見、根源的に正そうとしました。その結果、場合によっては根切りが必要であるとの結論に達したのです。彼は、仏教の純粋な信仰そのものまで根絶しようとしたわけではありませんでした。
 彼以後の支配者は天下統治の見地から、仏教を「敬して遠ざく」政策を採って、幕末に至りました。信長を教条主義的に非難するばかりで、そういった自己の頽廃を直視できない仏教が再興して、今後とも日本文明の再興進展に大きく寄与することはないのではないでしょうか。仏教は確かに庶民の生活にまだ生きているかもしれませんが、それが大きなエネルギーとなって、日本の文明を動かすことはもはやないでしょう。
 先ほどの「敬して遠ざく」とは『論語』の言葉ですが、戦国時代の混乱から信長・秀吉・家康の三代を経て、日本は一応の統一を見、これを継承発展した江戸期を経て、幕末維新を迎える過程で、この思想は二元素を維持したままの統合に重要な作用を働くことになりました。
 日本人が今後必要とする超越的存在は、少なくとも仏ではないでしょう。
 もちろん聖書の「神」でもありません。
 むしろ、それはおそらく、われわれが文字との出合い以来、育み、戦国期のキリスト教との邂逅を経て磨き、発展継承してきた、われわれの言葉の蓄積の中に潜在的に眠って、未だ体系化のなされていないし、また、なされるべきでもない潜在的信仰でしょう。おそらくそれは価値規範の危機に直面して初めて自覚される信仰です。それは、西郷隆盛や中村敬宇流に「敬天愛人」と言ってもいいし、夏目漱石流に「則天去私」と言ってもいいし、福沢流に「天道」と言ってもいい、天を超越的存在とし、天に仮託されるなにかです。

 さて、紀貫之は「仮名序」で、和歌の作用の一つに、鬼神をあはれと思わせる、つまり鬼神を感動せしむる、と述べましたが、彼が読んでいた『論語』には、この鬼神について孔子が論じた数条があります。
 ある弟子が孔子に知を問うたのに対し、孔子は答えました。

子曰く、「民の義を務め、鬼神を敬して之を遠ざく、知と謂うべし。」

 「義務」「敬遠」の出典です。
 また、高弟である子路が鬼神に事(つか)えることについて問うた際の孔子の答えはこうです。

子曰く、「未だ人に事うる能わずんば、いずくんぞ能く鬼に事えん。」

 子路はならばとばかりに、敢えて死を問い、孔子はこれに答えます。

曰く、「未だ生を知らずんば、いずくんぞ死を知らんや。」
 
 ここで孔子は鬼神を窺知し難いものとして、言葉にするのを慎んでいます。かといって否定しているわけではなく、むしろ、「敬して」と言っていることから、上位の存在と見ていたことは明らかです。
 ここで西尾氏の『皇太子さまへのご忠言』に話を戻します。
その第二部第二章は「『かのようにの哲学』が示す知恵」となっていて、現代人が皇室と向き合って行く手がかりとして、森鷗外が近代知識人として天皇をどう理解したらいいかに悩むテーマの『かのやうに』という作品を挙げておられます。
 小説「かのやうに」は明治四十五年一月発表の作品で、一年前に判決が下った大逆事件の影響を受けて書かれたものだとされています。幸徳秋水の法廷での発言が外部へもれて、南北朝正閏論がジャーナリズムを賑わし始めた時代でした。
 ちなみに鷗外の『帝諡考』は歴代天皇の諡号の由来を調べた研究です。
 西尾氏はその鷗外の『かのやうに』の内容を要約し、引用しています。

「息子秀麿をドイツに留学させた五條子爵は、ドイツの大学で神話と歴史の相剋するテーマに取り組み始めた息子からの手紙を前に、自分の信仰心を心の中で次のように問い質してみる。

(筆者注…以下『かのやうに』からの引用。読みやすく改変した)

『自分の家には昔から菩提所に定まっている寺があった。それを維新の時、先代が殆ど縁を切ったようにして、家の葬祭を神官に任せてしまった。それからは佛と云うものとも、全く没交渉になって、今は祖先の神霊と云うものより外、認めていない。現に邸内にも祖先を祭った神社だけはあって、鄭重な祭をしている。ところが、その祖先の神霊が存在していると、自分は信じているだろうか。祭をする度に、祭るに在すが如くすと云う論語の句が頭に浮ぶ。しかしそれは祖先が存在していられるように思って、お祭をしなくてはならないと云う意味で、自分を顧みて見るに、実際存在していられると思うのではないらしい。いられるように思うのでもないかもしれない。いられるように思おうと努力するに過ぎない位ではあるまいか。そうして見ると、倅の謂う、信仰がなくて、宗教の必要だけを認めると云う人の部類に、自分は入っているものと見える。』

 …(中略)…
 五條秀麿はドイツから帰国し、父の子爵の前で神話が歴史でないことを言明するのは良心の命ずる所だと思うが、余りにも微妙な問題なので親子は対話を回避しつづける。すべての実在は存在しない。先祖の霊も存在しない。しかし、あたかもそれが存在するかのような振りをしてお祭をしている。そこに生きんとするものの必然性がある、と秀麿は当時の近刊のハンス・ファインガー『かのようにの哲学』を援用して、神話は歴史ではないが、あたかも歴史であるかのように信じて生きる実用主義(プラグマティズム)を差し当りの解決として提示してみせるのである。」(『皇太子さまへのご忠言』)

 ここで表された五條子爵の神霊に対する態度や心境は、維新期を経験した多くの人に共通するものであって、維新によって皇室でさえ、菩提寺である泉涌寺との関係を絶っています。というより、天皇親政を謳った明治維新によって、皇室は神の子孫、祭祀を行う者として、親(みずか)ら菩提寺との関係を絶ったと言った方がいいでしょう。
 維新まで日本では神仏習合といって神社と仏教寺院は一体となっていて、死者は仏として葬られてきました。仏壇に祭られているのはご先祖様や亡くなった家族の位牌であったりします。
 この習俗は正統な仏教から見ては異端です。
 というのは、仏教は本来悟りの宗教であって、死者の霊の存在を認めないからです。つまり、江戸時代の寺請制度によって仏教が葬式仏教となって以来、世俗一般の日本人にとって神社や寺院とは「鬼神」を祭る空間であったのです。

 当時の知識階級であり、支配階級であった武士は概ね、『論語』を聖典として、これを学び、時にこれを習い、個人の生き方や帰属する社会の生活に、また天下の政道にプラグマティックに活かしてきました。
 例えば、幕末維新の英雄の一人、勝海舟は仏教を念頭において徳川家の宗教政策を「鬼神を敬して遠ける」と『論語』の言葉で表現しています。
「従来徳川では、宗教は敬して遠ざける方針を執って、各派の僧侶には、高位高職に相当する位階を与へ、また寺には御朱印地を付けて、いっさい彼らの自治に任せたのだ。治めざるをもって、治めるのが、幕府の宗教に対する政略であった。」(『氷川清話』)
 これは仏教という「鬼神」問題に対する幕府のプラグマティックな態度を表現していますが、朱子学を官学として採用した幕府の当然の帰結であったでしょう。そして、その政策の起源は、『論語』を好み、天下の政道に『中庸』を応用した徳川家康に求めることができるのです。
 このプラグマティズムはおそらく神に繋がる血統を持つ皇室に対する態度にも応用されていたように思われます。少なくとも、後世、江戸時代の儒学や国学などの学問によってそのように反省されたことは事実です。 
 孔子によれば、民の義務を行い、鬼神を敬遠すれば、そこに知は生ずる。
その知が異文明との接触を経て、これに応じた。それが幕末維新期の騒乱となったのです。その結果、江戸社会が崩壊し、新たな文明、新たな価値規範を取り入れざるを得なくなった時、五條秀麿の父のように、それまで当然とされてきたこの生き方に、懐疑の眼差しを向けるようになったのも、ある意味自然な流れであったでしょう。
 一方、父の世代までの生き方、またそのバックボーンとなっていた古典を知らない、欧化時代の青年・秀麿は、西洋の哲学を学び、神話、すなわち鬼神の話を、存在しないが存在するかのように、また、神話を過去の事実の集積である歴史ではないが歴史であるかのように信じて、ともに歩んでいく、というプラグマティックな生き方を差し当たりの解決策として提示してみせたのです。
 しかし、それはあくまでも差し当たっての解決策であって、われわれ日本人にとっての本質的な解決策ではありえません。鷗外はこの短編について、後に娘婿になる人物に宛てた書簡の中で、「…小生の一長者に対する心理状態が根調となり居り、そこに多少の性命はこれあり候ものと信じて書きたる次第」と書いていて、この書簡中の一長者とは山県有朋か乃木希典ではないかと言われています。小堀桂一郎氏によれば後者ではないかといいます。
 ちなみに乃木大将が青年時代、自ら択んだ学問の師は、親戚の玉木文之進で、彼は吉田松陰の叔父にして学問の師でもありました。そもそも松下村塾とは彼が開いた寺子屋の名です。
 玉木は前原一誠のいわゆる「萩の乱」に関与していたらしく、乱の責任を取って、先祖の墓前、すなわち先祖の「鬼」の前で切腹しました。維新の精神の何ものかを体現する人物でした。
 当然、長州閥の中にあって、彼の教えは乃木大将の精神に沈殿していったはずで、西南戦争における有名な連隊旗喪失事件も、この沈殿物を攪拌し、純度を高める事件となったでしょう。

 短編「かのやうに」が発表された明治四十五年の七月三十日、明治天皇が崩御されました。
 改元されて大正元年九月十三日、青山斎場で御大葬が挙行され、鷗外もこれに参列しましたが、その帰路、乃木大将夫妻が殉死したとの噂を耳にします。半信半疑だった鷗外ですが、やがて彼はそれが事実であったことを知ります。
 乃木大将の葬儀は十八日、同じ青山斎場で行われ、鷗外もこれに参列しましたが、大将の殉死に対する思いを投影させた『興津弥五右衛門の遺書』をこの日一気に書き上げて、「中央公論」に寄稿しました。
 殉死は君主に対する態度の問題であり、明治人の君主とはすなわち天皇ということになります。以後、鷗外は、江戸時代の殉死の問題、すなわち明治の基礎を成した武士道の問題に創作動機を見出していくことになります。
 親交のあった乃木大将の殉死は、鷗外に突きつけられた動かぬ事実であって、五條秀麿に託された鷗外のプラグマティズムは反省されざるを得なかったと思われます。
 西尾氏が言うように、確かにここにはわれわれ現代人が皇室という存在と向き合っていく上でのヒントが隠されているといえるでしょう。
 西尾氏が引用する森鷗外の『かのやうに』は明治期の自我喪失という思想的混乱を表す話であって、実は明治を創った人々においてこの問題は既に解決済みの問題でありました。乃木大将が殉死に躊躇した様子はないし、天皇親政の理想に命をかけてきた山県有朋も死処は違うにしてもこれは同じだったのではないでしょうか。
 教養主義で人は死ぬことはできないのです。
 近代的知識人である鷗外に突きつけられた問題はこれであったと思われます。

 死の問題に直面し、これに対し自覚的に取り組む契機とならないような教養など何の意味があるのでしょう。維新の元勲に教養主義はありませんでしたが、わが国の伝統の中に育まれてきた教養は身につけていました。鷗外は、明治天皇の崩御と乃木大将の殉死に直面して、「かのやうに」振舞う西欧的近代合理主義の軽薄さを乗り越えるきっかけを得たのではないでしょうか。

 五條秀麿の祖父の世代の明治人として渋沢栄一を例に挙げてみましょう。
 幕末、家を飛び出し、志士として活動した渋沢は晩年の『論語講義』の中で、一般の風潮を意識してでしょうが、西尾氏も引用している「子、怪力乱神を語らず」の一節の講義において、いくつかの例を挙げて、実用主義的に鬼神に対する孔子の態度を解説しています。

「余の交際せし維新前後の志士や、維新の元勲には、神仏に祈願するという迷信は決してなかった。ただし維新の際は世の中が物騒で、ややもすれば天誅と称して、反対派を暗殺するに至った。されど力自慢や技倆自慢をした者は、たいてい学問の素養に乏しき撃剣家ぐらいに過ぎなかったのだ。いやしくも漢学を修め、武士道を弁えたる者は、慎重の態度を持し、容易に刀の鞘を払うようなことをしなかった。」

 ここでは皇政復古運動を推し進めた維新の指導者達が漢学を修め、それに則って行動したことが述べられています。彼らの多くが神仏に祈願するという迷信を持っておらず、『かのやうに』の父のように、鬼神を祭るが、その実在を必ずしも信じているわけではなく、在すが如く祭らねばならない、と考えて「まつりごと」を行ってきた、というのです。
 そして、渋沢は孔子の考えを次のように敷衍しています。

「孔子は神を語らずといっても、神に対する敬虔の念は十分にあったのである。論語八佾篇には『祭るには在すがごとくにし、神を祭るには神在すがごとくにす』とあり、また『大廟に入っては事毎に問う』とあり、これらによってこれを証明し得べし。しかれどもこれは孔夫子が心を正しうしてご自分の務めを疎かにせざらんことを心懸けられた、正心誠意の発露に外ならず、神に祈ってどうしようのこうしようのという精神からではないのである。余のごときも、自ら顧みて正しいと思う所を行い、自己の義務責任を果すのが、これ孔夫子のいわゆる天に対する道であって、かくさえしておれば、祈らずとても神や守らんと固く信じておる。」(『論語講義(三)』講談社学術文庫版;70~79ページ)

 要は、人事を尽して天命を俟つ、という信念が述べられているわけですが、窺知できることに対して、民の義を務め、鬼神を敬してこれを遠ざく、知というべし、との孔子の言葉にも適っていて、当時の志士の儒学のプラグマティックな活用が窺えます。
 これが天皇を中心とする政事への態度と繋がっていたのです。
 
 岩倉具視の王政復古の奏聞書は、その柱となる部分で、重要な論拠となっていたのが、『論語』の有名な「必ずや名を正さんや」(正名論ともいう)と、これまた有名な「礼楽征伐天子より出ず」云々の天子のあり方に関する条でありました。
 これは国学者・玉松操が起草した文書であるとされていますが、それは薩摩藩首脳部の王政復古討幕運動の支柱となっている思想でもありました。西郷隆盛は一貫して『論語』や『孟子』を規範として、王政復古討幕運動を推し進めたのです。
 ここでは別の例を挙げてみましょう。

 「鬼神」を「敬遠」するという武士のプラグマティズムの視点から見た維新ということであれば、次の例を挙げることができるでしょう。
 王政復古が行われて、慶応四年三月十四日、『五箇条の御誓文』が発布され、同時に、御誓文の趣旨を敷衍するものとして、明治天皇の御宸翰が下されました。書き出しはこうなっています。

「朕、幼弱を以て俄かに大統を紹(つ)ぎ、爾来、何を以て万国に対立し、列祖に事(つか)へ奉らんやと朝夕恐懼に堪えざるなり。」

 列祖とは皇室の代々の先祖、すなわち「鬼」にして、さらに溯れば「神」となります。つまり皇統を継いだ明治天皇に課せられたものは、万国に対立し、皇室の「鬼神」、延いてはわが国の「鬼神」に事えることだ、との認識であったということになります。
 次いで、幕末までの長きに亘る武家による政治を振り返って次のように表現されています。

「竊(ひそか)に考うるに、中葉朝政衰へてより、武家権を専らにし、表は朝廷を推尊して、実は敬して是を遠ざけ、億兆の父母として、絶えて赤子の情を知ること能はざるやふ計りなし。遂に億兆の君たるも唯名のみに成り果て、そが為に今日朝廷の尊重は古へに倍せしが如くにて、朝威は倍(ますます)衰へ、上下相離るること、霄壤の如し。かかる形勢にて、何を以て天下に君臨せんや。…」

 皇室は、さながら「鬼神」の如く、武家に敬して遠ざけられ、民の父母としての天職を妨げられてきた、というのです。
 「禁中並公家諸法度」は徳川家康の「中庸」思想の朝廷への応用であり、皇室を敬して遠ざけるプラグマティックな武家政治の伝統を明文化したという一面を持っていました。
 しかし、天皇は「鬼神」を祭り、事える存在であって、「鬼神」そのものではありません。このことは諸法度の第一条に暗示されているところでもあります。
 当時の困難な国際情勢の中にあって、自主独立の国として万国に対峙し、億兆の父母として君臨するには、これまでの「敬して遠ざく」武家政治のプラグマティズムは克服されなければならなかったのです。
 この理解がこじつけではないのは、御宸翰の結びが次のようであることからも明らかです。

「汝億兆、能々(よくよく)朕が志を体認し、相率いて私見を去り、公義を採り、朕が業を助て、神州を保全し、列聖の神霊を慰し奉らしめば、生前の幸甚ならん。」

 「神州」、すなわち神の国でのことであるから、漢語である「鬼神」は避けられて「神霊」が用いられていますが、そこに流れている精神は孔子の「先王の道」と同じで、君主親らによる政(まつりごと)としての政治の復古復活こそ、日本の精神的秩序の復活であり、國體の再興である、との確信であったのです。
 この御宸翰の起草者は木戸孝允であるとされています。
 御誓文の起草に携わった土佐藩士・福岡孝弟の談話に、御宸翰の起草につき、木戸が「国家を泰山の安に置く」とかいうシナ流の文句を「富嶽(富士)の安に置く」と改めさせた、との趣旨の発言があるからです。実際の文句は「天下を富嶽の安きに置かんことを欲す」となっていますが、要は同じことです。「鬼神」というシナ流の表現が避けられて、「神霊」とされたのも同じ趣旨からでしょう。
 水戸学の影響が見られ、國體を意識したものとなっています。

 福沢諭吉が指摘したように日本文明は二元素文明です。
 西尾氏は神道と仏教の二元素がわが国を豊かにしたとしていますが、戦国時代を経て、仏教の役割は後退して、むしろ神道と儒教の二元素を主流とする文明への道を歩み始めました。しかし、この二元素とは、党を成して、対立するばかりではなく、協調、調和するものでもあります。その梃子となるのが皇室の存在であり、「和」の伝統なのです。
 対立は遠心力を生じて、文明を進転させる。「転石苔を生さず」の伝統です。
 一方、調和は向心力を生じて、文明の統一性を保ち、円心を安定させる。「細石の巌となりて苔を生すまで」の伝統です。
 これらの運動の思想的な背骨(バックボーン)となったのが、皇室の御存在であり、また、いわゆる孔孟の教えによって培われてきた伝統でした。その日本の文明体の背筋を正してきた価値規範、教養は、明治の開化によって見失われて今日までの大勢を作ってきました。
 戦前まではまだその影響が残っていましたが、戦後はどうでしょうか。

 自己の権益を実力で守る事に目覚めた、開拓農民たる武士によって、プラグマティックな政治の場から、七百年の長きに亘って、敬して遠ざけられてきた皇室は、江戸時代の学問的陶冶を経た武士のプラグマティズムによって再び政治の中心に据えられました。このわが国において最も尊き御存在のもとに、わが文明が持つありとあらゆる智慧と力を結集して、国難に対処しようとしたのです。若き天皇もまた、この公議輿論を受け容れて、親らこれを率先していくことをわが国の神霊に誓われたのでした。
 これが「五箇条の御誓文」に集約された明治維新の意義です。
一旦は見失われようとしたこの精神をもう一度取り戻す試みが、大日本帝国憲法制定と教育勅語の発布であったといいうるでしょう。
 日本は外圧によって、たった四杯の黒船の威圧によって、むりやり開かされたのだ、と自虐的なまでに卑下する必要はありません。西欧文明との出会いの衝撃に、われわれの内的規範が、わが国の本源の深い所から、言わばそこひなき淵から応じた結果、再興の凄まじいエネルギーとなりました。これはわれわれの内なるものを外から覗き込んで分析するような眼では到底見ることができません。内に顔を突っ込んで、さらに内奥を探るような眼が必要となります。

 現人神とも称される天皇は、聖と俗の端境に立って、神霊(鬼神)を祭る存在であって、神霊(鬼神)そのものではありません。政治的プラグマティズムの立場から、特に遠ざけられなければならない、ということはないのです。
 しかも、そこに儒教的な聖人天子として君臨しなければならないという要請が重ねあわされました。読者に注意を喚起しておいた日本古来の神々の世界、言わば「やまとごころ」に、儒教を中心とする漢学の世界観、言わば「からごころ」が、重層的に重ねあわされたのです。
 つまり、昭和天皇に倫理学を御進講し、三種の神器(鏡・玉・剣)はただ皇位の御証としてだけでなく、それぞれ知・仁・勇の三徳を表すものであり、これに則って皇道を体すべきことを説いた杉原重剛は、何も自己の思想を昭和天皇に無理やり押し付けたのではなく、明治維新というものの本質を、若き天皇にそのまま継承していただこうとしたまでで、どこまでも無私の精神で貫かれていたことになるのです。
 本居宣長は日本古来の「やまとごころ」を闡明するために「からごころ」を排撃しましたが、われわれ日本人が漢字と仮名を使って思考し、話す限り、この二つの心の重層性は日本人の宿命として逃れることはできません。ですが既に「からごころ」は「やまとごころ」と横に密接に絡み合い、縦に重層的に積み重なっていて、不即不離の関係となっています。その起源も定かではないのは、日本人の文字使用がいつ始まったのか学問的に特定できないことでも明らかです。
 われわれ日本人は大和言葉のみで自己を表現することはできないし、相互理解を深めることはできません。だからと言って「漢語」のみでそれを行うことはそれ以上に困難です。
 そうである以上、この二つの心が葛藤し、乖離せぬにはどうすればよいか考える必要があるのではないでしょうか。
 そのヒントはこれまで書いて来た事の中にあります。
 わが国の『論語』受容の伝統がそれなのです。
 近代知識人にとっての差当っての解決策として提示された『かのやうに』の哲学はわが国の学問の伝統、國體の観点からいえば、明らかに後退であったのです。
 明治維新は、今から千五百年ほど昔に、王仁という人物を通じて、皇室が『論語』という哲人・賢者の言葉と文字に出合い、これを学び続けた日本人にとって、そのひとつの成果といえるものでした。
 ここでは敢えて、保守の知識人が嘘の固まりと吐き捨てる『論語』をより深く読み込むことで、思想的閉塞感を突破し、活路を見出してみましょう。
 既に紹介した『論語』中の問答をもう一度取り上げることにします。

 高弟・子路が鬼神に事(つか)えることを問うた事があった。
 孔子は答える。

 「未だ人に事うる能わずんば、いずくんぞ能く鬼に事えん」と。

 子路は、ならば、とばかりに、敢えて死を問うた。
 師がこれに答える。

 曰く「未だ生を知らずんば、いずくんぞ死を知らんや」と。


 ここで孔子は、子路の鬼神に事えるとはどういうことかの問いに、鬼についてしか答えていません。繰り返しになりますが、鬼神とは神霊のことです。吉川幸次郎の解説によれば、「鬼」とは、先祖の魂その他、人間のなった神、「神」とは、天の神その他、人間以外の神であるといいます。つまり、「鬼」は、かつてこの世に存在したという点で、現世に生きる我々とは、死という断崖絶壁によって隔てられているとはいうものの、繋がった存在です。想像するよすがをわずかながらも持っている。
 一方、「神」はかつて人間であったこともなく、人間とは全く異なる存在ですから、敬遠を言うなら「鬼」より「神」の方がより遠く、窺知し難い存在です。
 孔子は怪力乱神を語りませんでしたが、この問答においても、「鬼」については知らないという形で語っても、「神」については語ってもいません。これは偶然でもなんでもなく、孔子は明らかに「神」について語ることを避けたのです。子路の問いかけに、孔子は、神事については答えを避け、人事さえ能く尽くすことができないのに、どうして鬼事に能く尽くすことができようか、と答えました。そこで子路は、人と鬼を隔てている死というものを単刀直入に問うたのです。これに対し、孔子は、未だ生というものについて分からないのに、どうして死というものを知ることができようか、と遠ざけざるを得ない理由を答えました。
 しかし、孔子は人事を尽くしてよく生きようとしていたわけですから、近づきたくとも近づき得ないものと「鬼神」を認識していたことになります。
 ちなみに今上陛下の信頼篤い漢学者で皇太子殿下の名付け親でもあった宇野哲人は、朱子の『論語集注』の説に依拠している著書『論語新釈』(昭和四年に昭和天皇の即位を祝うための企画の一冊として書かれた)の中で、前条「民の義を務め、鬼神を敬して遠ざかる」云々を次のように解釈しています。
 「鬼神を敬してこれを祭って、鬼神に狎れ近づいて福を求めるようなことをしなければ、知と謂うことができる。」
 さらに解説して、「人道のようなまさに知るべき所を知って、鬼神のような知るべからざる者に惑わないのであるから、知である。」と言っています。
宇野はすでに、大正三年に出版された『東洋哲学大綱』の中で、孔子の宗教観に触れた箇所で、天の信仰および霊魂不滅の思想を有していたとした上で、上の子路との対話については、孔門においては、現世を務むべきことを説いて、生死の問題は深く立ち入ることを避けた、と解釈しています。
 宇野は明治四十一年から四十三年まで、当時学問の本場とされていたドイツへの留学経験があり、この『東洋哲学大綱』も新カント派の哲学者ヴィルヘルム・ヴィンデルバントの哲学史を手本にしたとの事であり、こちこちの儒者というわけではありませんでした。
 また、今上陛下の『論語』の御進講を担当した息子の精一の方は、その著『論語と日本の政治』の中で、次のように孔子の思想を要約しています。

「…孔子はこの禮を總合體系化すると同時に、人閒としてのあり方の根本として『仁』を主唱し、古来の神、祖先神、天神中心の思想から、それら神を尊仰しつゝも(『鬼神ヲ敬シテ之ヲ遠ザク』〔雍也篇〕とある)、人閒の行動は、自己の判断により従つて責任を重んずるといふ意味での人閒中心の思想に切り替へたのである。その意味で私は、孔子の思想は人閒主義であるといふのが持論なのである。…」

 この孔子の思想に対する理解は、現人神として、「古来の神、祖先神、天神」への祭祀・祭礼を継承しつつ、その子孫の御名に「仁」の一字を授け、これを「ひと」と読み慣わしてきた千年以上に亘る皇室の伝統に適っていますが、むしろ、この伝統を培養してきたものこそ、皇室の『論語』受容の伝統であったといえるのではないでしょうか。
皇室の歴史の中に『論語』を典拠とする鬼神理解の痕跡を見るならば、仁明天皇の御代に下された勅命までさかのぼることができます。
その御名に「仁」の一字を持つ最初の天皇、清和天皇の祖父にあたる仁明天皇は、史料に残る限りにおいて国風諡号を持つ最後の天皇ですが(「日本根子天璽豊聡慧尊」)、在位中の詔に『論語』からの引用、あるいは論拠を持つ言葉が多く見られます(『論語年譜』林泰輔編)。その中で、承和七年五月、旱魃が起きた際に下した詔の中に、国司としての職務の在り方として、『論語』に論拠を持つと見られる「敬神如在、視民如子」という言葉が出てきます。この詔の中で、仁明天皇は、五畿内七道諸国の国司に対して、神を敬うこと在すが如くし、民を視ること子の如く、職務に励むよう要請し、部内を巡行して神社を修造するよう、厳しく命じているのです。(『続日本後紀』)この翌々日には、日照りによる稲苗の枯死を心配した天皇が特定の神社へ雨乞いを命じていますから、「敬神如在」とは明らかに神の存在を前提として、熱心に祭りを執り行え、との意味であったことがわかります。
『続日本後紀』は官撰六国史の一つで、仁明天皇の御代の記録ですが、その大半が、朝廷が祭祀に勤しむ内容なのです。

 鬼神をめぐる孔子と子路の対話は様々な意味を含んでいますが、鬼神を敬して遠ざかるとは、鬼神を敬して祭り、結界、端境を設けて、俗社会の欲をそこに持ち込んではならない、ということです。「敬遠」を「敬して遠ざかる」と訓ずれば、謙譲の精神を表すことになるし、「敬して遠ざける」と訓ずれば、私欲にまみれた日常に軸足を置きつつ、そこから神霊の領域を区別しようとの表現になります。
 これは日本人の神社における正しい態度に通じます。
 神社とは本来、清浄明直の心を以て神に感謝の心を捧げに訪れる場所です。
 鳥居に注連縄を張って聖と俗の端境としてあるのであり、そこに俗世界の欲を持ち込んではなりません。だからこそ、俗界に住む身として神社に参拝する場合には、心身を清めるための作法として、まず手水を行うのです。 
 孔子は「これを知るをこれを知ると為し、知らざるを知らざると為す、これ知なり」とも言っていますから、この結界は、知の限界線でもある。そこから先は不可知の領域ということになります。伊勢神宮を参拝した西行法師が「何事のおはしますかはしらねども」と詠んだようにです。この端境を越えれば動かない真実を求めたところで、それはあくまでも実証不能の一解釈に過ぎず、西尾幹二風に極論すれば、無駄、ということになります。これは近代科学に対する戒めとして、現在も有効性を失ってはいないでしょう。

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