大日本帝国憲法と教育勅語の精神-大日本帝国における維新精神の継承(二) 【『皇室と論語』(十七)】

 維新精神の本来的回復運動の内、まずは大日本帝国憲法の制定作業を見ていきます。
 国会開設の詔により、その基礎となる憲法が欽定により制定されることが決定すると、大久保の後継者としての地位を固めつつあった伊藤を責任者として「プロシヤ」型の憲法理論に立脚して制定作業が進められる事になります。スタッフには、「プロシヤ」型憲法理論に拠ることを強く主張し、政府内の議論をまとめた法制官僚の井上毅が加わります。他は伊東巳代治・金子堅太郎です。
 井上は肥後熊本出身で、横井小楠とも親交のあった元田に近い儒教的天皇親政論者ですが、西欧の政治理論・法理論を斟酌して取り入れることの必要性も認識していて、それには「プロシヤ」型の憲法理論に立脚することが望ましい、との意見を抱懐していました。彼はイギリス型の立憲君主政体・議会政治・政党政治が「君民共治」論に立脚し、実態は主権が専ら議院にあって、国王はいたずらに虚器を要するのみという状態で、それでは幕政に回帰してしまうことになるという危惧を抱いていたのです。井上はそこにルソーの革命思想、人民主権論が入り込んでいることを看破していました。彼は天皇政治の正統性を守るためには「欽定憲法」であることが必要であると洞察していたのでしょう。これは人民主権論に立脚する、国際勢力によって押し付けられた日本国憲法下において、わが国の伝統、その柱となる皇室の正統性が溶解しつつある現状をみれば、優れた洞察であった事になります。
 
 明治十五年三月、伊藤は随員たちを引き連れてヨーロッパへの憲法調査に旅立ちます。ドイツに落ち着いた伊藤はウィーン大学のシュタイン教授の憲法学説に光明を見出します。中でも彼が影響を受けたのが、各国の歴史や社会、政治事情などを比較考量して憲法について考えるべきだという立場でした。

 明治十六年八月、一年半ぶりに帰国した伊藤は、天皇や元田などの側近たちに自己の憲法制定方針に対する了解を取り付けて、翌十七年三月、宮中に制度取調局を設置して、自ら宮内卿に就任、制定作業を統括する事になりました。これは「欽定憲法」である以上、当然の政治的配慮でした。伊藤がまず行ったのは将来の上院を構成する事になる華族の制度改革でした。伊藤はこの改革により士族・平民の有能な人材を新華族として一定比率取り込み、上院の議論に反映させようとしたのです。伊藤は次いで、能力主義に基づいて各省専任の長官の上に総理大臣を置くという内閣制度の創設に取り組み、十八年十二月、天皇の承認を得て、内閣制度を発足させ、自ら初代総理大臣に就任しました。
 
 当時、緊縮財政などの政策面で政府が強力な指導力を発揮する必要もあって、天皇は総理大臣の強大な権限を承認しましたが、天皇親政論者である井上は危惧の念を強めました。明治十九年末ごろから本格化した憲法制定作業は先の四人に加えて、ロエスレル、モッセのドイツ人顧問の協力のもと進められました。翌二十年の六月から八月にかけて神奈川県夏島で行われた討議は、井上の甲案乙案及びロエスエルの草案を叩き台にして行われました。彼らは伊藤の提案で地位を超え、対等な憲法学者として議論する事になり、かなり激しい憲法論議が行われたようです。ある時、立憲主義の導入を國體の変更と考え、これを変更しようとしている伊藤が癇癪を起して「君たちのような幼弱な者に何がわかるか」と言うと、井上が「大臣御不興、議論無用」とだけ言って、書類をまとめてさっさと出ていってしまい、他の者もこれに倣ったので、伊藤だけが部屋に取り残されてしまったこともあったといいます。
 金子が回顧するところでは、立憲政治の淵源を明治維新以来の国是である五箇条の御誓文とし、國體に関する研究は概ね水戸学を基礎とし、大部のものでは『大日本史』、簡単なものでは『弘道館記』(徳川斉昭)『弘道館述義』(藤田東湖)『新論』(会沢正志斎)、他には南朝の忠臣北畠親房の『神皇正統記』などが用いられたといいます。これらの作業の過程で、伊藤の座右の銘はアメリカ合衆国憲法の解説書『ザ・フェデラリスト』(ハミルトン・マディソン・ジェイ著)であったといいますが、井上は当初、聖徳太子の十七条憲法のような日本古来の憲法観に則ったものではなく、コンスティチュションの翻訳としての「憲法」観で、両者は、名同じくして実異なる、との認識でした。しかし、研究を進める内にこの認識を改め、「わが国の憲法はヨーロッパの憲法の写しではなく、「遠つ御祖(とおつみおや)の不文憲法」が今日まで発達してきたものである、との認識に至ります。中でも、彼が着目したのが、「しらす」という古語で、『古事記』の出雲国譲りの段に出てくる、天照大神が建御雷神をして大国主神に問わしめた「汝がうしはける葦原中国はわが御子の知らさむ国と言よさし給えり」に由来し、井上は本居宣長『古事記伝』の解釈に拠り、「うしはく」とは「領す」で、これは国土人民を私有の物質的財産と見なす、西欧における支配(オキュパイド)やシナにおける「領有」に当たり、これに対し「しらす」とは「心にて物を知る」ことで「中の心は外の物に臨みて鏡の物を照らす如く知り明らむる意」であり、西欧流に言えば主観のように無形の高尚なる性霊心識の働きを表す、と解説しています。そして、井上は「しらす」は惟神の道であり、御国の天津日嗣の大御業の根源は、皇祖の御心の鏡もて天が下の民草をしろしめす、という意義に成り立ち、日本国家の成立の原理は、君民の約束ではなく、一の君徳に基づく、という所に行きつくのです。つまり、彼の憲法論は儒者が古来名づけて来たところの仁政思想を、さらに国学によって深化させた君徳培養による天皇親政思想に帰着したのです。ここにおいて、不平等条約改正のため、西欧諸国に文明化を示すという政治的要請に応えるための成文憲法に、日本の本来の在り方である國體がその核として盛り込まれることになったのです。それはやがて大日本帝国憲法第一条「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」に結実することとなります。井上は自らが執筆し、公布と同時に出版された憲法解説書『憲法義解』の中で、この「統治ス」は「しらす」の意であると明言しています。
 憲法完成後、井上は「外つ国の 千種の糸を かせぎあげて 大和錦に 織りなさばやな」という和歌を詠んでいます。

 さて、幾度かの修正を経て出来上がった草案は、同じころ、西欧王室制度に精しい柳原前光の草案に井上が修正を加える形で進められ、出来上がった皇室典範草案とともに上奏、二十年四月に草案を公式に審議するために設置された諮詢機関枢密院で審議されることになります。伊藤は総理大臣を辞任し、枢密院議長に就任して、国務大臣九名のほか、元田・佐々木などの旧侍輔グループも顧問官に加えて、天皇親臨の下、審議を進めます。

 明治天皇がいかにこの審議を重視されたかは、金子が語る次のエピソードによく表れています。ある日の審議中、侍従が慌ただしく入ってきて議長であった伊藤に何か耳打ちしました。伊藤は即座に天皇に歩み寄り小声で奏上を行いましたが、審議は中断されることもなく進行し、終わるや否や天皇は入御されました。実は審議中伝えられたのは皇子昭宮の訃報でした。後で知った列席者たちは顔を挙げることが出来ず、ただただ畏れ入るばかりであったといいます。
憲法制定作業に当たって、体制内部の國體論的保守派(元田らに象徴される勢力を指すのでしょう)と民間の過激な自由主義者の双方の要請に応え得る憲法を策定する必要に迫られていた伊藤は、審議の冒頭で次のような演説を行っています。ここに彼の國體観ないし政體観が集約されていると言っていいでしょう。

「今、憲法の制定せらるるに方(あたり)ては、先ず我国の機軸を求め、我国の機軸は何なりやと云うことを確定せざるべからず。機軸なくして政治を人民の妄議に任す時は、政(まつりごと)、その統紀を失い、国家また随て廃亡す。苟も国家が国家として生存し、人民を統治せんとせば、宜しく深く慮りて以て統治の効用を失わざらん事を期すべきなり。抑(そもそも)、欧州においては、憲法政治の萌せる事千余年、独り人民のこの制度に習熟するのみならず、また宗教なるものありて、これが機軸を為し、深く人心に浸潤して、人心これに帰一せり。然るに我国に在りては、宗教なるもの、その力微弱にして、一も国家の機軸たるべきものなし。仏教は一たび隆盛の勢を張り、上下の人心を繋ぎたるとも、今日に至りてはすでに衰替に傾きたり。神道は祖宗の遺訓に基づきこれを祖述すと雖も、宗教として人心を帰向せしむるの力に乏し。
我国に在りて機軸とすべきは、独り皇室あるのみ。是を以てこの憲法草案においては、専ら意をこの点に用い、君権を尊重して成るべくこれを束縛せざらん事を勉めり。或は君権甚だ強大なるときは濫用の虞(おそれ)なきにあらずと云うものあり。一応その理なきにあらずと雖も、若し果してこれあるときは、宰相その責に任ずべし。或はその他その濫用を防ぐの道なきにあらず。徒らに濫用を恐れて君権の区域を狭縮せんとするが如きは、道理なきの説と云わざるべからず。すなわちこの草案においては、君権を機軸とし、偏にこれを毀損せざらんことを期し、敢て彼の欧州の主権分割の精神に拠らず、固より欧州数国の制度において君権民権共同するとその揆(き)を異にせり。これ起案の大綱とす。」

 伊藤がここで国家の廃亡を左右するほどの重要な機軸として宗教というものに着目しているのは重要で、日本の歴史を回顧した時、西欧におけるキリスト教のようなものとして、皇室しかないという結論を彼は導き出しています。
しかし、筆者はここに明治の開明的知性に象徴される不思議、不可解を見るのです。
 
 神道が教義というものを持たず、人心を帰向せしむる力に乏しいのはその通りで、概ね神道は外来の他の宗教と習合して、宗教としての外形を整え、社会的影響力を保持してきました。その習合相手の最大のものが仏教だったわけですが、これは日本において独自の展開を遂げ、鎌倉時代に隆盛を極めた後、鎌倉末期に始まり戦国時代に窮まる秩序の混乱、人心の荒廃を救済する力を持ちませんでした。
 それを社会的、政治的に救済したのが、既に触れたように、仏教より早く渡来したものの、朝廷を中心に細々と受け継がれてきた儒教の伝統だったのです。憲法制定作業における井上の思想遍歴はそのことを表しています。この儒教もまた、神道、そして皇室と結びついて、すなわち習合して、その古典主義、文化主義、歴史主義、「先王の道」と言われる復古的王道主義、神霊に対する祭祀祭礼の重視、天に対する信仰によって、皇室を中心とする社会秩序を新たに再生せしめたのです。
 それには、織田信長の天下一統事業が起動だとすれば維新回天まで三百年の歳月を必要としていました。それは別の言い方をすれば、聖徳太子の十七条憲法から五箇条の御誓文に至る「和」の伝統と言い換えることも可能だと思われます。その思想的発達、育成の内容についてはすでに見たところで、大雑把な言い方をすれば、神道を土壌にし、まずは内面における仏教、次に外面における儒教により陶冶された伝統ということができると思います。西郷隆盛は明らかにこの伝統を英雄的に体現した人物で、伊藤もまた、その伝統の中で活動していたはずでした。
 現に彼は「孔孟の教え」に傾倒し、これを潜り抜けた吉田松陰の主宰した松下村塾の出身者で、彼自身は松陰の影響を限定的にしか語りませんでしたが、少なくとも松陰の死後、このカリスマの下でやがて大きな政治集団を形成した長州閥の中で頭角を現した人物でした。この長州閥を守るために彼が八面六臂の活躍をしたことが、結果的に征韓論破裂につながったのです。
 彼自身、子供の頃からの愛読書で、長じてからも座右の銘にしていたのが頼山陽の『日本政記』で、幕末の海外渡航の際も、この書を肌身離さず携行し、彼の國體観を形成したのもこの書でした。彼は慶応四年五月にいち早く廃藩置県の建議をしていますが、鳥羽伏見の戦いが一段落した正月下旬にはその意見を木戸孝允に開陳していたといいます。

 「予がこの言をなしたるは大いに理由がある。予は少時より山陽の『日本政記』を愛読し、彼の勤皇論に感激するとともに、わが王朝の盛時は今日のいわゆる郡県の制がおこなわれ、この制度はすなわち王朝の生命であったことを深く心に感じ、その後、留学のため英国に赴き、欧州諸国また郡県の制を実施して、国家の隆盛を来しているのを目撃し、ますます封建を廃止しなければならぬ必要を確信した。」(『伊藤博文直話』) 

 頼山陽は朱子学者であり、この書の価値基軸になっているのは当然朱子学、なかんずく四書だったのです。それ程の深刻な影響を、彼のみならず、明治維新の基盤となった王政復古討幕運動に与えたにもかかわらず、また憲法制定の過程で金子堅太郎が頼山陽のほか、水戸学の諸書から國體観を学んだと言っているにもかかわらず、神道と皇室に触れて、価値基軸の背骨となった儒教を除外しているのは甚だ不審なことです。よく言えば、純粋な日本に由来するものではないということで除外したと言えますが、それでは衰退既に久しい仏教に触れていることと辻褄が合いません。欽定というなら、明治天皇と教育論争で対立した彼が、天皇の大御心が儒教重視にあることを知っていなかったはずがなく、それに反する自身が責任をもって制定に取り組んだ憲法、西洋に対し日本の文明化を示すためという政治的要請に応えるための成文憲法を「不磨の大典」と言うような、見ようによって傲慢な態度も解せません。
 
 それは西欧思想への自己の転向の矛盾、転向せず自己の信念を曲げずに伊藤に立ちはだかった儒教王道主義者元田ら、あるいは憲法制定作業をともになし、議論を戦わせる過程で國體思想を深化させた井上への対抗心というのが、この頑なな除外になったのではなかったでしょうか。現に彼は枢密院における審議を振り返って「院の内外において極端なる保守主義の暗流存せしにも拘わらず、陛下の聖断はほとんど常に自由、進歩の思想に傾」いた、と述べていて、その辺の機微を物語っているようにも思えます。儒教的親政論に傾いてきた天皇が、西欧文明の摂取の必要性は認めても、自由、進歩の思想に傾いたとは思えませんが、少なくとも枢密院において審議を尽させるために、すなわち公議を尽させるために、宇内の大勢となっている自由主義、進歩主義に基づく意見を遮ることはなかった、ということではなかったでしょうか。伊藤の見解はともかく、彼に手腕を存分に振るわせた明治天皇の君主としての度量の大きさには目を見張るものがあります。まさに明治大帝です。

 もとより、伊藤自身、愛国心や皇室に対する忠義心を失ったことはありませんが、その思想は、山縣有朋が伊藤を足利尊氏と評したように、皇室伝統、その本質との対立矛盾を孕んだものでもあったのです。
 その明治憲法に孕んだ陥穽は、天皇の大御心を支えに、元田と井上が起草に取り組んだ教育勅語によって埋められる事になります。当時の政治的要請に応えることは大変重要でしたが、それは現在の政治的要請ではありませんから、西欧文明を輸入し尽くして、その背後根底にあるグローバリズムによって日本文明解体の危機がますます進行している今日、憲法とは敢えて別に下された教育勅語に込められた精神の回復こそが重要です。

 明治天皇の御心配にもかかわらず、教育聖旨以降も、教育の現場における混乱、人心の荒廃は進む一方で、その反動で、大日本帝国憲法が公布された明治二十二年二月十一日、知育重視、徳育軽視の、かつて英語の国語化を提唱したことで知られる、欧化教育の権化ともいえる、文部大臣の森有礼が暗殺されました。
 こういった深刻な状況を見て、かつて「軍人勅諭」を作成し、軍隊内の軍規粛清に成功した経験を持つ時の総理大臣山縣有朋は、教育についても勅諭を作れないかと閣議に掛け、親臨していた天皇が徳育に関する箴言を編纂してはどうか、と提案します。そこで山縣は新任の芳川顕正文部大臣に草案の作成を命じ、大臣はこれを『西国立志編』の翻訳で知られる中村正直(敬宇)に依頼します。出来上がった草案を、山縣は法制局長官であった井上毅に見せ、検討させました。キリスト教の洗礼を受けた中村は「敬天愛人」説で知られる人物で、晩年の西郷隆盛はその儒教的立場から自己の思想を表現する際、この言葉を用いるようになりました。
 中村の草案は儒教的でありながら「敬天愛人」という思想の宗教性が前面に出た内容で、「天」や「神」が頻出します。井上はこれを勅諭としてはふさわしくないと考えました。そこで山縣は井上に草案を依頼することにします。これらが二十三年五月後半から六月にかけての事です。
 十二年の教育論争の際、儒教主義による徳育の必要性を論じた元田に対して、開化主義に立っていた井上は、伊藤の「教育義」の実質的起草者として、儒教思想の普遍性を認めながら、政府の権威による道徳教育に反対し、歴史・文学・慣習・言語が國體を組織する元素であると捉え、これらを愛護していくべきであることを主張しました。今やそれを一つの文章に結実させることを求められた井上は起草の基本方針を概ね次のように定めました。
 来たる十一月二十九日に召集される帝国議会で発効する憲法の二十八条「信教の自由」にあるように、西欧における立憲政体においては、君主は臣民の良心の自由に干渉しないというのが基本原則となっており、他の政事上の勅語とは区別しなければならない。勅語が宗教・思想・哲学上の争いを惹起する契機となってはならないのです。だから漢学の口吻、洋風の気習は避けるべし、となります。さらに、真正なる王言の体として、積極規定であるべきであって、消極規定であってはならず、しかも上からの押し付けにならぬよう、天皇親らが話しかけるような文体にして、政府を介さず、社会上の君主の著作公告として普及していくのが望ましい。
 井上はそのように考え、中村の草案の思想内容そのものに異論はなかったでしょうが、その体裁を問題にしたのでした。これは五箇条の御誓文の成立過程にも通ずる態度です。

 井上は思想風教の混乱を正す最後の砦として、苦心の末、草案を完成させました。それはほぼ成案に近いものでしたが、彼は同郷の先輩で、天皇の信頼篤く、今や君徳培養における師となっていた元田に草案を示し、意見を請います。井上はかつての論争相手であった元田の主張の妥当性そのものは認めていたのです。
 実は元田もまた、中村の草案に不満を抱いていて、自ら草案を認めていました。それはまさに、明治天皇に講じてきた内容であり、儒教思想とわが国古来の惟神の道が習合した内容でした。天皇の最側近としての元田と法制官僚の井上では、政事的配慮という点で違いはありましたが、同じ思想的基盤、すなわち神儒習合的天皇親政論という点で一致していましたから、元田は井上の基本方針を諒とし、草案に少しの修正を加えただけで、ほぼそのまま受け入れたようです。
 井上はさらに深思熟考の上、最終案を内閣に提出、文部省で若干の修正を加えて、七月末に上奏されました。天皇もまた深思熟考されたようで、八月下旬になって、最終的な勅語完成を元田が執り行うよう御沙汰が下ります。その際、文案中段にある修身徳目が叡慮に叶わなかったということで、この部分に修正を加えた元田は、体調不良で転地療養中の井上に意見を求めます。二人はこの勅語が万古不易の道となるよう、心力を尽します。やはり元田の案は漢学の口吻を免れることが出来ず、井上はこれを大幅に削り、元の井上案に近いものに戻しました。しかし、これは公平無私に深思熟考した結果の修正というべきであって、私見に固執したわけではありませんでしたから、元田もこれを「再三拝読して一々その修正に敬服の外これなく」と概ねほとんど受け入れました。後は字句上の修正が何度かやり取りされましたが、われわれ現代日本人にはなかなか理解しがたい高尚なやり取りであったといえるでしょう。
 天皇はその文案を嘉納され、もう一度内閣における検討を命じました。
 政府内でさらに討議が行われる過程で、外部の学者等からも意見聴取が行われましたが、井上はこれを聞いて、落ち葉を拾うようなものであった、と回顧しています。自分たちが敢えて削り落とした言の葉を拾っている、という意味です。 芳川文部大臣が回顧するところによれば、案の定、忠信孝悌などはシナの道徳であるとの批判もあったようですが、わが国開闢以来自有の道徳である、と論じてこれを黙らせました。これはその通りで、だから概念は儒教の徳目で表現されていても、それは「つくりかへる力」によって國風化された、言わば神儒習合の思想になっています。たとえば、わかりやすいところで言えば、シナでは忠と孝は対立するもので、どちらを優先すべきかという命題に繋がりますが、日本においては古来忠孝一致で、対立より調和するものとされてきました。また夫婦別有りは、日本においては夫婦相和しというのがあるべき夫婦観となっています。これは制度上もそうなっていて、シナや朝鮮半島においては夫婦別姓ですが、日本は夫の姓を名乗る男系が基本となっています。日本において夫婦別姓を唱える人に大陸のアイデンティティを持つ人が多いのはそのためです。
 それはともかく、以上のような慎重な審議を経て、十月二十日、内閣案が決定し上奏されました。同三十日、天皇の裁可を経て、教育勅語は下賜されました。

 朕惟ふに、我が皇祖皇宗、國を肇むること宏遠に、德を樹つること深厚なり。我が臣民、克く忠に、克く孝に、億兆心を一にして、世世厥の美を濟せるは、此れ我が國體の精華にして、敎育の淵源亦實に此に存す。爾臣民、父母に孝に、兄弟に友に、夫婦相和し、朋友相信じ、恭儉己れを持し、博愛衆に及ぼし、學を修め、業を習ひ、以て智能を啓發し、德器を成就し、進で公益を廣め、世務を開き、常に國憲を重じ、國法に遵ひ、一旦緩急あれば義勇公に奉じ、以て天壤無窮の皇運を扶翼すべし。是の如きは、獨り朕が忠良の臣民たるのみならず、又以て爾祖先の遺風を顯彰するに足らん。
 斯の道は、實に我が皇祖皇宗の遺訓にして、子孫臣民の俱に遵守すべき所。之を古今に通じて謬らず、之を中外に施して悖らず。朕、爾臣民と俱に、拳々服膺して、すなわち咸其德を一にせんことを庶幾ふ。
明治二十三年十月三十日
御名御璽


現代語訳
「私が思うには、わが皇室の先祖が国を始められたのは、はるか遠い昔のことで、代々築かれてきた徳は深く厚いものでした。わが国民は忠義と孝行をよく尽くし、全国民が心を一つにして、世々にわたって立派な行いをしてきたことは、わが国のすぐれたところであり(国體の精華)、教育の根源もまたそこにあります。
 あなたたち国民は、父母に孝行し、兄弟仲良くし、夫婦は互いに和して、友達とは互いに信じあい、謙虚にして慎み深く振舞い、他人に博愛の手を差し伸べ、学問を修め、事業を習い、それによって知能をさらに開き起こし、徳と才能の完成に努め、進んで公共の利益や世間の務めに尽力し、いつも憲法を重んじ、法律を遵守し、そしてもし危急の事態が生じたら、正義心から勇気を持って公のために奉仕し、それによって天地とともに永遠に続く皇室の運命を助けるようにしなさい。これらのことは、単にあなた方が忠義心あつく善良な国民であるということだけではなく、あなた方の祖先が残した良い風習を褒め称えることでもあります。
 このような道は、実にわが皇室の祖先が遺された教訓であり、その子孫と国民が共に守っていかねばならぬこと。昔も今も変わらず、国の内外をも問わず、間違いのない道理です。私はあなた方国民と共にこの教えを胸中に銘記して守り、皆一致して立派な行いをしてゆくことを切に願っています。
明治二十三年十月三十日
天皇の署名と印璽」

 翌三十一日、芳川文部大臣の訓令により、各公私立学校に公布されました。
第一高等学校では勅語奉読の式典において、教員であったプロテスタント内村鑑三が、偶像崇拝禁止の教義に反するということで、最敬礼を行わなかったということで問題になり、マスコミで取り上げられて、井上の配慮も虚しく、國體とキリスト教の問題にまで発展してしまいました。
 内村は最敬礼しなかっただけで、敬礼は行ったのでしたが、問題となったため、校長の説得により最敬礼することを受け入れましたが、折悪しく、重度の流感に罹り、機会を失ったまま辞職に追い込まれ、同じく流感に罹った妻が心労も重なって亡くなるという悲劇に見舞われ、餓死を覚悟するような極限状態にまで追い込まれたといいます。この件で彼が信仰を深めたことは想像に難くありません。彼は皇室崇敬の念では人後に落ちない愛国的クリスチャンでしたが、このような事件は、元田や井上が望むどころか、回避しようと苦心したところでした。内村は、要は生徒たちから総スカンを食らったわけですが、教育勅語が日本のある種の伝統、それも明治維新そのものを成り立たせた精神伝統を集約させたものであったことを考えると、生徒たち、そして彼らに突き上げられた校長がこういった対応を取らざるを得なかったことも無理もないように思えるのです。

 元田はこの畢生の大業を見届けるかのように、二十四年正月二十一日に逝去しました。
 一方の井上は二年後の二十六年、第二次伊藤内閣の文部大臣に就任し、教育勅語を主柱にした修身科を創設、尋常小学校の教育課程に組み込んで、一般国民に勅語の精神を浸透させることになります。二十四年の「小学校教則大綱」にある「修身は教育に関する勅語の旨趣に基づき、児童の良心を啓培してその徳性を涵養し、人道実践の方法を以て要旨とし…」の徹底化を図り、その道筋を作った任期半ばの二十八年、肺結核を悪化させ、精魂を絞りつくしたかのように逝去しました。享年五十一。
 
 井上は生前、勅語の勝手な注釈書が出回っている状況を見て、解釈する前に勅語を勅語として語らしめよ、と言っていたといいますが、これは漢文の素読と同じ学習法であり、人生経験や境遇によって酌み出す意味が変わってくる以上、我田引水的な固定的解釈より、そのまま、この簡潔にして格調高い文章を暗誦して、血肉と化しておいてほしい、ということでしょう。彼は明治天皇の君徳と当代の叡智を結集し、伝統を集約するために、文字通り心血を注いだこの文章が、『論語』に代表される古典のように、普遍性を持ちながらも、将来の日本人にとっての古典となりうる、格調の高いものであることを信じて疑わなかったのでしょう。

 一方で、教育勅語は、尋常小学校の修身の教科書では古今東西の逸話を絵入りで伝えるという、「小学条目二件」で示された低学年の児童用教科書には「忠臣義士孝子節婦」の画像を掲げ、脳髄に感覚せしめてから知育に入れ、という明治天皇の大御心に沿って、国民の徳育培養に大きな成果を挙げました。四年生以上の高学年の教科書には冒頭に教育勅語が掲げられ、これらは井上の主張通り、修身であると同時に、国語・国史・伝統の、すなわち國體の優れた教科書でもありました。これらの教育は昭和二十年十二月、占領軍が修身・国史・地理の授業停止とこれまで使われてきた教科書の破棄を強制するまで続いたのです。教育勅語は同二十一年十月、奉読や神格的扱いが禁止され、翌二十三年六月十九日、衆議院で「教育勅語等の排除に関する決議」、参議院で「教育勅語等の失効確認に関する決議」がそれぞれ決議され、学校教育から排除失効、謄本は回収し処分されたのです。検閲や焚書と同様の趣旨の処置であったことがわかるでしょう。
 敵に抜かれた日本人の魂は、確かにここに在るのです。

 大日本帝国憲法発布と教育勅語発布。こういった国家的盛業の陰にあって、憲法発布の特赦により、西郷隆盛の賊名が解かれ、正三位を追贈されました。
 旧庄内藩の家老であり、西郷に親炙した菅実秀は、これを機に、旧藩士が座右の銘としていた西郷から与えられ大事に温めてきた訓戒や談話を編集し、出版しました。初版には副島種臣の序文が巻頭に据えられました。菅は同志の旧藩士六名をして全国を行脚させ、有志に頒布せしめました。これがすなわち、世に西郷南洲翁の遺訓として伝わるものの起源です。大東亜戦争直前の昭和十四年には岩波文庫に入って以降現在まで版を重ねていて、今や古典として揺るぎない地位を獲得していると言ってよいでしょう。
 戦前の庶民における西郷人気は絶大で、国難に直面するたびに想起されました。明治三十一年には上野に高村光雲作の銅像が据えられました。昭和に入ってすぐに『大西郷全集』が編纂され、大東亜戦争開戦の直前には『西郷隆盛書簡大成』が編纂されています。
 徳富蘇峰は、大正十五年の西郷南洲先生五十年記念講演会において、次の発言をしています。

「國民がその國の偉人、その國の豪傑、そういう人々を尊敬し、嘆美し、従って崇拝することの出来る間は、その國民は、まだ血が通っている國民である。他にいろいろ弱点があっても、欠点があっても、醜態があっても、幾らか取柄のある國民である。しかしながら、偉人を偉人とせず、豪傑を豪傑とせず、崇拝、嘆美、称讃、欽慕というようなことを、一切除外してしまうような國民になった時には、最早これは済(さい)度(ど)し難きものであると思います。私は、南洲翁を慕うという國民の心が実に有難い。こういう心がある間は、日本はまだまだ大丈夫である。これが無くなる時には、恐らくは國が亡びる時と思います。」

 現在でも西郷人気はありますが、国民一般における西郷像はどんどん実像とはかけ離れたものとなっているようです。これを喜んでいいものかどうか。
 南洲翁の精神・思想を手っ取り早く知るには薄い冊子である遺訓が最適ですが、筆者がこの根幹になっている思想が儒教である、と言うと納得しない人がいます。確かに日本化した儒教と表現するのが的確で、それは教育勅語と同じ思想的機軸を持っていると言えます。
 井上の言い方を借りるなら、草莽に根を下ろした國體の元素としての歴史・文学・慣習・言語の集約したものであり、われわれ日本人が愛護すべきものと言えるでしょう。
 しかし、それは教育勅語とは違い、政事的配慮が不要であった分、その思想の核心となる「敬天愛人」の思想が前面に出ています。筆者はそういった立場に立って、語り継いでいかなければならないものとして『西郷南洲翁遺訓と超近代的解説』という書を上梓したしました。
 もはや当時、井上が配慮せざるを得なかった政治的配慮は必要ありません。
いまや何度も繰り返し押し寄せるグローバリズムの波に、ことごとく解体されようとしている日本人の心「やまとごころ」を再生させる上で、むしろそのことは前面に押し出して、どのような中身を持つものであったのか、明らかにされてしかるべきだと思われるからです。
 教育勅語にせよ、南洲翁遺訓にせよ、いや明治維新そのものが、神儒習合を機軸とする天道信仰に突き動かされて成った王政復古討幕に始まる、維新回天の偉業でした。
 それはこれまで見て来た経緯からも明らかだと思います。

 幕末、尊王の総本山である水戸藩の「弘道館」の名の由来となった孔子の言葉「人能く道を弘む。道、人を弘むるに非ず」は、西南戦争を契機にその精神に覚醒された明治大帝によって、「やまとごころ」で濾過された上で、

ちはやふる 神のひらきし 道をまた ひらくは人の ちからなりけり

という御製に結晶しました。
 それはどこまでも惟神の道であり、日本の心として、
 むしろ、草莽の精神に沈殿していくのです。

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