侍と論語(弐)-足利義満 【『皇室と論語』 (九)】

 南北朝の動乱という、この大混乱を招来した大きな要因の一つになったのが足利尊氏ですが、それを収束させたのは、彼の死からちょうど百日目に生まれた、彼の孫、義満でした。彼は日本国王と名のって明との朝貢外交を行い、皇位簒奪計画を実行に移し、それを果たす直前に死んだとして悪名高い人物ですが、事実は微妙に違ったのではないかと筆者は考えています。
 南北朝の分裂を収めた彼はその晩年、一種の末法思想である「百王説」を、朝廷の現状から深く信じるようになっていて、それを前提に行動したのではなかったかと思われるのです。「百王説」とは簡単に言えば、皇室が百代続くと天皇の世は終わり、他の支配者が現れるという内容の予言です。数え方にもよりますが、当時、百代とは後円融天皇、あるいは次の後小松天皇と考えられていて、義満が「百王説」に関心をいだいていたのは史料的に明らかなようです。
 確かに後円融、そして後小松天皇の時代、皇室は衰微の極みにあったと言え、義満はそれを目の当たりにしてきました。政治的実力は彼に集中し、もっとも重要な宮中祭祀や朝廷儀礼は義満の経済的援助なしには復興し得ない状態で、廷臣のほとんどが義満になびきました。分裂していた皇統を一つにまとめたのも彼の力によってです。
 後円融天皇の抵抗にあって以来、義満はそれ以上浸食を控えましたが、後小松天皇は無抵抗の言いなりで、彼は皇室の権威のほとんどを自己の手中に収めていました。しかし、もし、義満が皇統はここで終わると信じていたのなら、簒奪計画などは特に必要なかったことになります。おそらく彼は衰微の極みにある皇室に代わりうる日本の「まつりごと」の主は、血筋も高貴で皇統に近く、有職故実に通じて祭祀祭礼を優雅にこなし、また政治的実力も兼ね備えた自分しかいない、と考えたのではなかったでしょうか。
 彼の主観においては、今や燃え尽きようとしている古びた燭台(しょくだい)の炎を、材質は近いものであっても、丈夫なつくりで華麗に修飾を施された別の燭台に移し替えて、再び火勢を取り戻そうというものではなかったか、と思われるのです。もちろん、燭台とは祭器、すなわち祭礼に用いられる器です。
 彼がそのような考えを懐くようになった事情を探ってみると、生来の気質もあったかもしれませんが、やはり学問的影響というものに対する考察が欠かせないように思えます。そして、やはりそこにも、『論語』『孟子』を中心とする儒教の影響を垣間見ることが出来るのです。

 彼は永和四年(一三七八)に室町通りに面したところに邸宅を移しました。この、後に「花の御所」と呼ばれることになる邸宅を拡張した頃から積極的に政治に関わるようになります。この頃から義満は、摂家の重鎮で准三后(じゅんさんこう)にまで昇りつめた当代一流の知識人二条良基と交流を深めます。良基は一種の復古主義者で、源頼朝が朝廷を輔佐した文治・建久年間を理想とし、その時の朝幕関係を模範に、将軍を朝廷秩序の中に取り込もうと考えていたようです。彼は義満に接近し、質朴な武家にとっては繁文縟礼(はんぶんじょくれい)の集合體(しゅうごうたい)に過ぎない朝廷の有職故実を伝授しました。義満はこの面の習得にかけて非常に優秀だったようです。
 義満はその二条良基の後援を得て、右近衞大将、五ヶ月後には権大納言を兼務と、公家社会で順調に昇進を重ねますが、翌康暦元年(一三七九)、細川頼之の罷免を求める斯波義将や土岐頼康に邸を包囲される、いわゆる「康暦の政変」という事件を経験します。政変の結果、頼之は失脚し、義満は以後、諸大名の対立を利用し、また大名の内紛につけこんでこれを討伐するなど、自己の権勢を固めていきます。
 これと並行して、彼は内大臣、左大臣へと官位の昇進を続け、永徳三年(一三八三)には清和源氏として初めて源氏長者の地位を村上源氏から奪い、それに伴う職である淳和(じゅんな)・奨学(しょうがく)両院別当を兼任、そして、ついには武家としては初めて、太皇太后・皇太后・皇后に准ずる待遇を表す准三后の宣下を受けるに至りました。官位昇進には定められたいくつもの通過儀礼があり、これをこなせるかどうかが、野に育った武家にとっては一つの難関であり、公家にとっては武家卑下の根拠だったのですが、義満はこれを優雅にこなしていきました。彼はむしろ積極的に公家化していったと言ってよく、そのことで、見栄っ張りで金に弱い公家の足元を見透かし、籠絡するコツを覚えていくのです。
