ユダヤ・キリスト教の浸潤による國體の危機ー敗戦時の失われた記憶(弐) 【『皇室と論語』(五)】

長谷川氏は『神やぶれたまはず』の最終章で、戦争末期に現れた「国體護持」の思想を議論の俎上に載せています。
 國體思想が本格的に時代を動かしたのは幕末・維新期にまで溯ります。
 氏が國體思想の代表例として挙げているのが、藤田東湖の『弘道館述義』ですが、次のように要約されています。

 そこでの東湖は、まづ(ヨーロッパの「自然法」の考へにきはめて近い)「弘道」といふものを考へ、その「弘道」にもとづいて日本には、「宝祚無窮」(皇室がきはまりなく続きさかへること)「国体尊厳」「蒼生安寧」(天皇が民の安寧を第一の事として常に心がけられること)「蛮夷戎狄率服」(周辺諸国が自づから日本に従ひ服すること)の四つが実現されてゐる、と説く。さらに、そこで重要なのは、これら四つの事柄が互ひに循環し、つながり合つてゐる、といふことである。東湖はそれをこんな言ひ方で語つてゐる。
「蓋し蒼生安寧、是を以て宝祚窮まりなく、宝祚窮まりなし是を以て国体尊厳なり。国体尊厳なり是を以て蛮夷戎狄率服す。四者循環して一の如く各々相須(あいま)つて美を済(な)す。」
 すなはち、天皇が民を「おほみたから」として、その安寧をなによりも大切になさることが皇統の無窮の所以(ゆえん)であり、だからこそ国体は尊厳である。そしてさういふ立派な国柄であればこそ、周辺諸国も自づからわが国につき従ふ。これらはすべて一つながりの循環をなしてわが国の美を実現してゐるのだ、といふことである。この全体が、いはば広義の「国体」であると言ふことができて、いはゆる「国体思想」と呼ばれるものは、この全体的な広義の〈わが国の国がら〉を指してゐると考へてよいだろう。

 東湖の思想は幕末の志士に浸透していって、王政復古討幕運動の理想となって明治国家にも継承されていきました。
 この國體思想が、大東亜戦争末期、その明治維新によって成った大日本帝国の存亡の危機に際して、「國體護持」の掛け声とともに思い出されたとしても、それは自然のなりゆきでした。
 この國體観念を、魔術的な力を振るった非宗教的宗教と言ったのが戦後民主主義の旗手的学者・丸山真男でしたが、それは現象面の観察に過ぎず、わが国の伝統に対する無智が生んだ見方といっていいでしょう。それが國體と呼ばれるか否かは別として、この観念は幕末維新期からの近代国家日本を支えてきた思念であったといっても過言ではないのです。
 現に、戦後、これを否定した途端、われわれ日本人は、それまで命懸けで抵抗してきたコミュニズムやアメリカニズムに代表される国際的に「強力な史観」「優勢な時代精神」に膝を屈してしまった。「自虐史観」「東京裁判史観」「唯物史観」も、スターリニズム・マオイズムやそれらの亜種も、戦後世界を席巻した「強力な史観」「優勢な時代精神」そのものです。
 しかし、それらは「勝てば官軍の言葉」どおり、われわれはいくさに敗れて、いわば力に屈して、受け入れざるを得なかっただけで、思想的に敗れたわけではありません。本来「勝てば官軍」という言葉には、判官贔屓の感情が強い日本人にとって、そういった勝者に対する揶揄、敗者に対する同情が込められていたはずです。
 賊軍に正義はなかったのか。
 もちろんあったからこそ、徳川や会津の名誉は回復され、いまだにドラマに取り上げられ、広範な視聴者の共感を得るのです。もちろんそのことによって勝者に正義がなかったということにはなりませんが、それらは後世、歴史として比較検証されるべきものです。もちろん日本が戦勝国連合によって賊軍にされた大東亜戦争もそういった問題です。
 日本は力に屈して、多くの人間は勝者の押し付けてくる精神、史観に跪きました。知性の弱いものも、利口なものも、勝者の価値観に嬉々として従った。そういった中で、違和感を感じ続け、垂直方向の精神運動を示す言葉に引っかかり、これを見つめ続けた人々はむしろしっかりとした知性を持続した人びとであったといえます。思えば、あの戦争における日本人の戦いぶりそのものが、水平方向の精神運動では理解できないものでした。
 戦後、日本が物的復興を遂げる中で、この垂直方向の精神運動が見失われていったのは無理もありません。

