明治維新(壱)-島津斉彬 【『皇室と論語』(十一)】

 最近、明治維新の再評価が盛んで、維新運動そのものに懐疑を突きつけたり、否定する内容の本が盛んに喧伝されていますが、筆者はあまり興味がなく、読んでもいません。というのは、彼らの宣伝文句の多くに、現在の価値規範で断罪しよう、批判しよう、との執筆意図がありありで、当時の人々の立場に立った上で、事件を客観的に評価しようとの意志が感じられないからです。特定の人物、ある個別の事件の研究成果を拡大解釈して全体を見ようとする傾向が感じられるのです。一を聞いて十を知るのが天才だとするなら、凡人は一を聞いて一を知る謙虚さが必要なはずですが、一を聞き知って十を知った気になっている。つまり、自分の知性を疑うことを知らないがゆえに、残りの九は誤っている恐れがあるということです。
 筆者はこういった論者を幼稚な歴史認識に満足するものと見なしていますが、なぜこのような事になるかというと、歴史とは鑑であり、古い時代であれば残された少ない史料に対する解釈、比較的新しい時代であれば膨大ながらも不完全な史料に対する選択と解釈の問題に他ならないからです。つまり、どのような基準に従って解釈し、批判するのか。どのような基準によって史料を選択し、解釈を施し、批判するのか。それが問われなければならないということです。
 この問題を深く考えたのが荻生徂徠でした。彼は儒教の歴史・伝統について深く考察したわけですが、筆者なりに要約すると、概ね次のようなことを言っています。彼は主知構成主義的な朱子学を念頭において、理は定準なく何にでも引っ付くが、天地人は活物であり、それらが出合う中で無尽の変動が起こるゆえに、先だって計り知ることは不可能である。それを一理の中に収めてしまうとすれば、それは歴史を死物にしてしまうに等しい。学問は歴史に極まるのであって、理に窮まるのではない。それが歴史、延いては学問の本質であり、その本質(道)を知ることは「世は言を載せて遷り、言は道を載せて遷る、道の明かならざる、もとよりこれに由る」ゆえ、難しい。そこで彼は、今言を以て古言を見るな、と繰り返し訓戒するのです。
 「テロ」「民主主義」「平和主義」。みな、戦後普及した言わば「今言」です。実はこれらは歴史に向かう態度としては安易なものなのです。徂徠はそれを次のように表現しています。一定の権衡をかかげて、百世を歴詆するはまた易々たるのみ、これ己れを直として世を問わざるなり、すなわち何ぞ史を以て為さん、と。つまり、己れが、あるいは己れが奉ずる価値、「テロ批判」が、「平和主義」が、「民主主義」が、「インテリジェンス」が正義だと言っているのに過ぎないのです。ならば、そのスローガンを連呼すればいいのであって、必ずしも歴史をもって語る必要はない。
 以上の今言はまだましかもしれませんが、それらの根底にあって日本人にとっての害悪が計り知れなく大きいのが、「東京裁判史観」または「連合国史観」と呼ばれる英米本位の覇権主義思想であり、「唯物史観」「階級闘争史観」と呼ばれる旧ソ連を中心とする共産主義思想、そしてそこから派生し、これを補完するフランクフルト学派の二段階革命論の内の第一段階である歴史伝統破壊思想でしょう。それらは東アジアにおいて、中国共産党や朝鮮民族の反日史観として完全に根付いてしまって今日の国際情勢に至っています。
 彼らは標的にされた国にとっては、革命を目的とする歴史伝統破壊思想、言い換えれば國體破壊思想で、侵略主義的な、広義のインターナショナリズム、グローバリズムで、歴史事実を捻じ曲げてもよいとさえ確信犯的に考えています。それに対する挑戦は、歴史修正主義者「リヴィジョニスト」としてマスコミなどを使って政治的に徹底的に葬り去ろうとします。
 日本語の語感では、修正は間違ったものを正す事を言うわけですから、歴史修正主義は歴史に臨む態度としてはある意味当然の考えですが、英語における「リヴィジョニスト」の語感は、戦前のナチズム、すなわちファシズムや軍国主義を肯定するような危険な人たち、という意味合いでつかわれています。かつて安倍首相もそういった疑惑の目を国際社会から向けられていました。
 また「インターナショナリズム」は日本語では「国際主義」と、開明的な語感で訳され、相手を理解、尊重し、協調関係を作る態度を指しますが、英語の語感では、列強が喧嘩をせず小国を分割支配するという意味での侵略主義的、植民地主義的な言葉なのです。「今言」でさえ、このように扱いは難しいのに、「古言」となるともっと慎重な態度が必要なのは言うまでもありません。
 現代人にとって幕末維新の頃の人々が使っていた「候文」は歴史伝統に深く根ざした「古言」です。近代合理主義に引っ張られた「今言」とは大いに異なります。それこそ、外国の言語を学ぶほどの謙虚な姿勢が求められるのです。
 ところが実際に現代の学者は新奇の説をもてあそんでいるかのように見受けられます。
 これは今も昔も変わらず、徂徠の学説に学んだ国学者本居宣長は、こういった学者の生態について『玉勝間』で次のように述べています。

「ちかき世、学問の道ひらけて、大かた萬(よろづ)のとりまかなひ、さとく、かしこくなりぬるから、とりどりにあらたなる説を出す人おほく、その説よろしければ、世にもてはやさるるによりて、なべての学者、いまだよくもととのはぬほどより、われおとらじと、世にことなるめづらしき説を出して、人の耳をおどろかすこと、今のよのならひなり。」

 学問の世界で起きていることは、今も昔もさして変わらないようです。宣長の観察するところ、一体何が、学者をそういった行動に駆り立てているのでしょうか。

 「その中には、ずゐぶむ(随分)によろしきことも、まれにはいでくめれど、大かたいまだしき学者の、心はやりていひ出ることは、ただ人にまさらむ、勝(かた)むの心にて、かろがろしく、まへしりへをも、よくも考へえ合さず、思ひよれるままにうち出る故に、多くはなかなかなるいみしきひがごとのみなり。」

 つまり、学者の功名心が原因というわけです。
 筆者は明治維新について、王政復古討幕運動について、薩摩藩の指導者、島津斉彬に始まり、西郷隆盛・大久保利通・島津久光らによって受け継がれていった思想、伝統精神によって、この日本再興運動を検証した経験に基づき、これを理解し、語るものです。その薩摩も一枚岩ではなく、様々な立場の人がいて、協調、あるいは対立関係にあり、その内情は単純に理解できるものでなかったことは熟知しています。より大きな組織であった幕府は当然ながら、違う伝統を持つ朝廷、長州や土佐や会津など、それぞれの内情を抱えていて決して一枚岩ではなかったでしょう。それぞれの事情を徹底的に深く考察したわけではないので、それらについては謙虚でいたいと思います。たとえば、会津は討幕派にとって目の敵にされる存在であったわけですが、彼ら主従は愚直に藩祖保科正之以来の家訓を守っただけであって、決して邪心を懐いていたわけではなかったことを知っています。それは大きな目で見れば、徳川家康が諸法度で定めた江戸時代の日本の政治體制(松平定信が言うところの國體)を頑なに守る立場であった、と評することも可能だと思います。
 敗者である会津に対する判官贔屓の感情からか、彼らに入れ込み過ぎて、薩長の運動を、やれ偽りだの、やれテロだのと、理解を拒絶し、否定する向きもおりますが、薩摩には薩摩の、長州には長州の立場があり、その背景となる思想運動があり、つまるところ、大きな視点で國體観のぶつかり合いであったということが出来るのです。当時の会議で行われた議論を追っていくとそこに行きつくのです。 
 明治維新に関するある討論番組で、会津に関する多くの著作をものしておられる老ジャーナリストが出ていて、薩長の会津に対する酷い仕打ちばかりを述べ、薩長の側に正義などなかったとまで言い切っていましたが、その恨み辛み史観とでもいうべき言い分を聞いていて、何か昔の辛かった思い出で繰り言を言う老婆の姿を連想してしまいました。それは感情論であって論理ではありませんから討議が成り立たないのです。
 明治維新の場合、敗死者である幕府や会津、勝者である長州や薩摩それぞれとっても、残されている史料は膨大で、それらを精査するのでなければ、全體の流れを把握することも、そこに全體像が浮かんでくることもありません。にもかかわらず、自己が肩を持つ勢力以外について、そういった膨大な史料を精査するのでもなく、嘘偽り、テロであったと断定することは、宣長が言うところの「いまだしき学者」の「いみしきひがごと」でなくて何でしょう。

