侍と論語(壱)-平将門・源頼朝・北条泰時・楠木正成 【『皇室と論語』(八)】

朝廷の権威と権力の衰退の中で、その政治的空白を埋めるかのように台頭してきたのが、在野の開拓農民として実力を蓄えてきた武士でした。幕末に王政復古が行われるまで、わかりやすく源頼朝の幕府開設を武家政治の始点とするなら六百七十余年、完全に草莽である北条氏によって上皇天皇が島送りになった承久の変を始点とするなら六百四十余年、武家政治は続いたことになります。
 
 兵(つわもの)、武士(もののふ)、侍(さむらい)。
 武士にはさまざまな呼び方がありますが、それぞれ武士というものの一側面を現した呼称です。武士とはそのまま戦士という意味ですが、「つわもの」とは「強者」でそのまま強い者という意味です。「もののふ」とは鉄器や武器の製造管理を司ってきた古代氏族「物部」氏に由来しています。「さむらい」は動詞「さぶらふ」に由来し、仕える者の意味で、元々は朝廷の下級官人に用いられた呼称です。つまり、家や主君に仕える者を以て「さむらい」と呼んだのです。
 様々な呼称があることでわかるように、この武家政治の数百年の間に、彼らの自己規定は「つわもの」という権力をほしいままにするものから、「さむらい」という権威ある何ものかに仕える者としての間で揺れ動きます。その揺れが混乱と秩序を生み出す要因になったという見方も可能でしょう。それがこの時代の日本の歴史にダイナミズムを与える内的要因になったということです。
 武家政治を振り返った時、前者の象徴が室町時代初期の高師直に代表される婆娑羅(ばさら)大名でしょう。戦国時代の覇者織田信長やその後継者豊臣秀吉、徳川家康をその代表と見る人もいるかもしれませんが、筆者は彼らについて別の見方をしています。後者の代表が「建武の中興」における楠木正成に代表される南朝の忠臣たちでしょう。
 そういった動揺に、朝廷再興の動きが加わって、混乱が行き着くところまで行ってしまったのが戦国時代ということが出来るでしょう。
 そういった時代の流れに抗して、新たな秩序を創造しようとした武家政治家たちがいます。
 その代表的な人物として、源頼朝、北条泰時、足利義満、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康を挙げたいと思います。筆者は彼らの思想・世界観と事跡について『十人の侍』という本を書いて考察してみました。そして、それは一つの精神的伝統によって貫かれていることに気づいたのです。実はそれが「孔孟の教え」、つまり『論語』『孟子』を中心とする儒教に基づく伝統だったのです。
 以下は『十人の侍』の内容を要約したものです。

 武家の朝廷からの独立の意志は、平将門の関東独立まで遡ることが出来ます。
 平安京を開いた第五十代桓武天皇五世の孫にあたる将門は、様々な経緯があって、関東の独立を宣言し、「新皇」と称するに至ります。彼は討伐を受け、二ヶ月後には敗死しますが、その前に、以前仕えたことがある、時の太政大臣藤原忠平に書を送って、独立の趣旨を説明しています。根拠は二つあって、一つは桓武天皇五世の孫であるということ、一つは、昔兵威を振るうものが天下を取ったのは史書(『史記』などの漢籍を指すのでしょう)にあるとおりであり、自分の武芸は天下無双にして天の与える所である、ということです。前者は天皇の血を引くという血統主義、すなわち日本固有の正統主義、後者は天命思想、すなわちシナの実力主義に基づいています。
 前者の思想に基づいて、桓武天皇の孫高見王の血を引いた伊勢平氏から、清盛が出て、平氏の全盛時代を築きます。清盛は平治の乱の勝者となることによって日本全国六十州の半分近くを領し、源氏をも配下に収めますが、天皇のカリスマに寄生する藤原氏のやり方を踏襲して、急速に公家化して、将門の独自性を継いだ源氏の棟梁、頼朝に天下を奪われます。
 頼朝は清和天皇の第六皇子貞純親王の子経基王を祖とする源義朝の三男という血統を持ち、高貴な血統ということで棟梁に担ぎ上げられたわけですから、将門以来の血統主義はまだ受け継がれています。彼は政庁を、応神天皇を主祭神とする鶴岡八幡宮を中心に設置しましたから、自己の血統を正統性の根拠として重視していたことは明らかです。彼は建久元年(一一九〇)上京した際、時の摂政二条兼実に、八幡神の御託宣により、一向に君に帰し奉り、百王を守っていくつもり、と宣言していて、この遠い祖先の神託に報いようとしていたことが窺えます。
 また、応神天皇の『論語』渡来以来の漢籍の伝統も彼の統治には受け継がれています。
 治承六年(養和二年・一一八二)の伊勢神宮へ収めた願文の草案には後白河院の仁政成就を助けることを切々と訴え、「たとひ平家といへども、源氏といへども、不義をば罰し、忠臣をば賞したまへ」と祈願しています。つまり、 天子による統治の目指す所が仁政であり、それを成就するために、頼朝は忠臣として、不義不忠を為している平清盛をはじめとする連中に誅罰を加えることを天照大神に誓って加護を求めているのです。
 実は彼にはブレーンがいました。有名な大江広元(おおえのひろもと)です。広元は若いころ朝廷において大外記清原頼業(よりなり)を補佐して、実務能力を鍛えた人物で、守護地頭の設置を頼朝に献策したのも彼です。頼朝の広元に対する信頼は篤く、政所(まんどころ)が設置されると初代別当に任ぜられています。
 この広元が師事したのが明法博士でもある清原頼業で、高倉天皇の侍読まで務めた儒学の碩学でした。その頼業に師事し、儒教の王道思想を学んだのが九条兼実でした。頼朝は「政を淳素(じゅんそ;淳朴)に反(かえ)す」との信念を持つ兼実に廟堂改革の実行者として白羽の矢を立てたのです。兼実は頼業に相談しながら朝廷の改革に取り組みました。頼朝への征夷大将軍職の宣下も彼の主導で行われたのです。
 頼朝の「天下草創」「天下静謐」事業が儒教の思想を参照しながら進められていったのはこういった人脈図があったからです。

