大東亜戦争の動機-國體の精華としての大東亜戦争(壱) 【『皇室と論語』(十八)】

 西欧流文明国の体裁を整えるという政治的課題に応えるために制定された大日本帝国憲法を発布し、これを補う目的で教育勅語を下賜した日本は、明治二十七年八月、宗主国として朝鮮半島に対する支配を強めようとする清国と開戦し、これに勝利します。
 これによって文明国と認められた日本は、念願であった、英国をはじめとする西洋列強と結んだ不平等条約を撤廃し、改めて対等な立場に立った条約を締結することに成功します。
 次に日本は、不凍港を求めて南下を続けて満州を占拠し、朝鮮半島への支配を強めるロシアとの対決を余儀なくされます。日本海海戦で知られるように、海軍はほぼ完勝しますが、満州において陸軍の方は世界最大の陸軍国ロシアを相手に苦戦の連続で辛勝というのが現状。しかもロシアはシベリア鉄道を通じて、西方からいくらでも兵力を補給できる状況にありました。これ以上戦争が続けば敗れざるを得ない状況で、第二十六代アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの仲介により、講和が成立します。
 このセオドア・ルーズベルト大統領は後の第三十二代大統領フランクリン・ルーズベルトの遠い従兄に当たり、やはりユダヤ系アメリカ人でエージェントということになります。
 海軍次官を務めたこともある彼は、日露戦争後、バルチック艦隊に完勝した連合艦隊を擁する日本に脅威を感ずるようになり、日本威嚇のために白船艦隊(グレート・ホワイト・フリート)を寄港させ、日本を仮想敵国とするオレンジ計画の策定を命じたことは有名です。しかし、彼が日本を警戒していたのは日露戦争のはるか以前からであり、日露開戦の七年も前に、日本がハワイを狙っていると猜疑して、これを早く併合、あるいは保護国化すべきだと考え、『海上権力史論』で知られる海軍の戦略家アルフレッド・マハンに訴えていたのです。
 こういった指向性は従弟のフランクリン・ルーズベルトにも受け継がれて、より攻勢的な対日政策となったことはよく知られています。すでに触れたように、ヒトラーはルーズベルトを「ユダヤ人の死刑執行人」と表現して、最後の国民国家である日本をこの世から抹殺しようとしていると見ていました。ヒトラーが洞察した敵の勢力図は、ロシア型ボルシェビズムによる直接支配形式と西欧型民主主義という迂回路を通じての間接支配形式により、ユダヤ人が世界支配を目指しており、最後の国民国家日本を標的にしている、というものでした。これは一九二五年、すなわち日本においては大正から昭和への御代替わり頃の洞察です。
 そもそもロシア型ボルシェビズム、要するにソ連の誕生に、ユダヤ系資本の支援があったことはわれわれ日本人がよく知る歴史事実で、帝政ロシアを戦争によって弱体化せしめた大日本帝国の戦費調達に協力したのは、ユダヤ系財閥ロスチャイルド家と関係の深いユダヤ資本家ヤコブ・シフで、戦後、彼はレーニンやトロツキーに革命資金の援助をしているのです。
 確かに日本はその後、コミンテルンのシナ支部である中国共産党の工作により、また近衛内閣に接近したコミンテルンのスパイたちの誘導工作によって、シナ大陸における泥沼の戦争に引きずり込まれていきます。ここでも中国共産党は日本と直接戦わず、英米ソの支援を受けた蒋介石の国民党と日本を戦わせ、共に消耗させて漁夫の利を得る戦術を取りました。
 アメリカにおいても同様で、ユダヤ社会はルーズベルト大統領を「モーゼ」の再来と呼んで支持し、政権に送り込まれたコミンテルンのスパイ(主にユダヤ系)の暗躍もあって、日本を戦争に追い詰め、真珠湾を奇襲させ、第一次世界大戦の反省から参戦に反対であったアメリカ国民を、得意の世論工作によって戦争支持に大転換させ、全面対決に持ち込みました。当然、ウォール街を通じて莫大なユダヤ系資本が投入されたことでしょう。チャーチルもまた、イギリスのシティを通じて、同じ役割を果たしたのです。
 アメリカ・イギリス・シナ・オランダのいわゆるABCD包囲網は日本をとことん追い詰めましたが、ここでもこの国際的協同作戦の資金供給源となっていたであろうユダヤ系国際金融勢力は表に出ることなく、目的を達成しています。
 国際政治とは冷徹なもので、好悪の感情を排して洞察しなければなりませんが、残念ながらわれわれの先人たちは「八紘一宇」の理念の下、迫害される下層民だけを見て来たからでしょうが、ユダヤ人には大変好意的で、その背後にある権力構造のからくりには気づかずに来ました。彼らは、神を信ずるにせよ、あるいは神を信ぜず、金の力を信ずるにせよ、いずれにしても、われわれとは全く違う世界観、価値観を持つ人々なのです。かつてイザヤ・ベンダサンが言った名言「日本人は水と安全をタダと思っている」はそのことを端的に表わしていると言っていいでしょう。
 今、日本は彼らの価値観であるグローバリズム、ネオ・リベラリズム、ネオ・コンサバティブ、人権思想などによって、日本国家の解体を完成させようとしていますが、当時は強力な物質的破壊力を伴って日本に襲い掛かってきました。敗戦革命を最終目的とする帝国主義国家間の戦争誘導という恐ろしい戦略に陥ったのです。結果的にユダヤ人によって開発された原爆は、アメリカ人の手によって日本に落とされ、その設計図はユダヤ人スパイによっていち早くソ連に伝えられ(「ローゼンバーグ事件」)、米ソ冷戦となります。もちろんソ連のスパイを務めたユダヤ系アメリカ人ローゼンバーグ夫妻の姓はルーズベルトと同じ起源をもつユダヤ姓の一つです。
 日本はいまだに周辺国が持つ核兵器に恫喝され続けていますが、持つことは絶対に許されません。唯一の被爆国であり、最も平和的な国民国家である日本が、です。奇妙な話ですが、それが冷徹な国際政治の現実なのです。
 
