侍と論語(参)-織田信長・豊臣秀吉・徳川家康 【『皇室と論語』(十)】

 次に拙著で取り上げたのは戦国時代の覇者三代、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康です。
 彼らについてはそこでかなり詳細に検証したので、そちらを参照していただきたいのですが、ここでは簡単に触れたいと思います。
 桶狭間の戦いで大軍を率いて尾張に侵攻してきた今川義元を討ち取って天下にその名を轟かせた若き信長は正親町天皇からの密使を受け入れ、朝廷の再興を依頼する綸旨に接すると、天下を仰せ付けられたと発奮します。
 彼は隣国美濃を平らげて、上洛を目指しますが、美濃を攻略し、ここを根拠にした時、周王朝発祥の地、岐山に因んで「岐阜」に改称し(「阜」は小さな丘を意味し、孔子の故郷「曲阜」から来ているとの説もあります)、天下布武印を使用し始めます。用い始めた花押は聖天子出現の予兆を示す伝説上の聖獣「麒麟」を示唆する意匠のようです。禅僧の沢彦宗恩から学んだようですが、彼は儒教思想を援用し、家臣に天下の忠功を致すと宣言し、天命に従って、足利義昭を奉じて上洛を果たし、将軍位に就け、御所を修理するなど、仏教以外の旧権威の復興政策を次々と実行して、正親町天皇の信頼に応えていきますが、こういった中で、吉田神道やキリスト教と出会い彼の宗教感覚を研ぎ澄ましていくことになります。
 信長は急速な勢力の伸張の中で、諸勢力の反発に遭い、信長包囲網が形成され、これらとの対決を余儀なくされる中で、将軍とはやがて対立するようになります。
 彼は天命を受けたものとして人事を尽くし、それによって生じた困難を乗り切る中で、自らがその天命を主宰する存在であるという、超越者としての自覚、万物の創造者「天主」という古今未曽有の絶対者の思想に目覚めたのだと筆者は見ています。これは彼の理性を突き詰めた結果としての結論であって、当然のことながら狂気を伴ったものでありました。
 このことが天正年間の彼の事跡の根底に流れています。彼は琵琶湖畔に安土城を築きましたが、それは彼の思想、世界観、天下国家観を表現した構造を持つものと言え、その構築物はやはり「天主」と呼ばれたのです。その「天主」は六階建て七層構造を持ち、六層目は吉田神道から取り入れた八角円堂構造で、内装は仏教的主題で彩られています。そして最上階七層目、影向の所と呼ばれる間は古代シナの伝説上の聖人たちが「天主」の影向を待つかのように、四面に描かれているのです。つまり、信長は「天主」の化身として、天下の一統に臨んでいたということです。
 晩年の彼は、日本はおろか、シナ大陸も含めた天下の一統まで視野に入れていたようです。そのシナの皇帝は「天子」としての資格で東アジアに君臨していたわけですから、「天主」の命に従うべきというのはこの世界観の当然の帰結というべきでしょう。彼はこの、神儒仏道の教えを潜り抜け、キリスト教をも超越した世界観を以て、宗教を含むすべての統一を図ろうとしていたのです。
 日本において「天子」としての側面を持つ皇室は信長と協調関係をゆるぎなく築いていましたから、こちらとの関係に差し当たっての問題はありませんでした。信長が絶対者として皇室を亡ぼしたいとの衝動に駆られていたとの説は、マルクスの階級闘争史観の毒に中った妄想であります。
 信長が正親町天皇に譲位を迫ったとの説も、戦乱の中で久しく途絶えてきた譲位の盛典を、高齢の天皇のために主催しようとした好意と受け止めるべきです。おそらく信長は天下復興の福音としてこれを執り行おうと考えていたのです。それは晩年、伊勢神宮の式年遷宮の再興を支援し、実現しようと気に掛けていたことと同じ精神に発していたでしょう。

