「和」の伝統と『論語』―近衛文麿と小林秀雄の洞察 【 『皇室と論語』3】

戦前、國體明徴が叫ばれ、國體論議が盛んに行われた背景には、大正六年(一九一七)のロシア革命の衝撃を受けて、日本の知識階級に浸潤した共産主義が脅威をもって受け止められた経緯がありました。
 大正時代、ヨーロッパでは人類史上初の世界大戦が勃発し(第一次世界大戦;大正三~七[1914~18])、未曽有の混乱の中でロシアでは革命が起こり、ドイツやオーストリア・ハンガリーでは帝政が崩壊し、共和制に移行しました。それを牛耳ったのがユダヤ人勢力であることはすでに見たところです。
 この大戦は国家総力戦が戦われるなど、第二次世界大戦への伏線となる重要な大戦でありましたが、日本は局地的に経験するにとどまり、後に大きな課題を残すことになりました。
 日本政府は、大津事件や日露戦争で因縁浅からぬロシア皇帝ニコライ二世が革命で退位させられた上、家族もろとも処刑されたことで、共産主義に対する警戒感を強めましたが、一方で、大正時代といえば、日露戦争の勝利によって一等国への仲間入りを果たした日本社会に、英米流のデモクラシーが普及した時代であって、国内では様々な議論が自由に行われた時代でした。
 英米流デモクラシーの普及は、いいことばかりではなく、ヒトラーが言うところのユダヤ人に代表される国際金融資本家たちが金の力と世論操作によって国家国民を支配する上での迂回路が移入されたという側面があります。
 その国民が謳歌する自由な空気の中で、民主主義の仮面をかぶった共産主義が、ロシア型ボルシェビズムの直接支配を誘引するものとして日本の知識階層に浸潤してきたのです。大正八年(一九一九年)には早くも世界の共産化を目指す革命組織コミンテルンが結成。翌九年にはニコライエフスクにおいて共産パルチザンによる住民虐殺事件(一説には六千名を超えるとも言われる)、日本人居留民及び守備隊あわせて七百名以上が惨殺されるという、いわゆる尼港事件が起きて、日本人に大きな衝撃を与えました。
 大正十一年七月、日本共産党が結成され、十一月にはコミンテルンに加盟して活動を開始しましたが、「天皇制」の廃止を綱領に掲げていたため(二十二年テーゼ)、非合法組織として発足せざるを得ませんでした。翌十二年六月一斉検挙を受け、九月には関東大震災が起きて、社会主義者への弾圧が始まったことで解党決議のやむなきに至りました。しかし、コミンテルンの資金援助と強力な指導(二十七年テーゼ)のもと再建され(大正十五年)、武装化により凶暴化。昭和三年二月の第一回普通選挙においては、天皇制打倒を堂々と掲げて、選挙を戦いました。
 選挙後行われた一斉摘発で、共産主義に共鳴した東京帝国大学以下三十二校百四十八名の学生が検挙され、政府に大きな衝撃を与えたのです(三・一五事件)。
 一方で、国民経済に大打撃を与えた関東大震災からの復興のための国外での起債で大きな役割を果たしたのが、アメリカの非ユダヤ系国際金融資本グループである、モルガン商会でした。第一次世界大戦でドイツ系の商社として連合国への協力に消極的であった、ヤコブ・シフが在籍するクーン・ローブ商会が、ウォール・ストリートにおける影響力を後退させると、モルガン商会は連合国側の資金や物資の調達に協力して勢力を大きく拡張したのです。
 つまり、大正デモクラシーとは、日本へのロシア型ボルシェビズムの浸潤と国際金融資本家たちの影響力拡大をもたらすものでもあったのです。
 昭和三年六月には張作霖爆殺事件が起きて、この事件の処理をめぐって田中義一内閣が倒れ、国内外に混乱が起きました。日本陸軍長州閥出身の田中義一首相は安全保障面の意識が高く、親分の山縣有朋譲りの尊皇精神の当然の帰結として、天皇制打倒を目論む共産主義勢力を危険視した人物です。昭和三年には、国体と私有財産制を守る趣旨で大正十四年に制定された治安維持法を改正し、最高刑として、それまでなかった死刑を加えました。これは三・一五事件の衝撃に基づく改正でした。
 近年になって、張作霖爆殺事件の犯人として、ソ連諜報機関の仕業とする新説が出てきましたが、加藤康男氏の『謎解き「張作霖爆殺事件」』を読むと、真相の解明はまだまだこれからながら、少なくともこれまで言われてきたような関東軍高級参謀・河本大作の単独犯行説はそのままでは成り立たなくなりました。
