昭和大帝の大御心「仁」ー敗戦時の失われた記憶(参)【『皇室と論語』(六)】

もうひとりの知識人の敗戦経験を紹介しておきたいと思います。
 そのある知識人は次のように書いています。

…私が『論語』を、教室の講義のためでなく、自らのために読んだのは、敗戦後のことであった。あの敗戦のあとの、やるせないような虚脱を味わわれた方には、理解していただけることかと思う。私の机辺には、いつとはなく、『論語』と『聖書』とがあった。別に思想としての要求や、入信を求めてのことではない。暗い海の上をひとりただようて、何かに手をふれておりたいという衝動があった。それには、どのような角度からでも接近できるものが、よかったのであろう。それで順序も立てず、ながめるようにして読んだ。そして読むうちに、この二つの書が、敗北者のための思想であり、文章であると思うようになった。読んでいると、自然に深い観想の世界に導かれてゆくような思いであった。…

 これは漢字学の碩学・白川静博士の『孔子伝』の文庫版あとがきにある一節です。
 敗戦時の具体的体験はここでは語られていませんが、彼もまた、多くの国民と同様に、虚無を見つめた経験を持ったようです。その心にぽっかりとあいた深淵を埋めたのが、『論語』と『聖書』であった、というのはそれなりの必然性があったに違いありません。
 暗い海の上を、進路を見失ってひとりで漂っている時、自己の位置を把握し、進路を指し示すのは天と己れとの位置関係です。それはいわば垂直方向の精神運動であり、『論語』にせよ、『聖書』にせよ、どこから読んでも、天と己れとの関係が語られています。
 これらが敗北者のための思想なのか、どうか分りません。が、挫折を経験して初めて深く理解できる面があることは否定できないでしょう。
 確かに現実的な面からいえば、孔子も敗北者であったし、ユダヤ人も、イエスもまた敗北者でした。が、その思想は生き続け、いわば聖なる書として、現代人にまで伝えられて、こうして人びとを感化し続けていることを思えば、同時代のいかなる現実的成功者よりも大きな影響を後世に及ぼしています。
 やがて虚脱の時期は過ぎ、秩序は徐々に回復して、博士は漢字の起源である甲骨文・金文の研究に没頭していきました。しかし、敗戦―占領を経て思想的免疫力の低下した日本では、大正時代から徐々に浸潤してきた共産主義運動が、占領期初期に続けて再び猛威を振るうことになります。
 博士に伝統というものを深く考えるきっかけを与えたのが、昭和四十三年暮れから四十四年にかけて起きた、自身が勤める立命館大学における大学紛争であり、また、専門の対象であるシナで荒れ狂っていた文化大革命でした。
 これも昭和四十一年より十年間に亘って、中国全土を蔽った、紅衛兵と呼ばれる学生の運動でした。背後にいたのは、よく知られているように権力奪還を狙う毛沢東でした。
 この騒乱によって、日本人が有史以来大きな影響を受けてきた、シナのある種の良き伝統は無残に破壊されましたが、これは秦の始皇帝に始まる、独裁者による専制への回帰という点で、復古的側面がありました。
 この東アジアの伝統に対する危惧から白川博士の、日本の伝統的視点による画期的名著『孔子伝』(中公文庫)は生まれたのです。
 この名著誕生の経緯は、これもまた文庫版のあとがきに書き記されています。

…(昭和)四十三年の暮近く、私の大学では、両派の学生の間に機関紙の争奪をめぐる闘争があり、前後二回に、約九十名の負傷者が出た。それを合図とするように、紛争は燃え上がった。
 紛争は数ヶ月で一おう終熄したが、教育の場における亀裂は、容易に埋めうるものではない。特に一党支配の体制がもたらす荒廃は、如何ともしがたいもののようである。私はこのとき、敗戦後によんだ『論語』の諸章を、思い起していた。そして、あの決定的な敗北のなかにあって、心許した弟子たちを伴いながら、老衰の身で十数年も漂泊の旅をつづけた孔子のことを、考えてみようと思った。…

 敗戦時、彼は折口信夫同様に、日本の神々がキリスト教の神に敗れたと捉えていて、無意識に『聖書』を紐解いたのかもしれません。一方で、折口信夫が伝統に回帰して、新たな神学をうちたてようとしたのと同じ方向で、わが国の別種の伝統、すなわち漢学の伝統の、その核心として『論語』を手に取ったように思われます。
 しかし、戦後二十余年を経た今度の精神秩序の危機においては、明確に『論語』の方を向いた。そして、それはわが国の歴史を考えた時、また彼が自己を形成した戦前の精神秩序を振り返ったとき、至って自然な選択であったと思われるのです。
 山本七平が見抜いた日本人の価値規範には、その核心となる神道的世界観をしっくりと取り巻く形で、その表層を『論語』的世界観が蔽って、これを守っているのです。自己の思想形成の過程を忘れた一般日本人の意識は、このさらに表層を漂っていると言えるでしょう。 
 長谷川三千子氏が漢学の伝統をさらりと通り過ぎて、日本語の、大和言葉の哲学を志向するには、それなりの根拠があります。彼女がバベルの塔の物語の裂け目に着目したのは、これを書いた「ヤハウィスト」(いわゆるJ資料の作者)が目指した、言葉を通じての「神人対晤」のための、人と大地を切り離す試みが、この物語に至って破綻を来たしているのを看破したからです。『聖書』の最も古い部分を構想した「ヤハウィスト」が物語をここに至って語りそこなった要因は、言葉そのものが大地に根ざすものであるという本質に気づいたから、というのが長谷川氏の洞察です。
 いずれにしても「ヤハウィスト」が構想した絶対神ヤハウェは、一つ言葉で一つとなり、高い塔を建設しはじめた民の言葉を乱し、全地表に散らばらせた。
 ここで思うのは、日本を叩いたキリスト教国アメリカ、そしてその背後にいたユダヤ人たちには、バベルの塔の物語の原イメージがあって、知らず識らず、彼らを日本つぶしの戦争に駆り立てていったのではないか。これはいまだに日米関係に深いところで影響を及ぼしているように思われます。彼らの、一つ言語一つ民の近代国家・日本に対する潜在的な反感、警戒心、これとは対照をなす、未開な多言語・多民族文明であるシナに対する上から目線の親近感、同情心は、ここまで掘り下げてみて初めて理解できるものではないでしょうか。
 長谷川氏もまた、そういった視点をお持ちのようで、「バベルの謎」のまえがきで、ヨーロッパの言語思想の伝統を「ただ一つの言葉」という強迫観念(オブセッション)が支配しており、その起源をこの物語に見る、という趣旨のことを述べていて、その強迫観念がいかに直接・間接にわれわれ自身に影響を及ぼしているか、という問題意識を持っていることを明らかにしているのです。
 だからこそ、敗戦で背骨を折られた日本人の精神秩序の再建に、日本語による哲学は避けて通れない、と哲学者たる氏は考えておられるように思われます。 

 氏はその後『日本語の哲学へ』という興味深い試みをしておられるが、その中でわれわれが、知らず識らずの内に使い分けて頻繁に使用している「もの」「こと」という言葉を哲学的に捉えなおそうとしています。これは非常に興味深い研究です。
 長谷川氏は、「もの」という言葉の〈意味の水深〉はおそろしく深い、と言っていますが、これはそのとおりで、わが国の思考の原型を神話に求めるなら、葦原中国(あしはらのなかつくに)の国作りを行ったとされる、出雲の国譲りで有名な大国主命(おおくにぬしのみこと)は、同時に多くの名を持ち(おおなむぢ、大名持神とも)、そのうちの一つを大物主(おおものぬし)とも言い(『日本書紀』)、事代(ことしろ)主命(ぬし)はその子とされるのです。「ことしろ」とは「事・知る」「言・知る」に由来する名で、古代人がこれらの名に根源的なつながりを観取していたことが窺えるのです。われわれの言語生活は言わば、出雲大社で幽事(かくりごと)の主宰者として祀られているこの神によって、いまだに幽玄(ゆうげん)に支配されているのです。
 ちなみに出雲の国譲りはわが国のあり方を考える上でも、非常に象徴的な神話で、明治人は明治維新を振り返って、国譲りの神話の再現と見る論調もありました。最後の将軍・徳川慶喜の訃報を報じた「東京朝日新聞」「讀賣新聞」は明確に彼の大政奉還と朝廷への恭順を大国主命の国譲りと結びつけて論じています。
 長谷川氏の試みはそこまで行っていませんが、これを突き詰めていけば、神話の哲学的検証に行き着くほかないと思われます。しかし、それは哲学の領域を踏み越えてしまう危険がある。それこそが、折口信夫がなそうとしてなしえなかった日本の新たな神学の領域であったでしょう。
ともかく『神やぶれたまふ』もそういった日本語による哲学の延長線上に捉えられるべき試みで、『バベルの謎 ヤハウィストの冒険』が第一章、『日本語の哲学へ』が第二章とするなら、『神やぶれたまはず』は第三章とすべきでしょう。ならば、なおさら、この視点から「われわれの神を得た」ということの真意が問われなければなりません。 
 長谷川氏は「もの」「こと」という言葉の意味を、古今の用法のみならず、「物」「事・言」という漢字との出会いという点にも着目して、論を進めるのですが、白川博士にも同様の視点があり、いや、むしろ、それをさらに徹底するために、漢字の起源を突き詰めた学者であったと言えます。
 その業績は、古言を明らかにすることに精魂を傾けた荻生徂徠の業績の延長線上に捉えることも出来るでしょう。『孔子伝』は、スタイルは違えど、現代の『論語徴』と言っていいかもしれません。本居宣長はこの『論語徴』その他、『弁名』『弁道』などの徂徠学から大きな影響を受けて、「やまとごころ」の探究に漕ぎだして行ったことを思えば、白川博士の言語学も新たな「やまとごころ」探究への道を拓くかもしれません。
 博士は『孔子伝』の中で、孔子の死とイエスの死を結び付けて、次のように書いています。

 …二人の使徒(顔回・子路)の死を追うようにして、その偉大なる師(孔子)もまた世を去った。漂泊のうちに亡命の生活をつづけたこの師弟によって、中国における精神の伝統は生まれたが、それはふしぎなほど、ナザレ人イエスとその使徒たちの姿に似ている。…

 博士は続けて「ただ孔子の場合、その死によって、真の伝統は失われた。」と意味深長なことを言っています。孔子によってある精神の伝統は生まれましたが、彼が目指したところの伝統の真の再生は失敗しました。
 確かに、シナにおいて周王朝は亡び、春秋戦国の世は、『韓非子』に代表される法家の思想を採用した秦の始皇帝の統一によって終焉を迎えました。博士の言う「真の伝統」とは周王朝で花開いた礼楽文化の伝統のことです。これを先王の道といいます。その再生を望んだ孔子は、自らが聖人となって、皇帝専制国家の官僚制度の守護神となることなど夢にも思っていなかったでしょう。
 『韓非子』は必ずしも孔子を否定していたわけではありません。孔子の孫・子思に礼楽を学んだ彼に言わせれば、孔子は確かに聖人であるが、これを理解するものは世に稀である。いや、ほとんどいないと言っていい。ならば世の乱を収めるには別の方法が必要である。それがすなわち、法による君主の一元的支配、というところに行き着いたのです。続く漢の時代になって儒教は皇帝による一元的支配の道具として、言わば法の一種として、取り入れられました。
 まさに孔子が求めた真の伝統は死んだのです。
 『韓非子』を読んでいた毛沢東は、孔子が残したその精神の伝統までも根絶やしにしようとしました。それが文化大革命の批林批孔運動となったのです。博士の『孔子伝』はそれに触発されたものです。
 白川博士はまた、別の所では、

 …孔子の死は平穏であり、平凡であった。…(中略)…ソクラテスやキリストにおける死は、死することが生きることであった。

 とも言っていて、イエスの死と復活とは、聖書的伝統の復活であった、と言ってよいように思われます。
 神と人が旧くから取り交わしてきた契約(旧約)は、神の子・イエスの死と復活によって、新しい契約(新約)となって甦ったのです。伝統はイエスの死によって復活した。しかし、その伝統は、ローマ、ついでヨーロッパに伝播して生き残っていった。それがいわゆるピルグリム・ファザーズによって新大陸に持ち込まれ、マニフェスト・ディスタニー(明白なる使命)の伝統となってアメリカを突き動かしました。そして、その影に寄り添うようにして、古い神との契約に生きる人々もいた。多くの知恵と財力を持ったユダヤ人です。
 われわれが対決を強いられたのはこれらなのです。
 ならば、長谷川氏の「われわれの神を得た」という結語を敷衍すると次のように言えるでしょう。
 
 日本国民は天皇を中心とする国のあり方を守るために命を捧げたが、神の子孫(これを日本では「現人神」という)であらせられる昭和天皇は、皇室の伝統に則って大宝(おおみたから)である国民を守るために命を投げ出された。
 それは敵の神に対してであったが、昭和天皇の「皇祖皇宗に対して申し訳が立たない」との御言葉からも拝察されるように、どこまでもわれわれの伝統的な神を意識したものです。
 結局、天皇が処刑されることはありませんでしたが、われわれは長い年月を掛けて培われてきた伝統が正真正銘の本物であることを証明した。
 それは何に対して?
これは伝統的な次の言葉で表されるべきでしょう。 
 天地神明に対して…。
 われわれの真の伝統は、その死に直面して、復活したのです。


 大東亜戦争末期、日本国民は皇室を中心とする國體を守るために命を投げ出し、天皇はこの国民(大宝)を守るために、命を投げ出されました。そのことによって、わが國體はぎりぎりのところで護られた。われわれの先人は、天地神明を前にして、その伝統が本物であることを証明したのです。
それは旧い伝統の死であると同時に、新たな復活でもありました。それも、「神」と人が神の子イエスを介して契約を新たに結びなおすという、聖書的なものではなく、伝統を背景にした黙契とでも言うべきもので、それは自覚されなければ、積極的な行動規範にはなりにくい。
玉音放送は本来なら、昭和天皇の遺言とでも言うべき意味を持つべきものでした。もし昭和天皇が連合国によって処刑されていれば、この詔は、伝統に自覚的な人々にとって皇室とわが国民との間の新たな契約となったかもしれません。いや、その意味を自覚した人には既にそうなっているでしょう。
 敗戦後、昭和天皇は、それまで祭り上げられていた神棚から降りられて、親(みずか)らこの大御心を実践なさっておられます。その一つの現われが、敗戦後間もなく行われた御巡幸です。
昭和天皇が御巡幸の御決意を述べられたのは、マッカーサーとの初会見後の昭和二十年十月のことですが、行幸の重要性を再認識されたのはいまだ戦争中の三月にまで溯ります。
 この三月、東京には大空襲がありました。九日深夜のことです。
 天皇はアメリカによって行われたこの国際法違反のホロコーストの被害状況をその眼で確かめるために、軍部の強い反対を押し切って、行幸を行われました。十八日のことです。天皇が、このまま戦争を続ければ日本が滅ぶとの実感を強く抱かれたのはその惨状を眼にされた時がはじめてではないかと拝察されますが、時機を待たねばなりませんでした。やがて御聖断を経て日本が降伏し、マッカーサーとの会見を経て、彼らの了解を取り付けた上で、天皇の日本全国の御巡幸は実施され、多くの国民の心の傷を癒し、励ましました。
一方で、敗戦に直面しての国民の感情はさまざまでしたが、この戦争の意義を理解している人ほど、敗戦の事実は衝撃的だったようです。
 当時、国民学校(小学校)四年生で、茨城県の山村に疎開していた西尾幹二氏の『国民の歴史』第二十七章「終戦の日」によれば、氏は玉音放送があると聞いて、一億玉砕するまで戦おう、という趣旨の放送だろうと思ったといいます。ところが降伏であると知って、子供心に、敗者は殺されるか、奴隷にされるかだという、強い不安と恐怖に襲われました。
 西尾少年が直接に見た農村社会では、丹精して育てていた稲を未成熟のまま大急ぎで刈り入れたり、当時農家では大事にされていた牛馬を殺戮し、村人に分配するなどした。下流の川面が紅い血に染まる現象を何日にもわたって目撃したそうです。
 西尾氏はこれを農民の敗戦という事実に対する不服従の表れであり、「自己破壊の衝動」「未来への拒絶」であったと言います。

 …玉音放送の日に「天皇陛下は一億玉砕してほしいとわしらに言うのだとばかり思っていた。どうして最後まで竹槍で戦うように命じて下さらなかったのか」と悲憤慷慨の面持ちで口惜しがっていた隣家の老主人のことを私は今、思い出す。やがて、あの放送は天皇のご意志で行われたのではない、陛下は一部の軟弱分子に強制されたのではないか、そういう流言が広がり、米軍を迎え撃つ決死隊が同じ茨城県の筑波山に立て籠ったという噂が人びとを昂奮させた。…

 そして、玉音放送の数日後、子供達は学校の指令で山の上の鎮守の森に集められ、神社の境内で、米英への復讐を誓う式典が行われた。西尾少年は、皆の前で暗誦してきた終戦の詔勅(玉音放送)を大声で朗誦したのだといいます。その後、校長の訓示が行われている最中に、米軍機が鎮守の森をかすめるような低空で飛行していった。操縦士の顔がくっきり見えるほどの近さだったといいますから、屈辱的な光景です。
 
 これが聖書の「神」に一つ言葉を乱される前の、国民の素直な感情のひとつでした。
 ここでわれわれは『聖書』を引用しての比喩を離れ、もう少し当時の人々の内面に分け入って、伝統に即して、この経験を理解しておかなければならないでしょう。
西尾氏の記憶によると、茨城県の農村地帯では、米軍を迎え撃つ決死隊が筑波山に立てこもったという噂が流れ、人々を興奮させたといいます。これは単に決死隊が現れたからという理由だけでは説明がつかないでしょう。彼らの脳裏には一つの歴史的記憶があったに違いなく、それがあるからこそ、この噂が彼らに異常な昂奮を巻き起こしたのだと思われるのです。 
 幕末、この地は尊皇攘夷の総本山、水戸藩の領地であり、武田耕雲斎率いる天狗党(農民を多数含む)が挙兵したのが筑波山でした。尊皇攘夷を掲げる天狗党の末路は悲惨なものでしたが、土地の人びとには、これらに象徴される尊王攘夷運動が維新回天の導火線となった、との共通の歴史認識が誇りとともにあったのでしょう。あるいは水戸藩の尊王攘夷運動が内部抗争で消耗しつくし、維新の主役たりえなかった、という悔恨の感情も伴っていたかもしれません。
 筑波山の決死隊は米軍を迎え撃つ以上、悲惨な結末を迎えるかもしれませんが、日本再生への導火線となって尊皇攘夷の悲願は達成されるかもしれない。そのイメージが絶望の淵を漂っていた彼らを昂奮させたに違いありません。茨城において、それは幻想であったかもしれませんが、幻想だけになお一層、その時の彼らを屹立せしめていた精神を際立たせているように思われるのです。
 ただ、このことを幻想とばかり言っていられないのは、水戸教導航空通信師団が現実に決起行動を起こしていることです。発作的に決起した彼らは、筑波山ではなく、上京して上野公園を占拠して、四方に檄を飛ばそうとしました。しかし、皇居前広場での東部軍司令部派遣将校の説得により決起は未遂に終っています。
 この事件に水戸固有の歴史的背景はなさそうですが、その風聞が農民達の歴史的感情を刺激したのではないかと思われるのです。
 天狗党の決起は元治元年(1864)のことですから、敗戦時から見て八十年ほど前の出来事、つまり、祖父か曽祖父の時代の出来事で、そう遠くはない昔の出来事です。現在よりあの戦争を振り返るほどの時しか隔てていない。
 歴史意識とは重層的に折り重なっていくものです。歴史証言の表層のさらに下にある古層まで掘り下げてみなければ、その言葉の重みが実感として伝わりにくいことが多いのです。
 大東亜戦争を振り返るという事は、戦後という地表の一つ下の地層を掘り起こす行為ですが、さらに、そのもう一つ下の古層まで掘り返してみなければ、そこに生きた人びとの切迫した事情なり、それに対処した精神までを理解することは難しい。茨城の例で言えば、筑波山に決死隊が立てこもったという風聞に昂奮した茨城の人々の意識の下層には、幕末の天狗党決起の歴史的記憶があり、そのさらに下層には、光圀公以来の水戸学の伝統があるのです。
 
 さて、天狗党の首領格の一人に藤田小四郎がいます。
 幕末史に大きな影響を及ぼした人脈に連なる人物で、『弘道館記述義』を著した藤田東湖はこの小四郎の父です。小四郎は少年期に父を失った後、弘道館館長を務めていた原市之進に師事しました。原は後に、征夷大将軍に就任した徳川慶喜の懐刀として活躍した人物で、慶応三年八月に幕臣に暗殺されています。彼を失った慶喜は打つ手を失って、大政奉還へ傾くことになったのです。
ここで長谷川三千子氏がその趣旨を取り上げただけで、さらりと流した『弘道館記述義』に戻ることにします。氏の『弘道館記述義』の要約をもう一度引用しておきます。

 そこでの東湖は、まづ(ヨーロッパの「自然法」の考へにきはめて近い)「弘道」といふものを考へ、その「弘道」にもとづいて日本には、「宝祚無窮」(皇室がきはまりなく続きさかへること)「国体尊厳」「蒼生安寧」(天皇が民の安寧を第一の事として常に心がけられること)「蛮夷戎狄率服」(周辺諸国が自づから日本に従ひ服すること)の四つが実現されてゐる、と説く。さらに、そこで重要なのは、これら四つの事柄が互ひに循環し、つながり合つてゐる、といふことである。東湖はそれをこんな言ひ方で語つてゐる。

「蓋し蒼生安寧、是を以て宝祚窮まりなく、宝祚窮まりなし是を以て国体尊厳なり。国体尊厳なり是を以て蛮夷戎狄率服す。四者循環して一の如く各々相須(ま)つて美を済(な)す。」

 すなはち、天皇が民を「おほみたから」として、その安寧をなによりも大切になさることが皇統の無窮の所以であり、だからこそ国体は尊厳である。そしてさういふ立派な国柄であればこそ、周辺諸国も自づからわが国につき従ふ。これらはすべて一つながりの循環をなしてわが国の美を実現してゐるのだ、といふことである。この全体が、いはば広義の「国体」であると言ふことができて、いはゆる「国体思想」と呼ばれるものは、この全体的な広義の〈わが国の国がら〉を指してゐると考へてよいだろう。

 氏はここで「弘道」という言葉を「ヨーロッパの『自然法』の考へにきはめて近い」と言っていますが、「弘道」はすでに触れましたが、『論語』「衛霊公」篇の言葉です。

 子曰く、人能く道を弘む。道、人を弘むるに非ず。
 
 やはり、山本七平がいうところの、江戸時代の日本人にとっての聖書、『論語』を中心とする四書が『弘道館記述義』の思想的背骨となっているのです。「弘道館」は水戸藩の藩校の名ですが、その藩校の設立趣旨を書いたのが、烈公と呼ばれた水戸斉昭の書いた『弘道館記』です。そして、その主君の『弘道館記』を敷衍したものが東湖の『弘道館記述義』です。これらは水戸学の一つの結晶といっていい文章でしょう。
 ヨーロッパの「自然法」の法源は彼らの、すなわち『聖書』の「神」ですが、水戸の君臣の説く「道」の源もやはりわれわれの「神」で、彼我の「神」概念が違う以上、当然、そこから導き出される人としてのあり方、國體も似て異なるものにならざるを得ません。
 烈公は「弘道館記」を次のように書き出しています。(原漢文)

 弘道とは何ぞ。人、能く道を弘むるなり。道とは何ぞ。天地の大経にして、生民の須臾(しゅゆ)(少しの間も)も離るべからざるものなり。弘道の館は、何のためにして設けたるや。恭しく惟(おもん)みるに、上古、神聖(神話の神々)、極を立て、統を垂れたまひて、天地位し、万物育す。その六合(りくごう)に照臨し、宇内を統御したまひし所以のもの、未だ嘗て斯道(しどう)(この道)に由らずんばあらざるなり。宝祚、これを以て無窮。国体、これを以て尊厳。蒼生、これを以て安寧。蛮夷戎狄、これを以て率服す。しかも聖子神孫(歴代天皇を指す)、なほ肯(あ)えて自ら足れりとせず、人に取りて以て善を成すことを楽しみたまふ。…

 岩波書店「日本思想体系53『水戸学』」のこのくだりの註を読むと、その出典がぎっしり記されていますが、この短い文章の基調をなすのは、一つは記紀であり、もう一つは『論語』『孟子』『中庸』です。つまり、神儒習合の思想がここで展開されているのです。東湖の文章は言わば、西洋人が神話・歴史と「聖書」を縦横に引用しながら、自己のお国柄【國體思想】を語っているようなものなのです。もちろん西洋人にとっての『聖書』に当るのが、わが国の場合「四書」であり、その起源をたどれば、それぞれにとって外来の思想です。
長谷川氏がヨーロッパの自然法に近いものとしたのは、「天地自然の道」という言葉があるように、「弘道」というよりもむしろ、烈公が「天地の大経」といった「道」のほうであり、儒教的批判と結びついた「先王の道」(日本では「先皇の道」というべきでしょう)です。
 この「道」を明らかにして、自ら踏み行うことを「弘道」という。
 その「弘道」という、人としての歩き方の教科書こそが『論語』を中心とする「四書」に他ならないのです。

 主君・烈公の『弘道館記』を敷衍した藤田東湖の『弘道館記述義』は、本居宣長の「からごころ」批判を意識し、これを克服したものとなっています。それは後期水戸学の特徴でもあります。
 東湖は言います。

 上古は世質に人朴にして、未だ書契あらず。所謂(いわゆる)道なるものも、また寞然として聞くことなし。然らばすなわち道は、固より、上古に原(もと)づかざるか。曰く、何ぞそれ然らん。当時はただその名なかりしのみ。すなわちその実のごときは、すなわち未だ始めより天神に原づかずんばあらず。…

 これは明らかに、宣長が「この篇は道といふことの論ひなり」とした『古事記伝』「直毘御霊」での主張を取り入れたものです。逆に言えば、宣長の「からごころ」批判が、外国の学問・宗教である儒学を奉ずるものにとって、いかに痛いところを突いたものであったかを表しますが、いく度かの時代の変遷を経て、歴史の下流にいる現代人は、「からごころ」が移入する前の、すなわち漢字を取り入れる以前の古代人の素朴な心のままに生きられるわけではありません。古代は遥か遠くなりにけり、です。
 東湖は、宣長に限ったものではありませんが、国学者全般の弊を次のように表現しています。

 近世、古学者流あり。よくその失を弁じ、彼此考証し、参互錯綜し、以て千載の惑いを釈(と)けり。その典籍に功あるや、また大なり。然れどもその弊に至りては、すなわち鴻荒を論説すること、なお身その世に処(お)り、目その事を視るがごとく、喩えを引き類を推し、喋喋弁析して、以て向(さき)の古典を疑いし者を屈せんと欲す。ああ、これまた私智を以て神代を測るなり。すなわち枉(まがれ)るを矯めて直きに過(すぐ)るなからんや。

 「私智を以て神代を測る」という批判は、国学者でもある上田秋成が宣長との論争で述べた批判ですが、東湖もまた国学者の独断を行き過ぎと批判したのです。「過ぎたるは猶及ばざるが如し」「怪力乱神を語らず」の儒学の伝統に則った批判です。
 宣長の仕事はその伝統を大きく一歩踏み出したところに他の追随を許さない真価があるのですが、それは一般化されにくい性質のものです。東湖の批判は無理もありません。
 一方で、東湖は儒教の聖人君子を模範とするよう説きながらも儒学的規範について批判もしています。それは最も重要な國體に関するところにおいてです。
 東湖は言います。

 …然らばすなわち唐虞三代の道(伝説的聖人・堯舜の道)は、ことごとく神州に用ふべきか。曰く否。治教の資るべきものは、すでにほぼ前に陳べたり。而して決して用ふベからざるもの、二あり。曰く、禅譲なり、曰く放伐なり。…

 要するに日本に決して取り入れてはならないものが二つあり、それが禅譲と放伐、すなわち易姓革命である、というのです。後期水戸学においては、儒学も国学も批判的に乗り越えられていたと見るべきでしょう。すなわちここに見られる國體論は、外来の思想ではなく、かといって独り善がりで夜郎自大の中華思想といったものでもなく、内省的批判を経た日本という国本来のあり方を、当時の書き言葉で表したものといっていいのです。もちろんその内省的批判の根拠となった価値規範が、現在では過去の規範の一つでしかないシナ伝来の儒学だったわけですが、そこから得られた知見は豊かで、意識されるされないは別として、現代でも通用し、受け継がれているものは多いのです。
 大体からして、この国の伝統の中心をなす、皇室そのものがその伝統の継承者なのです。

 さて、長谷川氏は、すでに見たように、ヨーロッパの「自然法」の考へにきはめて近いとした「道」が行われていれば、「宝祚無窮」「国体尊厳」「蒼生安寧」「蛮夷戎狄率服」の四つの事柄が循環連鎖して実現される、と東湖の思想を敷衍しているわけですが、それは自然の道であっても、人間が厳しい大自然の中で生きていく上で努力が欠かせないように、無為自然では先の四要素を循環させることができません。
 そこで天皇、国民の双方に、分に応じた不断の努力が求められます。すなわちそれが「人能く道を弘む。道、人を弘むるに非ず」です。
 東湖は言っています。

 …蓋し、国體の尊厳は、必ず天地正大の気に資(と)るあり。天地正大の気は、また必ず仁厚義勇の風に参するあり。然らばすなわち風俗の淳漓(じゅんり)(厚い薄い)は国體の汚隆、ここに繋(かか)る。上に在るの君子、あに心を留めざるべけんや。

 この精神に則って維新回天の偉業は成った。木戸孝允も、西郷南洲翁も東湖の思想的影響を強く受けました。そして、それは「皇政復古の大号令」「五箇条の御誓文」に受け継がれていきます。南洲翁は、政府が欧化政策に流されていくなかで、この精神を守るために西南戦争を戦い抜きました。彼の決起は明治天皇の目覚めを促す一つのきっかけとなり、その精神は「教育勅語」にも受け継がれていって、国民精神を形成し、大東亜戦争という一大叙事詩となるのです。この流れは後で見ることにします。
 そして、「玉音放送」で戦争が一段落した後も、思想精神上の戦いは終わらなかった。占領軍は物理的抵抗力を奪った後こそ、わが国の言葉を乱し、国民精神を解体すべし、と心得ていたのです。それが「聖書」の影響を強く受けたものであることは既に述べた所です。
 神道指令、検閲による言論統制、焚書、聖書の配布などはそのことを表しています。これらの日本解体政策は未だに日本に深刻な影響を与え続けて、深刻な事態に陥っているから現代的課題でもあります。 
 この民族の精神史上最大の危機に直面して、昭和天皇がいち早く国民に発した警鐘こそ、昭和二十一年元旦の詔書(いわゆる「新日本建設の詔書」)でした。


 茲に新年を迎ふ。
 顧みれば、明治天皇、明治の初、国是として五箇条の御誓文を下し給へり。

 曰く、

 一、広く会議を興し万機公論に決すべし
 一、上下心を一にして盛に経綸を行ふべし
 一、官武一途庶民に至る迄各其志を遂げ人心をして倦まざらしめんことを要す
 一、旧来の陋習を破り天地の公道に基くべし
 一、智識を世界に求め大に皇基を振起すべし

 叡旨公明正大、又何をか加へん。朕は茲に誓を新にして国運を開かんと欲す。須らく此の御趣旨に則り、旧来の陋習を去り、民意を暢達し、官民挙げて平和主義に徹し、教養豊かに文化を築き、以て民生の向上を図り、新日本を建設すべし。
 大小都市の蒙りたる戦禍、罹災者の艱苦、産業の停頓、食糧の不足、失業者増加の趨勢等は、真に心を痛ましむるものあり。然りと雖も、我が国民が現在の試錬に直面し、且徹頭徹尾文明を平和に求むるの決意固く、克く其の結束を全うせば、独り我国のみならず、全人類の為に、輝かしき前途の展開せらるることを疑はず。夫れ家を愛する心と国を愛する心とは我国に於て特に熱烈なるを見る。今や実に此の心を拡充し、人類愛の完成に向ひ、献身的努力を効すべきの秋なり。
 惟ふに長きに亙れる戦争の敗北に終りたる結果、我国民は動もすれば焦燥に流れ、失意の淵に沈淪せんとするの傾きあり。詭激の風漸く長じて、道義の念頗る衰へ、為に思想混乱の兆あるは洵に深憂に堪へず。
 然れども朕は爾等国民と共に在り。常に利害を同じうし休戚を分たんと欲す。朕と爾等国民との間の紐帯は、終始相互の信頼と敬愛とに依りて結ばれ、単なる神話と伝説とに依りて生ぜるものに非ず。天皇を以て現御神とし、且日本国民を以て他の民族に優越せる民族にして、延て世界を支配すべき運命を有すとの架空なる観念に基くものにも非ず。
 朕の政府は国民の試錬と苦難とを緩和せんが為、あらゆる施策と経営とに万全の方途を講ずべし。同時に朕は、我国民が時艱に蹶起し、当面の困苦克服の為に、又産業及文運振興の為に勇往せんことを希念す。我国民が其の公民生活に於て団結し、相倚り相扶け寛容相許すの気風を作興するに於ては、能く我至高の伝統に恥じざる真価を発揮するに至らん。
 斯の如きは、実に我国民が、人類の福祉と向上との為、絶大なる貢献を為す所以なるを疑はざるなり。一年の計は年頭に在り。朕は朕の信頼する国民が朕と其の心を一にして、自ら奮ひ、自ら励まし、以て此の大業を成就せんことを庶幾ふ。

御名  御璽   昭和二十一年一月一日


 最後に「朕と其の心を一つにして」とあることからも窺えるように、絶望と混乱の極みにある日本国民がこの国難にあって心を一つにするように、と与えられた御言葉がこの詔書なのです。戦勝者側のユダヤ・キリスト教的悪意を感じ取っておられたのでしょう。 
 昭和天皇御自身が後に述べられているように、この詔書の主意は「五箇条の御誓文」にあります。つまり、明治の創業の精神に立ち返って、日本の再建に取り組もうとの大御心なのです。それが詔書の伝統である漢文体に整えられたのが、上の文章です。

 昭和天皇がキリスト教的な絶対的存在としての「神」概念の押し付けを拒否されていたことは事実ですが、そのような教育を受けて、これを実際に信じ込んでいたのは、敗戦時十二から十六歳までの少年のうちの一部、いわゆる「皇国少年」たちであり、そのほかの圧倒的多数の日本国民にとって、「人間宣言」などは何の意味も持たないものでした。
 なぜなら「現人神」「現御神」が人間であることは自明のことだったからです。
 「人間宣言」とされる「朕と爾等国民との間の紐帯は…単なる神話と伝説とに依りて生ぜるものに非ず。天皇を以て現御神とし、且日本国民を以て他の民族に優越せる民族にして、延て世界を支配すべき運命を有すとの架空なる観念に基くものにも非ず」という微妙な表現は、この直前に出された神道指令(昭和二十年十二月十五日)に現れた占領政策との葛藤が生んだ表現であり、皇室と国民との間の紐帯は、「終始相互の信頼と敬愛とに依りて結ばれ」と敢えて挿入されていることからも分るように、神話と儒教倫理の習合で成り立った戦前の国民精神でこれを解読すれば(昭和天皇御本人もまた、杉原重剛からそういった倫理教育を受けてこられた)、天皇と国民との間の紐帯は、単に神話と伝説によって生ずるのではなく、それを土台にして、信義と仁愛の徳によって相互に結ばれている、ということになるでしょう。
 つまり、このくだりもまた「弘道館記」および「弘道館記述義」から「教育勅語」の思想の延長線上にあり、その伝統的な視点に立てば、浅薄な解釈から「人間宣言」とされるくだりまでも、冒頭に掲げられた「五箇条の御誓文」を成り立たせている精神で貫徹されているのです。
 そもそも「五箇条の御誓文」もまた、原案起草者の由利公正(三岡八郎)の述懐によれば、四書、なかんづく『中庸』の思想に則って着想されたものなのです。土佐の福岡孝弟の手を経て、木戸孝允が日本的修正を加えて「五箇条の御誓文」の文は成りました。

 もとより天皇を天皇たらしめているもの、それは神話・伝説と一つの血統を以て繋がっていることであって、インディアンの虐殺という後ろ暗い過去を持つ数百年の歴史しか持たない侵略者によって強要された「人間宣言」などで消しうるほどやわなものではありません。
 しかし、天皇個人と国民の紐帯ということになれば、それを固く結ぶのものは、終始相互の信頼と敬愛によってです。これは戦前強調された神話・伝説とのつながりという垂直方向の関係性より、天皇と国民の水平方向の関係性を強調したものと解釈すべきでしょう。
 これは戦前・戦中の行き過ぎを修正する大御心が働いた、と理解できますが、これを垂直方向のつながりを否定する「人間宣言」と解釈するのもまた、おっちょこちょいの早とちりで、行き過ぎというものです。

 最後に、長谷川氏が聖書の「イサク奉献」の比喩を用いて表現しようとした、敗戦時に直面した天皇と国民の悲劇を、歴史の古層の言葉を用いて、つまり、われわれの伝統に則って表現してみましょう。
 『論語』には次の言葉があります。
 
 志士・仁人は生を求めて以て仁を害することなし。
 身を殺して以て仁を成すことあり。

 これもまた「弘道」と同じく、『論語』「衛霊公」篇にある孔子の有名な言葉です。
 大東亜戦争において國體(≦仁)を守るために国民は身を殺し、天皇もまたこれに対し仁を以て応えられました。
 そのことによって、仁は成されたのです。
 玉音放送によって、既にあの状況下において可能な人事は尽されました。後は天命を俟つ心境、それがあの国民の経験した、シーンとした心の一瞬であったのです。
 われわれの言の葉に表したとき、それが最も端的でずれの少ない表現だと思われます。
 もちろん、それで全てが表現しつくされるわけではありません。心のベクトルとして適切だろう、ということです。
 そもそも言葉とはわれわれの思い通りにはならぬ一種の生き物であり、それらすべての物事を表現しつくせるほど完璧な道具ではありません。そうである以上、表現困難な物事はむしろ、ベクトルのみ示して、後は含みを持たせた方が、間違いが少ないこともあるでしょう。
 「人事を尽して天命を俟つ」という人口に膾炙(かいしゃ)した言の葉の中に、運命の支配者として君臨する「天」という言の葉に託されたわれわれの思いは多様性に富んでいて、深み、高み、広がりを持って、一元的な解釈を拒んでいます。
 「天」とは、儒教的には天下万物の主宰者である一方で、わが国古来の思想から言えば、「高天原」とも言って、天神(あまつかみ)のいます場所です。さらに、道教では…、仏教では…、と挙げていくと、二元的解釈でも収まりませんがそれが汎神論世界観です。それは、仏陀も、孔子も、キリストも、ヤハウェも、「神」として共存できる世界観です。その汎神論的世界観は、古代、聖徳太子が「十七条憲法」に明示した神仏儒に道教を加えた世界観の中で、旧秩序が崩壊し、混乱を極めた戦国時代に現れた信長・秀吉・家康の天下一統事業を得て、仏という「神」を乗り越える形で、孔子という「神」が主流となる時代が訪れる。それがすなわち江戸時代ですが、それが発展継承されて大東亜戦争敗北までの明治・大正・昭和初期の日本、すなわち近代国家としての大日本帝国の価値規範の基底をなしたのです。
 昭和天皇が敗戦に打ちひしがれた国民に示された国家再建の指針には、そのことまでも含まれています。戦後レジュ-ムの脱却を言うなら、そこまでの再建を含んでいなければなりません。ところが、大衆社会においてその感性は、意識の表層からは失われてしまっています。だから、有識者が戦後の脱却を言うとき、議論がそこまで及ぶことはまれなのです。
 勝者による日本解体政策によって先人が歩んだ道はわれわれの眼から蔽われてしまいましたが、それを取り戻すかいなかはわれわれ次第です。が、それもまた先人の道の歩き方に倣って、取り戻すべきでしょう。

 仁遠からんや。われ仁を欲すれば、ここに仁至る。

 人能く道を弘む。道、人を弘むるに非ず。

 そして…、

 己に克(かち)ちて礼に復(かえ)り、仁を為す。一日、己に克ち礼に復れば天下仁に帰す。仁を為すこと己に由る。人に由らんや。

 この「己に克ちて礼に復る」という「為仁」の問題の重要な一つとして靖国神社参拝の問題があります。天皇陛下の参拝実現に向けての露払いとして、政治家の、とりわけ首相の参拝は万難を排して行われなければならなかったのです。
ところが今の安倍首相はどうでしょう。内閣の責任者として、移民政策と呼ばれる出入国管理法改正やアイヌを先住民族として認める法案を可決しようとするなど、「和の国」日本に厄介な、恒久的な不和の種を撒こうとばかりしています。さながら日本解体を目指すグローバリズム勢力の手先のように、です。
 このままいけば念願の憲法改正はほんの一部改正したところで、大きな目で見て「改悪」になる懸念が出てきました。日本国憲法の改正は占領下で押し付けられた、この憲法をわが国民が認めたことを前提に成り立つからです。

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