敗戦時の失われた記憶(壱)―天籟 【『皇室と論語』 (四)】

 小林秀雄は日本の伝統、いや日本そのものと言ってよい「和」の伝統を語るに際して、『論語』の言葉を引用して、これを語りましたが、これは日本人にとって実に深刻な意味を持っています。小林は日本の「和」の伝統が「君子相和し、小人同ず」を究極の理想的状態としながら、「小人同じて相和せず」の状態に陥りがちなことを示唆しています。もっと穿った見方をするならば、小林は「和」の理想を達成するには、すなわち「君子相和し、小人同ず」るためには、当然の前提として天皇の御存在をその中心として考えてはいなかったでしょうか。
 奇しくも、小林秀雄より一つ年下の尾崎秀実は、自らが誘った国難である大東亜戦争中に獄中転向して、日本の伝統に回帰し、國體を霊峰富士にたとえ、天皇の御存在をその頂点と表現しました。彼は飛行機から眺めた富士の端正な容姿を脳裡に浮かべてこれを語りましたが、側面から見ての頂上は、鳥瞰すれば大きな同心円の中心を成しています。すなわち、垂直軸の頂上をなし、水平軸の中心を成す。それが天皇の御存在ということです。
 現在は自由平等の理想の「名」のもとに、人間の孤立化、無差別平板化が進められていて、その実、人間を唯物的な単なるミクロ経済学的な消費者にして労働力と見る傾向が著しくなっています。これをネオ・リベラリズムと言いますが、実はこれはディアスポラ系ユダヤ人に由来するグローバリズム的発想で、彼らが牛耳る政官財界およびマスコミからインターネットに至るまで、盛んに発信されている思想なのです。無警戒にこれらマスメディアから発信される情報を受け入れていると、識らず知らずのうちに脳を汚染されていくことになります。
 個別化、平板化した単なる人的資源は、消費という小さな自由(言わば勝手)を与えられて、物・金・情報を支配する一握りの人々によって支配される。いま世界はニヒリズムに覆われようとしているのです。だから運命に抗う人間の悲劇のドラマであり、物語である歴史は、歴史の被害者を自称する人々のけたたましい怨念の声にかき消されていく。被害者商法と言っては酷かもしれませんが、あることないことでっちあげて利権を勝ち取ろうとする近隣反日諸国はユダヤ人のやり方から学んだのかもしれません。もっともディアスポラ系ユダヤ人が虐げられてきた被害者であったのは事実でありますが、だからと言ってそれを隠れ蓑にして加害者になっていい理由にはならないでしょう。

 さて、日本の國體は平成に入って、ますます解体の危機に瀕し、かつては巍巍として聳えたはずの秀峰富士は、意図的に起こされた地盤沈下によって平地と化そうとしているかに見受けられます。その踏み均された平地に乱立しようとしているのが、入管法改正による移民の大量移入によるコミュニティであるし、これから導入されるアイヌ自治法による独立、それに連動する琉球王国独立運動でしょう。中国人や朝鮮人に密かに買収された土地もいずれそのようになるでしょう。踏み均されて平地と化した大地に乱立するマルチカルチュアリズムは対立の温床であり、これまで世界にもまれなほどの平和な社会を築き上げてきた日本の秩序を根本から破壊します。今や先進諸国の多くがそうなっているように、暴力やレイプなど、犯罪や対立抗争は日常茶飯事となるでしょう。「和」どころか「同」さえ困難な状況になる。
 そうなる前に、水平軸方向の精神運動にバランスをもたらすべく、垂直軸方向の精神運動を再活性化する必要があります。仮に移民法の導入で手遅れであっても、そうであるならなおの事、日本のお家芸である多文化受容の日本の文明力を強化するためにも、日本の文化力、その根幹となる部分の補強は避けて通れない問題です。そのためには日本の歴史・伝統を学び、國體観を回復することが重要ですが、特に戦後の日本人にとって重要な、われわれの親や祖父の世代の庶民が経験しながらも忘却した日本における絶対性を垣間見た瞬間に触れてみたいと思います。

 毎年、八月に入って十五日までは、蝉しぐれの中、われわれ日本人がかつて経験した異常な民族的記憶が甦る期間です。
 相変わらずマスコミでは、戦前・戦中の日本を悪に仕立て上げての反省ごっこが繰り返されますが、こういった真の反省から程遠い欺瞞的態度が物事の本質的解決を遠ざけ、発展を阻害するのは、昨今の隣国との関係を見れば分るでしょう。
 お隣の国々、中国や北朝鮮・韓国の主張は彼ら自身の事情によるものであって、それ以上のものでありません。彼らにとって歴史とは現在の彼らの利益に奉仕するためのものであって、それ以上の意味を持たないのです。それは、アメリカも同様ですし、これら隣国への隷従的態度で飯を食っているわが国のマスコミ人や経済人、多くの官僚や政治家にも言えることでしょう。 彼らは歴史を語りますが、一様に時流迎合に上手なのであって、上手に過去を振り返っているわけではない。小林秀雄が言うように、われわれは過去を上手に思い出さなければならないのです。
 長谷川三千子氏の『神やぶれたまはず』(中央公論新社)は、敗戦時の見失われ、忘れられた一瞬を上手に丁寧に思い出すことに成功した稀な例で、非常に感銘を受けた一冊です。
 この本で扱われているのは、様々な知識人が残した、昭和二十年八月十五日正午の玉音放送を聞いたときの記憶です。
 長谷川氏はその記憶の意味を、丁寧に問うていきます。扱われている知識人は、折口信夫、橋川文三、桶谷秀昭、河上徹太郎、太宰治、伊藤静雄、磯田光一、吉本隆明、三島由紀夫らで、個々の知識人の表現の仕方は様々ですが、その記憶とは、河上徹太郎の昭和二十一年春頃書かれたらしい、次の文章に象徴されるような記憶です。