張作霖爆殺の動機及び傍証は、前掲書で掲げられている息子の張学良、ソ連諜報機関のそれぞれに豊富に存在します。河本が一枚噛んだのは間違いありませんが、彼の場合、むしろ証拠過剰で(工作のプロが仕掛けた暗殺のはずなのに撮影班を用意し、後に犯行の証拠となる物証の多くを自ら用意した形跡すらある)、日本軍の仕業と見せかけ、日本の国際世論を貶めるのが、彼の仕事だったのでは、とさえ思えるほどです。おそらく、彼は当時の知識階層がかぶれていた隠れ共産主義者であり、後に満州国において「五族共和」とのスローガンが掲げられたことからも推察されるように、多数の民族ひしめく満州の共産化こそ満州問題解決の糸口と考えていたのではなかったかと思われます。 
 ソ連もまたこの頃、張作霖との関係が険悪化しており、この邪魔者を消そうと暗殺未遂事件を起こしたことさえあったのです。爆殺事件の二年前のことです。そして、三・一五事件による日本国内の共産主義者の一斉検挙を受けて、張作霖と関係の深い田中義一首相に対する報復的事件として、日本軍高級参謀による不祥事、張作霖爆殺事件は立案されたのではなかったでしょうか。
 あくまで仮説ですが、これがもし正しければ、その謀略の効果は絶大で、この事件による政権内部の混乱によって、時の田中義一内閣は退陣を余儀なくされたのです。
 この不可解な事件を共産主義というキーワードで解くとその全貌が朧げながら浮かんできます。
 張学良はのちの西安事件の主役で、いつから隠れ共産党員であったかが取りざたされる人物。
 河本大作は共産主義者と疑われたことはありませんが、満州の問題にコミットし続け、日本の敗戦後は国民党の顧問となり、国共内戦を戦いました。そして、国民党が敗れると、共産党の捕虜となり、太原収容所に戦犯として収監され、昭和三十年(一九五五)同地で亡くなりました。これだけを見ると共産主義と戦った人物のようですが、国民党に紛れ込み、これを敗戦に導く工作を行った隠れ共産党員は多く、しかもそれは幹部にも多かったのです。
 現に、日本軍特務機関長であった川口忠篤の『日僑秘録』(太陽少年社)によれば、網走刑務所にいる日本共産党幹部徳田球一から延安の岡野進(野坂参三)に密使として派遣された岡田文吉(延安名、沢田淳)という日本共産党員が「延安入りを敢行した際にも、特に軍部に顔の利く、河本大作氏の庇護をうけて、その目的を達した」と述べていた、との記述があります。岡田は捕虜に対する洗脳工作を岡野の下で行い、終戦直前に岡野よりも一足早く延安から帰国の途につきました。彼は北京で足止めをくっているとき、川口忠篤に帰国の便宜を求めましたが、その際、延安入りの時の河本大作の協力を語ったのだといいます(「米戦時情報局が見た中国共産党の日本人洗脳工作」山本武利、『正論』平成19年1月号)。ここに河本の怪しい素性が浮かび上がってきます。
 ともかく張作霖爆殺事件の処理がきっかけとなって日本国内で対立が起き、なかんづく昭和天皇の首相に対する不信感の表明がショックとなって、内閣が倒れたことでスターリンはさぞほくそ笑んだことでしょう。続く浜口雄幸内閣は外相に幣原喜一郎、蔵相に井上準之助を起用した国際協調路線の内閣で、モルガン商会のトーマス・ラモントとの信頼関係に基づいて金本位制への復帰(金解禁)に踏み切りますが、その担保となる信用供与(クレジット)にはアメリカのウォールストリート、英国のシティが分担協力していますが、ここの一部にはアメリカのクーン・ローブ商会の他に英国のロスチャイルドと言ったユダヤ系資本が入っています。この金解禁は世界大恐慌の勃発という最悪のタイミングでの実施でしたから、日本を深刻な経済危機に陥れ、浜口首相も井上蔵相も右翼の凶弾に倒れる事になります。
 以上のように、国際協調外交の背後には必ず事業のための借金とその返済という国際金融資本との関係が密接に絡んでいるのです。まさにヒトラーの言った構図です。
 井上の後を継いだ高橋是清蔵相は就任後の財政演説の中で井上の政策を次のように批判しています。