 長谷川氏によれば、わが国の國體思想は、ギリギリの国家存亡の危機において、困難なジレンマを生じさせてしまった、といいます。
 当時のアメリカを中心とする国際社会、そしてそれを背後から操るディープ・ステイトたるディアスポラ・ユダヤ人を中心とする国際金融資本勢力は、この國體思想を中心に結束して戦っている日本人という、異教の民を根絶せずにはおかない勢いでした。彼ら、特にアメリカの差別意識は日本人を絶滅させても構わない、とまで高じていた痕跡があります。それが、主要都市への無差別爆撃による民間人の大量虐殺、そして、ついには二つの原爆の投下へと繋がったのです。もちろん彼らが、日本国民は天皇を「生き神」と仰いでいる、と勘違いしている以上、天皇の存在は邪教の根源であり、処刑されるべきものでした。
 これは共産勢力とて同じでした。彼らは戦略的にはともかく、最終目的として天皇制廃絶を企み、敗戦革命の工作を行ってきたのです。
 そういった民族存亡の危機にあって、日本国民は「宝祚無窮」「国体尊厳」のために死をも厭わず戦い抜く覚悟を固めていきました。そんな日本人にとって、降伏は天皇の命を生贄にして、自らが助かることに他なりません。「宝祚無窮」という國體を強く信じて戦っていればいるほど、そんなことはできなくなります。逆に、天皇にとって、本土決戦で一億玉砕して、大宝である国民が全滅するまで戦う、というのは「蒼生安寧」を図るという皇室の本義に反する。
 わが国の國體思想が生んだジレンマとはそのことです。
 わが国の國體が本物であればあるほど解けない難局、言わば、このゴルディアスの結び目を一刀両断にしたのが、昭和天皇の御聖断でした。しかし、それは昭和天皇に自らの生命を断つ覚悟を求める御決断でもあったのです。
 八月九日の御前会議における昭和天皇のお言葉は、当時の内閣書記官長・迫水久常の回想によれば次のようであったといいます。

「このまま戦争を本土で続ければ日本国は亡びる。日本国民は大勢死ぬ。日本国民を救い国を滅亡から救い、しかも世界の平和を、日本の平和を回復するには、ここで戦争を終結する他はないと思う。自分はどうなっても構わない。」

 この御前会議の直後より、天皇のこの時のお言葉を元に詔書の作成が開始されました。しかし、詔書の中に、どうしても書いてはならないお言葉がありました。それは天皇陛下の「自分はどうなっても構わない」との御一言です。もしこれが書かれていたら、戦勝国側は、それみたことか、エンペラー自身が罪を認めたぞとばかりに天皇の戦争責任を追及したことでしょう。その結果、当時の状況では、天皇陛下は戦争犯罪者として処刑される可能性が高かったのです。
 しかし、もっと大きな理由は、「宝祚無窮」を信じて、そのために命を投げ出して戦っている日本国民に降伏を納得させることができない、というところにあります。国民の側からすれば、「天皇陛下万歳!」という、「宝祚無窮」の信念・祈念で戦っているのに、天皇陛下の命を敵に差し出すことによって成り立つ降伏は絶対に承服できない、ということです。
 そこで国民を承服させるためのレトリックとして「国体護持」という言葉が用いられたのです。それが玉音放送となって結実しました。