「国民の心を、名もなく形もなく、ただ在り場所をはつきり抑へねばならない。それは、八月十五日の御放送の直後の、あのシーンとした国民の心の一瞬である。理屈をいひ出したのは十六日以後である。あの一瞬の静寂に間違はなかつた。又、あの一瞬の如き瞬間を我々民族が曽(かつ)て持ったか、否、全人類の歴史であれに類する時が幾度あつたか、私は尋ねたい。御望みなら私はあれを国民の天皇への帰属の例証として挙げようとすら決していはぬ。ただ国民の心といふものが紛れもなくあの一点に凝集されたといふ厳然たる事実を、私は意味深く思ひ起したいのだ。今日既に我々はあの時の気持ちと何と隔りが出来たことだらう!」

 あの時の記憶はしばらくすると占領軍の検閲を受けたジャーナリズムの嬌声にかき消されて、さしあたり、それが絶望と憤懣の表情となって現れたといいます。あの記憶は半年もすれば、すでにそのままに思い出すことが非常に困難になっていたのです。戦後はその傾向にさらに拍車をかけることになり、今日まで至っています。
 あるいは直観的にわかりやすいものとして、日本浪漫派の詩人・伊東静雄の日記に書き付けられた次の文章を挙げてもいいかもしれません。

 「十五日陛下の御放送を拝した直後。
 太陽の光は少しもかはらず、透明に強く田と畑の面と木々とを照し、白い雲は静かに浮び、家々からは炊煙がのぼつてゐる。それなのに、戦は敗れたのだ。何の異変も自然におこらないのが信ぜられない。」

 ここにはより激しい感情が刻印されています。
 この文章は桶谷氏の心を強く捉え、一つの確信を与えました。
 昭和二十一年生まれの長谷川氏は、長じて「闇の中からうまれて出てきた」という漠然とした感覚を抱いていたといいます。それがこの民族的難題の探究に向かわせたのですが、様々な知識人の記憶を丁寧にときほぐしていった上で、氏は旧約聖書にある「イサク奉献」の話を取り上げて、理解の補助線を示した上で、最終章で、わが國體、特に天皇と国民の関係性に眼を据えます。しかし、そこに至るまでの記述は安易な要約を許すものではなく、感想を書こうと思って再読してみると、初読時に心の片隅で感じていた当惑はより大きくなってくるのですが、それは、一つは桶谷秀昭氏のいう精神史的な手法に起因しているように思われます。 
 桶谷氏の探究の根本にあるのは彼の敗戦経験に由来しています。氏はかつて「原体験の方法化について」(昭和三十七年)という文章の中で次のように書いたことがありました。

「現在、私のモチーフの究極のところにあるのは、いかに強力な史観、いかに優勢な時代精神のもとにあろうと、ひとりの人間の原体験は、それらと同等の独立した価値をもつという確信である。」