 「井上君の説は、金本位というものが、国民の、あるいは国家の存在にどうしても必要であるとの御意見のように承る。けれども、金本位を維持することは、その国の力によって維持されなければならない。外国から金を借りたり、一時の金融のうつり変わりの状態にのみ眼をつけて、これでゆくものと思ったら、これは大きな間違いである。」

 これは幣原の英米協調路線にも当てはまることですが、戦後日本の国際協調外交にも当てはまることでしょう。

 さて、張作霖爆殺事件からも分かるように、昭和初期の不可解な事件の数々には国際共産主義運動の影がちらついて、彼らのスパイ活動に関する研究が進むにつれ、ようやく明らかにされる真実があるであろうと筆者は期待しています。
 実は日本と戦ったアメリカの方では、ソ連スパイの暗号解読文書であるヴェノナ文書が公開されて以来、当時のアメリカ大統領ルーズベルトが共産シンパで、政権のスタッフに多くのソ連スパイが紛れ込んで、対日政策を大きく左右していたことが明らかになっています。またGHQ、特に民政局に多くのソ連スパイあるいは共産主義者が紛れ込んで占領政策に影響力を及ぼし、日本は終戦後の混乱の中で、まさに敗戦革命の深刻な危機に直面したのです。
 近現代史、インテリジェンスの研究家江崎道朗氏の近著『コミンテルンの謀略と日本の敗戦』及びその続編ともいえる『日本占領と「敗戦革命」の危機』はコミンテルン・スパイの暗躍を中心に見た大東亜戦争および敗戦に至る通史で、反日自虐史観に慣らされた日本国民にとって旧連合国やマスコミに仕掛けられた洗脳を解く上で必読の書ですが、その中で、戦前戦中にリアルタイムで彼らの暗躍に気づき、これと戦った保守の一派がいた事が特筆されています。
 江崎氏は彼らを仮に「保守自由主義者」と名づけていますが、氏の定義によると、それは聖徳太子の十七条憲法に始まり、明治天皇の五箇条の御誓文に至るまでの伝統を重んじる議会制民主主義者たち、ということになります。
 明治開国以来の近代化の過程で、インテリの西欧化が進み、大正デモクラシーで共産主義の浸潤を経た当時のインテリ層におけるマイノリティーとなっていた彼らは、共産主義という左翼全体主義のみならず、右翼全体主義とも対峙せざるを得ませんでした。
 日本が直面していた國難の本質は、戦局が悪化の一途をたどり敗戦必至となった昭和二十年二月に、開戦前の首相であった近衛文麿が昭和天皇に奏上した、いわゆる近衛上奏文がそれをよく表しています。
 これはある意味、日本側におけるヒトラーの遺書に匹敵する内容と言えるかもしれませんが、彼はまだ、その背後にある存在にまで洞察が及んでいません。彼は仮装パーティーでヒトラーに扮したことがありましたが、藤原氏の名流である近衛家の貴公子として人気はありましたが、ヒトラーのような強靭な闘争心を持ち合わせた人物ではありませんでした。しかし、それでも日本が直面している国難の一端はつかんでいたのです。
 彼は昭和二十年二月二十四日、昭和天皇に奏上しています。(以下必要なところを抜粋)
 