 承久元年、三代将軍源実朝が暗殺されると、朝廷で権力奪還の動きが起きます。
 後鳥羽上皇が院宣を発し、鎌倉幕府執権北条義時討伐の兵を挙げたのです。承久三年のことです。義時は頼朝正室北条政子の弟に当たります。
 上皇は利益集団である武士の結束を崩す目的で北条義時(よしとき)のみを追討のターゲットにしますが、北条政子は頼朝の関東草創の恩を言い立てて、敗れれば頼朝以来獲得してきた武士の権利をすべて失ってしまうことをほのめかし、また上皇に弓を引くことは武士のためらいを招くので、上皇側についた武士をターゲットにして結束を促します。不義の綸旨が下されたのは君側の奸の仕業であり、これを除くという論理です。
 武士はこれまで朝敵を討伐するという名目で武力を行使してきましたが、今回は明確に義時が朝敵に指名されています。幕府は利益で一致するのみならず、朝命に逆らって、上皇に弓を引くという罪悪感を払拭するために大義名分を必要としていました。これには北条氏が、高貴の血を引いて棟梁(とうりょう)に推戴されていた頼朝と違って、他の武士団とは同格であって、単に命令すればよいという立場にはなかったという事情もあります。
 幕府軍を率いた義時の息子・泰時(やすとき)は道理を重んずる人です。
 政子の演説の前だと思われますが、父子の間では次のようなやり取りがあったといいます。以下は『栂尾明恵上人伝記』に出てくるエピソードです。
 まずは泰時の発言です。

 「平大相國禅門(太政大臣平清盛)が君(後白河法皇)を悩まし、國の煩いとなっている現状を見て、故大将殿(頼朝)が、君の御気色を承りて、これを討ち平らげ、上を休め、下を治めました。それ以来関東は忠義を尽くして過ちを犯しませんでしたが、今や科なくして罪を蒙ろうとしています。これはむしろ公家の誤りではないでしょうか。しかし、一天ことごとく王土でないところはありません。一朝に孕(はら)まれる物は宜しく君の御心に任せられるべきです。ならば、戦うことは理に背くことになります。降伏して歎願しましょう。その上でなお首を刎ねられれば、命は義によりて軽し、と言いますから、何を拒むことがありましょうか。こうなってはどうしようもありません。もし罪が許されるならば、そうあるべきことであり、どこかの山林にでも住んで、余生を送るというのはどうでしょう。」 

 これに対し、父義時は次のように言ったといいます。

 「もっともだが、それは君王の御政(まつりごと)正しく、國家が治まっている時のことである。今、この君の御代となってから、國々は乱れ、安心できるところはなく、上下万民愁(うれ)いを抱かない者はいない。そういった中で、関東が支配している分國だけがこの王難を受けずに、万民が安穏の思いをしている。もし君による一統が成ったならば、禍は四海に充満し、煩いは一天に普(あまね)く広がり、人民は大いに愁うことになるだろう。これは私心から君命に随わないという事ではない。天下の人の歎きを引き受けて、たとえ身の冥加が尽き、命を捨てることになっても、悲しむべきことではない。これには先例がないわけではない。周の武王や漢の高祖が過去にこの義を行って、自ら天下を取って王位に就いている。しかし、こちらでは、関東がもし運を開いても、君の御位を改めて、別の君を御位に就けることにしよう。天照大神も八幡神(応神天皇)も何のお咎めもなさるまい。君を誤り奉るべきではない。事をここまで進めた近臣どもの悪行を罰するまでだ。急ぎ出立せよ。この旨を二位家(にいけ;政子)に申し上げることにしよう。」
                                 