 そんな信長が、「本能寺の変」という家臣の謀叛に天下一統まであと一歩というところで斃れると、その跡を継いだのは、彼の子供達ではなく、家臣の羽柴秀吉でした。秀吉は主である信長の精神をよく了解して、その手足となって、粉骨砕身、天下一統事業に忠義を尽していたようで、主の仇である明智光秀を討ち取り、仇討を果たした後、今度は、信長不肖の息子たちと重臣たちの見苦しい遺産相続争いに巻き込まれます。その主張、行動を見る限り、彼自身は義を通し、財産の分配においても最も謙虚に振る舞いましたが、次男信孝と重臣の柴田勝家は彼をとことん敵視したため、彼らを亡ぼします。筆者はこういった闘争の中で、秀吉は「天主」信長の遺志を継承し、これを行う意志と力量を持つものは家中に見当たらず、それはまさに自己の「天命」であるとの自覚に達したのではなかったかと考えています。
 天下後世は、秀吉は主家を凌ぎ、織田家の天下を簒奪したと見ましたが、天下を一家の私物化する考え、それが信長の天下国家観に反するものであることを、忠義を尽した秀吉だけは見抜いていたのです。いや、一人例外がいます。徳川家康もそれを理解していましたが、ただ彼は秀吉を天下人としての資格を有する人物とはみなさず、やはり主家を凌ぐ忘恩の徒とみなし、三男信雄を助け、戦いを挑んだのです。それがすなわち桶狭間の決戦です。家康は合戦には勝利を収めましたが、天下の大勢を見て和睦に応じ、秀吉存命中は自己を韜晦しながら、このにわか天下人に仕えることになります。

 秀吉は「天主」信長ほど極端に、仏教勢力を憎悪しませんでしたが、彼らが政治に干渉した時は容赦なく排除するという政策は継承しました。しかし、彼の天下国家観の中に仏教的世界観は含まれていたようで、彼はスペインや朝鮮への外交文書に、伊勢神道的な神を主とする儒仏三教習合の世界観を述べています。
 この文書は秀吉の直筆文書ではなく、豊臣政権で数々の外交文書を手がけた臨済宗の僧・西笑承兌(さいしょうしょうたい)が書いたとされています。しかし、たとえ彼が書いたとしても、当時独裁者として君臨していた秀吉の意向を無視した文章が書けるはずもなく、少なくとも秀吉の思想の一側面を表していると言えるでしょう。

 秀吉は信長の遺策である天下一統事業を完成させましたが、これも遺策である「唐入り」、大明討ち入りを実行に移して朝鮮半島で抵抗に遭って挫折を余儀なくされます。失意の中、彼は病を得てこの世を去ります。死の直前、彼の夢に信長が出てきて、早く俺の元に参れと言い、強く引き摺って行こうとした、といいます。前田利家の談話を記録した前田家に伝わる書物『利家夜話』にある話です。秀吉は目を覚ましましたが、実際、寝床から一間程引き摺り出されていた。そこで、いよいよ秀吉も観念し、死後の仕置きを次々下していった、というのです。実際、この後、秀吉は五大老五奉行に誓紙を何度も出させていますから、この夢の話は本当にあったことだと思われます。利家は織田家の同僚で、信長をともによく知り、心から信頼もしていましたから、このような天下人としての恥をさらすことにもなる夢の話をあけすけに語ることができたのでしょう。
 この夢の話は、秀吉の天下一統の使命(天命)が信長からの命令という形で自覚されていたことを想像させます。その使命があることによって、信長の子孫を疎かにしてしまわざるを得なかった一抹の後ろめたさも解消することができたのでしょう。秀吉は当初、確かに信長の遺児たちにできる限りの忠義は尽くそうと奔走したのです。

 秀吉亡き後、天下人となったのは徳川家康です。家康は「狸おやじ」のイメージがこびりついていますが、それは彼の重厚さを理解できない人の見解が刷り込まれているからで、家康の肉声をよく伝えていると思われる『駿河土産』の言葉を借りるなら、「姥かかどもの茶飲み話」ということになるでしょう。
 家康は自らを文盲と言いましたが、関ヶ原の合戦で実質的天下人として君臨し始めてからは非常に熱心に学問に取り組んだようです。それも儒教に限らず、漢籍全般、そして仏教や神道にまで及んでいます。特に帝王学の古典『貞観政要』を好み、『吾妻鏡』を好んで、武家政治の祖、頼朝を模範としていました。
 家康の侍医・板坂卜斎の日記『慶長年中卜斎記』には次のようにあります。