 これは、敗戦時十二歳から十六歳で、戦争中の指導者の言うことを真にうけた唯一のグループ、と世代論で括った、戦後を代表する進歩的文化人の代表の一人、鶴見俊輔を意識しての発言で、桶谷氏は、この世代論は必ずしも間違いではないが、もしこれを「だまされていた」の一言で葬り去るなら、思想の次元としてはそうした言い方は意味をなさない、と言います。
 引用文中の「強力な史観」「優勢な時代精神」とは、自身の経験としてはかつて真にうけた皇国史観、すなわちすでに触れた右翼全体主義に基づく史観を念頭においていたと思われますが、戦後これを語る時は、マルクス主義とか唯物史観とか呼ばれるものを意識していたでしょうし、戦勝国に押し付けられた日本悪玉史観、いわゆる東京裁判史観もそのうちに含まれるでしょう。さしづめ、今ならグローバリズムと言い換えることが許されるでしょう。
 強力な史観、優勢な時代精神はそれ自体で独立した価値を有するものの、それらに迎合・隷従するだけの安易な精神にまで独立した価値があるとはいえない。与えられた「強力な史観」、「優勢な時代精神」の裂け目を覗き込み、そこに落ち込んだ経験を原体験として、そこから這い上がった思想でなければ、それと同等の独立した価値を獲得することはできないでしょう。
 桶谷氏も戦争中の指導者の言うことを真には受けていたわけで、その時代の日本における強力な史観、優勢な時代精神の中にあって、玉音放送によって、その裂け目を垣間見、そこに一度落ち込んだ深刻な経験を原体験として見つめ続けたからこそ、『昭和精神史』は独立した価値をもつのです。
 そもそも彼がその中で育った、皇国史観と呼ばれる「強力な史観」、当時の日本人が強制を余儀なくされるほど優勢であった「時代精神」は、西洋文明が押し付けてくる「時代精神」「史観」との対決を運命づけられたものでした。敵は皇国史観のみならず、日本文明そのものを敵視し、キリスト教精神、近代主義、そこから派生したアメリカニズムやコミュニズムなどの国際主義の立場から、様々な難問を日本に突きつけてきた。一方で、日本が深い関係を持っていたシナには中華思想という根強い思想があって、日本を敵視しました。
 この時代、すなわち昭和という時代は世界を舞台に、「強力な史観」、有力な「時代精神」が覇を競い合った時代でした。二度の世界大戦を通じて世界の陸地の大半を植民地化していた西欧が没落し、代ってアメリカが勃興、第二次世界大戦で、受身の思想であった皇国史観が没落しました。そこに付け込む形で急速に勃興したのがソ連を主体とするコミュニズムでした。
 しかし、奇妙なのはアメリカ大統領ルーズベルトがソ連に対するシンパであり、日米の指導層の内、少なからぬ人物がコミュニズムに犯され、その戦略に基づいて日米を開戦に誘導しました。それはソ連の国益に叶っていました。
 開戦前に逮捕された尾崎は、転向前の事でしょうが、獄中で次のように述べたと、いわゆるA級戦犯の一人・重光葵の回想『昭和の動乱』に次のようにあります。
 「尾崎は捕らえられた後に、検察当局に述懐して、『自分が長く仮面を覆った危険な潜行運動をしたその苦心のために、頭の髪は全く白くなってしまった』と云い、また、『自分等の日本赤化運動は、すでにその目的を達し、日本は遂に大戦争に突入し、擾乱は起り、革命は必至である。自分の仕事が九分通り成功しながら、今その結果を見ずして死ぬのは、残念である』と述べた。
 近衛公は、辞職後、或る日、記者に対してゾルゲ事件のことを語り、尾崎の検察当局に対してなしたる前記の告白を繰返して、『実に戦慄すべきことである』と語った。近衛公は、更にその時、『自分がある政策方針を樹てて、表面陸海軍側の賛成をも得て、これを実行に移す場合に、何処からともなく故障が起って、如何しても、思うようにならなかった』とも述懐した。ゾルゲ及び尾崎は、一九四四年に死刑執行せられ、クラウゼンや中西は終身刑となったが、終戦の際、占領軍によって逸早く政治犯として他の共産党員と共に、釈放された。宮城とヴーケリッチは獄死した。その他の連累者は、有期刑を判決されたが、これまた全部終戦の際、占領軍の釈放するところとなった。
 ゾルゲ事件は、この種事件の判明した一事件に過ぎない。共産党の世界にわたる組織は、政治、文化、経済の各部門に、或いは第五列として、或いは間諜として、あらゆる手段を用い、その目的を達するために、信念的暗躍を行っていることが、戦後次第に世界の人々に知られるところとなった。」
 当時の日本が直面していた思想的危機が尋常なものではなかったことがわかります。だからこそ、その思想的防波堤として皇国史観が必要とされたのです。戦後、多くのコミュニストがもぐりこんだマスコミが皇国史観を仇敵視するのもゆえあることなのです。 
 もちろんコミンテルンのスパイたちを周りに置いたのは近衛自身の政治的責任です。
 近衛自身が学生時代、河上肇について熱心に共産主義を学んだ人物であり、彼がヒットラーに憧れを抱いていたことは有名です。ちなみにナチスとはナショナル・ソシアリズムの略で、国家社会主義政党です。
 彼の学習院時代からの親友で、終戦時内大臣を務めていた木戸幸一もまた、河上肇に師事したマルクス主義者でした。日本銀行の宗像久敬の日記によれば、木戸は、昭和二十年三月三日、宗像に対して、ソ連は共産主義者の入閣を要求してくる可能性があるが、日本としては条件が不面目でさえなければ、受け入れてもよい、共産主義と云うが、今日ではそれほど恐ろしいものではない、欧州も、支那も、世界中が皆共産主義ではないか、残るは米国位のものではないか、と言い、「今の日本の状態からすればもうかまわない。ロシアと手を握るがよい。英米に降参してたまるものかと云う気運があるのではないか。結局、皇軍はロシアの共産主義と手をにぎることになるのではないか」と述べたといいます。
 これを聞いた宗像は「ソビエットと手をにぎり共産主義でゆくべきかは之は大なる問題なり」と日記に認めています。実は木戸は、ハリー・デクスター・ホワイトの教え子であった経歴を持ち、ハーバート・ノーマン(ともにソ連のスパイ)とも親交があった都留重人の義理の伯父に当たり、終戦前は同居していたので、その影響を受けた可能性が十分あります。
 高松宮殿下も昭和十九年五月の時点で「実際の処、神ながらの道も共産主義も少しも変わらんではないか」と仰られていたそうですし(『細川日記』)、終戦時の首相鈴木貫太郎もまた、六月二十二日の最高戦争指導会議で「ソ連に対して和平の仲介を頼んでみたらいかがですが。スターリンという人は西郷南洲に似たところもあるようだし、悪くはしないような感じがする」と述べ、ソ連仲介案を国策として正式に決定しました。
 ここで問題なのは、総理大臣というインテリジェンスの頂点に立つ人物のスターリンという人物に対する認識の甘さ、というより、明確な誤認識と、大日本帝国草創の英雄である西郷隆盛に対する理解のあまりの浅さでしょう。要するに、孫子の言葉を借りれば、彼も知らなければ己れも知らない殆うさが日本の指導層の頭を支配していたことになります。

