廃藩置県の真相-明治維新(参) 【『皇室と論語』(十三)】

 かなり端折っておりますが、詳しくは拙著『十人の侍』をご参照いただくとして、先に話を進めます。
 廃藩置県の必要性をいち早く認識し、これを提唱したのは木戸孝允でしたが、彼はまずその第一段階の改革として版籍奉還(版図戸籍の奉還)の実施を強く説き、大久保の同意を得て、長薩の藩主自らが率先垂範してこれを行うことで、大きな一歩を進めました。明治二年、薩長に土佐・肥前を加えた四藩主連名で上表が提出され、版籍奉還は実現しました。旧藩主が改めて知藩事に任命されました。これは朱子学的に言えば、王土王民思想に基づき、『論語』の「正名」論に依拠した大義名分を正す改革でした。
 名を正せば次は実を正すのが順序です。木戸は廃藩置県を切望していましたが、時機の到来を待ちます。

 版籍奉還に前後する時期、政府官員には早くも腐敗堕落の兆候があり、新政府に対する不平不満が鬱積し、政府の指示による藩政改革により軍事力の増強に努めていたこともあって、不穏な空気が醸成し、直轄軍を持たない政府は危機感を強めていました。そこで政府指導者の間で、政府改革の機運が起こります。ここで獅子奮迅の働きをしたのが大久保利通です。大久保は、一度は大きな挫折を味わいながらも、久光の同意を得た上で(久光本人は脚気のため上京を延期)、鹿児島で藩政改革に当たっていた参政の西郷、長州の木戸、土佐の参政板垣退助らの引っぱり出しに成功します。ここに薩長土の連合(親兵献上)による政府改革が行われることになり、政府官員の粛正、省庁再編、制度改革が行われる運びとなりました。今回は廃藩置県の前段階の改革と位置付けられていて、そこに廃藩置県そのものは含まれていませんでした。
 西郷・大久保は優れた見識を持つ木戸一人を首班にして、他はその下に就いて一途改革を行う方針でしたが、廃藩置県と征韓論という二大政治課題に政治生命をかけるつもりであった木戸はこれを肯んぜず、自身の参与就任を徹底的に拒絶しますが、最終的に西郷とともに参与に就くことでようやく片が付きました。しかし、傍若無人な振る舞いで怨嗟の的になっている官僚の親分的存在の大隈重信らの更迭を先決と考える西郷・大久保と、制度改革を優先し、彼ら才能ある人材に手腕を振るわせたいと考える木戸の間で意見はことごとく対立し、改革は暗礁に乗り上げます。ちょうどその頃、長州の中堅官僚の間で、廃藩置県を断行すべきだとの意見がおこり、山縣有朋が西郷に謀り、快諾を得ます。廃藩置県を念願していた木戸はこれを喜び、倦んでいた大久保も、座礁するならいっそのこと思い切って断行した方がよい、ということでこれに同意し、薩長の間で、意見は一気にまとまりました。
 御親兵が睨みを利かせる中、電光石火、廃藩置県は断行されました。二週間前には当事者たちでさえ予想していなかった廃藩置県の突如の断行ですから、誰もが唖然とし、抵抗する気勢も生じなかったようです。しかし、その背景には、当時の武士階級に教養として行き渡っていた王土王民思想があったことを忘れてはいけません。
 廃藩置県の後ろ盾となった薩摩の実力者久光だけは西郷・大久保に怒り心頭でした。
 筆者の見解では、今回の改革に廃藩置県は含まれないと言上し、上京した西郷が、参議に就任するや否や、廃藩置県を断行したことで、久光は彼らの野心を猜疑したのではなかったかと考えています。久光は廃藩置県自体は必要との認識を持っていましたが、薩摩藩全体の統治者として守旧派に対する配慮から、公議として熟さぬままの廃藩置県の急進的断行には反対だったのです。彼は廃藩置県を知って、邸内で花火を打ち上げさせ、鬱気を晴らした、とまことしやかに伝えられていますが、これは西郷らに反感を持つ市来士郎の回想にある話で、筆者は久光の心情を忖度して、鎌倉以来七百年の歴史を誇る島津家の藩主としての歴史に幕を閉じるにあたって、子供たちや家来に花火を上げさせることによって有終の美を飾らせたのだと解釈しています。
 当時、彼は忠義に書を送って、概ね次のように、その真情を打ち明けています。
 郡県の勅命謹んで拝承した。自然かくのごとく相成るべしとは考えてはいたけれども、新参議の例の急進過激の政策には驚愕した。これで西洋人の術中に陥り、終には彼ら(醜夷)の政治体制に倣い、彼らの暦(太陽暦を含む西暦、すなわちイエス・キリストの生年を起源とする暦を指す)を奉ずるようになるのは案中の事で、殊に共和政治の議論が盛んになっては恐れながら万世一系の皇統もどうなるであろうか、悲嘆極まりない。
 ここに言う共和政治とは西洋の一政治形態である共和制(リパブリックの訳語)ではなく、古代周王朝末期、西周時代に暴政を行った厲王が追放され、有力者による政治が行われたことを指します。要するに万世一系の皇統、國體破壊に対する心配が、自らの家臣らによって過激に進められていることに対する不安や怒りが、西郷・大久保らに向けられる事になるのです。しかも、政府に出仕している旧家臣の多くが帰省しても、彼の下に挨拶にも、報告にも訪れないことに不満でした。これは藩を擲ってまで、維新回天に挺身してきた彼にしてみれば当然の感情であったでしょう。戊辰戦争の隊長の中には凱旋後、門閥廃止を過激に訴えて、下剋上の風潮さえあり、また今回の政府の急進的政策により、守旧派の牙城宮之城の領主島津久治(久光の次男)は憤死(一説によるとピストル自殺)を遂げているのです。
 彼の不満はまず、それらの過激藩士の親玉と目される、廃藩置県を参議として断行した西郷に向けられます。政府は彼の怒りを宥めるため、天皇の鹿児島巡幸を行うなど苦慮しますが、それに供奉した西郷が旧藩主父子に対する機嫌奉伺を怠ったため、久光の怒りは頂点に達し、政府に西郷の弾劾書を提出し、彼の罷免を要求します。西郷は慌てて帰国拝謁し、久光の詰問を受けて「無茶の御論」と呆れますが、上京以来の事情を弁解すると、氷解したといいます。彼は、立場は違えど、同じ学問的背景を持ち、条理を解する人物なのです。西郷は久光との意思の懸隔を恐れ、久光とともに上京する事にし、しばらく鹿児島に滞在しました。鹿児島の一致一和が崩壊するのを恐れたのです。以降両者は一定の距離を置きつつも、大きな対立に発展することはありませんでした。むしろ征韓論破裂以降、久光は西郷の立場に同情さえしている気配があります。

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