「家康公書籍を好(このま)せられ、南禅寺三長老・東福寺哲長老・外記局郎・水無瀬中納言・妙壽院(藤原惺窩)・学校(三要元佶)・兌長老(承兌)など、常々御咄(はなし)成られ候故、学問御好(おこのみ)、殊の外、文字御鍛錬と心得、不案内にて詩歌の会の儀式ありと承り候。根本、詩作・歌・連歌は御嫌いにて、論語・中庸・史記・漢書・六韜・三略・貞観政要、和本は延喜式・東鏡(吾妻鏡)なり。その外色々。大明(シナ)にては、高祖(漢の劉邦)寛仁大度をお褒め、唐の太宗・魏徴をお褒め、張良・韓信、太公望・文王・武王・周公、日本にては頼朝を常々おはなし成られ候。」

 『徳川実紀』に記されている彼の息子秀忠への遺訓とされている言葉は、後世の誰かが作ったものとも言われていますが、彼の人生自体がまさにこの言葉を裏付けており、やはり家康の遺訓として伝えられた言葉と考えてもあまり不自然さを感じません。
 遺訓は次の通りです。

「また御所(二代目征夷大将軍秀忠)には、天下の政に於いて、いささか不道あるべからず。諸國の大名共へ、大樹の政治ひが事あらば、各(おのおの)代わりて政柄を取るべしと遺言しぬ。」(『徳川実紀』)

 外様の諸大名には「…大樹の政策ひが事あらんには、各代わりて天下の事はからうべし。天下は一人の天下にあらず、天下は天下の天下なれば、吾これをうらみず。…」と言ったと伝えられています。
 一般に知られる遺訓は次の通りです。

 「人の一生は、重荷を負うて遠き道を行くが如し、急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし、心に望み起らば困窮したるときを思い出すべし。堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え。勝つことばかり知りて、負けることを知らざれば、害その身に至る。己を責めて人を責めるな。及ばざるは過ぎたるより勝れり。」

 ここには『論語』の思想を元に、『老子』が加味され、また自身の経験から改変を加えたらしいくだりも見えます。過ぎたるは猶及ばざるが如し、が孔子の言葉ですが、家康は、いや、及ばないほうがむしろ優れている、とさえいうのです。この、人生経験に裏付けられた言葉を彼が語ったとき、その脳裏には、彼から見て過ぎているように見えた信長や秀吉の姿が浮んでいなかったでしょうか。彼ら先輩天下人に比べれば地味で、手痛い敗北も経験してきた家康が、地道に事業を成し遂げ、今まさに幕を閉じようとしている自らの人生に対する自負のようなものが窺え、これらの言葉は彼が消化した思想であることは間違いないと思います。
 そして、ここにも、織田信長が安土城天主に描いた天下観は生きているのです。
 信長、秀吉がそうであったように、家康もまた天道を行って、天下を私物化しませんでした。彼はもともと主人である信長の子孫に酷い仕打ちをしたとして、秀吉を天下人としての資格ありとは認めていませんでしたが、その秀吉から遺児の未来を託された家康は、秀頼を息子で将軍の秀忠の娘千姫と娶せることで、婚姻政策を以て一家となし、その事で天下人として天下を一統していくという方針でした。それは皇室にも行われ、家康は秀忠の娘和子を後水尾天皇に入内させるよう遺言して、彼の死後実現しています。
 結局、家康の穏当な天下一統政策は、関ヶ原で夢破れて困窮していた将兵たちが、その難攻不落の要塞である大坂城とそこに蓄えられた富に群がり、秀頼を担ぎ上げ謀反の勢いを示したため、いよいよ討伐せざるを得なくなるという誤算はありましたが、彼はこれを攻め滅ぼすと、長年の学問的研究に裏付けられた法令「諸法度」を施行していきます。筆者が見るところ、この大坂の陣の進め方もまた、武王による紂王討伐の故事に倣ったと思われますが、諸法度の着想自体も、『中庸』に得たのではなかったかと思っています。
 というのは、彼が法度の公布について思い立ったと思われる慶長十七年頃、儒者である林羅山との間で、湯武放伐論、そして「中庸」をめぐって、次のような問答を行っているからです。以下は、『日本思想大系 藤原惺窩 林羅山』「羅山先生文集」の要約です。