 さて、資本家はもちろんの事、現在の構造改革派の政治家や官僚がグローバリズムに染まってしまっているように、戦前も改革派の官僚や軍人が共産主義に染まっている、という近衛文麿元首相の洞察を紹介しました。
 彼らの中の確信犯的共産主義者は敗戦革命に向けて日本を誘導しようとしました。大東亜戦争開戦までは開戦に向けて、開戦後は敗戦に向けてです。後から振り返ってどうにも腑に落ちない戦時中の不合理な作戦、戦争指導というのは、どうも唯物論から兵隊や国民を物的資源と見なせる彼らのせいに思えて仕方がありません。河本大作がコミンテルンとつるんで張作霖を爆殺し、日本に対する国際世論を厳しいものにし、昭和天皇をして内閣に対する不信を惹起せしめ、結果的に国権主義的な田中義一内閣が倒れたように。あるいは、ノモンハン事件で第二十三師団長として戦闘を指揮し壊滅的打撃を受けたロシア通の小松原道太郎中将がソ連のスパイであった疑いが濃厚であるように。
 そういった日本のインテリ層と教育勅語に集約される徳育が浸透した一般国民との乖離が進む中で、全面戦争に誘導され、追い詰められた日本はいよいよ英米との開戦に踏み切ります。戦争の趣旨は開戦の詔書に尽くされていると言っていいでしょう。

「詔書。
天佑を保有し、萬世一系の皇祚を踐める大日本帝国天皇は昭(あきらか)に忠誠勇武なる汝有衆に示す。

朕、茲に米国及英国に対して戦を宣す。朕が陸海将兵は全力を奮て交戦に従事し、朕が百僚有司は 励精職務を奉行し、朕が衆庶は各々其の本分を尽し、億兆一心国家の総力を挙げて、征戦の目的を達成するに遺算なからむことを期せよ。

抑々、東亜の安定を確保し、以て世界の平和に寄与するは丕顕(ひけん…大いに明らかなる徳を有すること)なる皇祖、考丕承(こうひしょう…考えを大いに承けること)なる皇考の作述せる遠猷(えんゆう…遠いはかりごと)にして、朕が挙々措かざる所、而して列国との交誼を篤くし、万邦共栄の楽を偕にするは、之亦帝国が常に国交の要義と為す所なり。今や不幸にして米英両国と釁端(きんたん)を開くに至る、洵に巳むを得ざるものあり。豈朕が志ならむや。

 中華民国政府、曩に帝国の真意を解せず、濫に事を構へて東亜の平和を攪乱し、遂に帝国をして干戈を執るに至らしめ、茲に四年有余を経たり。幸に国民政府更新するあり。帝国は之と善隣の誼を結び、相提携するに至れるも、重慶に残存する政権は、米英の庇蔭を恃みて、兄弟尚未だ牆に相鬩(あいせめ)くを悛(あらた)めず。
 米英両国は、残存政権を支援して東亜の禍乱を助長し、平和の美名に匿れて、東洋制覇の非望を逞うせむとす。剰へ与国を誘ひ、帝国の周辺に於て武備を増強して我に挑戦し、更に帝国の平和的通商に有らゆる妨害を与へ、遂に経済断交を敢てし、帝国の生存に重大なる脅威を加ふ。朕は政府をして事態を平和の裡に回復せしめんとし、隠忍久しきに彌りたるも、彼は毫も交譲の精神なく、徒に時局の解決を遷延せしめて、此の間却つて益々経済上軍事上の脅威を増大し、以て我を屈従せしめむとす。斯の如くにして推移せむか、東亜安定に関する帝国積年の努力は、悉く水泡に帰し、帝国の存立亦正に危殆に瀕せり。事既に此に至る。帝国は今や自存自衛の為、蹶然起つて一切の障礙を破砕するの外なきなり。

 皇祖皇宗の神霊上に在り。朕は汝有衆の忠誠勇武に信倚し、祖宗の遺業を恢弘し、速に禍根を芟除して、東亜永遠の平和を確立し、以て帝国の光栄を保全せむことを期す。

御 名 御 璽 昭和十六年十二月八日」

 次に開戦当日の午後零時二十分に発表され、当日の夕刊に一斉に掲載された帝國政府声明を紹介します。これはGHQにより歴史から抹殺された重要文書の一つで、農学博士安濃豊氏が平成二十一年三月に再発見したものです。ここには日本の情理、立場が尽くされています。

「恭(うやうやし)く宣戦の大詔(たいしょう)を奉戴し茲(ここ)に中外に宣明す、抑々(そもそも)東亞の安定を確保し、世界平和に貢獻するは、帝國不動の國是にして、列國との友誼を敦くし此の國是の完遂を図るには、帝國が以て國交の要義と為す所なり。

 然るに、曩(さき)に中華民國は、我真意を解せず、徒らに外力を恃(たの)んで、帝國に挑戦し来たり、支那事変の発生を見るに至りたるが、御稜威(みいつ)の下、皇軍の向ふ所敵なく、既に支那は、重要地点悉く我手に帰し、同憂具眼の士(汪兆銘らを指す)國民政府を更新して帝國は之と善隣の誼を結び、友好列國の國民政府を承認するもの已に十一箇國の多きに及び、今や重慶政権は、奥地に残存して無益の抗戦を続くるに過ぎず。然れども米英両國は東亞を永久に隷属的地位に置かんとする頑迷なる態度を改むるを欲せず、百方支那事変の収結を妨碍(ぼうがい)し、更に蘭印を使嗾し、仏印を脅威し帝國と泰國との親交を裂かむが為、策動至らざるなし、仍(すなわ)ち帝國と之等南方諸邦との間に共栄の関係を增進せむとする自然的要求を阻害するに寧日(ねいじつ)なし。その状、恰も帝國を敵視し、帝國に対する計画的攻撃を実施しつつあるものの如く、遂に無道にも、経済断交の挙に出づるに至れり、凡そ交戦関係に在らざる國家間に於ける経済断交は武力に依る挑戦に比すべき敵対行為にして、それ自體默過し得ざる所とす。然も両國は更に與國を誘引して帝國の四辺に武力を増強し、帝國の存立に重大なる脅威を加ふるに至れり

 帝國政府は、太平洋の平和を維持し、以て全人類に戦禍の波及するを防止せむことを顧念し、叙上の如く帝國の存立と東亞の安定とに対する脅威の激甚なるものあるに拘らず、隠忍自重八ケ月の久しきに亘(わた)り、米國との間に外交交渉を重ね、米國とその背後にある英國並びに此等両國に附和する諸邦の反省を求め、帝國の生存と権威との許す限り、互譲の精神を以て事態の平和的解決に努め、盡す可きを盡し、為す可きを為したり。然るに米國は、徒らに架空の原則を弄して東亞の明々白々たる現実を認めず、その物的勢力を恃みて帝國の真の國力を悟らず、與国(よこく)と共に露(あら)はに武力の脅威を増大し、以て帝國を屈従し得べしとなす。斯くて平和的手段に依り、米國ならびに與國に対する関係を調整し、相携へて太平洋の平和を維持せむとする希望と方途とは全く失はれ、東亞の安定と帝國の存立とは危殆に瀕(ひん)せり。
事茲に至る。遂に米國及英國に対し宣戦の大詔は渙発せられたり。聖旨を奉體して洵(まこと)に恐懼感激に堪へず、我等臣民一億鐵石の団結を以て蹶起勇躍し、國家の総力を挙げて征戦の事に従ひ、以て東亞の禍根を永久に芟除し、聖旨に応へ奉るべきの秋(とき)なり
 惟(おも)ふに世界万邦をして各々其の處を得しむるの大詔は、炳(へい)として日星の如し。帝國が日満華三國の提携に依り、共栄の実を挙げ、進んで東亞興隆の基礎を築かむとするの方針は、固より渝(かわ)る所なく、又帝國と志向を同じうする独伊両國と盟約して、世界平和の基調を劃(かく)し、新秩序の建設に邁進するの決意は、益々牢固たるものあり。而して、今次帝國が南方諸地域に対し、新に行動を起すの已むを得ざるに至る、何等其の住民に対し敵意を有するものにあらず、只英米の暴政を排除して東亞を明朗本然の姿に復し、相携へて共栄の楽を頒たんと冀念するに外ならず。帝國は之等住民が、我が真意を諒解し、帝國と共に、東亞の新天地に新たなる発足を期すべきを信じて疑はざるものなり。今や皇國の隆替、東亞の興廃は此の一挙に懸れり。全國民は今次征戦の淵源と使命とに深く思を致し、苟(いやしく)も驕ることなく、また怠ることなく、克く竭(つく)し、克く耐へ、以て我等祖先の遺風を顕彰し、難関に逢ふや必ず國家興隆の基を啓きし我等祖先の赫々たる史績を仰ぎ、雄渾深遠なる皇謨の翼賛に萬遺憾なきを誓ひ、進んで征戦の目的を完遂し、以て聖慮を永遠に安んじ奉らむことを期せざるべからず。」

 ここにも教育勅語の精神は継承されていますし、それが後に触れる大東亜会議にもこだまする事になります。それは「八紘一宇」あるいは「和を以て貴しとなす」の精神の発現でした。小林秀雄が言ったアジアの文学者の提携もその潮流から生まれた運動でした。もっとも、その西洋列強に対するアジア諸国の政治的「和」の実現は、文学者の提携以上に、困難な事業であったのはこれから見ていくことになりますが。

 さて、大東亜戦争の意図を知る上で、もう一つ重要な史料を挙げるとするならば、開戦時の首相東條英機が東京裁判で起訴された際用意した宣誓供述書でしょう。東條が陸軍大臣となった昭和十五年七月から、総理大臣として内閣総辞職した十九年七月までの四年間の出来事について自ら語ったものを、彼の弁護を担当した清瀬一郎弁護士がまとめた裁判資料で、昭和二十三年一月二十三日に洋洋社というところから出版されました。もちろん占領期間中の事で、有志の勇気ある出版ということになりますが、GHQによって早速「発禁第一号」に指定され、処分されています。奇しくもこれを再発見したのは孫の故東條由布子氏で、ちょうど出版禁止から五十年後の平成十年一月、神田の古書店で偶然発見されたのでした。以降有志によって自費出版されたものが全国の識者に頒布され、ちょうど終戦六十年後の平成十七年にWACから出版されました。『大東亜戦争の真実 東條英機宣誓供述書』がそれですが、「まえがき」に東条氏は書いています。

「今回この本をこうして皆様のお手元にお届けできることになったのは、さまざまな『出会い』のおかげでした。
私はよく神田の古書店街に、東京裁判についての本を探しに行くのですが、平成十年一月のある日、あるお店で、最初の『出会い』がありました。
店内には、戦記ものなど分厚い本がうずたかく積まれていました。ふと見ると、その中に一冊だけ薄い本が挟まっているのが見えたのです。本の角のところだけがほんの少しだけ、一センチほど飛び出ていたのです。私は何故だかそれが気になって、上に載っている厚い本をわざわざよけて、引っ張り出してみたのです。
するとそこには、赤い字で『天皇に責任なし、責任は我に在り』と書かれているではありませんか。その傍らには『東條英機 宣誓供述書』とありました。
私はひどく驚いて、しばし呆然としていたのですが、我に返ってすぐにそれを買い求めました。天が与えてくれたとは、まさにこのことだとその時感じたものです。」

 まさに天のめぐりあわせとしか思えなかったでしょう。
 東條英機は生真面目な軍事官僚で、よく言われるように政治家としての器量度量に欠ける人物であったかもしれませんが、天皇に対する忠義心は篤く、そこを見込まれて軍部を抑えるために総理大臣へ抜擢されました。彼は大変な記憶力の持主で、また几帳面にメモを残していて、それがこの正確な供述書の作成に役立ったといいます。彼は開戦の罪を自ら被る覚悟で、日本の自衛の立場を弁明すべく、東京裁判の被告席に立ち続けたのでした。もちろん東京裁判は報復のための裁判でしたから、東條の弁明も虚しく、最初からの筋書き通り処刑されました。彼を含むA級戦犯の起訴は昭和天皇の御誕生日、すなわち当時の天長節の日が敢えて選ばれ、処刑日には当時の皇太子殿下の御誕生日、すなわち当時の次代天皇の御誕生日、平成の天長節が敢えて選ばれたのです。(こういった経緯から入管法改正、いわゆる移民法が大東亜戦争開戦の日に国会を通った理由を報復であると類推するのです。誰の何に対する報復であるかは法改正の趣旨から推理するほかありません。)

 これらの史料を読むと、当時の切迫した状況に追いつめられていた政府に何が見えていて、何が見えていなかったかが分かりますが、少なくとも、帝国の存立がまさに危殆に瀕していることを真剣に受け止め、内外の様々な妨害工作に遭いながらも、できる限りの事を為そうとしていたことが分かります。
 そして、明治天皇の大御心による教育勅語以来の徳育により、忠孝の精神を強く持した国民は、この詔書およびこれを輔弼する政府の声明を真摯に受け止め、まさに聖戦との認識のもと、英雄的な戦いを行ったのです。敗戦革命を目論む共産主義勢力や国民国家日本を敵視する国際金融資本家たちはこれを利用して、思うところに、地獄に引きずり込んで行ったと言っていいでしょう。
 日本軍は当初快進撃を続けますが、戦略や戦術上のミスもあり、やがて物量、そしてそれを担保する資金力に勝る連合軍が劣勢を挽回していきます。
 その中で、敗戦を目指す共産主義者の暗躍がどの程度、作用したのかわかりませんが、常識的に考えて、当初立案されていた作戦計画に反して、限られた戦力と資源を分散して戦う愚を犯した要因は、日本の戦争指導者が馬鹿だったからというよりも、敵の方が一枚も二枚も上手だった、と考えた方がいいでしょう。何といっても、敵は日本の指導階層にトロイの木馬を多数忍ばせることに成功していたのです。(敵の存在に気づいていないという点では、歴史という、反省する材料を多く持つはずの戦後の指導階層の方が、危機の本質を理解できなくなっており、国家安全保障上の危機管理においても、さらに数等劣悪であるとしか思えません。もちろん、利口に反省した結果、先人たちを罵りながら、彼らに隷従していくのが得策だと考えている輩も多いことでしょうが。) 

 そういった悪条件が重なりながらも、多くの日本人は忠孝の精神で戦いました。とりわけ純粋な若者たちの奮闘は悲劇的にして感動的です。彼らの遺書は涙なしに読むことが出来ません。彼らを犠牲者とするなら、愚かな戦争指導者や天皇制の、ではなく、戦った相手、すなわち全世界を覆う勢いであったロシア型ボルシェビズム及び西欧型民主主義を媒介して世界を支配しようとしていたユダヤ・キリスト教文明を母体とする、現在の言葉で言うところのグローバリズム勢力との崇高な戦いの犠牲者としなければならないでしょう。わが民族内部における協調の面を度外視しての対立の過度の強調は、階級闘争を煽るボルシェビズムや民族大相剋、分断統治(ディバイド・アンド・ルールあるいはディバイド・アンド・コンクァ-)を旨とする敵の思うつぼです。

 さて、忠孝の精神を象徴する歴史上の人物として、命懸けで戦う志士たちの胸にあったのが南朝の忠臣楠木正成でした。明治三年から七年まで日本に滞在したアメリカ人のグリフィスは、日本の学生や友人に日本の歴史上の人物で最も優れているのは誰かと尋ねたら、みんな楠木正成と答えた、と回想記「ザ・ミカドズ・エンパイア」に書き残しています。
 幕末、時勢が煮詰まった段階での薩摩藩の王政復古討幕の義挙計画の叩き台になっていたのが、討幕に成功した建武の中興ですが、とりわけその模範とされたのが、楠木正成の敢闘精神であり、戦略だったのはすでに触れたところです。その戦略立案の中心にいたのが南朝の忠臣菊池氏の末裔である西郷であり、西南戦争における熊本城をめぐる攻防戦も、それを叩き台にしたものであったのもすでに触れました。
 明治天皇は楠木正成の佩刀と伝承される「小竜景光」を自らの佩刀とされていたと伝えられ、大逆事件を契機とする南北朝の正閏論争(どちらがより正統であるかという論争)では、御自身が北朝の末裔に在らせられながらも、朱子学的正統主義の立場に立った南朝をより正統であると宸断されました。明治時代、「大楠公」と称され、明治天皇により正一位の位階を追贈された楠木正成は、銅像として皇居外苑二重橋正面に建てられ、教育勅語に基づく修身教育にも忠臣の鑑として取り上げられ、国民の心胸を開拓し続けていたのでした。
 開戦直前の昭和十五年には大楠公没後六百年を記念して、大阪は南河内の千早赤阪村の史跡に日本全国から集められた浄財により奉建塔が建てられました。大東亜戦争において出征する兵隊の日章旗「日の丸」への寄せ書きには「武運長久」と並んで「七生報国」の語がよく出てきますが、これは大楠公が湊川の戦に臨んで、弟の正行との間で交わされた会話が元になっています。何度でも生まれ変わって朝敵を亡ぼしたい、という意味です。つまり、勝ち目はなくとも朝敵足利尊氏を亡ぼすために湊川に赴く正成の忠義心に、戦場に赴く自分の心を重ね合わせていた、ということです。

 『梅松論』によると、楠木正成は討幕に成功した元弘の戦を振り返って、密かに勅命を請けて、にわかに金剛山の城に籠った時、私の計略によって国中をたのみとしてその功を成したが、これは皆が志を君に通じ奉ったがゆえである、としましたが、大東亜戦争の開戦の際も似たような現象が起きたのです。
 田原総一朗氏の取材によると、東條が首相に就任してから開戦までの五十日余りの間に、東條家には三千通以上の手紙が殺到したといいます。その内容は大体二つに大別され、一つは「米英撃滅」「鬼畜米英を倒せ」「猶予は亡国、即時立て」といった勇ましいもの、一つは「何をぐずぐずしている」「弱虫東條」「いくじなしはヤメロ」といった激しい非難であったといいます。
 国民の士気は旺盛だったと言っていいでしょう。
 大手新聞は挙って開戦を支持し、一億の国民に、身命を捧げての報国、大義に殉ずる事を訴えました。そして、国民の側でも開戦の報道に接してそれまでの重苦しい空気が一変し、むしろ国民の多くが何か明るいものを感じ取り、続く捷報に興奮したのです。それは当時の歌人・文人の詩歌や日記などによく表れています。
 やむにやまれぬ日本の開戦の決断は日本人国民の意識を劇的に変え、やがて西欧白人の植民地支配に打ちひしがれてきたアジアの有色人種の意識をも劇的に変えていくことになるのです。

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