「…国体護持の立場より最も憂うべきは、最悪なる事態(敗戦)よりも、これに伴うて起こることあるべき共産革命なり。
 つらつら思うに我が国内外の情勢は今や共産革命に向かって急速に進行しつつありと存ず。すなわち国外においてはソ連の異常なる進出これなり。我が国民はソ連の意図を的確に把握しおらず、かの一九三五年人民戦線戦術すなわち二段革命戦術採用以来、ことに最近コミンテルン解散以来、赤化の危険を軽視する傾向顕著なるが、これは皮相かつ安易なる視方なり。ソ連は究極において世界赤化を捨てざることは、最近欧州諸国に対する露骨なる策動により明瞭となりつつある次第なり。ソ連は欧州においてその周辺諸国にはソビエット的政権を、爾余の諸国には少なくとも親ソ容共政権を樹立せんとして着々その工作を進め、現に大部分成功を見つつある現状なり。(筆者注…以下、欧州情勢について詳しく述べていますが、省略します)…ソ連はかくのごとく欧州諸国に対し、表面は内政不干渉の立場を取るも、事実においては極度の内政干渉をなし、国内政治を親ソ的方向に引きずらんとしつつあり。ソ連のこの意図は東亜に対してもまた同様にして、現に延安〔中国共産党根拠地〕にはモスコー(モスクワ)より来たれる岡野〔野坂参三〕を中心に日本解放連盟組織せられ、朝鮮独立同盟・朝鮮義勇軍・台湾先□(一字欠)隊等と連携し日本に呼びかけおれり。かくのごとき形勢より推して考うるに、ソ連はやがて日本の内政にも干渉し来たれる危険十分ありと思わる(すなわち共産党公認、共産主義者入閣―ドゴール政府、バドリオ政府に要求せるごとく―、治安維持法および防共協定の廃止等)。
 翻って国内を見るに共産革命達成のあらゆる条件、日々に具備せられ行く観あり。すなわち生活の窮乏、労働者発言権の増大、英米に対する敵愾心昂揚の反面たる親ソ気分、軍部内一味の革新運動、これに便乗する、いわゆる新官僚の運動、及び、これを背後より操る左翼分子の暗躍等なり。
 少壮軍人の多数は我が国体と共産主義は両立するものなりと信じおるもののごとく、軍部内革新論の基調もまたここにあり。皇族方の中心にもこの主張に耳を傾けらるる方ありと仄聞す。
 職業軍人の大部分は中以下の家庭出身者にして、その多くは共産主義的主張を受け入れやすき境遇にあり。ただ彼らは軍隊教育において国体観だけは徹底的に叩き込まれおるをもって、共産分子は国体と共産主義の両立論をもって彼らを引きずらんとしつつあるものと思わる。
 そもそも満州事変・シナ事変を起こし、これを拡大し、ついに大東亜戦争にまで導き来たれるは、これら軍部内一味の意識的計画なりしこと今や明瞭なりと思わる。
 満州事変当時、彼らが事変の目的は国内革新にありと公言せるは有名なる事実なり。
 支那事変当時「事変は長引くがよろし。事変解決せば国内革新はできなくなる」と公言せしは、この一味の中心人物なりき。
 これら軍部内一味の者の革新論の狙いは必ずしも共産革命にあらずとするも、これを取り巻く一部新官僚及び民間有志(これを右翼と言うも可、左翼と言うも可、いわゆる右翼は国体の衣を着けたる共産主義なり)は意識的に共産革命にまで引きずらんとする意図を包蔵しおり、無智単純なる軍人これに踊らされたりと見て大過なしと存ず。この事は過去十年間、軍部・官僚・右翼・左翼の多方面にわたり交友を有せし不肖〔近衛自身のこと〕が最近静かに反省して到達したる結論にして、この結論、鏡にかけて過去十年の動きを照らし見るとき、そこに思い当たる節々すこぶる多きを感ずる次第なり。…」(『最後の御前会議/戦後欧米見聞録』中公文庫)

 これは現在判明している事実から、また敗戦直後、GHQ支配下の日本で現実化していることから考えても、首相時代の自己の深切な反省に立った、優れた洞察であったというべきでしょう。江崎氏の二著作は広範な史料を駆使して、それを裏付けることに成功しています。
 そして、それはソ連を中共、すなわち中国共産党に置き換えれば、まさに現在の日本が直面している国難の本質でありますが、ある意味、アメリカによる弱体化工作を経て変質を遂げた現在の日本の現状の方が深刻でしょう。近衛はヒトラーと違い、辛酸をなめた経験はありませんでしたから、気づくのが遅すぎました。いいように利用されてしまった。安倍首相は気づいているはずですが、レフトにまでウィングを広げると公言し、逆に取り込まれてしまう危険を冒して、現に自民党内のグローバリストたち、その影響下にある人たちに引きずられてしまっています。今や自民党は保守ではないのです。

 現在の保守勢力の中においても、自己を真正の保守とし、その自己と意見を異にする人物を似非保守とする保守批判は盛んですが、元来保守とは戦後の米ソ冷戦下で生まれた反共主義者の集まり。その思想的立場は様々で、寄り合い所帯に過ぎず、結束力に欠けます。つまり反共の砦としての保守、共産主義から何かを保存し、守るからこその保守で、その保ち守るべきものの違いによって、思想的立場は異なり、言論の自由を許さない共産主義に対し、なかなか結束して立ち向かうことが難しいようです。
 たとえば筆者にとって平成の御代における保守知識人の重鎮と言えば、西尾幹二・渡部昇一・中西輝政・小堀桂一郎・西部邁などの名がすぐに思い浮かびますが、それぞれ思想的立場は異なります。西尾氏はドイツ文学、なかんづくニーチェ研究家、故渡部氏は英文学者でカソリック信者、中西氏は英国流保守思想を学んだ文明史家でインテリジェンスの研究家、小堀氏はドイツ文学者にして、比較文化論を通じて日本の伝統に回帰した知識人です。もちろん彼ら重鎮はそこから、その経験を土台にして日本というものに回帰したわけですが、故西部氏だけは少し違っていたように思われます。
 西部邁氏は大衆社会に向かって保守思想とは何か、ということを問い続けましたが、これは西欧における保守主義【コンサバティブ】に立った批判で、その批判の矛先はサヨク・リベラルのみならず保守と称する人々にも向けられていました。
 しかし、彼らの言論は、あくまでも筆者の印象ですが、小堀氏を除いては、日本の伝統に深く根ざし、それを思索や言動の源泉としている感じがしないのです。
 これについてはその一人である西尾氏が雑誌『WiLL』2012年2月号展開した保守批判「日本には『保守』は存在しない」が、その内実をよく物語っていると思えるので引用します。

「わが国に「保守」は存在するのだろうか。「疑似保守」は存在したが、それは永い間「親米反共」の別名であった。米ソ冷戦時代のいわゆる五五年体制において、自由主義体制を守ろうとする思想の立場である。世は反体制一色で、左翼でなければ思想家でない時代、一九六〇年代から七〇年代を思い起こしてほしい。日本を共産主義陣営の一国に本気でしようとしているのかそうでないかもよく分からないような、無責任で危ない論調の『世界』『中央公論』に対し、竹山道雄、福田恆存、林健太郎、田中美知太郎氏等々が拠点としたのが『自由』だった。六〇年代は『自由』が保守の中核と思われていたが、正しくは「親米反共」の中核であって、必ずしも「保守」という言葉では呼べない。  
 
 六〇年代の終わりに、新左翼の出現と学生の反乱に財界と知識人の一部が危機感を深めて日本文化会議が起ち上げられ、一九六九年五月に『諸君』が、七三年十一月に『正論』が創刊された。ここに拠った新しく増幅された勢力も、「反米容共」に対抗するために力を結集したのであって、私に言わせれば言葉の正しい意味での「保守」ではない。日本に西洋でいうところのconservativeの概念は成立したことがない。
 明治以来の近代化の流れのなかに、尊王攘夷に対する文明開化、民族的守旧感情に対する西洋的個人主義・自由主義の対立はあったが、対立し合うどちらも「革新」であった。革新官僚とか革新皇道派とか、前向きのいいことをするのは革新勢力であって、保守が積極概念で呼ばれたことはない。歴史の流れのなかに革新はあり、それに対する反動はあったが、保守はなかった。積極的な運動概念としての保守はなかった。背後を支える市民階級が存在しなかったからである。  
 政治概念として保守が唱えられだしたのは戦後であり、政治思想の書物に最初に用いられたのは、たしか一九五六年のはずだ。五五年の保守合同を受けてのことである。左右の社会党が統一したのにほぼ歩調を合わせて、自由党と民主党がひとつになり、いまの自民党ができて、世間では自民党と社会党とを保守と革新の対立項で呼ぶようになった。けれども、それでも「保守」が成立したとはいえない。
 いったい、自民党は保守だろうか。国際共産主義に対する防波堤ではあっても、何かというと「改革!」を叫ぶ自民党は日本の何を守ろうとしてきただろうか。ずっと改革路線を歩み、経済政策でも政治外交方針でもアメリカの市場競争原理やアメリカ型民主主義に合わせること以外のことをしてこなかった。自民党を保守と呼ぶことはできるだろうか。
 自民党をはじめ、日本の既成政治勢力は自らを保守と呼ぶことに後ろめたさを持っていた。もしそうでなければ、自らをなぜ「保守党」とためらわず名づけることができなかったのだろうか。 「保守」は人気のない、悪い言葉だった。永いこと大衆の価値概念ではなく、選挙に使えなかった。福田恆存氏がときおり自分のことを、「私は保守反動ですから……」とわざと口にしたのは氏一流のアイロニーであって、「保守」がネガティヴな意味合いを持っていたからこそ、悪者ぶってみせる言葉の遊びが可能になったのであった。」

 西尾氏はさらに「思想的根拠にエドマンド・バークなどを代表とする外国の思想家を求め、日本の歴史のなかに必然性を発見できていない」という西欧流保守主義者に対する本質的批判を行っています。西尾氏は西部邁氏をその代表的論客と見なしていました。
 要するに、「保守」とは冷戦下の日本で生まれた消極概念を表す言葉であり、「自由」はそう名のることの後ろめたさやためらいから生れた名だということになります。江崎氏はこれを日本のある伝統に則って思考し、行動する人々に遡って「保守自由主義者」と名づけたことになります。しかし、名は体を表すという点で、それは適当な名と言えるでしょうか。
 ここで、プロローグで述べた「名」の問題になってきます。
 西欧における正統な保守主義の立場に立ち続けた西部氏は、日本における保守主義の淵源を遡って、福沢諭吉や中江兆民まで辿り着くのがやっとでした。江崎氏はその保守すべき伝統に拠って「保守自由主義」というものを定義しましたが、これも現代という、いわば歴史の流れの下流からさかのぼった見方で、結局はヒトラーが分類したところの、ロシア型ボルシェビズムによる直接支配形式と対置される、西欧型民主主義という迂回路を通った間接支配形式によるユダヤ思想に乗っかった考えということになるのではないでしょうか。彼らが掲げるグローバリズムを定義するならば、国境を越えた人・物・金の自由な移動が可能な世界を作るということで、フランス革命の標語にもあるように、彼らの言葉からの借用です。もちろん日本にも「自由」に当たる概念はありましたが、それは主義主張と言えるようなものではありません。本来からある普遍的な思想と押しつけを伴う普遍主義は違うのです。だから戦後の日本は国家としてアメリカに、延いてはディアスポラ系ユダヤ人に都合のいいように解体され、今や移民国家になろうとしている。
 われわれは、われわれの在り方を貫くに際して、歴史喪失の民として、彼らからの借用ではなく、やはり歴史・伝統に戻づく「名」を取り戻す必要があるのではないでしょうか。