 社会主義者・共産主義者の一斉検挙である三・一五事件直前の一九二八年(昭和三年)二月九日から二十五日まで、モスクワで二七ヵ国から九十二名の代表が参加し、コミンテルンの執行委員会の第九回会合が開催され、資本主義体制が最終的崩壊の段階に入っていること、全ての共産党の正しい在り方は高度に攻撃的、軍事的、極左路線であることなどが宣言されました。
 要は、世界革命の頓挫を期に、コミンテルンはより過激化していたのです。前述のように張作霖爆殺事件はこの年の六月に発生しています。
 国家転覆を狙うコミンテルンの手先に対する、一斉検挙という、田中義一首相の果断は褒められていいのです。
 張作霖爆殺直後の七月十七日から九月一日にかけては、第六回コミンテルン大会がモスクワで開催され、五十七ヵ国から五百三十二名の代表が出席しました。
 スターリンが直接に指導して決議された綱領の内容は、いわゆる敗戦革命論に基づいたもので、すでに触れた次の三項です。(1)自国政府の敗北を助成する。(2)帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦に転換させる。(3)民主的な方法による正義の平和は到底不可能であり、戦争を通じてプロレタリア革命を遂行する。この三つの方針に基づくコミンテルンの暗躍こそが、日本の内政混乱、シナ事変、引き続いての大東亜戦争勃発の大きな要因となったのです。張作霖爆殺事件によって当時の田中内閣が倒れたことで、スターリンは自己の方針に自信を深めたのではなかったかと思われます。この敗戦革命論の実践において大きな功を成した人物が、日本では近衛内閣のブレーンを務めた尾崎秀実や風見章であり、同志であるゾルゲであったのです。

 さて、日本人の多くはあの敗戦時の原体験をとことん見つめることなく終わったため、心の空白をアメリカニズムやコミュニズムで埋めざるを得なかったわけですが、あの原体験が深刻で、時代に優勢な精神に安易に迎合できなかった人々がいました。桶谷氏が『昭和精神史』で扱った人びとがそうですし、氏自身がそうでした。
 現在の世界的な思想の混乱の中で、もし日本が自主独立の道を歩むなら、あの原体験をとことん掘り下げて、それを原石として切磋琢磨し、何かを創出していく作業は避けて通れないところでしょう。長谷川氏は桶谷氏の事業を引き継いで、あの瞬間を経験した日本人の内側に分け入って、その経験の意味を問うていくのですが、それは扱われた当人の思想の未熟さや誤解を含んでいます。特に「神」観念の混乱においてそれは著しいように思われます。長谷川氏もまた、外来の一神教の絶対者を「神」と訳したことによる近代日本における「神」観念の混乱を混乱のままに受け入れて叙述を進めていて(意図的にだと思われますが)、そのことが読んでいて混乱してくるのです。
 結局の所、それを抜け出すには、長谷川氏が「イサク奉献」の話に移る前に取り扱った三島由紀夫の章で示しているように、また最終章で示しているように、歴史事実を語ることによってしか解消されえないでしょう。
 これは歴史教育の重要さを物語っていますが、日本の近現代史は子供達の教育からすっぽり抜け落ちていて、日本に悪意を持つ外国の意を受けた、あるいは迎合したマスコミの印象操作の恰好の餌食となってきました。歴史に関心を持たない多くの人が、戦前の日本は悪いことをしたと漠然と思いこまされているのです。
 ですが、歴史事実を知ればそんなことはないのです。逆に彼らの悪が明らかとなる。だから歴史認識問題は未だに政治問題なのです。
 歴史事実を知ることは、勝利によって犯罪を問われることのなかった第二次世界大戦における戦勝国(一九四九年建国の中華人民共和国を一応入れるとして)による世界秩序に対する挑戦となるのです。だから、彼らはそういった動きを[revisionist](リヴィジョニスト;歴史修正主義者)と非難攻撃して牽制します。[revisionism](リヴィジョニズム;修正主義)は従来、共産主義者の間で否定的に使われてきた言葉です。しかし、和訳の修正主義の語感から言えば、修正とは間違いを正す事であり、学者であるならば、あるいはまともな人間であるならば、間違いは正されてしかるべきものです。「リヴィジョニスト」というなら、彼らに都合のいい史観を敗戦につけこんで押しつけてきた彼らこそが、元祖「ヴィジョニスト」あり、そんな彼らからの「リヴィジョニスト」との非難攻撃は、洗脳工作に成功した彼らのヴィジョンを守り維持するためであると見ていいでしょう。(ちなみにその対義語が「教条主義」[dogmatism]です。)
 われわれの言葉で言えば、あの「勝てば官軍、負ければ賊軍」で、われわれは負けたから勝者に賊軍の位置に貶められているに過ぎない。彼らには判官贔屓の感情はありませんから、その非難は容赦のないものとなるのです。
 長谷川氏が最終章で示しておられるとおり、この問題はとことん掘り下げていけば、國體、伝統の問題に行き着きます。筆者は、桶谷氏や長谷川氏があの日本国民が経験したシーンとしたあの一瞬をどのように受け止めたかに大変興味があります。
 桶谷氏はあの瞬間、日本国民は「天籟(てんらい)」を聞いたのだ、と表現しています。
 桶谷氏は言います。

「八月十五日正午、昭和天皇の終戦の詔勅を聴いて、多くの日本人がおそはれた『茫然自失』といはれる瞬間、極東日本の自然民族が、非情な自然の壁に直面したかのやうな、言葉にならぬ、ある絶対的な瞬間について考へた。そのとき、人びとは何を聴いたのか。あのしいんとした静けさの中で何がきこえたのであらうか。
 『天籟』を聴いたのである、と私は書いた。天籟とは、荘子の『斉物論』に出てくる言葉で、ある隠者が突然、それを聴いたといふ。そのとき、彼は天を仰いで静かに息を吐いた。そのときの彼の様子は、『形は槁木(枯木)の如く、心は死灰の如く、』『吾、我を喪ふ』てゐるやうであつたといふ。
 さういふ状態でなければ『天籟』は聞こえない、と荘子は隠者の口を通して語つてゐる。」

 長谷川氏はこれを引用したうえで、次のように敷衍しています。

 「実は、この『天籟』といふ言葉こそが、『昭和精神史』二十章において、桶谷氏があの「今日なほ納得のいく答へをみいだせない一つの謎」に対して見出した答へ-あるいは答へへのヒント-なのであった。
 『天籟』とは、文字通りには「天のひびき」といふ意味の語であるが、荘子の『斉物論』において、これは人のたてる音である『人籟』、大地の噫気(あくび)たる風のたてる翏々(りゅうりゅう)たる音である『地籟』と対比して、いはば或る種の超越的な観念として語られてゐる。すなわち、それ自体はいかなる音でもなく、ただもろもろの音を音たらしめてゐるもの-その〈沈黙としての音〉が天籟であるといふのである。
 …(中略)…(桶谷氏にとって)重要なことは、この『天籟』といふ言葉によって、あの『無表情な虚無』の謎-日本民族にとっての、最も貴重な瞬間と、戦後のもっとも異様な症状とを同じ一つの表情がつないでゐるといふ謎-が解決の糸口を与えられた、といふことだったに違いない。
 この『天籟』といふ言葉をもう一度呼び出すことによって、桶谷氏は『昭和精神史 戦後編』の主題をつかみ得た、と言ふことができよう。…」

 桶谷氏は『天籟』という言葉によって、当時日本人の内側に起きた精神史的事件を、「垂直に天にむかひ地に潜行する運動」と捉えた。垂直方向の精神運動だから、水平方向の運動に応答していない。二次元の眼で水平運動を注視していれば、垂直方向の動きは停止した、ただ一点にしか見えないのです。
 当時の日本人がジャーナリズムの嬌声の中で、絶望と憤懣の表情を見せながらも、占領軍の横暴という水平方向の激しい動きに、不気味なほど従順な態度を見せたのも、この応答のなさに起因している、というのです。
 戦勝国側やこれに迎合したマスコミがこの一点を黒色に塗りつぶすことに嬌声をあげ続けるうちに、国民はあの一瞬を忘れ、水平方向のみの視点で世界を眺めるようになりました。それは焼け野原を生き抜かなければならぬ生活の必要性がそうさせたのであり、やむを得ぬ面もありました。しかし、あの一瞬が日本国民の精神にある刻印を残したのは、八月に入ると、たとえそれが誤魔化しに満ちていようと、二度にわたる原爆の投下があった六日と九日、および玉音放送が行われた日である十五日に、様々な場で思い出されることにも現れているでしょう。
 われわれは、中国や南北朝鮮、アメリカ、そしてそれら優勢な時代精神、強力な史観に迎合したマスコミの嬌声に惑わされることなく、上手に、丁寧に過去を思いだす必要がある。