 義時はこういって座を立ったので、泰時としては、一義ある以上は父の命に従わざるを得なかった、と明恵上人に弁解したというのです。
 ここで朝廷側の目線で書かれた史書『増鏡』に記されたエピソードを紹介します。
 義時に、君に対し後ろめたい心はないから、心置きなく奮戦せよ、と激励されて、兵とともに出発した泰時は翌日になって一人戻ってきて、鳳輦(ほうれん;天皇の御輿)を先に立てて、錦の御旗をたなびかせて、厳かに進軍してきた場合はどうすべきか尋ねた。義時は、君の御輿に弓を引くことはできない、兜を脱ぎ、弓の弦を切って降参せよ。しかし、君が都におわしながら兵を遣わしたのであるならば、命を捨てて千人が一人になるまで戦い抜け、と答えた。泰時はこれを聞くと、すかざず馬に鞭を当て西上の途についた。
 ここに見える泰時の不安は、先の義時との対話の延長線上に生じる当然の不安です。君側の奸を討つのは大義であるからよいとして、その先頭に天皇が立っていたらどうすべきか。出立して行動に移った時、現実的に想定されうる最悪のケースにどう対処すべきか。行動に移った泰時を襲った不安はこれです。
 以上が『栂尾明恵上人伝記』に出てくるエピソードです。この伝記にしても、『増鏡』にしても、後世の伝聞を伝える史料であり、これらのことが事実であったという確証はありませんが、傍証的には概ね事実であっただろうと思われます。泰時と明恵上人の関係、乱後の泰時の政治姿勢などを考慮するとです。思想の一貫性もそうですし、将門から頼朝へと受け継がれてきた武家政治正当化の伝統から見ても、その継承発展を見て取ることができます。
 実は、ここに援用されているのは明らかに『孟子』の思想です。
 仁を賊(そこ)ない、義を賊なう者は残賊の一夫であって君ではない。だから、天命を受けた人物がこの一夫を討って、王朝を開いてもかまわない。結果的に王朝の姓が易(か)わることになるから、これを易姓(えきせい)革命と言います。古代シナにおいては天命を受けた殷の湯王や周の武王が、前王朝の王を追放、あるいは討伐したので、これを正当化する論理を湯武放伐論と言います。ちなみに放伐を伴わない自発的な易姓革命が禅譲です。
 では、どういう人物が天命を受けた人物とされるかと言えば、その徳によって民心を得た人物であるとされます。孟子は論じています。天はその意とするところを言葉によって示すのではない。行いと事(事件・事象)によって示すのみである。これは、天意は天候や災害などの自然現象や民意に表れる、ということです。簡単に言えば、天子が残賊の一夫の振る舞いをすれば、天意に見放され、天候不順や災害により不作となったりして民の生活が脅かされて、民心が王朝から離れる。逆に、徳がある人物が天子の位につけば、天の恩恵により、民は安心して暮らすことができて、王朝は支持される。
 山本七平は『日本的革命の哲学』の中で、孟子のこの思想を「王道的人民民主主義」と表現しています。
 シナの歴史においてはこの論理が形骸化して、衰退した前王朝を力で倒した成り上がり者が、徳があったから天命を受けたのだと称して、新たな王朝を開くようになりました。それを繰り返してきたのがシナの歴史です。
 しかし、日本においては天と天照大神を中心とする高天原の神が一体化していて、天子としての資格を持つのは天神の末裔である天皇だけです。武士はどうしてもこの限界だけは踏み越えることができないのです。天皇の血統に遠く繋がっている将門や頼朝でさえそうでした。北条氏はどこまでも単なる地方豪族ですから、将門や清盛や頼朝と違い、血縁的カリスマはありません。ですから、自己の行為の正当化のためにシナ思想への依存度が高まるのは当然です。他に正当化の論理はなかったわけですから。漢籍に通じた大江広元が京都への進撃論を強く唱えて、地の利がある鎌倉で防戦すべきとする多数意見を抑えたこともそれを裏付けています。
 シナ思想を援用しての義時と泰時のやり取りを中心とするこれらのエピソードには、彼らの天皇に対する畏れ、躊躇い、葛藤、自己の統治や実力に対する自信がうまく表現されていて、全くの創作とは思えません。将門、頼朝と受け継がれてきた儒教思想を援用しての武家政治正当化の思想がここでより洗練化されて、発露した、と考えた方が自然ではないでしょうか。

 『栂尾明恵上人伝記』に記された上人と泰時の問答は、泰時という人物を理解するうえで格好のテキストとなっています。確実な資料との矛盾はない以上、概ね信ずるに足る内容だと思いますが、仮に事実ではなかったとしても、このように伝えられてきたことは事実です。伝統という本書のテーマから言えば、どのように後世に伝えられ、人々に感化を及ぼしてきたか、むしろそちらの方が重要です。
 彼は全くの草莽の武家政治家として、その理想像を最初に体現した人物ではないかと思われます。『栂尾明恵上人伝記』は仏法の話ばかりなのに、泰時のエピソードに限っては儒教の思想に依拠した内容となっています。当時の大寺院というのは総合大学のような側面を持っていて、上人は仏教を主とする本地垂迹説的な神儒仏三教合一思想を持ち、春日大明神を信仰し、『論語』なども釈迦の智慧から出たものと信じ、これを重んじていたと伝えられていますから、武家政治家である泰時とこのような対話になったとしても不思議ではありません。
 泰時は上人の教えを堅く守り、善政を行いました。中でも、史実としては一番確実で、後世に大きな影響を及ぼした善政として「御成敗式目(貞永式目)」の制定を挙げておきます。