 彼は当初朝廷儀礼再興の新星として現れ、また彼も新星として振る舞いましたが、新儀をも創出し、やがて自らが、本来なら天皇が果たすべき朝廷儀礼の中心として輝こうとしはじめます。

 義満の政治的自立のきっかけとなった「康暦の政変」は、彼が最初に受けた政治の洗礼で、その直後から、彼は漢学に積極的な関心を示すようになります。  漢学とは要するにシナの歴史であり、政治哲学です。
 この政変の背景は複雑ですが、要因の一つとして、歴代武家政権が帰依してきた禅宗保護を主張する斯波義将と、義満の後見役で、朝廷と深い関係にある旧仏教勢力と妥協した細川頼之との対立があったようです。政変の翌日、頼之に反発して隠棲していた五山派の首領であり、夢想疎石の弟子であった春屋妙葩(しゅんおくみょうは)が南禅寺住持という禅宗最高位に返り咲いています。そもそも朱子学は禅宗に付属して渡来した学問ですから、事件に衝撃を受けたはずの義満に何らかの影響を与えずにはおかなかったでしょう。
 彼は政変翌年の二月二十一日に、朝廷や鎌倉将軍家の慣例に倣って、新年行事の一つである読書始めの儀を行って、文章博士東坊城秀長に『貞観政要』を授けられています。『貞観政要』は唐の太宗の言行録で、北条政子の愛読書であり、三代将軍実朝も学んだという書物。帝王学の教科書として知られ、後の天下人徳川家康の愛読書でした。
 読書始めはごく形式的な儀式とされていますが、義満は六月二十三日に改めて、読書始めの儀を行って、新旧儒学の折衷派であった明経道学者・清原良賢から『論語』初篇を教授されています(『建内記』)。貴族社会における古くからの成人儀礼である読書始めに明経道の学者が召されるのは異例でした。
 これに先立つ四月八日より、義満は「室町殿文談」と呼ばれる儒書の輪読会を月に三度開催するようになりました。この輪読会は少なくとも永徳三年(一三八三)十月ごろまで継続したといいます。会には公卿も参加し、『論語』『孟子』『礼記』『孝経』などをテキストに、東坊城秀長・清原良賢らの儒者が輪番で講釈し、時に討議を行ったといいます。このいわばサロンを後援したのが、当時の公家社会の重鎮で、義満を後見していた二条良基でした。
 義満は学問を深めたかったのでしょう。読書始めの翌年には、夢窓疎石晩年の弟子で、二代目鎌倉公方・足利氏満の教育係であった義堂周信という禅僧を強引に召し、上京させています。義堂周信は「近世儒書に新旧の二義あり。程朱の学はすなわち新義にして禅宗に参し、四書の義は朱晦菴(朱子)に尽くる」と言上したと、彼の日記『空華日用工夫略集』に記していますから、遅くとも、この時には義満が朱子学の重要性を認識していたことは確実です。小川剛生著『足利義満』(中公文庫)にその内容が一部紹介されているので、これにより、義満の学問的関心を探ってみたいと思います。
 義満は義堂に疑問点を質しています。彼の日記の永徳元年(一三八一)九月二四日の条には、義満が、昨日儒者が『孟子』の書を講じたが、その義がそれぞれ同じではなかったがどう思うか、と尋ねたといいます。新注と古注では解釈が異なるがどういうことか、という事です。
 十二月二日の条には、義満が『孟子』にある、聖人は百世の師、あるいは魯國の賢者である柳下恵(りゅうかけい)のことなどについて尋ね、義堂が、元(げん)において一三四二年に出版された、当時最新の書である『四書輯釈』を引用して質問に答えた、と記されているそうです。
 この時期、義満は『孟子』に関心を持っていたようですが、年が明けると『論語』に関心が移っていきます。これは学問深化の自然な流れです。二月十八日、義満は五山の諸老を召して、一巻の書物を取り出して義堂に講ずるよう命じました。その一巻の書物とは魯論(論語)の第一九章「子張」篇でした。義堂は少年時代に儒書を一通り渉猟(しょうりょう)した経験があるだけであることを理由に再三固辞しましたが、義満は許しません。儒教と釈迦の教えは異なるとは言え、その善に帰するところは同じである、どうしてその跡(迹)にこだわる必要があろうか、と言って講釈を強いました。本地垂迹的な考えで、義満が何を本地と考えていたかわかりませんが、少なくとも禅僧である義堂にとって本地は釈迦の教えであり、その跡をシナに垂れたのが儒の教えなのだから何をこだわる必要があろうか、というのです。義堂はそれでも固辞し続けましたがついに折れて、論語十余章を講じ、その後、釈迦の教えについて話しました。
 その議論の内容から言えることは、義満が当時最も関心を抱いていたのが殷周革命(易姓革命)であり、鎌倉公方足利氏満が殷の紂王だとすると、義満は周の武王である、という事です。すでに触れたように、その革命の意義を湯武放伐論として理論化して説明したのが『孟子』ですから、これを読む際の彼の最大の関心はそこにあったという事になります。それは『論語』に関心が移ってからも継続していたのでしょう。
 おそらくここに義満の後の大胆な行動の謎を解く鍵があります。
 至徳二年(一三八五)と推定される後小松天皇の読書始めでは、義満の指示により、清原良賢が『孝経』『大学』『論語』『孟子』『中庸』を順に授けていったといいます。このことからも、義満が朱子学を軸に据えた折衷学を天下統治の哲学として公認のものとしようとしたことが窺えるのです。自分は武王のように天命を受け、天下を統一するのだという志は大きく成長していったように思えます。
 ここで彼の思想、世界観を表現したものとして有名な金閣寺を取り上げてみます。位人臣を極めた義満は応永二年(一三九五)出家して道義と名のります。
 八世紀はじめ、道義という巡礼僧が金色に輝く三層の楼閣を夢に見て、密教の僧侶不空が浄財を集め、それを建立したというシナの故事があり、それが天台宗の聖地五台山にある、その名も金閣寺です。
 義堂周信もこの故事は知っていたらしく、義満もそれに着想を得たようです。  応永四年、北山の地を取得した彼はそこに広壮な山荘を営み、ここで政務をとるようになります。これがのちに金閣寺と呼ばれることになる建築群です。正式名称は鹿苑寺舎利殿。義満在世中は寺院ではなく、規模も今よりずっと大きくて、政庁として機能していました。舎利殿は三層構造をしていて、地上より一層目は寝殿造の法水院(ほうすいいん)、二層目は武家造の潮音洞(ちょうおんどう)、三層目が禅宗仏殿造の究竟頂(くっきょうちょう)で構成されていて、屋根の頂きには鳳凰の飾りがありました。鳳凰は古代シナの伝説上の鳥で、聖天子の出現を知らせる瑞鳥とされます。『論語』にも孔子の言葉として「鳳鳥至らず、河図を出ださず。吾れ已(や)んぬるかな」とあります。鳳凰は現れない、黄河から河図(これも聖天子の出現を知らせる瑞兆)も見つからない。先王の道がなかなか行われないことに対する孔子の慨嘆です。
 実は日本の伝統的な寺院において鳳凰の屋根飾りがあるのは金閣寺とその模倣である銀閣寺、および宇治平等院鳳凰堂のみで、非常にまれな意匠です。ここに義満の思想は現れていて、金閣寺は公家を象徴する寝殿造りの上に、武家を象徴する建築様式を用い、そのさらに上に、これらを超越した存在として、禅宗に帰依する中で儒教思想に到達した義満を象徴するかのような究竟頂が乗っかっている。そこに聖天子の出現を知らせる鳳凰がとまっているという構図なのです。つまり、これらの世界観の中で彼は天命を受けて天下を支配する聖天子という位置づけになるのです。この頃、すでに南北朝の分裂は義満によって統一されていましたから(明徳三年・一三九二)、乱を収めた聖天子として彼が自己をそのように位置づけたとしても決して不思議ではありません。

 儒教から着想を得た彼の志が、現実の政治行動にどのような影響を与えていったか。一つは、この思想を生んだ中華思想の本場、シナ王朝に対する対外行動、いわゆる朝貢外交。もう一つは、これまで日本の正統な統治権者であり、天子ともみなされてきた天皇に対する態度です。
 前者は「日本国王」との称号で行っていますからともかく、ここでは後者について見ていきたいと思います。
 康暦の政変をきっかけに朱子学を基軸にした儒教を学んだ頃から、皇室に対する圧迫の形跡は判然としてきます。
 当時北朝は後円融天皇の時代でしたが、義満は天皇の権威というものに畏敬の感情を一切持っていなかったようです。その根本的な要因は彼の血統に求めることができるのではないかと思います。
 義満は当然のことながら清和源氏の嫡流ですから、その男系の血統をたどれば、清和天皇に行きつきます。これに加えて、母方の血をさかのぼれば、実は五世で天皇の血統にたどり着くことになるのです。つまり、承久の変で後鳥羽上皇とともに討幕の兵を挙げられた順徳天皇五世の孫ということです。しかも彼の母は紀良子と言い、後円融天皇の母崇賢門院(仲子)の実姉です。すなわち後円融天皇と義満は従兄弟同士であり、しかも同い年だったのです。この親近感に加えて、皇室を超える権威として儒教から学んだ天命を受けた「天子」という概念を義満が信仰したことが、後円融天皇にとって災難となります。
 後円融天皇は永徳二年(一三八二)、息子の幹仁(もとひと)親王(後の後小松天皇)に譲位して上皇となりますが、治天の君としての権力は義満によって形骸化させられます。当時六歳であった幹仁親王の即位を強力に後押ししたのは時の摂政二条良基と義満であり、後円融天皇の治天就任後、二人は後小松天皇の即位の礼の日程を上皇への相談もなく決めてしまい、結局、勅許を得ることなく即位の礼を行いました。翌三年の元旦、義満は仙洞御所を訪れましたが、上皇は面会を拒否。その報復でしょうか、正月二十九日には先帝後光厳天皇の聖忌仏事が営まれましたが、義満を恐れた公卿・殿上が一人も参内しないという、異例の事態となったのです。

 ここで一つの衝撃的な事件が起こります。
 後円融天皇の上臈・通陽門院は幹仁親王を生んだ女性ですが、その妹を懐妊し、実家である三条家に出産のために里帰りしていました。彼女は正月晦日に赤子を抱えて宮中に戻りましたが、翌二月一日、逆上した天皇から峰打ちに遭い、大怪我をするという事件があったのです。直後に、天皇の愛妾按察局(あぜちのつぼね)が義満との密通を疑われて出家するという事件もあって、通陽門院も義満との密通を疑われたのだと言われております。そこで遡って、後小松天皇も義満の落胤だったとの説もあります。
 通陽門院を助け出したのは姉の崇賢門院で、後円融上皇の生母にして義満の叔母にあたる女性です。続いて、密通を疑われた按察局がにわかに出家して尼になったのが九日のこと。十五日、義満は伝奏を通じて、密通が無実であることを弁解しようとしましたが、上皇は面会を拒絶しました。そんな中、側近の一人が、義満は上皇の配流を企てていると耳打ちしたため、上皇は持仏堂に駆け込んで、自殺すると騒ぎ立てました。上皇の刀は左右の者が取り押さえましたが、上皇を宥め、事態を収束せしめたのは、またしても崇賢門院でした。
 親族中の事件で真相は不明ですが、義満が皇位への敬意を持っていなかったことだけは確かです。この事件によって皇室の権威は傷つき、逆に義満は自らの権威を高めましたが、事件は京中に知れ渡り、義満は上皇生存中、皇威を直接侵食する行為を差し控えるようになったのです。
 その後、義満は南朝をだまして神器を取り戻しました。やむを得ず神器なき即位を余儀なくされてきた北朝の後光厳―後円融―後小松の皇統は、その資格においても、完全な天皇と認められたことになります。後円融上皇はこのことを見届けると、安堵したかのように御隠れになりました。明徳四年四月のことです。
 南北朝の動乱は義満によってようやくある程度安定を得ました。天子とも称されてきた皇室自ら収束せしめることができなかった皇統の乱れを解決したことは義満に自己を聖天子とする自信を深めさせたのではなかったかと思われます。
 彼は明徳五年の改元の議に際して、明朝創業の英雄洪武帝にあやかりたいと、「洪」の字の使用を朝廷に工作しました。結局、工作には失敗しましたが、応永に改元された同年十二月に、征夷大将軍職を息子の義持に譲るとともに太政大臣に就任します。この就任式から義満は儀式において上皇に準えた待遇を朝廷に陰に陽に強要し始めました。
 翌応永二年四月、従兄弟である後円融天皇の三回忌に義満は太政大臣を辞して出家しようとします。後小松天皇の慰留により結局六月になりましたが、彼は出家の素志を遂げて、「道有」、間もなく改めて「道義」と名のりました。北山第の立柱上棟式が行われたのは応永四年四月のことです。この北山第の一角に、聖天子の出現を表す鳳凰像を戴く舎利殿が建てられたのはすでに触れたとおりです。
 義満は学問的な優等生でも、朱子学的意味における聖人君子でもありません。学問思想を自分の都合で解釈し、それを根拠にして、肥大していく自己の立場を補強、あるいは強化していくために利用していったようなところがあります。しかし、同時にそれを本気で信じていたようにも見受けられます。彼の政治的関心は儒教思想の受容もあってか、その大半が「まつりごと」としての政治、すなわち祭祀祭礼に向けられていました。この「まつりごと」を守り行うために必要な事務行為が「政事」です。彼はこの意味での「政事」として軍事力と財力を重視していたように思います。軍事はもっぱら奉公衆を創設しこれを活用することで、またこの常備軍を維持するための財力は明朝との貿易に期待がかけられたように思えます。これが、彼が明朝への朝貢をしつこく求めた動機の一つでもあったでしょう。
 彼の行動は計画的というよりも、名を得れば実を、実を得れば名を求めようとの衝動に突き動かされていたように思われます。彼は早くに准三后の地位を得ましたが、応永十三年(一四〇六)暮れ、後小松天皇の実母通陽門院厳子が危篤状態になると、在位中二度の諒闇(りょうあん;服喪)は不吉であると強く主張して、彼女が薨ずるとその日のうちに、彼の正室である日野康子に准三后、そして準母(女院)とする宣下が下されました。これにより、義満は準父ということになりました。
 応永十五年三月八日、義満は後小松天皇の行幸を仰いで、北山第にて二十日間の宴遊を開催しましたが、禁裏から仙洞御所への行幸に準(なぞら)え、上皇の格式をもって天皇を迎えました。二十三日には北山院康子が女院として御所に参内し天皇と対面を果たしています。この宴遊の間に、元服前でありながら三度の昇進を重ね従四位左近衛中将に就任した四男の義嗣は、異例なことに翌四月二十五日に内裏にて、元服を行い、参議従三位に補せられました。親王元服の礼に準拠して行われたといいます。皇位簒奪を疑う立場から見れば、義満はついに次世代に手をつけたことになります。
 この三日後、義満は急な病に倒れ、五月六日に亡くなりました。
 このタイミングでの急死ですから、暗殺説にはかなり説得力があります。
 動機は皇統を守るためです。
 義満の動機はともかく、後世からもそう見えたように、彼の行動が皇位簒奪目的にあると映ったとしても無理はありませんでした。天命思想の影響を受け、「百王説」を信じたと思われる義満にしてみれば、皇統は後小松天皇で天命尽き途絶える運命にあり、特にこれを滅ぼす必要も認めていなかったでしょう。ならば血統は皇統ほど正統ではないにしても、高貴の血を受け継ぎ、天命を受けた自分が、朝廷のまつりごとを継承し、さらに新儀を加えて、伝統的にして新たな王朝を創業する着想を以て、これを接収していくつもりであったのではないでしょうか。つまり、公武を一統するため、天皇を超えた新たな権威と権力の創出を目指したということです。それは明の皇帝に対しても、対等か、あるいはそれ以上の存在を意味していたように思えます。
 しかし、彼が朝廷のまつりごとを接収していこうとしたと言っても、皇室の皇室たるゆえんである核心的な宮中祭祀まで接収しようとした痕跡はありません。
 彼はどこまで昇進しても「準」を冠した地位に甘んじていました。
 彼は最終的に太上天皇の尊号を求めていたようですが、これとて、彼自身が南朝の後亀山天皇に与えたとき、後亀山天皇を実質的に天皇とは認めなかったわけですから、天皇経験者に準えて贈った称号であることを自覚していなかったはずがありません。「準」とは準えるということであり、仮にそれと見做すがあくまでも違うということで、つまりイミテーションということです。彼はその分限を踏み越えることはなかったし、周囲もこれを認めませんでした。日本において皇室の血統とはそれほど隔絶して高貴なものなのです。だから今でも皇室に姓はありません。
 一方で、義満の足利姓は決して抹消することはできないわけですから、これは突き詰めていけば無姓から有姓への易姓革命を意味していたことになります。義満の政治家としての肥大化とその急死は日本の國體における権力者の限界点を明示した重大な事件であったと思われます。

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