 桶谷氏は、『荘子』にある「天籟」という言葉によって、玉音放送を聴いたときのシーンとした国民の心の一瞬の謎を解く手がかりを得ました。しかし、この事を世に問うたものの、反応は「だから、どうしたといふのか。そんな怪訝をともなふ反感あるいは薄ら笑ひを、私はたびたび経験したが、賛意をつたへてくれた人はひとりもゐなかった」といいます。
 中でも最も深切な反応を示してくれた司馬遼太郎でさえ、はがきの中で「荘子の『天籟』久しぶりでこのことばに接しました。『天籟』、大切なような、大切でないような、知らずとも生涯、知っても何程もなき生涯、これは一体何でしょう。」という、無理解な反応を示す程度だった。あの瞬間を見失ったか、経験していない、水平方向の運動のみに目を奪われるようになった戦後日本人に、この垂直方向の精神運動に関する問題提議は、大した意味を持たないように思われるのでしょう。
 歴史に関する知識では該博な司馬遼太郎の歴史小説や随筆は、今思い返せば、確かに水平方向の運動で歴史上の人物や事象を捉えていたように思われます。彼の歴史小説では、登場人物の発する垂直方向の精神運動を表す言葉も出てきますが、やはり大切なような、大切でないような、そういった素通りの仕方であったように記憶しています。少なくとも、史料に出てくるから登場人物にそのようなセリフを言わせたまでで、そこにその人物を深く理解する鍵がある、という扱いではありませんでした。
 逆に言えば、だからこそ彼の歴史小説は垂直方向の視点を欠いた大衆に受け入れられて、国民作家と呼ばれるにまでなった、とも言えるでしょう。しかし、それはあくまでも戦後国民作家であって、戦前・戦中の日本人が読めば違和感を感じたのではなかったでしょうか。
 思えば、筆者が「敬天愛人」という言葉でその精神性が表されることが多い西郷隆盛の史伝を世に問うたのも、『翔ぶが如く』を読み込む内に、南洲翁や明治日本を揺るがした、いわゆる征韓論破裂や西南戦争をちゃんと描けていないのは、ここに含まれた垂直方向の精神運動に対する考察が欠けているからだ、ということに気づいたからでした。
 「敬天愛人」とは、垂直方向の精神運動を表す「敬天」と、水平方向の精神運動を表す「愛人」とから成り立っている。南洲翁の言動、事跡は、この二つの方向性を持つ精神運動が生んだものです。そこで筆者は、未熟ながらも、「天」「道」という言葉をキーワードに、南洲翁の生涯を手探りで検証しつつ叙述しました。本に対する反応はほとんどありませんでしたが、それは水平方向の運動を二次元で見ることに慣らされた戦後社会では当然の反応だったと、今となっては合点がいきます。
 南洲翁の精神運動は英雄の名にふさわしく、垂直方向、水平方向の双方において、大きな幅と力強さを持っていましたが、よく対比される大久保利通の思想は、その双方において、力量に欠けています。大久保を政治家として高く評価する人の論評を読むと、大抵は、水平方向でしか見ていないことに改めて気づかされます。織田信長・豊臣秀吉・徳川家康に関する論考『十人の侍(上)』も垂直方向の精神運動に眼を凝らして叙述したものですが、やはり同じ理由から応答はないでしょう。
 しかし、今の日本に求められているのは、垂直方向の精神運動を取り戻すことです。それは歴史認識に最も求められているはずです。なぜなら歴史認識、歴史観とは、世界認識、世界観の表現に他ならないからです。自虐的歴史観は自虐的世界観しか生まない。隣国の顔色を窺うばかりの萎縮した歴史観は、隣国の顔色を窺うばかりの萎縮した世界観しか生まない。
 二〇〇六年に出版した拙著『(新)西郷南洲伝(上)』(高城書房)の前書きの最後に次のように書きました。
「…私は現在の混迷する日本の再生の鍵はそこにあると考えている。
 なぜなら西郷南洲を問うことは、日本人とは何か、日本の歩んできた道とは何か、これから日本が進むべき道は何か、これら日本文明の縦軸を問うことに他ならないからである。」
 もちろん、この縦軸の指し示す方向にあるのは「天」です。
 だからこそ、桶谷氏や長谷川氏の試みには共鳴するところがあるのでしょう。
 長谷川氏は次のように書いています。
「その意味で、あの八月十五日正午の瞬間を『天籟』を聴いた瞬間、ととらえた桶谷氏の発想は、正しい方向をむいてゐたと言へる。そこに何か真理が語られてゐたとしても、それは決してあからさまな宣言などではなく、どこまでも音なき音の語りかけなのである。
 ただし、やがて明らかになるとほり、桶谷氏の見出した『天籟』といふ言葉には、或る種の限界があった。そこに、古代中国の戦国時代に生きた思想家の深い思想が含まれてゐることは事実としても、わが国の古来の思想には、それとはまた異なる位相がある。ぎりぎりのところまで押しつめていったとき、そこにはどうしても超えがたいずれが生じてくるのである。」
 これもその通りでしょう。
 このずれを認識しておくことは確かに重要です。長谷川氏には『からごころ』という名著があって、こういった認識に行き着くのは至って自然に思えます。
 しかし、戦前・戦後を通じて、濃淡の差はあっても、日本人の言語生活の基本は、やまと言葉と漢語で成り立っています。戦前の日本人はそれがより濃密でした。知識人や指導層ほどそうでしょう。われわれの言語生活は、やまと言葉にその痕跡を残している日本古来の思想「やまとごころ」「やまとだましい」という、この地上からは窺い知れぬほど大地の深くに根を張った思想だけで割り切ろうとすれば、どうしてもずれが生じ、どうしてもそこに収まりきれぬものが出てくる。逆に、長谷川氏が指摘しているように、漢語でその由来を知ることができるシナ伝来の思想「からごころ」だけでわれわれの言語生活を割り切ろうとすれば、どうしてもそこに収まりきらないものが出てくる。
 それはそれぞれの思想の豊かさと異質性を物語っていますが、もちろんわれわれの文明を特徴づけているのは、わが国固有の「やまとごころ」「やまとだましい」の方です。そこに軸足を置けば、当然、シナ思想とのずれが強く意識されるでしょう。そのずれを強く意識し、これを突き詰めて偉大な思想を展開した本居宣長のような人物もいます。
 儒教という「からごころ」優勢の江戸時代において、宣長がこのずれを強く意識し、これを排撃することで、大地に深く根を張って、われわれの意識の表面から見えにくくなっていた「やまとごころ」を再発掘しようとしたのはよく理解できます。
 しかし、われわれは現代に生きているのであり、既に本居宣長の偉業を保有している。現代は明治維新以来、十分な西洋文明受容の歴史を有し、「からごころ」とあわせて、外来の二つの思想的軸足を持っているのです。
 長谷川氏は『神やぶれたまはず』で旧約聖書を取り上げて、そのシーンとした国民の心の一瞬を理解するための補助線を示して、次に國體の思想やその精華である「五箇条の御誓文」を取り上げるわけですが、氏には『バベルの謎、ヤハウィストの冒険』という非常にユニークな旧約聖書研究の著作があるのです。そして、後期水戸学の泰斗・藤田東湖の「弘道館述義」に集約される國體論や『五箇条の御誓文』は、わが国古来の思想とシナ伝来の思想の習合の産物にして、結晶です。
 長谷川氏は一応保守論壇に属する人ですが、こういった思想径路でわが国の伝統を保守する人は多い。例えば、西尾幹二氏は元々ドイツ文学を専攻した人物で、特に「言語学徒(フィロローゲン)」と自ら称したニーチェの研究者としてその影響を強く受け、わが国のフィロローゲン、荻生徂徠や本居宣長を世界史的視点から見た『江戸のダイナミズム』という著作を物しておられます。また、小堀桂一郎氏は同じドイツ文学研究から出発し、比較文化論の立場から日本の伝統の研究を深く進めた人物です。故渡部昇一氏は、カソリックの信者ですが、ドイツや英国への留学経験を持つ英文学者にして、日本史の著述家でもありました。
 こういった保守論壇の重鎮達の日本の歴史・伝統に関する論いには大変優れたものが多い。
 以上の人々は大東亜戦争に前後してこの世に生を享けた人々ですが、完全な戦後の生まれの筆者には、また別の態度があってもいいように思えます。彼らが自然にそうしているように、また我々一般の日本人が無意識にそうした言語空間で生活を営んでいるように、西洋由来の思想(洋心)も、シナ由来の思想(漢心)も、日本古来の思想(和心)もありのままに受け入れていきていく、という態度です。
 日本人の「和心」は賀茂真淵が「異朝の道は方なり、皇朝の道は円なり」と表現したように、また日の丸に表象されるように、まるい。これとずれを生ずる「漢心」は、その境界は曖昧ながら、総じてこの円に外接する方形です。その外を取り巻く「洋心」は、多角形ですが、その重心は「和心」の外に位置し、外接もしていない。そういった世界観をありのままに受け入れていけばいいと思うのです。現にわれわれ一般の日本人の言語生活は、これらの境界を自由に逍遥し、そこに遊ぶことで成り立っているのです。 
 「逍遥遊」は、『荘子』の精髄を表すと言われる「内篇」の第一篇の篇名で、「天籟」の語は第二篇「斉物論」篇に出てきます。
 われわれ日本人の精神世界は、「和心」「漢心」「洋心」で成り立ち、その世界を逍遥遊、すなわち何ものにも拘束されず自由自在の境地に遊ぶことで形成されて、それが人籟となる。しかし、それが水平方向の精神運動のみで成り立っている内は、深みも高みも重みも厚みも生じない。それを生じるには垂直方向の精神運動が必要であり、戦前の人びとが吹く「人籟」にはそういった精神の方向性を表す言葉があったのです。
 大東亜戦争の意義を理解し共有していた人が使った「悠久の大義」という言葉は、大地に根を張り、天に向かう言葉ですが、その起点には、國體の核心となるものとして、戦前・戦中の日本人では知らぬ者のなかった「天壌(てんじょう)無窮(むきゅう)」の神勅が存在し、この神勅と当時の日本の延長線上に未来を見据え、そういった時間の縦軸の中に現在の自己の生を位置づけ、明日なきわが命を惜しむ感情も消え失せたのです。それは漢語で言えば、「安心立命」の境地とも言うべきものでした。
 また、長谷川氏が折口信夫を扱った第一章「神 やぶれたまふ」で奇しくも表現しているように、神風が吹くと信じた日本人の凄絶な戦いざまは、信仰の欠けた他力本願といったものではなく、「人事を尽して天命を待つ」という、シナ伝来の思想で表現すればむしろ理解しやすいものでした。
 もちろん、そこには当時の人々の内面とずれはある。しかし、ずれのみに着目していてはわれわれの精神世界の全体像はみえないでしょう。

 われわれ日本人の思考は古来からいくつかの軸(この場合、やまと言葉で表される日本古来の思想「和心」と漢語で表現されるシナ伝来の思想「漢心」)で支えられてきたのであり、自然、それを「天籟」と表現するにしても、「天命」と表現するにしても、その「天」とは、シナ大陸の「天」と繋がった一つの広大な「天」であっても、われわれの頭上にあってはその様相を異にし、違う表情を見せる「天」であり、「あま」とも、「あめ」とも、やまと言葉で訓じられる二面性を持つものです。
 シナの万物の主宰者は「天」かもしれませんが、日本の神々も「高天原(たかまがはら)」という一種の天界にいる。そして神々の多くに「天(あめの)」という御名が冠せられている。
 『古事記』を紐解けば神話は次の一文で始まります。
「天地初発之時於高天原成神名天之御中主神」
 岩波文庫版『古事記』に倣えば、この一文は「あめつちはじめてひらけしときたかまのはらになれるかみのなはあめのみなかぬしのかみ」と訓じられることになります。
 ちなみに、この一文の直後にはわざわざ注が挿入されていて、「訓高下天云阿麻下此效」すなわち「高下『天』訓じて阿(あ)麻(ま)と云う、下此れに效う」となっています。
 ご覧のように、大和言葉を仮名だけで表記しようとすると長くなって読みづらい。『古事記』が記された当時、まだ仮名は発明されていませんでしたが、『万葉集』がそうであるように、漢字の音を利用して表記することはできました。しかし、これは仮名以上に読みづらい。そこで音訓併用で漢字表記しようとしたのが『古事記』の表記であり、その趣旨は序文にちゃんと記されています。
 このことが、後世、便利な仮名を使用するようになった日本人に、この古典の読解を困難なものにさせてしまいました。そして、これが再びちゃんと読めるようになるには、本居宣長の登場を待たねばならなかったのです。
 先の「天壌無窮」は、『古事記』ではなく、『日本書紀』に出てくる言葉ですが、音読みで「てんじょうむきゅう」と読まれることもあれば、「あめつち(天壌)ときわ(窮)まりな(無)けむ」と訓じられることもあります。
 これらの例はわれわれの日常生活からは何か遠い話のようですが、身近な話をすれば、自己の姓名を表記するに際して、漢字を使用して、そこに音読み訓読みを交え用いていることからも理解が可能です。われわれの文化は漢字の音訓併用を自家薬籠中のものとし、幼い時からの学習によって、その困難な離れ業を困難と感じぬほどのものにしてしまっているのです。
 これは神話が文字化された時よりの日本人の負うべき宿命であったといってよく、ずれがあるからと言って、われわれが大和言葉のみで高度な自己表現、意思伝達を行うことができず、また、ましてや中国に侵略されて、チベットやウィグルのように、漢語を強制されない限り、漢語のみ(しかもそれは簡体字)の意志伝達はありえない以上、この宿命に眼をそむけていては、本当の意味での民族の創造的発展はありえないはずです。
 この日本語という文字言語に刻印された精神の二重性は、最初は神仏習合という形に現れましたが(仏典もまた漢籍を通じて学ばれました)、室町期の戦乱を通じて、神儒習合を軸とする「天道」思想を生んで、ようやく秩序の安定を見ます。この経緯は織田信長・豊臣秀吉・徳川家康に関する論考でみました。
 江戸時代はこの「天道」思想をさらに深めた時代であったといえます。
 明治維新とは、その思想展開の帰結として起こった文明再生の偉業です。「維新」とは天命が新たになるという意味であるし、だからこそ維新回天という言葉がある。維新の指導者は漢学の影響を強く受け、「天」を奉じ、「天命」を信じて回天の偉業に尽力し、「天子」としての天皇、「天神」の子孫としての「現人神」であらせられる天皇を戴いた。
 そもそも「天皇」という大御号自体が、「天」という自然的超越概念との結びつきを表しており、これは道教に由来し、天体運動の中心点である北辰、すなわち北極星を意味しているといいます。
 われわれは、その名からして「天(あま)」との関係性で表される天照大神が登場する、「高天原」を舞台とする神話を土壌に、日月、星辰を含む「天」という存在を、儒教のみならず、老荘、仏教などの漢籍を通じて考えてきたのであり、それに帰依して安心立命の境地を得たのが、日本固有の「天道」の求道者たちでした。人生の深淵を覗き込んだ彼らの多くは、各時代それぞれの言語生活を営む中で、垂直方向を示す言葉にとらわれ、それを問い、それに忠実に生きようとしたのです。
 その精神運動が分りにくいのは、彼自身「天道」の求道者のひとりである荻生徂徠の次の言葉がよく表しているでしょう。