家康「道は今も昔も行われない。だから『中庸』に〔能くすべからず〕〔道はそれ行われざらんか〕と書かれている。それについて、卿はどう考えるか。」
羅山「道はきっと行われます。『中庸』に云うところは、孔子が時の君主が道に暗くて、道が行われないのを嘆いての言葉です。道は実現できないという意味ではありません。六経の表現に、この類は少なからずあります。『中庸』に限ったものではありません。」
家康「〔中〕とは何ぞや。」
羅山「〔中〕は捉え難いものです。一尺の〔中〕は一丈の〔中〕ではない。一座の〔中〕は一家の〔中〕ではない。一國の〔中〕は天下の〔中〕ではない。物事にはそれぞれ〔中〕というものがある。その〔理〕を得る者は必ず〔中〕である。だから初学の者が〔中〕を知らんと欲するならば、〔理〕を知らなければそれを得ることはできない。だから〔中は理のみ〕が古今の格言なのです。」

 さらに羅山は次のようにも言っています。
「〔中〕は善であって、一毫の悪もない。物それぞれが〔理〕を得、事のすべてが義に適っていれば〔中〕なのです。善を善としてこれを用いて、悪を悪としてこれを去るのもまた〔中〕です。是非を知り、邪正を分かつのもまた〔中〕です。湯武は天の意に順(したが)い、人に応じて、未だかつて少しばかりの私欲もなかった。天下の人のために巨悪を除いたのです。だからこそ、湯武は〔中〕にして、〔権〕なのです。」云々。

 家康はさらに次のように質問しています。
家康「湯武の征伐は〔権〕か。」
羅山「貴方は薬を好みます。薬で喩えて説明してみましょう。温を以て寒を治し、寒を以て熱を治して、その症状が治まるというのが通常のやり方です。熱を以て熱を治し、寒を以て寒を治す、これを反治といいます。これは人を活かすことが重要なのであって、非常時のやり方です。これが先人儒者の〔権〕の譬えです。湯武の討伐の目的は、天下を私物化するためではなく、ただ民を救うことにあったのです。」
家康「良医でなければ、反治による治癒は難しいだろう。恐らくは、人を殺してしまうだけだろう。」 
羅山「そのとおりです。上が桀・紂のような賊ではなく、下が湯・武のような〔中〕を得た聖人でなければ、これは弑逆の大罪となって、天地間において許すことができない行為です。ただ天下の人心帰して君となり、帰さずして残賊の一夫となるのです。」 

 朱子学者の面目躍如です。曲学阿世の御用学者というのが林羅山のイメージですが、彼の主張を読むと必ずしもそうではなかったことが分ります。もちろんそれは彼の見識に不備・欠陥がなかったということではありませんが、家康が信頼を寄せるに値する学者だったことは確かだと思われます。家康の彼に対する信頼は確かなもので、大坂夏の陣を終えて、戦後処理、そして諸法度の発布を終えて、八月に駿府に帰還するに際して、次のようなエピソードがあったことでもわかるでしょう。
 羅山は記しています。

「去歳(きょさい;昨年、元和元年)八月四日、大相國(家康を指す)、二条の御所(二条城)を出御これあり、翌日此所(水口)に著(つか)せ給ふ。其日より打続き、雨ふりければ、三日逗留ましましけるに、夜更るまで御前に余もはべりし時、「学而」の篇(『論語』)を読めと仰ければ、跪(ひざまず)きひらきはんべりしに、『能其力竭 能其身致(能く其の力を竭くし、能く其の身を致す)』とある所を自ら御読みこれあり、『能』という字に心を尽すべきなり。なおざりにては忠孝たちがたし。親には力をつくし、君には身を致すといつぱ、何れがまされるという評論あるべし、と仰せけるに、余もかの趙苞(ちょうほう;後漢の忠臣)が故事を引(ひき)て、答え奉りしが、只今わすれがたく、坐(そぞ)ろに袂(たもと)をしぼり侍る。」(『林道春丙辰紀行』)

 趙苞は後漢霊帝の命を受けて任地に赴任しますが、侵攻してきた鮮卑に母を捕らえられ、対峙しますが、母の言に従って、鮮卑を討ち平らげ、母を敵に殺されます。つまり、孝より忠を優先し、これを果たしましたが、母の葬儀が終わると思い悩んだ挙句、天下に面目が立たない、と吐血して死んだという人物です。
 つまり、忠も孝も大事で、忠孝一致が理想ですが、それが対立するような場面に遭遇した際、天下への忠義を優先する例を挙げたのです。羅山は決して阿諛追従によって家康に仕えたのではなかったのです。忠義心と阿諛追従は違います。
 家康が羅山の師・藤原惺窩に出会ったのは、朝鮮の役の際、肥前名護屋に滞在していた時の事。これを機会に、文禄二年、彼を江戸に招いて、『大学』を講じさせ、『貞観政要』を読ませました。さらに慶長五年、家康の京都滞在中に再び召して、『漢書』(儒教的視点から書かれた漢の歴史書)『一七史』(南宋の儒者呂東莱の著、詳細不明)を読ませました。この時、惺窩は初めて道服というものを着て、公の場に出たといいます。それまで禅宗に付属する学問であった儒学(宋学)の独立を示したのです。
 同じ頃、京において、朱子集注『論語』を講じて、門人を集めた若者がいました。それが羅山です。
 これに、朝廷の伝統の立場から、難癖をつけたのが、大外記(だいげき)・明経博士の清原秀賢でした。清原家は明法家の名門です。代々儒道を以て家業としてきました。いわば朝廷の儒学の伝統を頑なに守り続けてきた家系であったわけですが、その反面、一子相伝の秘法としてきたために、儒学の一般への普及を妨げてきたことにもなります。秀賢は羅山の才を忌み、朝廷に訴えました。曰く、古より勅許がなければ、(朱子の)新注を講ずることはできない、朝廷でさえそうなのだから、地下(じげ;朝廷以外の人)においてはなおさらである、処罰して欲しい、と。時の武家伝奏はこのことを家康に伝えました。家康はこれを聞いて、講ずる者こそ奇特というべきである、訴えたものは小さきことをいうものかな、と笑いました。秀賢はこれを伝え聞いて、深く恥じ入りました。そして、慶長十年、家康は羅山を召しました。(『武徳大成記』要約)
 その羅山を京より召し出し、駿府に屋敷を与えたのは慶長十三年(一六〇八)の事。その後の諮問の中で、先の『中庸』及び「湯武放伐」をめぐる問答はなされたのです。後世の識者は、この問答を軽く扱って、家康の行いに権道ばかりを見て、最も肝心な「中」道の心掛けを見落としてきたのではないでしょうか。「道」というものについて尋ねた家康に対し、羅山は要するに、「中(中庸)」とは物事それぞれにあるもので、物事それぞれの「理」を得ることで達することができる。放伐を行った湯武は「中」にして「権」(権道…臨機応変の道)であり、天下を私すためではなく、民を救うためにこの挙を行ったのであって、それは天下の人心が帰すか否か、すなわち天命か否かで判別される、と答えたのです。
 筆者が言いたいのは、要するに家康が物事の「中」にして「理」を推窮したのが、大坂の陣であり、それを文章化したものが諸法度ではなかったかということです。そして、それは江戸時代二百五十年間という長期の平和の基礎として運用されることによって真価が証明されたと言えるのではないでしょうか。
 彼の施した政策についてはここでは尽せないものがあるので、興味がある方は拙著『十人の侍(上)』をお読みいただきたいと思います。


 晩年の家康は、自ら学び、天下のために有用と考えた古典の出版刊行に熱心に取り組みました。そのおかげで、平和となった日本にはこれまでの歴史になかった国民的な学問ブームが起きます。それは儒教、とりわけ幕府が奨励した朱子学を中心に沸き起こります。
 林家に対抗する民間の朱子学者山崎闇斎が拓いた崎門学、朱子学に対する批判として起こった復古主義的な伊藤仁斎の古義学、そのさらに批判徹底化として起こった荻生徂徠の古文辞学など、日本独自の学問的展開を遂げていきます。彼らの復古主義は国学を刺激的に発展させていきます。こういった新興学問に対し、この国の学問の正統である朝廷では、宝暦事件という崎門学徒が排斥される異学禁制事件が起きます。この刺激を受けてだと思われますが、幕府においても、老中松平定信による異学禁制が敷かれます。これは幕府官吏における朱子学以外の学問を禁ずるという政策で、諸藩でもこれに倣うところが続出しました。
 一方で、徳川御三家の一つ、水戸では二代目藩主光圀が藩を挙げて始めた修史事業、いわゆる水戸学が光圀の死後も朱子学を基軸に進められ、藤田幽谷の出現とともに、その弟子の会沢正志斎や息子の東湖によって、仁斎学を中心に、徂徠学や国学、さらに蘭学までも批判的に取り入れた折衷学へと変貌を遂げます。そして、その精華である國體思想は、やがて国難の到来とともに起こる王政復古討幕運動、維新回天の思想的背骨となるのです。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック