天皇親政をめぐる論争-大日本帝国における維新精神の継承(一) 【『皇室と論語』(十六)】

 「維新」という言葉は、詩経にある「周は旧邦なりと雖も、その命は維(こ)れ新たなり」に由来していて、革命とは異なります。あくまでも王朝政治の復古を表しますが、古色蒼然たるままの復古ということではありません。
 当時の教養人の必読書の一つである『大学』は、上の詩経の言葉を引用して、次のように述べています。

「康誥」に曰く「克(よ)く徳を明らかにす」、「大甲」に曰く「天の明命を顧(おも)い諟(ただ)す」、「帝典」に曰く「克く峻徳を明らかにす」と。(以上は『書経』の三篇からの引用)
湯の盤の銘に曰く「苟(まこと)に日に新たに、日日に新たに、また日に新たなれ。」
康誥に曰く「新たなる民を作(おこ)せ」
詩に曰く「周は旧邦と雖も、その命は惟れ新たなり。」
この故に、君子はその極を用いざる所なし。

 要するに日々更新されていく中で、古い核心となるものを守っていく精神を維新というのです。御一新はその古い核心を守るために行われたわけで、それは維新の現象面を表した言葉だということが出来ます。すでに触れたように五箇条の御誓文は、横井小楠の弟子である三岡八郎(由利公正)が後に述べているように『中庸』を中心とする四書の思想に基づいて書いたもので、これを木戸孝允が日本の風土に合うよう文言における修正を加えたものです。
 西郷を中心とする王政復古運動はこの精神にのっとったものであったのは見て来たとおりですが、外遊してからの大久保の政事的迷走はこれを大きく毀損するものでした。

 西郷は勢に制せられて起つことを余儀なくされながらも、理を尽して後熊本へ進み、触視するところの形跡から勢を審らかにし、開戦を決意しました。彼は天下の人心を動かし、これを勢として引き寄せることで、日本をも飲み込まんとしている西欧近代主義の大勢に抗わんとしましたが、天下の有志の総決起を誘発するには至りませんでした。しかし、実は呼応しようという者は決して少なくなかったのです。
 『西南記伝』によると薩軍への呼応者は次の通りでした。

  熊本隊、協同隊及び龍口隊・・・二千五百人
  高鍋隊         ・・・千百二十余人
  延岡隊         ・・・千余人
  飫肥(おび)隊     ・・・八百余人
  佐土原隊        ・・・四百余人
  報国隊         ・・・千余人
  人吉隊         ・・・百五十余人
  中津隊         ・・・百五十余人

 熊本隊とは学校党の事で、首領は池辺吉十郎。協同隊とは民権党のことで、宮崎八郎等を中心に三百に満たない人数でした。龍口隊は、旧熊本藩馬術師範中津大四郎の一派で、専ら薩軍の熊本における糧食方に当りました。熊本の呼応者はここが戦地だったこともあって、いずれも合流が早かったのです。
 日向飫肥隊は二月二十五日より熊本の薩軍と合流。彼らは西郷の決起決断当初から県令の大山と連絡があり、十七日には出軍し、二十五日には熊本で薩軍と合流しています。隊長の小倉処平は後から隊に合流しましたが、二年間英国に留学したことのある俊才でした。
 佐土原隊とは、島津家の分家である旧佐土原藩主島津忠寛の第三子啓二郎を中心とする一派で、十九日佐土原を発し、二十七日より薩軍に合流しました。島津啓二郎は出軍準備の過程で、本家の島津家に軍資金の借用を申し入れましたが、断られています。この島津啓二郎は七年間に亘って、米アナポリス海軍兵学校で学んだという人物で、自由民権論者でした。
 中津隊は、三月三十一日増田宗太郎と同志四十名が挙兵し、仲間を増やして、四月五日薩軍に合流したものです。増田は福沢諭吉の再従弟で、帰省した洋学者の福沢を洋夷かぶれとして暗殺を企てたこともある人物で、そのことは福沢の自伝『福翁自伝』にも出てきますが、明治三年八月藩命により、また明治九年二月には自発的に慶応義塾に学んだこともあったから決して偏狭な人物などではありませんでした。ただその学問の基礎は、幼少以来学んだ水戸学にあったようです。また母の実家は代々神官を務めていたといいます。後に「宗さん」が薩軍に加わったことを知った福沢は「中津から宗太郎が出たのは、灰吹きから龍が出たようなものだ」とまで言いました。その彼が中津隊の解散に臨んで、「吾ここに来り、始めて親しく西郷先生に接することを得たり、一日先生に接すれば一日の愛生ず。三日先生に接すれば三日の愛生ず。親愛日に加わり、去るべくもあらず。今は善も悪も死生を共にせんのみ」と言って、同志を郷土に帰し、自らは九月四日に戦死するまで薩軍と行動を共にしたというのは有名な逸話です。

 これらは全て自発的に呼応した者達です。これに私学校党一万三千、開戦後薩軍が薩摩・日向・大隈の三州から臨時徴集した兵員である徴募隊一万を加えると、総勢三万余りで西南戦争を戦ったことになります。しかし、戦後早い時期に調べた数字をもとに作成された『西南事件の概表』は薩軍の総数を四万人以上としていますから、実態はこれをかなり上回ると見た方がよさそうです。戦争終結後、政府による薩軍従軍者・協力者への追及は厳しく、また多くの血縁親族が敵味方に分かれて戦ったこともあって、関係者が固く口を閉ざし、熊本攻防戦に薩軍が破れてからの参加者の実態がつかみきれないという事情が存在しました。つまり、総勢三万というのは、最低限の数字ということになります。
このほかにも、山口では五月三十日に町田梅之進が同志百数十名とともに挙兵し、福岡では越智彦四郎(矯志社)・武部小四郎(強忍社)らが党員五六百名を糾合して挙兵しようとし、三月二十八日鎮台分営のある福岡城及び県庁・警察署襲撃を企てましたが失敗。岩手でも旧盛岡藩士三百名が挙兵未遂事件を起こしています。

 高知では林有造らが挙兵を企て、武器弾薬を調達して大坂を突くつもりでしたが、未遂に終わっています。これには、薩閥打破を目論み、西南の騒乱を機に政府改造を図ろうと策謀していた陸奥宗光が関わっていました。彼は当初、政府軍が兵の不足に悩んで紀州の募兵を行おうとしたことに付け込んで、これを土佐の兵とともに大坂鎮台を突かしめる兵に転じようと画策しましたが、果たせませんでした。

 これらの運動は結局政府、特に内務省を牛耳る大久保に常に先んじられ、密偵の暗躍によって時機を失いましたが、民撰議院設立の建白の延長線上にある憲政体設立の建白書となって結実することになります。結果的に薩軍の闘いに寄与するところはほとんどありませんでしたが、西南戦争終結後の反政府運動に一定の方向性を与え、明治二十三年の帝国議会の開設に結実することになりますから、全く無駄であったとはいえません。これも西郷の蹶起が動かした人心の一つということができるかと思います。
 
 西郷崇拝の篤い庄内は起ちませんでしたが、これは西郷と肝胆相照らす仲の菅実秀が「この挙兵が西郷先生の真意から出たものなら、必ず自分に連絡があるはずだが、その連絡が無いところから、先生とは無関係に始まった戦いである」と考え、はやり立つ壮士輩を押さえたからです。

 このように西郷に呼応しようという心情は全国各地に存在していました。西郷の三月二日付の大山宛書簡にあった「諸県より何等の趣旨か承りたし」と照会があったことは、彼らの挙兵に関する各地の関心に並々ならぬものがあったことを示すものです。

 天下の人心を動かしたという点で何よりも重要なのが、彼らの決起が、彼らと政治的だけでなく軍事的にも対立している政府の今や私するところとなっている、明治天皇の心をも動かしたらしいことです。

 それは明確に意識化され、行動化されたわけではありませんでしたが、政務拒否という消極的な態度となって表れました。西郷の決起はおそらく明治天皇の伝統的感情に訴えかけるところがあったのです。薩軍の立場についての理解を可能にする情報が、ほとんど遮断されている環境にいたにも関わらず、です。
天皇がまだ十六歳であった慶応三年十二月九日の王政復古の大号令以来、十年間に亘って、その周囲を王政復古派で固められ、太政官の決定したことを積極的に受け入れてきた天皇が、政府に対し拒絶的態度を示すなどということはありませんでした。
 『明治天皇紀』の記事によれば、大和国より京都への還幸後、天皇の態度に明らかにこれまでとは違ったものが観察されるようになったようです。

「京都に行幸以来、宮殿御間取の都合により、日夜常御殿に在らせられ、拝謁者御引見の時を措きては御学問所に出御あらせられず、大和国より還幸の後もまた同じくして、唯毎朝西南事変に就き、太政大臣三条実美よりその概要を聴きたまうのみ。而して常御殿にありては女官左右に奉事し、大臣・参議と雖も、九等出仕を経ずば天顔に咫尺するを得ず。」

 行幸に供奉していた近臣らが心配し、再三諫奏に及んでも、天皇は態度をなかなか改めなかったといいます。熊本攻防戦たけなわの三月二十一日、『明治天皇紀』の記事によれば、天皇は隔日に学問所に出てゆくと言ったといいますが、事態は改善されませんでした。
 そして、二十五日の記事は興味深いことを記しています。

「日々深宮を出でたまわず。僅かに二月二十一日・三月十八日の両日、御所内馬場にて乗馬あらせられしのみ。」

 三月二十五日にも天皇は馬に乗っていますが、これは木戸の説得により二時間だけ京都市中を巡回したという自発的なものではありませんでした。飛鳥井雅道氏の『明治大帝』によると明治八年の天皇の乗馬は二百二十五回に及んだといいますから、明らかに異常な態度です。
 明治四年七月前後の大改革において、西郷・大久保らは宮中改革に意を注ぎました。結局は、吉井友実が宮中改革に鋭意取り組むことになりましたが、そもそもこれに自ら任じようと強い意欲を示していたのは、大蔵卿になって洋行した大久保でした。吉井は、大久保が諸事情から大蔵省を担当せざるを得なくなったため、代わりにこれを行ったのです。大久保はこの改革に先立って、天皇の侍従に、横井小楠の弟子として肥後で評判の高い老儒元田永孚(ながざね)を推薦しています。
 この時の大改革において、結局は当初予定されていなかった廃藩置県が断行されたため、そちらに関心が向けられがちですが、本来は天皇親政という改革の大眼目としての宮中改革が西郷と大久保の間で予定されていたのです。西郷は天皇の侍従を硬骨な武士で固めて、天皇の英気を養成しようと考え、村田新八や山岡鉄太郎など、西郷に近い人物が侍従に挙げられました。そして、おそらく西郷は謹厳で実行力旺盛な大久保を改革の適任者と認めていたのでしょう。これに代った吉井は鋭意これに取り組んで、満足行く成果を挙げ、西郷を喜ばせました。

 西郷が天皇の成長ぶりを伝えた叔父椎原国幹宛の書簡(明治四年十二月十一日付)の中で乗馬に関するくだりを引用します。

「色々御変革相成り候内、喜ぶべく貴ぶべき儀は、主上の御身辺の御事に御座候。…(中略)…御馬は天気さえ能く候えば、毎日御乗り遊ばされ候て、両三日中より御親兵を一小隊ずつ召し呼ばれ、調練遊ばされ候御つもりに御座候。これよりは隔日の御調練と申す御極まりに御座候。是非大隊を御自親(おんみずから)御率い遊ばされ、大元帥は自ら遊ばさるとの御沙汰に相成り、何とも恐れ入り候次第、有り難き御事に御座候。」
 
 天皇の乗馬は、不明確ながら即位以降記録にしばしば見られるといいますが、それが日常的に取り入れられたのは、この明治四年の宮中改革からであったのです。当然西郷の書簡からわかるように、それは大元帥としての、すなわち天皇親政(親征)と深く結びついてのものでありました。おそらく天皇にとって、この軍隊の統帥の面においての、模範というか、師範となっていたのが、当時倒幕を遂行した天下無比の武将と考えられ、翌明治五年七月には陸軍大将となる西郷ではなかったかと拝察されるのです。

 高島鞆之助の談話には「翁(西郷)は元帥だったのじゃが、その後、陛下が大元帥で御居でになるという事を知られてからは、決して元帥の称号を用いず、いつも陸軍大将だけで済まされたのじゃ」(『大西郷秘史』)とありますが、今回の西南戦争で西郷が国家危急の際には、陸軍大将たる自分に兵を統帥するという大元帥の権限の一部が潜在的に含まれていると解釈していたことは明らかで、大元帥たる天皇とこれに次ぐ統帥の権限を有する陸軍大将たる西郷の間に、他人では窺い知ることの出来ない、暗黙の意志の疎通があったとしても不思議ではありませんでした。

 明治六年四月末、二日間に亘って、天皇親臨のもと、近衛兵二千八百名の演習が下総国千葉郡大和田村で行われました。これを記念して、この地は習志野と改名されたのですが、この間は連日の大雨であったといいます。明治三年の観兵式の際も天気が大荒れで中止を余儀なくされましたが、習志野では天気が荒れて天幕が倒れそうになり、近衛都督である西郷が心配して駈け付けると、天皇は「雨がもるのだけが困る」と仰ったという逸話があります。また少し遡って、明治五年六月の九州地方行幸の際、熊本において、供奉の西郷と海軍少輔川村純義が、船の出港のことで激しい口喧嘩となった際も、天皇は二階の玉座からこれを眺め、西郷の死後も、侍従との会食において、この思い出をしばしば物語ったことがありました。
 維新の元勲中、西郷が天皇の心の中で特別な位置を占めていたことは明らかでしょう。

 西南戦争勃発後の天皇の政務拒否と、大元帥としてのあり方と肉体的に密接に結び付いている乗馬を取り止めたことと、西南の地で陸軍大将として政府に激しい戦いを挑んでいる西郷への感情を結び付けることは決して強引なこじつけではないのです。天皇の乗馬は、戦争が終結してしばらく経った十一月頃再開されています。
 もちろん聡明な明治天皇は、西郷の武力蜂起が閣議の決定を受けた三条の上奏を受け入れるだけの自分への反抗ではなく、政府を牛耳っている三条・岩倉以下への反抗であることがよくわかっていたでしょう。西郷が征討将軍である有栖川宮熾仁親王に対し伝えようとした、天子の御親戚でありながら政府の非道に加担し、失徳を醸すとは何事か、という趣旨の批判は、直感的なものではありながら、明治天皇にも伝わって、心を深く動かしていたとしか思えないのです。

 昭和天皇が昭和十六年日米開戦の決断を迫られて詠んだ、明治天皇の有名な御製があります。

「よも(四方)の海 みなはらから(同胞)と 思う世に、など波風の たちさわぐらむ」

 日本の存亡を賭けた日露戦争に際して、明治天皇が詠んだとされる御製ですが、実は西南戦争に際して読まれた御製であったとの説があります。詠まれている内容からみて、この説のほうがしっくりと来るように思えます。
 四方の海に、つまり世界に、皆はらからと漕ぎ出そうと思っている時代なのに、なぜ波風が立ち騒がなければならないのであろうか。
 明治天皇の西南戦争勃発における態度と西郷に対する信頼を頭に置いて、この歌を読むとその切実な思いがひしひしと伝わってきませんか。

 天皇は戦争の大勢が決した七月末には東京に還幸しましたが、戦争中を通じて政務に対する不熱心は変わらず、月に四乃至六度しか太政官代に出向かなかったといいます。
 渡辺幾次郎の『明治天皇の聖徳・重臣』には何に取材したものか不明ながら、次のような記事があります。

「明治十年秋の頃であった。或る日皇后や女官等に西郷隆盛という題を賜うて和歌を詠じさせた。西郷の罪過を誹らないで詠ぜよ、唯今回の暴挙のみを論ずるときは、維新の大功を蔽うことになるから注意せよ、と仰せられた。」
 
 激しい犠牲を伴った半年以上に亘る内戦がようやく終わった頃に、政府が必死に討滅の努力を行い、新聞が挙って激しい非難を書き立てた、当の賊たる西郷にこのような配慮を示した明治天皇が、政府と距離を取ろうとし、西郷贔屓の感情を有していたことは明らかでした。

 そして、明らかにこの戦争を経て、天皇は君主としての態度を改めるに至るのです。
 それは当面、政府に対する不信感に基づく政務拒否という態度になって現れました。この状態を憂いた大久保利通、伊藤博文は、君徳育成のための侍補制度を作りました。これが、薩軍が延岡に追い詰められて、起死回生の可愛岳突破を試みた頃、明治十年八月の事です。この時、二等侍補に択ばれたのが、明治四年の宮中改革で侍講に抜擢されていた旧肥後藩士で、横井小楠の弟子元田永孚です。勝海舟はこの老儒を「温良恭謙譲の人」と評しています。
 
 侍講時代の元田は明治天皇に『論語』の講義を行ってきました。彼はいわば漢学担当で、ほかに洋学担当の加藤弘之、国学担当の福羽美静が侍講を務めました。西南戦争中の五月には、明治天皇に「十事の疏」という儒教的君主観に基づく献言を行っています。
 侍補は、その役割をさらに一歩進めて、天皇の君徳大成を補佐・補導する役目です。すでに天皇の信頼を得ていた元田は鋭意これに取り組むこととなりました。彼はまず『論語』の講義を実践的な立場から新たにやり直し始めた。
 天皇が『三国志』の英雄、なかんずく張飛を好んでいることを知った元田は、「張飛の声大なりと雖も、堯舜の声に及ばず。堯舜の勇は万邦も協和す。張飛に勝れること万々」と言ったといいます。つまり、元田は若き天皇に古代シナの伝説的聖天子である堯・舜たれ、と説いたのです。これは天皇親政の主張であり、師である横井や西郷の國體観と同じでした。
 『論語』は天皇親政の教科書と位置づけられていました。西郷が「遺訓」第二十三条で「堯舜を以て手本とし、孔夫子を教師とせよ」と言っていたことを想起すれば、そこに通底する精神が見えてくるはずです。
 
 天皇親政は洋行以前の大久保の國體観でもありましたが、西洋視察後の彼が、君徳養成の重要性は認識しつつも、天皇親政の國體観まで維持していたかは疑わしい。彼は征韓論で閣議が割れた際、議論では完全に征韓派に敗れましたが、いざ奏上の段になって、太政大臣三条実美が精神錯乱に陥ったのを奇禍として、裏から手を回して、同志と言っていい岩倉を太政大臣の代理となし、征韓派と天皇を遮断する陰謀を張り巡らすと同時に、偽りの報告書を起草、奏上して、征韓派を政府から追い出しました。彼には彼の正義がありましたが、その目的は政府延いては国家の柱石としての薩長閥の防御にあり、そのために重要な外交事案を犠牲にさえしたのです。
 彼は外政には疎い、内政重視の政事家であり、君徳培養の必要性は認めても、政事と君徳は必ずしも一致する必要性を感じていなかった節があるのです。少なくとも西洋実見後の彼はその傾向が強いように思われます。
 この政府破裂後、大久保はその反作用の対策に追われ、内乱を誘発するわ、反対したはずの外征を実施するわで、政府は迷走に迷走を繰り返し、そして西南戦争に至るのです。
 事の発端は薩長閥の防御にあったから、天皇の彼らへの依頼をいいことに、しばしば敵対勢力と天皇を遮断し、天皇を欺くこともしばしばでした。さらに天皇の意見が彼らの意見と合わぬ場合は黙殺することもよくあったらしい。彼ら、すなわち、明治六年の閣議でいわゆる征韓論に反対した元勲は、外部から見て天皇を私しているかの観があり、また、そう非難されても仕方ない事実もあったのです。西郷の決起によって、明治天皇はそういった状態に置かれていることにようやく気づかれたらしいのです。

 西郷は幕末以来、同じ価値規範、同じ國體観に基づいて行動していました。
 西南戦争も同じであり、この戦争には、欧化の勢に対する抵抗の意義を秘めていました。
 武力による抵抗は、この戦争を以て終焉しましたが、その葛藤は国家の中枢の中の中枢、すなわち天皇の周辺で継続することになるのです。
 元田は侍補就任と共に、同志の侍補、佐々木高行、高崎正風、吉井友実(一等侍補)と共に、彼らが人物と認めていた大久保を宮内卿に就任させ、共に親政運動を展開しようとしました。
 吉井は西郷・大久保とは幼なじみであり、そもそも明治四年の宮中改革で、やむを得ず大蔵卿に就任した大久保に代わって宮内大丞、宮内少輔を務め、宮中改革を断行してきた人物です。
 彼らは大久保本人の同意を得、三条・岩倉の了解を取り付けました。大久保にとってある意味、征韓論破裂の後始末である西南戦争の終わりが見えつつある今、有司専制の批判を受け入れ、彼本来の理想である天皇親政に立ち返って、天皇と有司、すなわち権威と権力の一体化を進めることで政府基盤を盤石にしていく好機会であったといえます。ただし、大久保の内務卿と宮内卿の兼務は不可であり、内務卿は今や大久保の腹心となっている伊藤博文に引き受けてもらう必要がありました。
 彼らは伊藤の説得を試みることにしました。
 
 明治十一年五月十四日早朝、吉井・元田・高崎・佐々木は高崎邸で会し、元田はかねてからの予定通り、午前八時からの御進講のために参内し、高崎・佐々木は伊藤を訪れました。
 伊藤はこの日の事を後に次のように語っています。

「…すると翌朝佐々木高行、高崎正風の二人が遣って来て、当時君側にある侍補の事に付て、侍補だけでは君徳の培養が不十分であるから、どうぞ大久保公に、宮内省の方も兼ねて君側の方にも尽力する様に働いて呉れんかと云う話をして居る中に、大久保公から手紙が来た。今から私は直ぐ参朝するから、君も直ぐに来て下さいと云う文意である。」

 佐々木の日記によれば、伊藤は賛成したとのことですが、彼は大久保からの参内の要請を受けて、佐々木・高崎に断って、直ぐ参内の仕度に取り掛かりました。
 一方、元田の方は、天皇への『論語』の講義を始めたばかりでした。
 元田が「御前に出て『論語』の一章を講じ、未だ二、三言を終らざる」うちに、異変が伝えられました。参朝途上の大久保が凶徒に襲われたというのです。世に言う紀尾井坂の変です。
 犯人は征韓派の石川県旧士族でした。
 征韓論政変から西南戦争勃発を経て、西郷の城山での死、大久保の遭難によって終わる一連の大事件は矮小化されて論じられていて、これが明治国家のあり方、すなわち國體に関する問題を孕んでいたことは余り知られていません。