 貞応三年(一二二四)義時が死に、翌嘉禄元年(一二二五)には大江広元、伯母で後見人であった北条政子がまるで歴史的役割を終えたかのように、立て続けにこの世を去ります。天下を治めるという重責は泰時の両肩に重く圧しかかってきますが、彼は上人の教えに随い、内乱後の困難な状況下で混乱を鎮めていきます。当初は「右大将家の例」、すなわち頼朝以来の先例に則って物事を処理していきましたが、時代の変化は早く、対応しきれない部分が出てきます。さらに、大きな試練が待ち構えていました。寛喜三年(一二三一)には「天下の人種三分の一失す」というほどの天候不順による大飢饉が起き、社会不安は極限に達したのです。都市には流民が集まり、餓死者であふれました。人身売買も横行したといいます。泰時はこれを禁じ、鶴岡八幡宮で加持(かじ)祈祷(きとう)を行います。翌年には、飢饉が原因で「貞永」への改元が行われます。すでに触れたように、天候不順による社会不安は泰時にとっては天意の表れです。大変な危機感に襲われたことでしょう。
 そこで、それまでの訴訟で培った経験を生かして、「御成敗式目」を制定公布します。「成敗」とは判決を下すことで、「式目」とは本来は「目録」のことですが、ここでは法令を意味しています。その起請文(誓紙)が残されていますが、彼らの危機感を反映して、悲壮な覚悟が漂っています。

 「起請
 御評定(執権・連署・評定衆など幕府の最高機関を指す)の間、理非決断の事。右愚暗の身、了見の及ばざるによって、もし旨趣相違の事、さらに心の曲がるところにあらず。…(中略)…およそ評定の間、理非においては親疎あるべからず、好悪あるべからず。ただ道理の推すところ、心中の存知、傍輩(仲間)を憚らず、権門を恐れず、詞(ことば)を出すべきなり。御成敗事切れ(結審した後)の条々、たとえ道理に違わずといえども一同の憲法なり。たとえ非拠(無根拠)に行わるるといえども一同の越度(おちど)なり。自今以後、訴人ならびに縁者に相向い、自身は道理を存すといえども、傍輩の中、その人の説をもっていささか違乱の由を申し聞かさば、すでに一味の義にあらず。ほとんど諸人の嘲(あざけ)りを貽(のこ)すものか。…(中略)…この内、もし一事といえども曲折を存じ違犯しせめば、梵天・帝釈・四大天王、惣(そう)じて日本國中六十余州の大小神祇、別して伊豆・箱根両所権現・三嶋大明神・八幡大菩薩・天満大自在天神の部類眷属(けんぞく;親族)の神罰・冥罰をおのおの罷(まか)り蒙(こうむ)るべきなり。よって起請、件(くだん)の如し。」

 彼はこの法令を作った趣旨を、弟重時(しげとき)に送った書簡で次のように述べています。

 「さて、この式目をつくられ候事は、何を本説として注し載せられるの由(どのような法典に依拠したのか)、人さだめて謗難(ぼうなん;誹謗、論難)を加うる事候か。ま事(まこと)にさせる本文(本説)にすがりたる事候わねども、ただ道理のおすところを記され候者なり。」

 そして、その道理については「従者、主に忠をいたし、子、親に孝あり、妻は夫にしたがわば、人の心の曲がれるをば棄て、直(なお)しきをば賞して、おのずから土民安堵の計(はか)り事(ごと)にて候とてかように沙汰候」と解説しています。つまり、当時の武家の慣習と明恵上人直伝の儒教の思想に則ったものを道理の価値基準としたのです。
 泰時はこのように、十三人の評定衆で、道理に近づくよう無私の議論を尽くして、その上で決まったことはたとえ間違うことはあっても、全體の連帯責任とする、と八百万の神々に誓いました。これは儒教的に言い換えれば天に誓ったということになります。
 起請文に「一同の憲法」という言葉が出てきますが、「御成敗式目」は五十一条から成り、聖徳太子の「十七条憲法」を意識して、その三倍数となっています。その内容から言っても「十七条憲法」と「五箇条の御誓文」や明治の大日本帝國憲法および教育勅語へとつながる伝統、儒教的に言えば「道統」の中間に位置づけることが可能かと思われます。「道統」とは、聖人政治の継承、あるいは王道政治の伝統、という意味です。
 この式目の価値は、特に民の側の代表たる武家の指導者から出されたところに見出すことが出来るでしょう。いわば下から上に突き付けられたもので、儒教的王土王民思想に基づく律令に対する民からの反作用として生まれた法令です。泰時は弟への先の手紙の中で、田舎では律令に通じているものなど誰一人いないのが実情であり、にもかかわらず律令を適用して処罰するのは、まるで獣を罠にかけるようなものだ、と批判しています。いわば人民の代表勢力たる武士の、武士による、武士のための政治の確立が「御成敗式目」の制定だったわけです。その根底にもやはり王土王民思想が流れているのはこれまで見て来たとおりですが、民の慣習や道徳観に基づいているわけですから、より民の側に寄り添った内容になっています。だからこそ、公正に裁判が行われるなら、民は安心して暮らせることができるのです。
 確かにこの思想に沿って考えれば、天子を追放した以上は、執権は徳政を行って実際に天下の混乱を治めなければ、徳はなかったことになって、天子の追放は一義もない不義の行為だったということになってしまいます。それでは、皇室に対する尊崇心が強く、誠実な人柄であったと伝えられる泰時のよう人物が堪えられるわけがありません。
 しかし、このような王道政治は本来なら天子を戴く朝廷政治の目指す所でもあったはずです。泰時は法を制定しながら、律令を廃止することはありませんでした。日本は名目的にはなんと明治維新まで律令国家だったのです。
 「御成敗式目」の制定公布によって日本の民意に基づく独自の法意識が社会に定着しました。式目は、民間の法として生き続け、足利尊氏に踏襲され、徳川家康は諸法度を制定する際参考にし、江戸時代の寺子屋では読み書きの教科書として明治五年の学制発布まで使われ、また明治憲法下で民法の制定に際して参考にされ、日本人の法意識の中に生き続けるのです。
 松尾芭蕉は「名月の出づるや五十一ヵ条」と詠んだといいます。この句には題詞があって「武蔵守泰時 仁愛を先とし、政、欲を去るを以て先と為す」となっています。この句はなかなか意味深長で、芭蕉は御成敗式目を闇夜に浮かんだ名月に例えたわけですが、月光は日光の反射光で、日の沈んだ夜にしか名月は現れません。もちろん日になぞらえられるのは天照大神の末裔たる 皇室の存在しかありません。学問の流行した江戸時代らしい句です。
 五十一ヵ条を制定した泰時は、『明恵上人伝記』や、彼の事跡を称賛した『太平記』が広く読み継がれることで、日本人の理想とする政治家像となっていきました。無欲公正で、道理を重んじ、民の内的規範と自然的秩序に基づいた政治を行う理想的政治家として。芭蕉の句の題詞はそのことを表しています。
 泰時は、衰退により天下の統治能力を失った朝廷に代わって、民のための政治を行う上での一つの模範を創り上げたことになります。
 泰時はこのような人物でしたから、武家が心服するのはもちろんのこと、権威を傷つけられ、権益を侵された側の公家に憎悪されてしかるべきにもかかわらず、一部の公家には称賛されました。同時代の参議広橋経光は古の聖人に例えて称賛していますし、時代は下って、南朝の忠臣として名高い北畠親房も朱子学の影響が強い人物として知られますが、『神皇正統記』の中で、承久の乱はむしろ後鳥羽上皇に原因があったとし、泰時の善政を高く評価しています。
 最後に明恵上人が承久の変の時の幕府の態度をなじった時に泰時に述べた、上人の日本のあり方、言い換えれば「國體」観が表された発言を伝記から意訳しておきます。