 「朕(ちん)、深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み、非常の措置を以て時局を収拾せむと欲し、茲(ここ)に忠良なる爾臣民に告ぐ。
 朕は帝国政府をして、米英支蘇四国に対し、其の共同宣言を受諾する旨通告せしめたり。
 抑々(そもそも)、帝国臣民の康寧(こうねい)を圖(はか)り、萬邦共栄の楽を偕(とも)にするは、皇祖皇宗の遺範にして、朕の拳々(けんけん)措(お)かざる所、曩(さき)に米英二国に宣戦せる所以も、亦(また)実に帝国の自存と東亜の安定とを庶幾するに出て、他国の主権を排し領土を侵すが如きは、固より朕が志にあらず。
 然るに、交戰巳(すで)に四歳を閲(けみ)し、朕が陸海将兵の勇戰、朕が百僚有司の励精、朕が一億衆庶の奉公、各々最善を尽せるに拘らず、戰局必ずしも好轉(こうてん)せず、世界の大勢、亦我に利あらず。しかのみならず、敵は新に残虐なる爆弾を使用して、頻に無辜を殺傷し、惨害の及ぶ所、真に測るべからざるに至る。
 而も、尚交戰を継続せむか、終に我が民族の滅亡を招来するのみならず、延て人類の文明をも破却すべし。斯の如くむば、朕何を以てか億兆の赤子を保し、皇祖皇宗の神霊に謝せむや。
 是れ、朕が帝国政府をして共同宣言に応ぜしむるに至れる所以なり。

 朕は、帝国と共に、終始東亜の解放に協力せる諸盟邦に対し、遺憾の意を表せざるを得ず。
 帝国臣民にして戰陣に死し、職域に殉じ、非命に斃れたる者、及、其の遺族に想を致せば、五内為に裂く。且戦傷を負ひ、災禍を蒙り、家業を失ひたる者の厚生に至りては、朕の深く軫念(しんねん)する所なり。
 惟(おも)ふに、今後帝国の受くべき苦難は、固より尋常にあらず。爾臣民の衷情も、朕善く之を知る。然れども、朕は時運の趨く所、堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、以て萬世の為に太平を開かんと欲す。 
 朕は、茲に国体を護持し得て、忠良なる爾臣民の赤誠に信倚(しんい)し、常に爾(なんじ)臣民と共に在り。若し夫れ、情の激する所、濫(みだり)に事端を滋(しげ)くし、或は、同胞排擠互に時局を亂(みだ)り、為に大道を誤り、信義を世界に失うが如きは、朕最も之を戒む。宜しく挙国一家子孫相伝え、確く神州の不滅を信じ、任重くして道遠きを念(おも)ひ、総力を将来の建設に傾け、道義を篤くし、志操を鞏(かた)くし、誓って国体の精華を発揚し、世界の進運に後れざらむことを期すべし。爾臣民其れ克く朕が意を体せよ。」

 玉音は、ラジオの電波状況が悪く、雑音だらけで聴き取りづらい上に、詔書の伝統に則った漢文特有の難解な表現ゆえに、正確に聴き取れた国民はほとんどいませんでしたが、これが降伏を意味することだけはわかったといいます。
 死を覚悟していた国民は、それを捧げるつもりの天皇陛下そのものから、生き延びよ、そして、国家再建に尽くし、國體の精華を発揚させよ、との詔を承ったのです。
「蒼生安寧」をはかるのは皇祖皇宗の遺訓ですが、実際に、御自身が命を投げ出さなければそれを達成できないような難局に直面した天皇はそれ以前に存在しません。また国民全体のレベルで「宝祚無窮」のために命を投げ出さなければならないような国難に直面したのも有史以来初めてのことです。この瞬間というのは日本の歴史が凝縮した瞬間で、伝統の真価が問われる一瞬であったといえるでしょう。
 玉音放送は、その答えが出た瞬間であり、音なき音、声なき声が一瞬ながら聞こえたかもしれない一瞬でした。
 玉音放送は図らずも国民的祭儀となりました。
「承詔必謹」を胸に、当然激励のお言葉をいただくものと思い込んで、玉音放送に臨んだ国民の心が、このような祭儀に臨んで、一瞬の静寂を経験したのも当然でした。
 しかし、その背後に聴こえたかもしれない、音なき音、声なき声を正確に聴き取ることは至難の業です。日々の喧騒、ジャーナリズムの嬌声の中で、その一瞬の記憶が見失われていったのも自然の成り行きだったように思えます。
 太宰治が「死ぬのが本当だ、と思ひました」と小説に書き、伊藤静雄が「何の異変も自然におこらないのが信ぜられない」と日記に書き付けたのは、せめてもの、プリミティヴな、その記憶の刻印であったのです。
 長谷川氏はこの国民的経験を旧約聖書のイサク奉献の話を土台に次のように表現しています。

「歴史上の事実として、本土決戦は行はれず、天皇は処刑されなかった。しかし、昭和二十年八月のある一瞬―ほんの一瞬―日本国民全員の命と天皇陛下の命とは、あひ並んでホロコースト(引用者注・・・いけにえを丸焼きにして神に捧げるユダヤ教における儀式〈燔祭〉)のたきぎの上に横たはってゐたのである。
『通常の歴史が人間の意識に実現された結果に重点を置くとすれば、実現されなかった内面を、実現された結果とおなじ比重において描くといふ方法』が『精神史』の手法なのだ、と桶谷氏は言ふ。さうだとすれば、われわれの歴史が持った、この『神人対晤』の瞬間は、精神史といふ方法によってのみあらはれ出てくる性質のものである。ふつうの歴史家が、すべてここを素通りしていったのも当然のことであった。
 しかし、精神史のうへでは、われわれは確かにその瞬間をもった。そしてそれは、橋川氏の言ふとほり『イエスの死にあたる意味』をもつ瞬間であった。折口信夫は、『神、やぶれたまふ』と言った。しかし、イエスの死によって、キリスト教の神が敗れたわけではないとすれば、われわれの神も、決して敗れはしなかった。大東亜戦争敗北の瞬間において、われわれは本当の意味で、われわれの神を得たのである。」

 これは非常に含蓄に富んだ結論で、あの時、われわれ日本人がホロコーストのたきぎの上に横たわっていた、というのはまさにその通りでしょう。
 そして、われわれは本当の意味で、わが國體が正真正銘の本物であることを証明し、われわれの神を得た。ならば、われわれは〈イエスの復活にあたる意味〉についても問わなければならないのではないでしょうか。


 長谷川氏は『神やぶれたまはず』の結語として、玉音放送を聴いたときの国民が経験したシーンとした心の一瞬を「神人対晤」の瞬間であったと表現しています。その一瞬、日本国民全員の命と天皇陛下の命とは、相並んでホロコースト〈燔祭〉のたきぎの上に横たわっていた、というのです。
 これは聖書にある「イサク奉献」の話をモチーフにした比喩で、日米の戦争が一種の宗教戦争であったことを思えば適確な比喩であったと言えます。アメリカの日本人に対する人種差別が昂じての憎悪の根源には、キリスト教の価値観、そして、その背後にはユダヤ教の神が存在していました。つまり、ユダヤ・キリスト教の神に、日本の神々が敗れた。
 歌人・折口信夫はその痛切な嘆きを次のように詠んでいます。

「神やぶれたまふ」

神こゝに 敗れたまひぬ─。
すさのをも おほくにぬしも
青垣の内つ御庭(ミニハ)の
宮出でゝ さすらひたまふ─。

くそ 嘔吐(タグリ) ゆまり流れて
蛆 蠅(ハヘ)の、集(タカ)り 群起(ムラダ)つ
直土(ヒタツチ)に─人は臥(コ)ひ伏し
青人草(アヲヒトグサ) すべて色なし─。

村も 野も 山も 一色(ヒトイロ)─
ひたすらに青みわたれど
たゞ虚し。青の一色
海 空もおなじ 青いろ─。


長谷川氏は『神やぶれたまはず』の第1章でこの詩を取り上げており、結語はこれに対するアンチテーゼとなっているのです。
 もう一度引用しておきます。
「…そしてそれは、橋川氏の言ふとほり『イエスの死にあたる意味』をもつ瞬間であった。折口信夫は、『神、やぶれたまふ』と言った。しかし、イエスの死によって、キリスト教の神が敗れたわけではないとすれば、われわれの神も、決して敗れはしなかった。大東亜戦争敗北の瞬間において、われわれは本当の意味で、われわれの神を得たのである。」
 確かにわれわれに試練を与えたのは、ユダヤ・キリスト教の、延いては聖書の神です。しかし、昭和天皇も含めて、われわれ日本人は聖書の神を奉じて、命懸けで戦ったわけではありません。
 だから、これはどこまでも比喩です。比喩であるということは、当然のことながら、比喩と真実の間には、どうしても微妙なずれが生ずる。表現するのが難しいことがらであればあるほど、このずれは大きくなる。それはここにも当てはまります。
 長谷川氏もそれを意識してでしょう、「われわれは本当の意味で、われわれの神を得たのである」と表現しています。筆者が混乱するのは、ここに言う「われわれの神」というのがどういうものを指しているのかうまく想像できないからです。
 われわれの神とは本来八百万の神々を指し、一神教の絶対的存在としての、つまりゴッドとしての「神」は、シナにおけるキリスト教宣教師による漢訳時の誤訳に端を発したものであって、われわれの神概念とは異なります。もし、長谷川氏の「われわれの神」が日本古来の神概念を指すなら、ことさらにこれを得たという必要はないはずです。文脈からみて、これはわれわれにとってのイエス・キリストを得たと読めます。ということは、われわれの神はついに聖書的、ユダヤ・キリスト教的価値観との習合の時代を迎えた、ということになります。これには思い当たる節があって、われわれはこの事態とどう向き合ったらいいのでしょうか。

 筆者は『神やぶれたまはず』を読み終わった直後、なぜか山本七平の自叙伝的な著作『静かなる細き声』が気になり、実際に読んでみました。これはかつて古書店で購入したものの、まだ読んでいなかったものです。
 そもそも日本人の敗戦経験に関心を抱くきっかけを与えてくれた言論人の一人が山本七平です。一時期、彼の著作を蒐集して、貪るように読んでいたことがある。今でも彼の古びた著作群は本棚の一角を大きく占めています。
 山本七平は、プロテスタントの両親の下に生まれた、生まれつきのキリスト教徒です。父は内村鑑三の弟子。遠い親戚には、大逆事件で処刑された社会主義者、大石誠之助がいます。
 昭和十七年、二十歳の時に徴兵され、砲兵隊見習い士官としてルソン島に派遣され、凄惨な戦争を体験しています。敗戦で奇跡的に生還。もちろんルソン島で敗戦を迎えたため、玉音放送は聴いていません。敗戦はアメリカ軍将校から伝えられました。
 昭和三十一年、聖書関係の著作物出版を目的とする山本書店を創立し、同四十五年、ユダヤ人と共同で執筆したイザヤ・ベンダサン名義の『日本人とユダヤ人』が爆発的に売れて、注目を集めるようになりました。以後、精力的に言論活動を展開し、平成三年、癌により逝去。享年六十九。
 彼の著作に最初に触れたのは本屋でよく見かける『ユダヤ人と日本人』でしたが、そのユニークな視点、鋭い論理に魅力を感じて、以後彼の著作を読み漁りました。そこには、それまで読み漁って、飽き足らぬものを感じるようになっていた司馬遼太郎の作品にはない鋭さがありました。
 後になってどこかで(確か山本七平ライブラリーに収められたものだったと思いますが)、両者のあの戦争を巡る対談を読んだことがあります。その対談の印象は、山本は寡黙で、それに比べて、司馬は饒舌であり、軽薄にすら感じられたことを記憶しています。山本の戦争体験の深刻さと司馬のそれの浅薄さが浮き彫りにされた対談であったと思います。有り余る文才を持ちながら、ノモンハン事件を書かず、いわば宿命から逃げた司馬と粛々と宿命に向かい続けた山本。その生き方の違いが洞察力の差に現れていたと思われるのです。
 自分で曲りなりにも歴史について考え、書くようになって、やがて、彼の歴史に対する考察が、日本人の外部からの観察に基づくことに気づきました。日本の伝統というところに軸をおけば、プロテスタントである彼はどこまでもアウトサイダーの位置にいる。もちろん、彼自身、そのことに自覚的でした。
 ユダヤ人名義で書いた『日本人とユダヤ人』は、彼の言葉で言えば、聖書的価値観を日本人に「臨在観的」に把握させるために書いたものだと思われますが、彼が山本名義で世に問うた日本人に対する洞察にも、それは「静かなる細き声」となってこだましていたように思われます。しかし、それは「静かなる細き声」であっても、決して弱き声ではない。芯の強い、抑制された声です。
 事実、「日本人とユダヤ人」はなぜ日本にはキリスト教が普及しないのか、という問題意識が出発点になったといいます。これが山本の生涯の研究活動を支えた視点であり、それが戦後広く受け入れられた、というのには、複雑微妙な思いがします。
 山本の重要な著作に『現人神(あらひとがみ)の創作者たち』という労作があります。
 山本が言うには、日本人は、自己の伝統とそれにもとづく自己の思想形成への無知がある。この無知は、進歩のつもりで過去を否定したつもりが、かえって否定したはずの過去、伝統的規範による現在の呪縛を生むことになる。日本人は明治維新において江戸時代を否定し、敗戦によって戦前を否定したため、二重の呪縛に陥っている。だから呪縛を克服するには、自己の伝統とそれにもとづく自己の思想形成過程を明らかにする必要がある。
 これが山本の場合、戦前・戦中、プロテスタントとして対峙せざるを得なかった、優勢な時代精神、強力な史観の根源を明らかにする、という方向に向かったのです。イエス・キリストを信仰する彼は、現人神思想の根源を問おうとした。
 『現人神の創作者たち』はその探究の結晶と言えるものであり、そういった山本の真摯な態度は尊敬に値すると思っていますが、一方で、アウトサイダーの視点による日本の伝統の探究にはやはり限界があり、この著作はそれも露呈してしまっているのです。
 山本はそのあとがきで次のように書いています。

 …戦後二十余年、私は沈黙していた。もちろん一生沈黙していても、私は一向にかまわぬ。ただ、その間、何をしていたかと問われれば「現人神の創作者」を捜索していたと言ってもよい。私は別にその「創作者」を《戦犯》とは思わないが、もし本当に《戦犯》なるものがあり得るとすれば、その人のはずである。その捜索は難航をきわめた。さまざまな試行錯誤があったが、その間に、多くのことを発見することもできた。…(中略)…
 また「なぜそのように現人神の創作者にこだわり、二十余年もそれを探し、『命が持たないよ』までそれを続けようとするのか」と問われれば、私が三代目のキリスト教徒として、戦前・戦中と、もの心がついて以来、内心においても、また外面においても、常に「現人神」を意識し、これと対決せざるを得なかったからという単純な事実に基づく。したがって、私は、「創作者」を発見して、自分で、「現人神とは何か」を解明して納得できればそれでよかったまでで、著作として世に問おうという気があったわけではない。…

 日本人の立場から言えば、《戦犯》というものがありうるとすれば、それはルーズベルトであり、スターリンであり、毛沢東であり、蒋介石だった、ということになりますが、ヒトラーに言わせればユダヤ人を中心とする国際金融資本勢力、もっと大きくいえば国際情勢そのものが《戦犯》であったということになるでしょう。しかし、これを罪に問うことはできない。日本人は、山本の言うところの「現人神」思想=尊王思想をもってこの困難な国際情勢に応じ、戦っただけです。つまり、明治維新から見ていけば自明のことながら、作用に対する反作用であり、先ずは作用の方を分析して見なければならないでしょう。そうでなければ、ただ力で勝っただけの作用の方の犯罪が見失われてしまう。いや、実際そうなってしまっています。
 しかし、プロテスタントであり、子息に、戦場には神がいた、と語った山本にそのような見方はできなくて当然でしょう。山本はどこまでも聖書的発想で自分が対決を強いられた物事を見つめているのです。
 そして、その清算されるべき敵とは、彼の言葉でいえば、儒学的正統主義と日本の伝統とが習合して出来た、朱子学の一亜種ということになるのです。
 その山本がプロテスタントとしての立場を表に出して書いた自伝的な『静かなる細き声』の最終章は「論語の世界と現代」となっていて、明治維新を象徴する人物として、『論語と算盤』『論語講義』などで知られる渋沢栄一を取り上げ、自らの師匠筋に当る内村鑑三の『基督教問答』の一節を取り上げた上で、次のように結んでいます。

…自分の理性が信じられなくなる、その体験はすべての人が、維新にも終戦にも経験したはずであり、またその後のさまざまな運動にもあったはずである。だがそれは心に何の刻印も与えずに消え、就職すれば「ミニ渋沢」になっていく。その背後にあるものは、日本的に理解された『論語』の世界なのである。それを把握しなおして対処することが、日本における宣教の出発点ではなかろうか。
 
 つまり、日本におけるキリスト教宣教の障害となっているのが、日本人が『論語』を読まなくなっても、社会的規範として、または言語生活の中に生き残っている『論語』的規範である、と言っているのです。
 これは非常に鋭い、重要な指摘と言わなければなりません。こういった問題意識を持った山本が、たとえ言論活動において公正な態度を保って、その主張を前面に押し出さなかったとしても、彼の言論の根底にキリスト教的価値観がある以上は宣教の露払いともなりうるでしょう。しかし、逆に、この呪縛の把握を通じて、失われていく伝統の意識的再生に生かすことも可能です。日本人である筆者はもちろんこちらの側に立つものです。
 聖書的発想は日本の伝統と相容れぬものがその根幹にあり、その過度の受容は日本の根幹を揺るがしかねない。そのことを教えてくれるのが、日本人でありながらプロテスタントというアウトサイダーであり続けた山本七平が抱いた、日本のある種の伝統(それも最も重要な伝統の一つである尊皇思想の伝統)に対する違和感であるし、長谷川三千子氏の『バベルの謎 ヤハウィストの冒険』です。
 シンアルの地において、一つの言葉で一つとなった民は、全地の面に散らされぬよう、町とその象徴として天に届かんばかりの塔を建てました。それに対してヤハウェは怒り、人を自身と向き合わすために、地と人を切り離そうと、彼らの言葉を乱して、民を全地の面へ散らしました。バベルの塔の物語です。
 繰り返しになりますが、この物語は、人間の高慢、不遜のしるしとしての塔と神の物語ということになっていますが、これは戦前、一つ言葉で、官民一体となって近代国家への発展を遂げたように外部から見えた日本に対する西洋人の嫉妬、敵視の根底に横たわっていたイメージではなかったかと思われます。彼らは、一つ言葉、一つ民が築き上げた日本国家を無差別爆撃や原爆まで投下して破壊しつくし、力で打ち負かした後、検閲・焚書などの言論統制、東京裁判などあらゆる手段を尽して日本人の言葉を乱し、ばらばらに解体しようとしたのです。
 そして、マッカーサーは、昭和天皇が「神」ではないという宣伝をするとともに、当時皇太子だった今上陛下の家庭教師に敬虔なクリスチャンであるクエーカー教徒のエリザベス・ヴァイニング婦人を就けたり、キリスト教の普及のため、聖書を一千万部配布したりしました。これは当時七千万だった日本の人口の実に十四%以上を改宗させようとの意図を持っていたことを表し、聖書を読めるような大人に限ればこの割合はさらに大きなものとなります。
 こういったあからさまなやり方はさすがに成功しませんでしたが、山本氏の言論活動は、宣教の露払いとして、それと意識されることなく、間接的浸透の効果を挙げるでしょう。現に彼の言論は広く受け入れられています。その侵食浸潤は、そこかしこに見られ、人びとはこのことにもっと危機意識を持っていいのではないでしょうか。
 かつて衰退期のローマ帝国において、蛮族の侵入を食い止められなくなった時、人びとはキリスト教的終末思想を受け入れ、そのことによって、ローマらしさ、いわゆるローマン・スピリットは失われていって、やがて滅亡に至ったことを想起して欲しいのです。あるいはキリスト教宣教師が西洋文明による非西洋文明侵略の尖兵の役割を果たしたことを想起してもいいでしょう。あるいは戦前のシナ大陸における反日排日運動に火をつける役割を担い、デマを流し続けたのが彼らであったことを想起してもよいでしょう。
 これらは失われた記憶ですが、ユダヤ・キリスト教的悪意は今も虎視眈々と日本を狙っています。筆者が知っている所でいえば、内村鑑三が『代表的日本人』の第一に挙げた西郷隆盛の研究のかつての総本山と言えば、鹿児島の西郷南洲顕彰会であり、顕彰館でした。その館長は二代続けてクリスチャンの方が務めておられるが、現館長は機関誌『敬天愛人』においてその主張をあからさまに展開することはありませんが、密に西郷隆盛はクリスチャンだった、という説を定着させようとしているようです。
 もちろん西郷どんがクリスチャンだった、という事実はありません。史料の99.9パーセントまでは、彼が日本的な儒学の陶冶を受けた武士道を体現した人物であったことを示しています。彼が漢訳聖書を読んだことがあったという、たった一つ二つの史料で、これを覆そうというなら、それなりの根拠、合理的理由を示さなければならないでしょう。そして、それが正しいと信ずるなら、機関誌で堂々と議論を展開すればいいだけのことです。態度が姑息なのは、確信が弱いか、どこかやましいところがあるからでしょう。
 ともかくキリスト教的価値観の浸透は日本文化の寛容性、受容性の高さを顕していますが、それが行き過ぎて、國體の根幹に関する問題まで侵食が及んだ時には、日本人が日本語を話し続ける民族である以上どこかで拒絶反応が起きるでしょう。

 さて、話を山本七平に戻すと、彼は『現人神の創作者たち』のあとがきの冒頭の方で次のような気になることを言っています。

…「現人神」はいま呱々(ここ)の声をあげたところである。「現人神」自身が自分が何であるかを自覚していないし、世の人もこの新生児の存在に気づかない。否、生み出した御本人も、それがどう成長して社会がどう成長していくかなどは、全く予想がついていない。すべての新生児はそういったものであろう。
 従って「あとがき」は、この新生児ならぬ「新生神」の育成者、完成者を記し、その「神の像(イマゴ・デイ)」を明確にし、天皇の「人間宣言」で一応―これはあくまでも「一応」と見た方がよいであろうが―終止符を打ってから、言わば「現人神の伝記」が終了してから書くべきかも知れぬ。…

 山本七平はその晩年、イエス・キリストと昭和天皇について書かなければ、と言っていたそうです。昭和天皇の崩御が昭和六十四年(一九八九)であったことを思えば、ここに言う「新生神」が昭和天皇御本人を差していることは明らかです。山本はその言葉どおりに『昭和天皇の研究』という本を書きました。一方で、聖書に関する研究は『聖書の旅』『聖書の常識』『禁忌の聖書学』などいくつか書いたことがあったにもかかわらず、イエスを伝記という形で書き残しておきたい、と思ったのはなぜだったのでしょう。こちらは彼の遣り残した仕事となりました。
 この、山本七平という、日本人としてはアウトサイダーに属する、洞察力鋭い知識人の謎めいた予言に、長谷川氏の『神やぶれたまはず』は、奇しくも応答するものとなっています。それも日本人の内面に立つものとして、です。

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