 大久保の遭難は国際社会の荒波に乗り出したばかりの明治日本にとって大きな損失であり、同志達を悲歎せしめました。
 翌日、元田永孚等同志の侍補は協議して、明治天皇へ建言を行うことで一決しました。通常、建言は、三条・岩倉の両大臣に告げた後、行われるのが通例でしたが、事変勃発の非常時ということで常例によらず、一同拝謁を願い出て、建言に及ぶことにしたのです。
 一同は御前に列座、上席より順に一人ずつ意見を言上しました。その趣旨は、万機親裁、臣下に御依頼なきように、とのことでした。天皇はこれらの忠言を嘉納し、将来いよいよ心を尽して助けよ、との言葉を与えられました。一同感泣して御前を退いた、とは元田の回想です。
 彼らが心配していたのは、維新の鴻業がこのままでは建武の中興の轍を踏んでしまうというところにありました。なぜなら、大久保を暗殺した犯人の斬奸状にあったように、今の政府の現状は、上は天皇の御意に出るにあらず、下は人民の公論に出るにあらずで、二三の大臣が政事を専らにしている状況にあり、これでは、足利尊氏ら有力武家の離反で挫折した建武の中興を想起せずにはいられなかったからです。

 皇政復古討幕運動は建武の中興の反省に立って行われたことを思えば、こういった心配がなされるのはむしろ健全なことでした。すでにこの数年、士族の叛乱が相次いで起きた事は彼らの危機感をより一層深刻なものにしていたのです。

 実は暗殺の直前、大久保は自宅を訪れた福島県令・山吉盛典に今後の抱負を述べていました。
 その趣旨は、明治三十年までを十年ごと三期に分け、最初の十年を創業の時となし、十一年、すなわちこの大久保が語っている時から二十年までを、内治を整え、民産を殖するための十年となし、続く二十一年から三十年までを、後進賢者による継承修飾の守成の時となす。自分はこの第二期の内務に尽力するつもりである、というもので、いわば彼の政事的遺言です。
 
 彼の抱負は良いとして、やはりここにも外交に対する配慮は見られません。大した戦略もなく、この国の外交に対する輿論の一つ、それも公論として有力な、いわゆる征韓論を葬り去ったのです。征韓論といえば誤解を受けますが、これはその内容からは正韓論というべきで、要は、より大きく、ロシアの南下を意識した東アジア政策の一部として位置づけられるべき外交政策でした。
 岩倉具視はかつて大久保を評して、識なし、才なし、ただ確固と動かぬのが長所である、という趣旨のことを述べたことがありましたが、やはりそういった長所は短所にもなりうるわけで、識なし、才なしの人物が重要な局面で誤った認識を持って確固と動かぬようであれば、あるいは、突き進むようなことがあれば、かえって政治的障害になるわけで、彼のそういった面が、明治六年の政変から明治十年までの混乱に大きな作用を及ぼした、というのが筆者の見解です。 
 
 西南戦争中に病没した炯眼な木戸孝允は、その死の直前には、問題の本質に気づいていたらしく、大久保に内務卿を辞任してもらい、朝廷の偏重を熟視し、西南戦争勃発という国家の艱難に道理を以て臨んでもらいたいとの希望を懐いていました。なぜなら、彼は大久保の人物は信頼し、敬服してもいたが、内務卿としては、専ら才子の説ばかりを用いて、行政に得意の色が見える、と観察していたからです。才子とはおそらく大隈重信や伊藤博文といった人物に代表される、後に大久保の後継者として明治政府を背負って立つ人材のことでしょうが、内務卿としての大久保が得意になってこれら才子を重用することが権力の偏重を生んでいたとも読めるわけです。これは征韓派、民権派の有司専制との批判にも通ずる見方です。この認識は侍補元田等の建言にも一脈つながっていて、人物の確かな大久保の宮内卿への転任による、内務省との切り離しという側面もあったように思えるのです。
 結局、元田等が、三条・岩倉に継いで維新の鴻業を補翼すべき者とした、西郷・木戸・大久保三人のうちの唯一の生き残りとして、明治天皇の君徳培養に尽力してもらいたいと依頼したその大久保もまた斃れてしまいました。
 そこで彼らは遂に、天皇御自身に親政の御覚悟を求めたわけですが、若き天皇もまたこれを嘉納されたのです。
 ここで政府の中心をなしつつある才子との衝突は必至となったといえます。
 
 元田らは両大臣・参議に、閣議における天皇の常時親臨、および侍補の臨席を説きました。
 これに対し、岩倉は不平の気色を面に現し、伊藤は強硬に反対しました。反対の理由は、宮中府中の別を立てなければならない、侍補の要求を受け入れれば隣国シナの宦官政治に堕してしまうとまで極論に及びました。
 天皇も官吏に訓戒するところがありました。西洋館を建てるのをやめよ、薩長土からの登用を抑え、各地方官から人材を選抜せよ、と。
 明治十一年秋の東北巡幸を経て、政府の欧化政策に対する天皇の懐疑はさらに深まります。翌十二年三月に天皇は侍輔の建議により「勤倹愛民」を旨とする内諭を下し、冗費を省き、民力を愛用するよう戒めますが、政府はこれを黙殺します。この時の侍輔の建言には、立憲政体樹立の含意があって、元老院の強化、内閣法制局の権限拡張による各省庁に対する統制力の強化などの分権により、内閣の権力の相対化が目指されました。元田はさらに六月、天皇親裁の実を挙げるために宸断による国会開設を建議し、日本独自の立憲政体を樹立するよう勧めます。
 それは「君民同治」という議会における多数派の見解が公論とされる英国流立憲政体ではなく、議会における公議輿論審議の過程から天皇親ら「その中を執る」ことで決定される日本流の立憲政体でした。「中」はもちろん真ん中ではなく「中庸」の意味で、朱子学的に解釈するなら、名分正しく大義、すなわち道理であるということです。これは西郷・大久保が一致一和して王政復古事業を進めた時、理想とし、彼ら自身も踏み行なった公議政体の在り方そのものでした。一方で欧米を視察してきた伊藤らは侍輔のみならず、天皇が政府の施策に介入してくることを、それが近代国家というものの政体に反する、ということで嫌いました。外遊後の大久保の国家観もこちらに入るでしょう。
 この天皇親政の在り方をめぐる対立は國體をいかに政体に反映させていくか、という対立でもあったのです。

 こういった中で、天皇及び侍補と政府の対立は深まっていき、十二年九月、フランス式の中央集権的な学校教育体系を導入した明治五年の学制に、アメリカ式の地方分権的な体系を取り入れた改正教育案が政府で審議されたのを機に、「教学の聖旨」が内務卿の伊藤に手渡されました。起草者は元田で、内容は次の通りです。

教学聖旨大旨(明治十二年)

「教学の要、仁義忠孝を明かにして、智識才藝を究め、以て人道を盡すは我祖訓國典の大旨、上下一般の教とする所なり。然るに輓近、専ら智識才藝のみを尚とび、文明開化の末に馳せ、品行を破り、風俗を傷ふ者少なからす。然る所以の者は、維新の始、首として陋習を破り知識を世界に廣むるの卓見を以て、一時西洋の所長を取り、日新の效を奏すと難ども、其流弊、仁義忠孝を後にし、徒に洋風是競ふに於ては將來の恐るる所、終に君臣父子の大義を知らざるに至らんも測る可からず。是、我邦、教学の本意に非ざる也。故に自今、以往祖宗の訓典に基づき、専ら仁義忠孝を明かにし、道徳の学は孔子を主として、人々誠實品行を尚とび、然る上、各科の学は其才器に隨て益々畏長し、道徳才藝本末全備して、大中至正の赦学、天下に布満せしめば、我邦獨立の精紳に於て宇内に恥ること無かる可し。」

小学條目二件 

「一 仁義忠孝の心は人皆之有り。然とも其幼少の始に其脳髄に感覚せしめて培養するに非れば、他の物事已に耳に入り、先入主となる時は、後、奈何とも爲す可からず。故に、當世小学校に給圖の設けあるに準し、古今の忠臣義士・孝子節婦の畫像・寫眞を掲げ、幼年生人校の始に先づ此畫像を示し、其行事の概略を説諭し、忠孝の大義を第一に脳髄に感覚せしめんことを要す。然る後に、諸物の名状を知しむれば、後來思孝の性に養成し、博物の挙に於て本末を誤ること無かるべし。

 一 去秋各縣の季校を巡覧し、親しく生徒の藝業を験するに、或は農商の子弟にして、其説く所、多くは高尚の空論のみ。甚きに至ては善く洋語を言ふと雖ども、之を邦語に譯すること能はず。此輩、他日業卒り、家に帰るとも、再たび本業に就き難く、又、高尚の空論にては官と爲るも無用なる可し。加之、其博聞に誇り、長上を侮り、縣官の妨害となるもの少なからざるべし。是皆、教学の其道を得ざるの弊害なり。故に農商には農商の学科を設け、高尚に馳せず、實地に基づき、他日学成る時は、其本業に帰りて、益々其業を盛大にするの教則あらんことを欲す。」

 これは西郷の遺訓の精神と同じものであり、征韓論争から西南戦争における文明史的意義を引き継いだものといえます。この時点で、明治天皇は西欧近代文明移入の害を洞察しておられたのです。
 起草者は元田だったとは言え、明治天皇の大御心である「教学聖旨」に反発した伊藤は、開化思想と科学主義を基調とする「教育議」を奏上に及びました。こちらの起草者は井上毅です。西洋を実見してきた彼らとしては、彼らなりの忠義心から、このような大胆な反論に及んだのです。
 もちろん、これに元田が納得するはずがなく、「教育議附議」を書いて、伊藤の論を一つ一つ反駁しました。その中で、元田は本質論を述べます。
 西洋にも修身学はあるが、これは君臣の義薄く、夫婦の倫を父子の上に置く以上、四書五経の上に出るものではない。これは彼らの国教であるキリスト教に由来しているからであり、わが国の道に悖るものである。だから四書五経を中心とし、これを国学の倫理に関するもので補い、その上で西洋の書を学ぶべきである、と。また、伊藤は、国教を作るな、時を待て、と言うが、そもそも国教とは作るものではない。祖訓を敬承し、これを闡明すれば、それがすなわち国教ではないのか。そもそも、日本は、天孫ニニギノミコト以来、天祖を敬し、さらに儒教を取り入れ、祭政教学一致で歩んできたのである、と。
 彼の論は伝統的な國體観に由来していて、国教は國體を明らかにすれば自然と立ち上がって来るものだ、というのです。

 侍講時代の元田は漢学担当であり、帝王学として専ら『論語』を講じてきたのに対し、洋学担当の加藤弘之が講じてきたのが「自助論(セルフ・ヘルプ)」として知られるサミュエル・スマイルズの『西国立志編』でした。これは当時の学制による教科書ともされていましたから、日本人全般の教科書といってよかった。明治天皇もご進講を受け続けてきたわけですから、その内容をよく知った上での元田らへの共感であったことは明らかで、だからこそ「教学聖旨」「小学条目二件」の現学制批判となって現れたのです。元田はどこまでも明治天皇の大御心を体して伊藤と論争していたのです。
 
 この対立は翌十月、政府による侍補制度の廃止へと繋がっていくこととなります。それは政府の侍補等に対する報復処置といっていいものでした。きっかけは参議黒田清隆が侍補の副島種臣を免職しようとし、これに侍補が抵抗した際、副島を免職するくらいなら、侍補制度そのものを廃止せよ、と主張したため、それならとばかりに、政府は、目障りな侍補を無力化しようと、制度自体の廃止に及んだのでした。
 副島種臣と黒田清隆の確執は征韓論破裂にまで遡ります。
 明治六年五月、北海道開拓次官の黒田は、北海道開拓に力を注ぐべしとの立場から樺太放棄の建議を為しましたが、九月には、それに相反する樺太出兵の建議を為しました。そこには、状況の変化と北海道開拓次官として筋の通った理由がありました。彼自身の本来の考えは樺太の領有権放棄にありましたが、政府がそれを採用しない以上、樺太は日本の領土であり、そうである以上、国土は守らなければならない。しかし、日本政府の態度を見てか、ロシア兵は樺太において日本人居住者への乱暴をエスカレートさせていたのです。黒田は六月に調査員を派遣した結果、派兵の必要性を認めたのでした。
 征韓派の板垣退助はこれを征韓の論議を牽制する意図を秘めていると勘繰り、奸物視して、西郷にもそう伝えました。これを西郷から聞いた黒田は怒り、板垣を訪れて詰るという事件があったのです。これに対し、板垣も堂々としたもので、奸物視する理由を述べ、怯むところがありませんでした。
 これが黒田の征韓派に対する不信の始まりです。
 しかも、黒田の樺太出兵の建議は、外務省の反対にあって、太政官で却下されました。当時の外務卿は副島種臣です。彼は外交上の高等戦略から、ロシアとの間で、大陸で兵を動かす際の交渉材料として、樺太領有権放棄の交渉を進めており、この時点での樺太出兵には反対だったのです。
 
 黒田は要するにこれらを根に持ったのです。これが彼をして征韓論阻止に走らせる要因となりました。彼は恩師ともいえる西郷を裏切り、征韓派の動向をスパイするという、自ら「奸物らしき所行」と表現するほかない、恥ずべき行動に及んだわけでしたが、征韓論破裂をきっかけに内政の危機的状況は深刻化し、西南戦争の終焉によってようやく一段落しました。
 西南戦争、それは薩摩人にとって骨肉相食む大悲劇であり、それ故、ますます異郷の敵を奸物視せざるを得なかったと言えそうです。当然、それはこの明治十二年の段階でも継続していて、征韓論破裂で下野していた副島の侍補への復帰には心穏やかでいられなかったはずで、この君側の奸を払わねばとの思いは、黒田の心に付き纏って離れなかったのです。

 副島種臣は肥前佐賀藩の国学者の家に生まれ。藩校等で儒学を修めた上に、フルベッキに英学及び万国公法を学んだ当時一級の知識人で、維新後、頭角を現した人物です。決して奸物視されるような人物ではありません。
 王政復古後、樹立されたばかりの政府の大綱を定めた「政体書」の起草者の一人でもあります。外遊以前の大久保とは政事上の見識がよく一致していたとは侍補の佐々木高行の評です。大久保外遊中の留守政府内では、自然、特に外交政策の上において、西郷と意見が近かった。 
 彼は儒教王道主義者であり、征韓論政変では征韓派として中心的な役割を果した人物の一人でした。当時、彼は外務卿でしたが、外交の原理として、『論語』を中心とする儒教の規範を実践的に応用し、大きな成果を現したのです。マリアルース号事件もその一つでしたし、対清外交はその真骨頂でした。
 彼は特命全権大使として清朝に遣いした際、清朝の老大臣達を前にして豪語しています。

「ここに種臣外務に任ぜし以来、交通上において、彼国(西洋諸国)公法・内政等の書を読み、事を処すると雖も、情を揆(はか)り、理を度(は)かるには、貴国(シナ)経史の如く明白快通なる者有らず。今や日月の照る所、殆ど孔子の言を知り、以て聖人とせざるなく、苟(かりそめ)に政を為す者は、中外同じく一理なり。種臣漢籍を読む一万五千巻余り。これを本として外務に施し、而して外事治まり、外人従う。それ妙契無くんば焉んぞ能くここに到らんや。…」
 
 副島が『論語』を中心とする漢学を、道徳学としてのみならず、政事の規範として実践拡大しようとの志を持ち、また、手ごたえを感じていたことがわかるでしょう。西郷の大陸政策はこれをさらに徹底したものでしたが、すでに触れたのでここでは省略します。ともかく、伊藤が元田を気に食わなかったように、黒田は副島が気に食わなかったわけですが、その背景には、単なる政争に止まらぬ、明治国家のあり方と日本の國體との関係という、国家の本質に関する争いがあったのです。
 結局、形としては、侍補制度を廃止に追い込んだ内閣のほうに軍配は上がりましたが、却って、明治天皇の信頼は侍補の方に深まりました。政事的勝利は思想の堕落につながりやすいものですが、政事的敗北は往々にして思想の内的深化に結びつくものなのです。

 明治十二年十月、侍輔制度は廃止されましたが、明治天皇の信頼篤い元田は侍講として、佐々木高行は宮中に自由に出入りできる特権を与えられて、天皇から直接相談を受け続ける事になるのです。

 この年から翌十三年にかけては、西南戦争に起因するインフレで、政府の財政危機は深刻な状態にありました。これもまた、征韓論破裂以来の政府の乱脈な政治が不要の戦を招いた結果であって、西郷・大久保の死で終わったわけではありませんでした。参議大隈重信は五千万の外債を募集して、これを切り抜けようとしました。侍輔の親政運動以来、閣議に臨席するようになっていた天皇は、諸参議の意見を質し、元田・佐々木にも諮問し、また来日した前アメリカ大統領グラントの「外債は極力避けよ」との意見も斟酌した上で、外債不許可の聖断を下します。

 そういった政事的混乱の中、征韓論破裂から派生した民権運動は国会開設に焦点を絞って、盛り上がりを見せ、政府は対応を迫られます。長州の伊藤と井上は早期の国会開設に慎重でしたが、外債問題で政治的影響力の後退した大隈が抜け駆けで、急進的な国会早期開設の建白を行ったため、築地梁山泊の三人の結束に亀裂が走り、薩長閥ではなかった大隈が政府を追い出されます。この時、おりしも「開拓使官有物払い下げ」事件が起き、薩長閥と政商の癒着が取りざたされ、政府の権威がガタ落ちの時に当たっていましたから、天皇は元田に諮問しつつ、閣議に親臨して事情を審らかにした上で、払い下げを中止するとともに、政府を引き締めました。そして、岩倉がフランス革命前夜を想起するほどの様相を呈していた民権運動の過激化を抑えるために、大隈罷免の翌朝、明治十四年十月十二日、国会開設の詔が発せられ、明治二十三年国会開設の期限と、その基礎となる憲法は欽定となることが国民に示されたのです。

 この時、すでに宝算三十歳となられていた天皇は政府をまとめ、支える大きな存在感を示すようになっていました。

 憲法制定は制度面で天皇親政を担保するものですが、法制度は人の内面を規制するものではありませんから、それだけでは十分とは言えません。国民個々の内面における服従がこれを担保するのです。その一つの表れが、まずは徴兵制の軍隊に対する十五年正月の「軍人勅諭」に結実しました。
 「軍人勅諭」は西周が起草し、福地桜痴・井上毅・山縣有朋らによる修正を経た文章だといいますが、その内容は水戸学や頼山陽『日本外史』の統帥観に立脚し、儒教規範が述べられたものです。
 その概略の部分を読みやすく改変して紹介します。

 「それ兵馬の大権は、朕が統ぶる所なれば、その司々をこそ臣下には任すなれ。その大綱は朕親これを攬り、肯て臣下に委ぬべきものにあらず。子々孫々に至るまで篤くその旨を伝え、天子は文武の大権を掌握するの義を存して、再び中世以降の如き失体なからんことを望むなり。朕は汝ら軍人の大元帥なるぞ。されば朕は汝らを股肱と頼み、汝らは朕を頭首と仰ぎてぞ、その親は特に深かるべき。朕が国家を保護して上天の恵みに応じ、祖宗の恩に報いまいらする事を得るも得ざるも、汝ら軍人がその職を尽すと尽さざるとに由るぞかし。」
 
 そして「忠節」「礼儀」「武勇」「信義」「質素」の徳目を列挙するのですが、勅諭はこれを「天地の公道、人倫の常経なり」としています。

 また、明治天皇は同年十二月には、先の教育聖旨に則って、年少者向けの教育指針「幼学綱要」を編纂するよう侍講元田に命じています。「年少就学、最も当に忠孝を本とし、仁義を先にすべし。因って儒臣に命じて、この書を編纂し、群下に頒賜(はんし)し、明倫修徳の要、ここに在ることを知らしむ。」というのがその大御心です。

 以上のことによって、明治天皇が、征韓論破裂以来迷走を重ねる政府を、中を執った方向への修正をなさしめたということが出来ると思います。西郷の決起がきっかけとなり、明治天皇の親政により、国家の中枢において、維新本来の精神への回帰は行われ、これが明治二十二年、大日本帝国憲法発布と同時に下された教育勅語にまっすぐ繋がっていくことになるのです。
 そして、憲法発布の特赦により西郷の賊名が解かれると、菅実秀を中心とする庄内藩士は彼らが日頃から拳拳服膺する所の西郷の遺訓を編集し、『西郷南洲翁遺訓』として全国に頒布するのです。翌二十三年、すなわち皇紀二千五百五十年には国会が開設されます。これらはすべて一つの大きな動きで捉える必要があるのです。西郷の決起はそれらを起動させたと言えます。

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この記事へのコメント

維新に興味がある日本人
2019年03月25日 20:48
以前コメントをさせていただいた者です。個人的な事情により長く返信が出来ずに申し訳ありません。

今までの記事を全て拝見しました。その結果、我が国には儒教を取り入れたことで生まれた独自の伝統があり、そこから誕生した水戸学等の影響で維新がなったことがよく分かりました。昨今の維新や水戸学に対する非難が浅学の徒から出ているに過ぎないと確信しました。我々日本人は過去や歴史を正しく思い出すことも理解することも出来なくなっているのかもしれません。現在の安倍内閣も、大嘗祭の簡素化(プレハブ化)、譲位する前の改元、旧例と異なる譲位の儀式、皇嗣という謎の新しい名称など「名」も「実」も壊れつつあるように感じます。先人が名を重視し、そこから実もしっかりしたものにするという発想には意味があったのだと感じます。
哲舟
2019年03月26日 08:07
お久しぶりです。
少し気になっていたので、コメントをいただき大変うれしく思います。

仰る通り、悲観的な状況ですが、問題は浅学の徒の背後には日本解体を目論んできたグローバリストの確信犯がうじゃうじゃいることです。
維新に興味がある日本人
2019年03月27日 13:22
ご返信ありがとうございます。
最近読んだ本で「日本が売られる」というのがあるのですが、ウォール街とヨーロッパを中心とするグローバリストの恐ろしさとそれに迎合する我が国の政治家・官僚の様子を細かく伝えてくれています。こういった勢力がいる限りわが国が明治維新のような偉業を成し遂げるのは難しそうです。
哲舟
2019年03月27日 20:51
こんばんは。

危機に気づいた日本人がそれぞれできることをやっていくほかないですね。

確かに幕末にはあった維新の前提条件が失われているのは確かだと思います。

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