 「古の賢者が言うには、人が多いときは一時的には天に勝つことができても、天が定まれば人は破れる、とのことだ(『史記』「伍子胥列伝」からの成句の引用)。ただ武威によって國を傾けることができても、治めるだけの徳がなければ必ず禍がやってくるだろう。聖賢の言葉を疑ってはならない。古より日本とシナの両國においては力によって天下を治めた者でその地位を長く保てた者などいない。かたじけなくも、わが日本においては神代より今に至るまで、皇位を世々受け継いで、他の血統を交えずに九十代に及んでいる。百王守護の三十番神(百代まで王を守る熱田大明神から吉備大明神に至る日本の三十の神々、神仏習合の思想に由来)は今末代まで来ていると言っても、新たなる聞こえもある。一朝の万物はことごとく國王の物である。ならば國の主としてこれを取ろうとすれば、是非にこだわってこれを惜しむ道理はない。たとえ無理に命を奪おうとしても、天下に孕(はら)まれるものである以上は、義を理解するものとしては拒否することがあってはならないはずだ。もしこの義に背くなら國を出て、天竺(インド)にでも震旦(シナ)にでも渡るがよい。古代シナの王朝殷の義人である伯夷(はくい)や叔斉(しゅくせい)は、殷王を討った武王の開いた王朝周でできた作物を食すことを拒んで、自生の蕨(わらび)を食して命を繋いだが、王命に随わないのになぜ王土の蕨を食すのかと詰め寄られて、その道理に随って、餓死の道を選んだ。道理を知り、志を立てた者は皆こうでなければならない。ならば、朝廷より恩寵を賜ると言われても、また命を奪うといわれても、拒否する力などはないのだ。國に住みながら、惜しんで背くべきではない。そうであるにもかかわらず、あまつさえ、私的に武威を振るって、官軍を滅ぼして、王城を占領し、あまつさえ、太上天皇(後鳥羽上皇を指す)を遠島に処し、天皇や皇族を國々に流し、公卿を悲惨な状況に陥れ、その様を聞く限りでは、どうも理に背くとしか思われない。もし理に背けば、冥慮のご照覧あって、必ず天のお咎めがあるはずだ。大いに慎むべきだ。あやふやな徳によって、この災いを償うことはできない。そしてこれを償うことがなければ禍がやってくることは避けることができない。並の公益を以てこの罪を消すことはできない。これを消すことがなければ矢のように地獄に堕ちていくことだろう。貴方を見るとこれ程の理に背くようなことをするはずないのに、どういう事だろうと、拝謁のたびに、かつは不思議に、かつは痛ましく思っております。」

 上人は畳みかけるように泰時の非行を詰(なじ)ったようです。そこで、泰時は涙を流し、心を落ち着かせて弁解に及んだのです。弁解したと言っても、泰時は上人の考えを否定したのではありません。彼自身も同じ考えだったが、父義時の言い分を聞いて一義あると思い、父の命に随った、というのです。これはすでに触れました。
 彼は神に誓いを立て、命を天に任せて、義を行ったところ、それは難なく成功した。だから仏神を興隆し、國家の政を大いに助けることに懈怠(けたい)があっては、罪は己一身に帰することになる。今、上人の慈悲のお言葉を聞いて、感涙禁じがたい、と言って感謝した、と伝記は伝えています。
 この中で、泰時は日頃の心がけとして、一度食する間に士が面会を求めてくれば食べ終えぬ内にすぐ会い、一度髪を梳(くしけず)る間に士が面会を求めてくれば終えぬ内にすぐ会って、士が愁いを懐きながら待っていることを恐れて、心安まる暇もない、と述べています。これは周公の故事に倣ったものです。周公は武王の弟で、武王亡き後、叔父として、その子の成王を補佐して、周王朝を発展させた人物です。周の高度な礼楽文化を創成したのは彼だと伝えられていて、孔子が理想の聖人と考えていたのはこの人物です。『史記』「魯周公世家(せいか)(世襲の家柄の記録)」によれば、周公は「一沐(もく)に三度髪を捉(つか)み、一飯に三度哺(ほ)を吐きて、立ちて以て士を待つ」(ひとたび髪を洗う間であっても、人が訪ねてくれば何度でも、その濡れた髪を握ったまま面会し、ご飯をひとたび哺(ふく)む間であっても、人が訪ねてくれば、何度でも口にふくんだものを吐き出して面会する)との心構えで人材を待ったと言います。泰時の戒めはこの説話を元にしたもので、人材を待つという事と、士人の愁いや訴えを聴くとの違いはありますが、彼が天下の政道において、古聖人の故事を援用したことを表しています。
 先に義時・泰時父子が『孟子』の思想を援用していると述べましたが、以上の挿話を読む限り、彼らが『孟子』そのものを読んだということはなかったでしょう。武士の実践的な性格から、『史記』などのシナの歴史上の故事から、『孟子』が理論化した湯武放伐論や、天意が民意や自然現象を通じて現されるという「天人相関」の思想を感得した、と考えた方が自然です。
 以上のことを、筆者は概ね事実であったと考えておりますが、少なくともこのように伝えられて、武家政治の伝統を創っていったことは間違いありません。繰り返しになりますが、伝統を考える上でむしろそのことの方が重要なのです。

 善政を布き、元寇を撃退した北条執権政治もそれを一つの契機として衰退します。鎌倉時代の幕を引いたのはいわゆる「建武の中興」「建武の新政」と呼ばれる事件でした。「中興」とは皇室中心に見た言い方で、天皇親政を一時的に再興させたから「中興」です。「新政」とはその政治内容に着目した言葉で、それまでと異なる新しい政治を行おうとしたから「新政」です。この事件の持つ二つの側面をそれぞれの立場から表現した言葉です。これは「承久の変」を「承久の乱」と、明治維新を「王政復古」と呼んだり、「御一新」と呼ぶのと同じで、今後新しい視点や政治的立場から新たな名が発明されることも十分あり得ますが、事件自體(じたい)は過去の出来事ですから何も変わりません。その事件をより深く理解するには「温故知新」的に見ていくしかないでしょう。
 ひとまず、ここでは國體論の立場から「中興」と呼びますが、この事件の推進者は、誰が何といっても、不屈の闘志で討幕を成し遂げながら、その不屈の志ゆえに親政を短期的にしか実現しえなかった後醍醐天皇その人であったと言っていいでしょう。
 しかし、ここでは草莽、すなわち民の側の視点で見ていくことにします。後醍醐天皇はこの難事業を行うにあたって、幕政から疎外された民間の様々な社会勢力を動員したことが網野善彦の研究などによって明らかにされていますが、この天皇親政復活事業に参加した勢力でもとりわけ大きな働きをなした武家勢力、後世民間に広く読み継がれた『太平記』とそこに活躍する忠臣の代表として楠木正成を取り上げることにします。
 『太平記』は全四十巻の長編ですが、まずは後醍醐天皇の即位から崩御までを叙述した二十一巻が書かれ、後に怨霊が跳梁跋扈して天下が乱れに乱れる後半部が書き継がれていったと考えられています。原『太平記』の結論が書かれていたとみられる第二十二巻は、テーマの異なる後半部を書き継ぐためか、古くから失われています。この原『太平記』の作者は「洞院公定日記」に小嶋法師と伝えられていて、この人物は作中に登場する忠臣・児島高徳(こじまたかのり)との説がありますが、確かなことはわかっていません。
 しかし、原『太平記』のテーマはかなりはっきりしています。
 序文に次のようにあるからです。

 「序、蒙(もう;自分の謙称)窃(ひそ)かに古今の変化を採って、安危の所由を察(み)るに、覆(おお)って外無きは、天の徳なり。明君これに體(たい)して國家を保つ。載せて棄つること無きは、地の道なり。良臣これに則って、社稷(しゃしょく;國家)を守る。もし、その徳欠くる則(とき)は、位有りといえども、持たず。」

 大意は次のようになります。
 古今の移り変わりの中に、平和と変乱の由来を探っていくと、万物を覆っているのは天の徳である。明君とはこの天の徳を體して國家を保つ者をいい、これを戴いて棄てることのないのが地の道、すなわち臣下としての道である。良臣は、この法則に則って、國家を守るのである。もし、その徳が欠けるときがあれば、その位があったとしても國家を保つことはできない。
 ここで語られているのは、儒教の徳治思想です。そこで作者は、明君としての道、すなわち天の徳を賊(そこな)って湯王・武王によって放伐された夏の桀王と殷の紂王の例を挙げ、また地の道、すなわち臣下としての道を踏み外して身を滅ぼした、秦の始皇帝の寵臣で宦官の趙高、および唐の玄宗皇帝の寵臣安禄山の例を挙げ、次のように結論付けています。

 「ここを以て、前聖慎んで、法を将来に垂るることを得たり。後昆(こうこん)顧みて、誡めを既往に取らざらんや。」

 意味は、だからこそ、古の聖人は身を慎んで学んで、その教えを後世に残すことができたのであるから、後世のわれわれはこれらのことを顧みて、過去から教訓を学ぼう、ということになります。
 このように原『太平記』は、内乱の時代にあって平和のための教訓を歴史から得ようとして書かれた書物だったわけです。つまり、これからの太平のために記した書物だから、名づけて『太平記』です。その基準となる価値規範は、儒学の中でも当時輸入された最新の思想であった朱子学に見いだされた、ということになります。ただ朱子学と言っても、この学問はそれまでの儒教では副読本の扱いであった『論語』や『孟子』を聖典に格上げしたので、やはり孟子の湯武放伐論が採用されています。ついでながら、この書名の由来からいけば、巻二十三以降を書き継いだ別の作者は、太平であるための教訓として、最先端の朱子学的徳治主義ではなく、アンチテーゼとして、古来からの怨霊鎮魂の重要性を説きたかった、ということになります。
 さて、この観点から、作者は忠臣の忠義の対象であった後醍醐天皇を称賛しつつも、批判を加えることも忘れていません。後醍醐天皇は内に対しては「三綱五常」(「三綱」とは君臣・父子・夫婦の道、「五常」とは仁義礼智信を指す)という儒教の基礎となる規範を守らせ、周公や孔子の道に随(したが)って、政務を怠らなかったから万民はその徳に帰順して楽しんだ、としています。また衰退していた諸道を復興し、誠に天命を受けた聖主であり、地に奉ぜられた明君である、と皆が称賛した、としています。一方で、作者個人の見解としては、「ただ恨むらく」と前置きしたうえで、春秋時代の斉の桓公の覇道や、『孔子家語』で孔子が批判した楚王の度量の狭さが、後醍醐天皇の行いには垣間見られるという批判を行って、これが草創(創業)において天皇親政を実現させることに成功したが、守成においては三年も持たなかった原因である、と結論付けています。
 一方で、朱子学的規範において作者から絶賛に近い評価を受けているのが、後醍醐天皇の事業を支え続けた楠木正成です。楠木正成は後醍醐天皇が挙兵する前から、その協力をあてにしていた武士です。実在の人物であったことは確かですが、その出自について詳しいことはわかっていません。当時「悪党」と呼ばれた河内付近の新興勢力で、武装農民であった幕府統制下の武士に対して、武装商人として幕府の統制に服さない武士だったのではないかと言われています。農民のみならず、商業に携わる人間も武装してその生業(なりわい)を守る必要に迫られていた時代だったのです。
 彼もまた、朱子学を学んでいたようで、身分の隔絶した存在である天皇と彼を結びつけたものは、当時最新のこの学問であったようです。彼は忠義を尽くす対象として、同じ価値観を持つ後醍醐天皇を選んだという事でしょう。
 楠木正成は、北条執権家の権勢を恐れて有力者の誰一人として呼応する者がいなかった時から、小身の身であるにもかかわらず、真っ先に後醍醐天皇の下に馳せ参じ、その失敗のあと、また全國に先駆けて、千にも満たぬ手勢で金剛山千早城に再度挙兵し、幕府の公称百万の大軍を一手に引き受けます。『太平記』の作者は、この時の正成の行動を「楠(くすのき)が心の程こそ不思議なれ」と賛嘆し、感動した筆致で描いてみせます。正成はあらゆる術策を構えて幕府軍を翻弄し、天下に幕府の無能ぶりをさらけ出して、その威信を大いに傷つけ、討幕の機運を盛り上げます。後醍醐天皇の腹心北畠親房は公家として身分意識の強い人でしたが、『神皇正統記』において、楠木正成の一挙から幕府の統制が綻(ほころ)び始めたことを認めているほどです。
 確かに正成の英雄的な奮闘がなければ、当時隠岐に幽閉中の後醍醐天皇の再起もなかったし、名和氏や菊池氏など奮起する者も現れず、結果、北条執権体制に不満を持っていた足利尊氏や新田義貞といった有力御家人の離反もなかったでしょう。結果的に、幕府は、正成が暗に言ったように、それがまるで天意であったかのように、あっけなく崩壊してしまったのでした。
 しかし、「朕(ちん)の新儀は未来の先例たるべし」と自信を持って進められた後醍醐天皇の新政は、論理矛盾に満ちた朝令暮改の繰り返しで不評でした。武士にも不評であり、人々は実朝亡き後、源氏の嫡流で、討幕の功労者である足利尊氏に望みをかけるようになります。彼もまた、源氏の嫡流との強い意識をもっていて、本来なら一土豪に過ぎない北条氏の支配体制に納得のいかないものを感じていて、時勢を見て反旗を翻したのでしょう。しかし、やがて両者の間に不和が生じ、政治的対立に至ります。
 後醍醐天皇の新政は不評で、人望はいよいよ尊氏に集まりました。彼は敗走しましたが数か月後になんと十数万の大軍を率いて戻ってきます。この趨勢をじっとみていた正成は、通常とは逆の献策を行います。義貞に誅罰を加えて、私が使者を務めますから、尊氏を召して、和睦してください、というのです。
 この時の正成の献策を記しているのが、作者不明ながら足利氏擁護の立場の人物が書いた『梅松論』という書物です。正成は後に勢いを盛り返した尊氏の大軍と正面から戦うよう命じられて、出撃することになりますが、その時次のような趣旨のことを言ったと書かれています。

 今度の君の御戦(みいくさ)は必ず敗れるに違いない。人の心を以てその事を推し量ってみると、元弘の初め、ひそかに勅命を請けて、にわかに金剛山の城にこもった時、私の計略によって、國中をたのみとして、その功を成した。これで、皆が希望を君に託した(「心さしを君に通じ奉った」)がゆえであるという事がわかる。しかし、このたびは和泉・河内両國の守護として、勅命を受け軍勢を催したにもかかわらず、親類一族でさえ難渋の色を見せた。一般人民においてはなおさらであろう。これは要するに天下こぞって君に背き奉っていることを明らかに示している。ならば自分はこのまま生き永らえたとしても無益である。今度のことで命を捨てるつもりであると言い切った。

 以上ですが、正成は今回も一度京を捨てて、京に入った尊氏の大軍を攻めるという献策を行っていますが、退けられ、逆に迎撃を命ぜられて、これに随います。これが湊川における悲劇的な敗死へとつながっていくのです。右の要約は、正成が後醍醐天皇の無謀な命令を受け入れるに至った心理と戦いに臨んでの覚悟を述べたものです。
 しかし、これには少し哲学的な説明がいるでしょう。
 彼が朱子学の信奉者であったことは傍証的には間違いないと思われますが、『梅松論』に伝えられたこの発言も、そのことを強く裏付けるものです。朱子学が聖典の地位に押し上げた四書のひとつ『孟子』は、すでに触れたように、天意は自然現象や民意を通じて現れるとしました。『孟子』はこれをさらに一歩進めて、政治哲学化しています。

 夏の桀王や殷の紂王が天下を失ったのは、その民を失ったからである。その民を失うとはその心を失うということである。
 天下を得るには道(正当な方法)がある。その民を得れば、それがすなわち天下を得ることになる。
 その民を得るに道がある。その心を得れば、すなわち民を得ることができる。
 その心を得るのに道がある。民が欲する所を集約し、民が悪(にく)む所を施すことのないようにせよ。
 民がその仁に帰服するのは、水が低い方に流れ、獣が広い原野に走り出すように、自然の勢いである。…

 つまり、天意が民意に現れるのだとすれば、逆に民意に沿った政治を行って、彼らの支持を得れば、天意を得たことになって、乱はもちろん、天災や天候不順も起きないはずだ、ということです。
 また、さらに、『孟子』には「天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず」という有名な言葉があります。戦における「人の和」の重要性を説いた言葉です。
 これらの思想を補助線として、正成の発言を読むとその意味はおのずと明らかになってくるでしょう。
 解釈してみます。
 最初の挙兵の時、自分は天命を受け、國中の民(の心)をたのみに計略を立て、金剛山に立て籠って戦い、成功を収めた。このことによって、後醍醐天皇の討幕が天下の民の心を得ていたことがわかる。しかし、現状を観察してみると、身内においても人の和が失われていて、今回の御戦は天下の民心が離れてしまっていることを明らかに示している。これは天意に見放されているということで、民心を取り戻すための、民心をつかみつつある尊氏との和睦の献策も、戦に勝つための必勝の献策も用いられなかった以上、敗戦は必至だ。天命に背いて生き永らえても無益である。ならば天命に随って生きよう(戦って死のう)。
 このように解釈できると思います。これが原『太平記』の作者が「楠が心の程こそ不思議なれ」と言った彼の胸中を解くカギとなっています。以上の発言が足利びいきの『梅松論』に記されていることが逆に信憑性を高めています。朱子学的な天命思想、忠義思想の信奉者ならではの脈絡による結論です。
 一方で、貴族である北畠親房は『神皇正統記』において、討幕に成功したのは神の思し召しであり、天の功である、それにもかかわらず武士たちは自分たちの功であると勘違いしている、という趣旨のことを述べています。後醍醐天皇も同じ考えだったと思います。正成にそのような思い上がりは見られませんが、少なくとも後醍醐天皇や北畠親房の中には、身分の卑しい武士は利用するものであって、彼らを民の代表者と見做して、その意志の中に民意を見、これを汲み取ろうとの発想は全く見られません。彼らのイデオロギーによれば、民意は天意であるにもかかわらず、です。彼らは「王道的人民民主主義」の理解者ではなかったのです。
 結果は正成の予言通りとなりました。『梅松論』は「誠に賢才武略の勇士とはかようの者をや申すべき」と敵も味方も惜しまぬ人はなかったと伝えています。また『太平記』は、湊川での敗死の後で「智仁勇の三徳を兼ねて、死を善道に守るは、いにしえより今に至るまで、正成ほどの者はいまだ無かりつる」と儒教の言葉で、忠臣として最大限の賛辞を与えています。
 民意に鈍感で、独りよがりの傾向がある後醍醐天皇の衰運はこれで決定的となりました。尊氏は京での手痛い敗走からわずか四か月後の五月には、持明院統の光厳上皇を奉じて京を回復しました。すったもんだの挙句、後醍醐天皇は十二月に吉野に入り、以後五十六年という長期にわたる南北朝の分裂時代に入ります。

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