 江戸時代の学問的成熟について触れましたが、それが西力東漸の時代を迎えて、原動力となり、内発的な王政復古運動へと発展していくのです。
 信長から秀吉の時代にかけてはスペインとポルトガルが世界制覇を競い合った時代でしたが、やがてそれはイギリスに取って代わられ、西欧は宗教が絡んだ戦国時代のような様相を呈しますが、やがてその争いは西欧の外へ波及していきます。非西欧地域における植民地獲得競争がそれで、それは限られたパイの奪い合いから、パイそのものを広げる運動へと変化していったのです。日本は家康以来、侵略的なカトリックとは縁を切って、プロテスタント国であったオランダに出島での貿易を許しました。いわゆる鎖国と呼ばれる政策がそれですが、それは後世の呼び名であって、家康自身は西欧との貿易自体は望むところであったのです。
 ともかく西欧社会の世界制覇競争が東アジアに波及してきたところで、危機意識に目覚めた日本人の中に、運動は起動されたのです。それが当初盛んであったのが、國體学の総本山である水戸であったのは偶然ではありません。
 西欧の世界制覇の野望は、その約七十年後の第二次世界大戦直前には、世界の陸地の九十%以上をその支配下に組み込み、独立を保っていたのは緩衝地帯であったタイと、近代化を成し遂げた大日本帝国のただ二国だけであったわけですから、危機に目覚め、これを何とかしようともがいた先人の苦労は、その子孫たる日本人ならば感謝こそすれ、非難すべき筋合いのものではありません。その、西欧の奴隷にされるという恐怖に対する抵抗の中で、過ちや行き過ぎから来る悲劇があったとしても、それは忘れてはなりませんが、あまりそれにとらわれ過ぎて、物事の本質を、全体像を見失ってはならないでしょう。その抵抗の挙句に、矢尽き、刀折れ、屈服を余儀なくされた結果、多くの日本人は洗脳され、特に知識階層は西欧、西欧的規範に対する隷属を事とするようになってしまいましたから、そのような見方はできないかもしれませんが、そういった運命に立ち向かった日本の悲劇に対する共感だけは日本人として失ってはいけないと思います。
 しかし、日本の現状は、第一次世界大戦前後に、現在グローバリスト勢力と呼ばれる国際金融資本勢力を背景に勃興したコミュニズム(共産主義)とアメリカニズム(アメリカ的価値観に基づく覇権主義)という東西二つの国際主義に飲み込まれてしまい、問題をややこしくさせていますが、今はいつの間にかグローバリズムという本家のワンワールド思想にすり替わって世界を席巻しようとしています。
 国際情勢は難しく、本質をつかむことはなかなか難しいですが、己れさえつかんで見失っていなければ、その真贋を見分けることは可能でしょう。そのためにはたとえば明治維新を語る際、特定の勢力に入れ込んで、他を否定するような愚を犯さないことが肝心です。「勝てば官軍、負ければ賊軍」で勝者の言い分を鵜呑みにするのは慎まなければなりませんが、また一方で、日本人には判官贔屓の感情が豊富ですから、敗者のルサンチマンに基づく言い分にも、鳥瞰する視点を失わないためには警戒が必要です。
 筆者は西郷隆盛に惚れ込んで、これを中心に明治維新を理解しようと努力してきましたが、その対立勢力を安易に否定する愚は犯さないよう気を付けたいと思います。
 その上で、運動の中心を担った薩摩藩首脳部の思想を中心に明治維新というものを簡単に見ていきたいと思います。