「世は言を載せて以て遷り、言は道を載せて以て遷る、道の明らかならざるは、職として之に由る。」(『学則』)

 世の遷り変わりとともに言葉も遷り変わり、言葉の遷り変わりとともに道も遷り変わる。道というものが明らかでないのは、主としてここに原因がある。
 徂徠はシナの儒学の伝統について語ったまでですが、これは日本における道の探求にも応用できるでしょう。事実、これに則ってわが国の道を探究した人物が本居宣長です。彼は果敢にも、古言という、いわば言葉の海に飛び込んで深海まで潜りました。ところが、この道の探求の先には、意外なものが待ち受けていました。あるところまで、時代を遡った時、わが国古来の道は忽然とその痕跡を消すのです。彼はそこで日の光を見出しました。
 宣長はその逆説を次のように表現しています。
「…皇国の古へは、さる言痛(こちた)き教へも何もなかりしかど、下が下までみだるることなく、天ノ下は穏(オダヒ)に治まりて、天津日嗣いや遠長(トホナガ)に伝はり来坐(キマセ)り、さればかの異国の名にならひていはば、是れぞ上もなき優(スグレ)たる大き道にして、実(マコト)は道あるが故に道てふ言(こと)なく、道てふことなけれど、道ありしなりけり。…」(『直毘霊』)
 事々しく、道を説くようになるのは道が行われていない証拠である。わが国の古は、道あるが故に道という言葉はなかった。
 確かに最も世が乱れた戦国時代の指導者は事あるごとに「天道」という言葉を口に出し、この時代の反省に立った江戸時代は、漢学に学んだ「言痛き教え」を説く学者が活躍した時代です。それに批判精神を持って立ち向かったのが宣長であり、確信に満ちたその主張は逆説的でした。そこにも江戸時代の精神秩序の二重性は確認できます。
 その江戸文化を発展継承した明治国家、すなわち大日本帝国は、事の成り行きから言って、この二重性によって精神秩序を成り立たせることになるはずでしたが、明治六年のいわゆる征韓論破裂から西南戦争までの一連の事件によって、西洋文明の過剰摂取の時代に入り、精神秩序は混乱していくことになります。それが、大正、昭和と遷り行くにしたがって、危機的状況を迎え、再び本来的自己を取り戻そうという強い動きが起きる。その精神運動が当時のインテリを捉えていた全体主義と結びついて生まれたものの一つが、桶谷氏が大きな影響を受けたいわゆる皇国史観なのです。
それは確かに強力な史観、優勢な時代精神でした。しかし、その裂け目を垣間見た原体験を独立した価値を有するものとするなら、そこに何を見出すかが問われなければなりません。
 長谷川氏は、桶谷氏のその試みを継承し、そこにわが国の強固なある伝統、國體思想を見たのです。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック