日本人の道-日本人の本来的自己喪失(壱) 【『皇室と論語』(二十)】

 大東亜解放の大義に殉じた英霊は靖国神社に祀られていますが、ここは本来、幕末維新以来の国難に殉じた英霊たちが祀られている場所です。
 故に反日勢力が目の敵にしている場所で、参拝を遠慮したことを痛恨の極みといった安倍首相もさも当然であるかのように参拝しなくなってしまいましたが、今上陛下は即位されてから平成の三十一年間、皇居のすぐ近くにあるこの神社を天皇として行幸啓なさらぬままに平成の御代を終えられようとしています。
今回は神霊に対する信仰を失った現代社会において、われわれはどのようにこの神霊という存在と向き合ったらよいか、それを考えてみたいと思います。

 以前、保守系雑誌『正論』の元編集者が、明治維新を扱うと読者の人気がない、という趣旨のことを言っていました。これはいわゆる「保守」というものを考える上で、何か示唆的です。明治維新は外圧で開かされたものだというイメージで語られることが多いですが、それは一面の真実であっても、ある重要な面、すなわちわが文明の内発性を見落としています。明治維新は、阿片戦争の衝撃に始まる西洋文明の刺激に、日本の伝統が内発的に応じた結果達成された文明再生の偉業であった、という視点です。
 すでに見たように、幕末明治を動かした志士達の天命の教科書は儒教、要するに『論語』『孟子』であり、彼らは、天命を受けて、この国を統治してこられた京の天子様を再び国政の中心に据え、その上で国内が一致団結して、国難を乗り越えようとしたのです。
 長州で言えば、吉田松陰は『孟子』の言葉を実践して刑死しましたし、高杉晋作は『論語』の一節に着想を得て、匹夫の志によって成り立つ軍隊「奇兵隊」を創設しました。なぜなら「三軍も帥を奪うべきなり、匹夫も志を奪うべからざるなり」と孔夫子が仰っているからです。(もっとも「奇兵」という言葉自体は『孫子』に由来しますが。)また、薩摩で言えば、島津斉彬の政治思想の中心には『論語』『孟子』があったし、島津久光も、西郷隆盛も、それを継承しました。だから対立・確執はあっても大きなところで協調することが出来たのです。
 彼らの教養の基礎を成した学問はもっぱら儒者の手になるものでした。江戸期の学問は、やはり儒学を中心に展開された、日本版諸子百家による百家争鳴です。これを日本版ルネッサンスとしてとらえるにしても、儒学を中心に展開したことに変わりはありません。その最も深いところまで突き詰めた思想家といえる本居宣長でさえ、本人が否定したとは言え、徂徠学の影響は強く、終生、孔子をよき人として敬愛してやまなかったことを思えば、例外ではないのです。
 彼らの多くは、日本こそ中華(世界の中心)であると考え、その根源を問い、「本来的自己」を手放す事はなかった。
 そもそも戦国時代を終息させ、秩序の根幹を創り上げた徳川家康自身が学問好きで、林羅山を近づけて『論語』を講じさせていました。彼の天下統治の教師であり、反面教師でもあった織田信長は、鳳凰と並んで聖天子の出現の兆しを著す瑞獣「麒麟(きりん)」の「麟」字の草体を花押とし(佐藤進一説)、周王朝発祥の地である「岐山」にちなんで、その居地を岐阜と名づけ、堯舜を含む三皇五帝や老子・孔子などシナの聖人賢者を超える存在となって、天下一統を謀ったのです。時の正親町天皇も信長に非常に協力的でした。
 つまり、日本の近代への歩みは、戦国時代という旧秩序の徹底崩壊した時代に、民の側から始まった、シナ思想の影響を多分に受けた秩序再生の運動とともに始まったのであり、これが三百年の歳月をかけて熟成し、明治維新という形で集大成されたのです。最近盛んに宣伝されている偽りの明治維新という見方が、いかに皮相で、陳腐な見識に過ぎないか分かろうというものです。 

 筆者は、『論語』を聖典として絶対化しようなどと主張したいのではありません。
 筆者が言いたいのは、『論語』を深く知ることが、日本人としての己れを深く知ることに繋がる、ということです。また、そのことが日本とはあまりにも異なるシナ文明を深く知ることにも繋がる。
 漢学、なかんづく『論語』理解の問題、それはあたかも、われわれ近代日本人にとって重要な課題であり続けている西洋文明を理解する上で、ユダヤ・キリスト教やギリシャ哲学やローマの歴史の理解が欠かせないようなものです。これらは西洋人にとって、他文明に由来するという点で、われわれにとっての漢学と同じです。「聖書」は古代パレスティナの地で生まれたものだし、古代ギリシャ文明も古代ローマ文明も滅びました。
 その点、維新の元勲中では、才子として軽く見られた伊藤博文が、憲法制定過程において、わが国における、西洋の宗教キリスト教に比すべきものとして、神道を引っ張り出し、これは宗教勢力として微弱であるから皇室しかない、としたことがそもそもの誤りでした。大久保利通の後継者として頭角を現した政事家である彼は、そもそも國體と政體の区別が曖昧で、憲法の制定は政体の変更のみならず、國體の変更であると考えていました。すでに検証したように、明治国家の由来を考えれば、キリスト教に比すべきものは日本的儒教とするのが至って自然です。何よりも、明治天皇の教育勅語の存在そのものがそれを物語っています。
 その点、大正時代になって、経済界における拝金主義の横行に危機感を感じて、わが国における西洋の宗教キリスト教に当たるものとして、『論語』を推し出そうとした維新の志士上がりの実業家渋沢栄一の見識は注目に値します。
 彼は明確にそのような意識を以て、日本の産業界育成に努め、国家運営に役立てようと、漢学の保存再生に尽力したのです。彼の口述を本にまとめた『論語と算盤』と大部の『論語講義』は有名で、最近新たに発表された新一万円札紙幣の肖像に彼が採用されたことは非常に示唆的です。すなわち、新元号「令和」にも通じそうですが、経済と道徳を結びつける渋沢終生の思想は、金儲けのためなら、対立を煽り、戦争やテロも、また人を経済的奴隷におとしめることも辞さないグローバリズムに対する安倍政権のアンチテーゼの表明ではないか、ということです。

 かつて、昭和の御代に入って、国際共産主義運動の脅威を自覚した日本に國體明徴運動が起こります。その一つの成果が、文部省が当時の学者の力を結集して作成した『國體の本義』です。
 この中でわが國體に対する漢学の影響もちゃんと触れられています。

「我が国に輸入せられた支那思想は、主として儒教と老荘思想とであつた。儒教は実践的な道として優れた内容をもち、頻る価値ある教である。而して孝を以て教の根本としてゐるが、それは支那に於て家族を中心として道が立てられてゐるからである。この孝は実行的な特色をもつてゐるが、我が国の如く忠孝一本の国家的道徳として完成せられてゐない。家族的道徳を以て国家的道徳の基礎とし、忠臣は孝子の門より出づるともいつてゐるが、支那には易姓革命・禅譲放伐が行はれてゐるから、その忠孝は歴史的・具体的な永遠の国家の道徳とはなり得ない。…要するに儒教も老荘思想も、歴史的に発展する具体的国家の基礎をもたざる点に於て、個人主義的傾向に陥るものといへる。併しながら、それらが我が国に摂取せられるに及んでは、個人主義的・革命的要素は脱落し、殊に儒教は我が国体に醇化せられて日本儒教の建設となり、我が国民道徳の発達に寄与することが大であつた。」

 これは正確な認識でしょう。
 ですが、当時シナと戦争中ということもあったからかもしれませんが、やはり日本のオリジナリティ、すなわち神道的価値観が前面に押し出され、漢学の影響は付属的扱いです。
 敗戦後、皇国史観が非難攻撃の矢面に立たされた時、護教論を持たない神道は大きな傷を被ることになりました。そこには[GOD]を「神」と訳したことによる大きな誤解があり、占領軍はこの「神」としての天皇および「神」道を破壊しようとしたのです。「神道指令」は敗戦四ヶ月後の十二月十五日には早くも発せられています。いわゆる「人間宣言」としての昭和二十一年元旦の詔書を誕生させたのも同じ精神からでした。
 これに対し、昭和天皇は、占領軍の意向を受け入れて、[GOD]=「神」としての「天皇」および「神道」は否定したものの、日本本来の神々、およびそれとつながるものとしての皇室を守ろうとしました。それが「五箇条の御誓文」を第一義とする昭和二十一年元旦の詔書の御言葉とあいなったのです。
 「人間宣言」とは、表面的には言わば「非[GOD]化宣言」ではあっても、その暗示するところの深い大御心を忖度するならば、天皇と国民の間は道徳的信頼関係を基礎とし、一方で天皇と皇祖神とのつながりが再確認されています。

 明治大帝を模範とされた昭和天皇は、この祖父が天地神明に誓われた「五箇条の御誓文」の精神を重んじられ、敗戦後、初めての詔書(いわゆる「人間宣言」)で、新生日本建設の指針として「五箇条の御誓文」を掲げられましたが、その御誓文原案の起草者であった由利公正は、それが四書の思想に由来することを自伝で告白しています。
 若き日の昭和天皇、すなわち裕仁親王の倫理学を担当した杉原重剛は、御進講の大体の方針を次のように述べています。

 一つは、三種の神器に則り皇道を体し給う事、
 一つは、五箇条の御誓文を以て将来の標準と為し給うべき事、
 一つは、教育勅語の御趣旨の貫徹を期し給うべき事。

 後者二か条は要するに明治大帝を模範とされよ、ということですが、一つ目の三種の神器(鏡・玉・剣)はただ皇位の御証としてだけでなく、それぞれ知・仁・勇の三徳を表すもので、北畠親房・中江藤樹・山鹿素行・頼山陽など、みな説いてきたところであり、シナの古典『中庸』はこの三者を天下の達徳とし、『孟子』の五倫五常もこの三徳なしでは為しえない。これは西洋で言えば知・情・意に当るもので、東西説くところは同じである。杉原はこのように説きました。
 これは明治維新の精神の継承といってよく、より歴史を掘り下げてみれば、戦国時代を収束せしめた信長・秀吉・家康の秩序思想の発展的継承と言えます。
 ここで神話という古代日本人の精神の記念碑に、多くの人々が生きる規範として普及してきた儒教徳目が重ね合わされる、という重層性に注意を喚起しておきたいと思います。

 昭和天皇の御心に杉原の帝王教育が生きていたことは、日米開戦前の御前会議で明治天皇の御製「よもの海 みなはらからと 思ふ世に など波風の たちさわぐらむ」を詠み上げて再考を促したことでも拝察できますし、敗戦後、日本の復興に向けての指針として「五箇条の御誓文」を示された昭和二十一年元旦の詔書(いわゆる「人間宣言」)にも表れています。
 また、ポツダム宣言の受諾を決意された、いわゆる御聖断のこころを詠んだ御製にも明らかです。

 「身はいかに なるともいくさ とどめけり ただたふれゆく 民をおもひて」

 これは『論語』の言葉で言えば「身を殺して以て仁を為」したということになるでしょう。
 昭和天皇の知・仁・勇はここに凝縮したといっても過言ではありません。これが口先だけのきれいごとでなかったのはマッカーサーとの初会見で証明されています。 
 昭和天皇が同じく被占領期に国民に対する願いを詠んだ次の御製にしてもそうです。

「降り積もる 深雪に耐えて 色変えぬ、松ぞ雄々しき 人もかくあれ」

 この御製の本歌(?)は『論語』の一節「子曰く、歳寒くして、然る後、松柏の彫(しぼ)むに後(おく)るを知る」であると拝察されます。
 実は『論語』のこの条の次はこのようになっている。

「子曰く、知者は惑わず、仁者は憂えず、勇者は懼れず。」

 御聖断の時の昭和天皇は、まさに三種の神器に象徴される知・仁・勇を行いました。
 日本の國體はこの時まさに昭和天皇の両肩に圧し掛かっていたといえます。
 昭和天皇の偉大さ、延いては皇室伝統の偉大さがこの時発揮されたのです。

 皇太子時代の今上陛下も五十歳の御誕生日(昭和五十八年)に記者から座右の銘を尋ねられて、『論語』の一節を御答えになられています。

「好きな言葉に忠恕があります。『論語』の一節に『夫子の道は忠恕のみ』とあり、…自己の良心に忠実で、人の心を自分のことのように思いやる精神です。」

 今上陛下は、漢学者の宇野哲人を東宮御所に招いて、現皇太子殿下・浩宮徳仁親王に、七歳からの学習院初等科時代の六年間、『論語』の素読を学ばせています。「浩宮」「徳仁」を四書の一つ『中庸』から択んだのは、この宇野哲人であることからも今上陛下の御信頼のほどが拝察されます。
 宇野哲人は明治中期の欧化思想の盛んであった時代に、時流に逆らって、わが国の漢学の伝統を滅亡の危機から救おうとの悲愴な決意をした学者で、渋沢栄一晩年の『論語』の先生でもあります。ちなみに、もうじき天皇に即位される現皇太子殿下の中等科の二年間は、同じ漢学者で、今上陛下への『論語』の御進講を担当してきた息子の宇野精一が御進講を行っています。
 西尾幹二氏がかつて「孔子が『怪力乱神を語らず』と言って、人間以上の力を持つものの存在を認めなかった儒学の伝統に従い、江戸の儒学もまた合理主義に傾く傾向が強かった」と書いておられますが、それは朱子学的伝統ではそうはいえても、少なくともわが国体に醇化された日本儒学の伝統、なかんづく皇室の儒学受容の伝統では決してそうではありませんでした。
 福田恒存は次のようなことを書いています。

「宇野精一氏に聴いた話だが、孔子が重んじた『禮』とは人間の窺知し難い自然や神霊のタブー(禁忌)に近づきその怒りや祟りを鎮めるための手段、儀式であったといふ。それならタブーの無くなった文明社会では『禮』は存在理由を失ったのだろうか。そうは言えまい。」(「東風西風」)
 
 これが今上陛下に『論語』の御進講を行ってきた宇野精一の「禮」に対する認識です。当然『論語』を進講するに当って、「禮」の意義をそのように説明したに違いありません。そもそも、皇室の本質とは祭祀・祭礼にあるのです。
 古来、皇室には怨霊信仰があり、その祟りを鎮めるために祭祀を重んじてきた事実があります。これは神霊の存在を前提としたものであり、古来シナでは「鬼神」と表現されてきたものでした。皇室は怨霊を鄭重に祀る事で、その祟りを鎮め、逆に守り神にしようとした。これを御霊信仰といいます。菅原道真が怨霊として恐れられ、手厚く祀られたのはよく知られていますが、その最も有名な事例が、崇徳上皇でしょう。崇徳上皇は皇室を恨んで配流地である讃岐において憤死し、史上最大の怨霊として恐れられました。上皇が舌を切って滴る血で五部大乗教の写本に書き付けた「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」との『保元物語』の呪詛はよく知られています。この呪詛が事実であったかどうかわかりませんが、上皇の崩御後、世が乱れ、源平の争覇が進行する中で、上皇の怨霊が朝廷で強く意識されるようになったのは事実です。上皇の呪詛は奇しくも、鎌倉幕府の成立、そして、いわゆる「承久の変」における北条氏という地方武士による上皇・天皇の配流によって実現しました。以来、崇徳上皇の怨霊は最大の怨霊として、まさに大魔縁として恐れられるようになったのです。そして、世が乱れるたびに人々に想起されたのは『太平記』にも表れています。
 幕末の騒乱期にも、孝明天皇はやはり崇徳上皇の霊を想起されました。事実、朝廷において、崇徳上皇の霊を京に御還幸いただくことが討議されました。元治元年のことです。元治元年と言えば、天狗党の義挙、池田屋事件、禁門の変(蛤御門の変)、四国連合艦隊下関砲撃事件、長州征伐といった重大事件が相次いだ年です。朝廷では崇徳上皇の祟りのせいだと考えられたのです。
明治天皇は先帝の御遺志を継いで、崇徳上皇の命日に当たる慶応四年八月二十六日、讃岐白峰にある崇徳上皇の御陵に勅使・源通冨を派遣しました。勅使の目的は、崇徳上皇の霊を慰めるとともに、京都への御還幸を請うことにありました。ですから、明治天皇の即位の礼は、その願文が讃岐白峰で読み上げられた翌日、八月二十七日に行われています。そして、九月六日、崇徳上皇の霊は、御還幸のため新たに建立された京都の神社に御還幸になり、天皇親ら迎拝し、その二日後の八日、明治への改元は行われました。つまり、明治改元へのスケジュールは、平成から令和の御代替わりが国民主権を採用した日本国憲法に則って進められたのとは違い、日本史上最大の「神霊のタブー(禁忌)に近づきその怒りや祟りを鎮めるための手段、儀式」である祭「禮」の進行に沿って定められ、厳かに進められたのです。
 怨霊の祭祀を通じての維新事業に対する守護神化、すなわち怨霊の鎮魂による御霊信仰がこれら一連の事件の根底にはあります。
 明治天皇は、その意味での祭礼を決して怠りませんでした。
 もちろん、祭祀は崇徳上皇に対してのみ鄭重に行われたわけではなく、この内乱期の多忙混乱の中で、祭礼は決して疎かにはされなかったのです。
 例えば明治への改元に先立つ慶応四年三月十四日、群臣を前に、天皇御親ら天地神明に誓われる祭礼を行われました。いわゆる「五箇条の御誓文」です。これは、天皇が群臣に誓う形式にしてはシナ皇帝流の覇道に堕してしまうとの批判が太政官で起ったからです。つまり、「礼」はわが國體を意識して行われたのです。

 また、皇室の重んじることの一つに和歌があります。
 今でも歌会始は重要な皇室行事の一つですが、この詠歌にも同様の作用が認められます。
 紀貫之撰の『古今和歌集』「仮名序」では、和歌について次のような説明がなされています。

「和歌は、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける。世の中にある人、事・業しげきものなれば、心に思ふ事を、見るもの聴くものにつけて、言ひ出せるなり。花に鳴く鶯、水に住むかはづ声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力を入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛き武士の心をもなぐさむるは、歌なり。」(『古今和歌集』岩波文庫)

 漢文で書かれた「真名序」で最後の文章は「動天地、感鬼神、化人倫、和夫婦、莫宜於和歌」となっています。和歌の作用の一つに、鬼神をあはれと思わせる、つまり感動せしむ、というのがあるのです。
 日本最初の勅撰和歌集『古今和歌集』が編纂されたのは、後世、天皇親政の理想時代とされ、維新の一つの源流となった「延喜・天暦の治」の前者で、醍醐天皇の時代です。和魂漢才の忠臣・菅原道真が活躍し、失脚したのも、この延喜帝の時代でした。醍醐天皇の崩御は菅公の怨霊の仕業ではないかと都では恐れられました。
 この時代は、戦後の歴史家によって、律令政治の最終段階であるとともに、王朝国家体制への移行期とされ、その理想視に水を差されましたが、挫折したとは言え、いや挫折したからこそ、天皇親らの復古的改革への意志が、後世になって、非上流貴族の理想とされ、継承された、と理解すべきではないかと思います。すでに触れたように、この時代、「道」という自覚的な生き方を日本人に教えた『論語』の価値が非常に高まった時代でした。
醍醐天皇は、明経・紀伝博士をして、生まれてまだ七ヶ月の皇子・寛明親王(後の朱雀天皇)に、『千字文』『漢書』『孝経』『論語』『史記』『尚書』『春秋左史伝』などを読誦せしめています(『御産部類記』)。まるでお経や呪文のような扱いです。
 「仮名序」によると、当時は漢学が隆盛を極めた時代で、和歌は「色好みの家に埋れ木の人知れぬ事となりて、まめなる所には、花すすき穂にいだすべき事にもあらず」という有様だったといいます。
 この和歌の窮状を救おうとしたのが、醍醐天皇の大御心でした。醍醐天皇の勅命は、「仮名序」では「いにしへの事をも忘れじ、古(ふ)りにし事をも興したまふ」「今もみそなはし、後の世にも伝はれ」となっていて、「真名序」の同じくだりを書き下すと「既に絶えたる風を継がしむことを思ほし、久しく廃れたる道を興さむことを欲す」と表され、明確に「道」という漢語で表現されています。
 大和言葉では「道」という漢語の使用が避けられたということでしょうか。ということは「道」という観念は当時、まだ外国から渡来したものと明確に意識されていた、ということになります。
 この大御心を受けた紀貫之はこの「仮名序」、『土佐日記』の作者でもあることからもわかるように、仮名による大和言葉の表記に対する思い入れが殊の外強かった人物です。
 実は紀貫之の「貫之」の名は『論語』「里仁」篇の「一以て之を貫く」に由来しています。

 孔子は若い弟子の参(曾子)に言った。
 「参よ、吾が道は一以て之を貫く。」
 参は「はい」とのみ答えた。
 やがて、孔子は出て行った。
 すると参の弟子が「どういうことですか」と尋ねた。
 参が答えて言うに、「夫子の道は忠恕のみ」と。

 つまり、今上陛下が感銘を受けた一節は、孔子の言葉ではなく、「吾が道は一以て之を貫く」という孔子の言葉に対する曾子の解釈なのです。
 孔子は「吾が道は一以て之を貫く」と言いましたが、何を以て貫くとは言っていません。荻生徂徠は、言わなかったのではなく、言えなかったのだと解釈していますが、紀貫之にとって、一以て之を貫く吾が道とは、和歌を起点とする一つの道であったでしょう。貫之はその事に忠恕の心を以て臨んだのです。それが『古今和歌集』編纂および「仮名序」の執筆、そして副産物として『土佐日記』を生んだ。そして、見事に和歌を自覚的な歌の道として再生せしめた、と言っていいでしょう。
 その「仮名序」の中で貫之は、『論語』をわが国にもたらした王仁の難波津の歌と『万葉集』に収められた、不機嫌だった葛城王(橘諸兄)をなだめるために采女が詠んだ和歌を挙げ、「この二歌は、歌の父母のやうにてぞ、手習う人のはじめにもしける」としています。つまり、王仁の難波津の歌は和歌の父のようなもので、和歌の母である采女の詠歌とともに、手習いの始めに習うものであったということです。古代において『論語』をもたらした王仁は、文字や和歌の世界においても特別な存在に位置づけられて記憶されていたのです。現在でも、競技かるたにおいては、百人一首とは別枠で、序歌として初めに詠まれるのがこの歌なのはその名残をとどめるものでしょう。現在ユニバーサル・スタジオ・ジャパンがある大阪は此花区の名の由来ともなっています。 

難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花

 貫之はこの歌に次の注記を挿入しています。

「おほさざきの帝、難波津にて、皇子ときこえける時、東宮をたがひに譲りて、位につきたまはで三年になりにければ王仁という人のいぶかり思ひてたてまつりける歌なり。『この花』はむめ(梅)の花をいふなるべし。」

 つまり、仁徳天皇が即位する以前、先代応神天皇の御代に渡来した『論語』を学んで、弟と帝位を譲り合って、空位が三年続いた際、師である王仁が詠んだ歌がこの難波津の歌なのです。
 当然、この歌を捧げられた、「民の竈」で知られる仁徳天皇の仁政も、王仁に授けられた学問教養の賜物であったと考えるのが自然です。
 これらのことは日本の伝統文化と論語の関係を象徴的に表していると言えるでしょう。
 貫之はこの難波津の歌は「帝(みかど)の御初(おほむはじ)めなり」としていて、『詩経』六義の「風」に当る「そえ歌」であるとしています。『詩経』は孔子が学問の初歩として最も重んじた書物で儒教の聖典五経の一つです。このように、『論語』は和歌の自覚化、歌の道としての再生にも密接に絡み合っているのです。
 ちなみに筆者は新元号「令和」が『萬葉集』の梅の詠歌の序文から採られたことと併せて、新紙幣における渋沢栄一の肖像採用が日本における『論語』受容の伝統の再認識につながり、その伝統の起源である王仁の事跡に梅を表す「咲くやこの花」で有名な難波津の歌があることに、何か因縁のようなもの、あるいは希望的観測かもしれませんが、伝統再興の息吹を感じてしまいます。

 さて、以上のように、われわれの先人が文字を学ぼうと決意したのは、応神天皇や後の仁徳天皇が、賢人・王仁を通じて、賢者の言葉を学ぼうとの動機を強く持ったのがきっかけであり、それは朝廷において『論語』の名を以て記憶されたのでした。『古事記』や『日本書紀』の記述はそのように読めます。
 この出合いは、日本人の言葉や文字に対する感性を決定付けたように思えます。
 一方で、王仁もまた日本の文化を理解しようと努めたようで、彼の難波津の歌は、和歌の父のような存在とされ、そして、おそらくは書き言葉としての日本語の父とも伝承された。
 しかし、いつの頃からか、それらの記憶は忘れられました。
 時の経過もさることながら、日本人が平仮名や片仮名などの仮名を発明して、日本語としての文字の使用に習熟し、書き言葉としての日本語を確立したことが、文字の父としての王仁の存在を忘れさせたのでしょう。
 
 以上、『論語』がいかにわが国の文化の土壌に深く根を下ろし、からみついて、ともに支えながら生長してきたものであるかを念頭に置きながら書いてきました。「令和」でさえ、安倍首相がそう説明したように、『萬葉集』を直接の出典としながら、その起源、すなわち本歌は『文選』にも採用されている後漢・張衡の『帰田賦』「仲春令月、時和し気清らかなり」にあるのです。和歌には本歌取りの伝統があり、これは元となる歌に敬意を払いつつ、これに手を加えることで独自のものを創造する態度で、わが国の優れた伝統でもあるのです。われわれはシナに限らず、近代に入ってからは西欧の文化・文明を言わば「本歌」にして、これに手を加えることで独創的な文明を築き上げてきました。「つくりかへる力」による国風化とはこの作用の事です。
 西洋由来の「保守」思想から見て、シナから受容した文明は本来、シナと日本を起源とする別のものであるべきはずで、癒着と呼ばれるべき状態ということになるのかもしれません。しかし、外科手術でこれを無理に引き剥がそうとすれば大変な出血をともなうことになるでしょう。現に戦前のいわゆる皇国史観によって、前面に押し出された「惟神の道」は外部からの物理的打撃によって、大きな傷を被ったのではなかったでしょうか。
 筆者が言いたいのは、日本にはシナとは違う『論語』解釈の歴史、受容の歴史があるのであり、これは文明の根幹に関わることである、ということです。
保守論壇に横行している儒学批判、ひいては『論語』批判は程度が低いものが多い。
 孔子もまた食人の習慣があったとか、論外です。儒教体制が東アジアに停滞をもたらしたとかも皮相の見解であって、そのような面が確かにあるにしても、どのような社会規範・社会体制も、文明が衰退期に入って、人々が精神の溌剌さを失って、これに屈従すれば、社会は停滞するのであって、これは古今東西変わらぬ現象でしょう。
 要は衰勢の中にあって、人がもがき苦しんで、これに違和感を感じ、抗おうとする中から、文明再興の萌芽は生まれるのですが、外的要因がその芽を摘んでしまうことが実に多いです。その意味で、無関心とか、諦観こそがわが内なる敵といっていいかもしれません。
 筆者は古くから生きる規範として日本人に読まれてきた『論語』の、日本人なりの通釈の歴史があり、それに則って行動することで日本の歴史が動かされてきた面があり、それはどこまでも歴史である、と言いたい。人間の知性や認識能力は完全どころか欠陥だらけであり、誤解も含めて思想を形成し、歴史を動かしていく。例えば、中国や韓国の主張する近現代史は捏造だらけで、稚拙な政治的デマゴーグに満ちていますが、われわれ日本人の側が、自己主張の強い意志を持たず、それどころか向こうの言い分を無気力に受け入れてしまったりすれば、言ったもの勝ちで、そのように歴史は動いてしまうのです。

 古来『論語』は日本人に大きな叡智をもたらしてきました。
 先人の重要なバックボーンとなってわが国の発展に寄与してきた思想の一つです。
 確かによく指摘されるように儒教には実学の軽視という欠陥があります。それは、この『論語』に既に現れているわけですが、孔子自身は苦労人で、自ら「吾れ少(わか)くして賤し、故に鄙事に多能なり」というだけあって、農事に携わった経験も言葉ににじみ出ているし、司馬遷の『史記』によれば役人をしていたこともあったことになっています。つまり、下層民としての実生活の上に、これらの思想を築き上げていたのです。孔子が世に知られ、人生経験も蓄積して思想らしい言葉を語るようになったのは、ようやく四十という不惑の齢を過ぎてからのことでした。だから、実務に従事する日本人にこそ、『論語』を読んで欲しいと思い、『論語』の復権を説こうとしているのです。
 『論語と算盤』の著者で経済人の渋沢栄一も同じ趣旨で『論語』を称揚しました。筆者はまた別の側面から光を当てようとしているだけですが、あまりラジカルだと人はついて来ることができないようです。ラジカルは過激とか、急進的な様を表す言葉ですが、本来は、根本的とか根源的という意味合いの言葉です。根源的言動は一般の眼には、時には過激、時には急進的に映るのです。本質的危機の時代にあって役に立つのは、ラジカルな認識に基づく解決策でしょう。保守派の人々は、国を愛すとか、歴史を大事にとか、伝統を重んずるとか、常々言っているはずです。ここに好き嫌いという私を差し挟んではならない。中国の脅威が差し迫っているからと言って、敵性言語として、敵性思想として、この伝統を抹殺しなければならないとすれば、それこそがシナ流です。
 シナ人は言語を、『論語』を、嘘の固まりにしてしまった人々。
 日本人は言語を、『論語』を、「まこと」としてきた民族です。
 そこをこそ、直視すべきなのではないでしょうか。
 これは信仰の話ではありません。どこまでも歴史の話として書いているつもりです。
 よく日本文明は融通無碍といわれます。古くはシナ文明、新しくは西洋文明を貪欲に学び、時にこれに習って、近代化を成し遂げてきました。"Rolling stone gathers no moss." 西洋の諺で「転石、苔を生さず」といいますが、日本文明の持つ国際性には確かにこういった面を見ることが出来るでしょう。 
 しかし、國體は変化を本質とするものではありません。むしろ國體を守るために変化を余儀なくされるものでしょう。日本の國體には、転石苔を生さずと観察される面があるものの、一方で、これら苔生さずの転石でありつつも、皇室を中心とする「細石の巌となりて苔の生すまで」の伝統が、その球体の中心に、重心になっています。
 転石たる民を中心にプラグマティックに歴史を見ていけばなかなかわかりませんが、皇室を中心にすえて歴史を見ていけば、自ずとそういう歴史観、國體観が拓けて来るでしょう。筆者は、この、長い年月をかけて細石(小石)を凝結させる作用を果してきた重要な要素の一つが『論語』であったことを言いたいのです。それは聖徳太子の「十七条憲法」以来の、皇室の下での、君子相和し、小人同ず、の「和」の伝統でした。
 『論語』は、原石たる日本人に「切磋琢磨」、すなわち「切り上げ、磋(みが)き上げ、琢(う)ち上げ、磨(と)ぎ上げて」玉となすべき事を教えてきたのです。

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