 薩摩・大隅・日向三国の領主は言わずと知れた島津家ですが、これは鎌倉時代以来の名門です。戦国時代には九州全土を制圧する勢いを示したこともあり、「島津に暗君なし」と言われた歴代藩主が尚武の藩風を創り上げ、独特な郷中(ごじゅう)教育などにより、意識的に鎌倉以来の士風を温存したことで知られています。
 そういった薩摩藩の個性が一気に爆発的に躍動したのが、幕末から明治にかけての時代ですが、明治維新を語る上で忘れてはならないのは、この地が神話のふるさとである、ということです。
 鹿児島の鬼門、東北方向に位置する霧島連峰の一つ、高千穂峯は一説では天孫降臨の地と伝えられる場所で、歴代藩主と藩士の信仰を集めてきました。
 江戸時代中期の国学者本居宣長は『古事記』解読の金字塔『古事記伝』において、神話にある天孫降臨の地について考察し、西臼杵郡の高千穂と霧島の高千穂峯の二説を併記し、どちらか決めがたいとしましたが、宣長と交流があった薩摩人国学者白尾国柱は高千穂峯こそ天孫降臨の地であることを主張しました。彼は薩摩国学の祖とされ、薩摩藩士の間で支持されました。自然、霧島連峰中腹にある霧島神宮は薩摩隼人の篤い信仰を集めました。霧島神宮は天孫瓊瓊杵尊を主神として、尊から初代神武天皇までの神話に登場する七神を祀った神社です。そもそも高千穂峯にあった峰を祀ったとみられる簡素な社が噴火で焼けて、村上天皇の時代に西麓高千穂河原に移され、ここも焼けてしまったため、現在地に文明十六年(一四一八)、第十一代藩主島津忠昌の命で僧兼慶が社殿を建て、正徳五年(一七一五)、第二十一代藩主吉貴以来、歴代藩主が随時拡張して行ったものです。
 旧薩摩藩領内を旅行して気づくのは霧島のみならず、各地方に神話が息づいているということであり、日向国宮崎市の宮崎神宮は神武天皇の宮があったと伝えられるところであり(宮の前(さき)だから宮崎)、ここから東征に出征したのです。
 こういった神話が幕末の薩摩藩士の信仰の土壌にあったもので、その神々の子孫である皇室と朱子学的な価値規範との習合した天命思想が、王政復古討幕運動を強力に推進せしめたのです。

 幕末という騒乱の時代を迎えて、暗君なしと呼ばれる島津家に、とりわけ名君との誉れ高い斉彬という人物があらわれます。彼は進取にして開明的な君主として知られていますが、その反面、復古主義的な尊王家でもあり、天子より土地人民を預かっているという儒教に基づく王土王民思想を持っていました。
 斉彬は明治維新の思想的源流となった水戸学を、國體を失わず、名分を過らないが、世界に広く目を開かず、執拗の傾きがある、と評しています。彼は、官学であり、藩校「造士館」が採用している朱子学について、儒学は人道教訓の大本であるが、これを学ぶ者はわが國の歴史を軽蔑、度外視して、かの文明の方を尊重しがちであるが、学問は為政の規範であるから、わが國の人情風土に従って取捨斟酌して施すべきで、日本は世界で唯一、皇統が一系連綿と続くめでたい國柄であるから、教えの道は、皇統が幾万歳の末までも動かざることを目的とすべきである、と述べています。 
 斉彬はこの考えから、漢学洋学を補い、本末先後を弁える学問を行う学校として、国学館の創設を構想しました。つまり、わが国の國體を守ることこそ、本であり、先である、ということです。洋学や漢学はそれを守るための手段でしかありません。彼を知り、己れを弁じ、彼の長を取り、己れの短を補うのが、彼にとっての急務でした。ですから開明的な政策の一方で、日本第一の忠臣として皇統を断絶の危機から救ったとされる和気清麻呂(わけのきよまろ)を挙げ、史書に大隅(おおすみ)國とある清麻呂の謫居(たっきょ)(配流地)の調査を命じ、事跡をまとめて一書となしたといいます。また、楠木正成を南朝随一の忠臣と評して、千載の鑑に供そうとしました。斉彬は、楠公は軍事より政事に一層長じていた人物と評し、その根拠を、かの乱世にあって人心を治める事でこれ以上の人はいなかった、というところに置いています。人心の一致一和をなす人格力量が最も優れていた、ということで、楠木正成が『孟子』に依拠して、人心をつかむことの重要性を認識し、これを実践していた、というすでに触れた見方と一致しています。
 また、斉彬は敬神の念が深く、領内の主だった神社の由緒を調査させ、神仏習合により仏僧より付会された仏説を妄談として排除しました。これは神威を回復するのが目的であり、廃仏毀釈に通ずる一種の復古思想と言っていいでしょう。
 彼は重要な政治思想を儒教から学んでいました。『孟子』にある「天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず」という言葉が幼少期に講釈を受けて以来ずっと心に残り、人心の一致一和は政事の要目であると考えるようになっていたのです。これは晩年の幕府への建白にも書かれていますが、藩主として鹿児島への初入部を果たした際も(嘉永四年五月)、親書を発して、意見を遠慮なく上申するよう言い、士農工商それぞれが勉励するよう訴え、家老への手紙では、何分「上下一和得心」の上で物事を進めることが大事で、腹蔵なく評議するよう命じています。薩摩半島の巡視を一カ月以上かけて行い、民情の把握に努めましたから、藩主として終始一貫、一以て之を貫く態度であったと言えますが、それはまた「王道的人民民主主義」という骨太い武家政治の伝統に則ったものでもありました。
 彼は内憂外患の時代を迎えて、これを領内のみならず、日本全体に推し広げていこうと考えたわけですが、では、どのようにして人心の一致一和を成そうと構想したかと言えば、それは道理に適った政事による人心の一致一和というところに行きつきます。彼は学問の普及によって道理を解する世の中になっているという認識があり、それを成す上で、各階級、各組織が職分に応じた分限を尽くし、皇室の下で一致一和すべきだと考えたのです。
 その考えに基づいて、彼は、幕府の職分を「皇國守護の御奉職」と規定し、政事の重立った案件は、天裁を仰ぎ、将軍家へ委任の箇条を定められるべきだ、としています。 ですから井伊直弼が大老に就任し、幕府の威権を回復するために、この職分を踏み外した政事を行い始めた時、朝廷守護の名目で兵を上京させる覚悟を定め、準備を進めたのです。これは京に近い大坂湾に外国勢力の脅威が迫るならそれに対するものであると同時に、幕府の猛威、それによる内乱から朝廷を護るための出兵でしたから、情勢次第で臨機応変に、ということであったと思われますが、当時の状況を考えれば、幕府との対決も辞さぬ覚悟が求められる政事的決断であったことは確かです。
 しかし、彼はその上京を目前にして病に斃れます。御家大事の立場に立ち、彼を嫌っていた父で前藩主の斉興による暗殺の説もあります。彼の悲劇的人生はここで幕を閉じましたが、彼の遺志は後継者によって受け継がれていくことになります。

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