 伝統の流れに沿ってこの思想立場を名づけるなら「中庸」あるいは「中道」という言葉こそ、つまり、その「名」こそ、その体を表している、と言えるでしょう。「中庸」「中道」とは本来、儒教において重んぜられる徳ですが、聖徳太子の十七条憲法以来、五箇条の御誓文に至る伝統を支え、骨太く育んできたのが、実はこの思想だったのです。現在でもリベラルの知識人が自身を「中道」という立場に置きたがるのはその形骸化した名残だと思われますが、それは概ね英語の「ニュートラル」の意味合いにおいて用いられているのであり、大抵が、自己保身に発した態度であるように見受けられます。
 本来「中庸」「中道」はダイナミックにしてラジカルな思想であり、中間・中立・中性を意味するニュートラルとは全く正反対の意味合いとなります。卑近な例で言えば、車のギアがニュートラルに入っていれば、ギアは噛み合っていない状態で、動力は駆動部である車輪に伝達されない状態です。つまり、エンジンはともかく、車全体としてはダイナミズムが全く失われている状態です。三島由紀夫が将来の日本の姿を憂いてニュートラルと表現して絶望していたことを思い出します。
 これに対して、言わば社会がダイナミックに激しく運動しながら、それでいながら重心はしっかりとしていて揺らぐことはなく、それぞれが節度を守って調和を保っている状態が「中庸」「中道」なのです。
 日本社会が大きな変動を伴った時代の最たるものが戦国時代ですが、それを収束させるにあたって、徳川家康が政治に応用した思想が『中庸』であり、その結実が諸法度であったことは、拙著『十人の侍(上)』で詳述した通りです。儒教を中心とする学問が盛んになった江戸社会で重んぜられたのが『中庸』の徳でした。そして、次なる時代の福音である「五箇条の御誓文」が『中庸』の思想に由来していることは、その原案の起草者であった三岡八郎(由利公正)が回想で述べているところです。明治文明は江戸文明の発展継承ですが、ここを見ても終始一貫しているのです。そして終戦後、最初に迎えた元旦の詔書で、昭和天皇は新日本建設の指針として、この五箇条の御誓文を国民に示されたのでした。
しかし、「中道」にせよ、「中庸」にせよ、漢籍の言葉であり、言わばシナ語という外来の言葉です。そこには当然、国学者本居宣長が排斥したところの「からごころ」が含まれます。日本の土壌となる神道的世界観と習合したこれらの思想を表すには適当とは言えません。ならば、彼らがしきりに言った「天道」という言葉が最もふさわしいのではないでしょうか。これには神道的世界観に、仏教や儒教、その他道教などを習合させることで、わが国の豊潤な思想を表すことが出来、古来庶民はこれを日神、すなわち天照大神を表す「御天道様(おてんとうさま)」と呼びならわしてきたのです。
 この伝統に連なり、行動し、支えた人物を見ていくと、「保守」「自由」という看板で掘り起こすよりも、はるかに多くの、この国に存在した偉大な政治家、思想家たちに出会えます。
 ところが、いわゆる保守は反共で反ソ連・反中国ですから、シナに由来する文化を軽視、あるいは蔑視するあまり、そこが盲点になっているように見受けられるのです。
 筆者がそれを特に痛感したのが、西郷隆盛に対する保守知識人の理解の浅さという問題でした。
 西郷隆盛という現代人にとって謎めいた存在の謎を解く鍵は、その武士道の土台となった学問である朱子学、それが重んずるところの四書、すなわち『論語』『孟子』『大学』『中庸』の思想にあります。
 西郷隆盛に至る武家政治の伝統を遡ってみると、その萌芽は、平将門・源頼朝・北条泰時などにすでに見えますが、楠木正成などは明らかに、朱子学、すなわちその重んずるところの四書を自ら学んで、朝廷の中興事業に活かしました。室町時代を代表する怪物政治家足利義満もまた四書に興味を示していました。秩序の崩壊した戦国時代を天下一統に向け動かした織田信長は、やはり一時期儒教を取り入れ、これを乗り越えた形跡がありますし、家康はすでに触れたように、天下の秩序創出のために、『中庸』の思想を取り入れています。これらを考証したのが拙著『十人の侍(上)』です。中巻では家康によって盛んになった学問の流れを鳥瞰していますが、それはやはり朱子学、すなわち四書を中心軸にして展開し、國體論に結実する水戸学や國学の流れを生み出すのです。それが明治維新の土台となり、五箇条の御誓文に結実する。そこまでが中巻の内容です。
 西尾幹二氏はこれら江戸時代の学問を古典復興(ルネサンス)と呼びましたが、それはあくまでも儒教を中心軸にして展開したのです。ところが保守の認識では、保守が目指すべき役割をわが国で果たしてき、また大きな成果を挙げてきた、その歴史の真実がすっぽりと抜け落ちてしまっているか、重視されません。
 つまり、中国の儒教なんて嘘のかたまりさ、なーんて言っていては、日本の伝統どころか、明治維新でさえ理解できないのです。西尾氏は日本の歴史の中に必然性を発見できていないと言っていますが、発見するだけではだめで、必然と受け止め、言わば宿命としてこれに生きる覚悟がなければならない。そうでなければ、運命に立ち向かう悲劇的人格も現れようがなく、ということはつまり、平成から新しい御代に向けて、維新回天も期待できないことになってしまいます。

 この本質について、小林秀雄が興味深い文章を書いているので引用しておきます。文章の題は「文学者の提携について」で、戦争真っ只中の昭和十八年十月に『文藝』誌上に発表されたエッセイです。

「大東亜の文化の新しい建設のために、アジアの各文学者が共通の理想の下に、提携し協力するといふことは、空前の盛事だと僕は思ひます。
 しかし、この提携といふことを考へますと、僕は非常にむつかしい仕事だと思ってをります。近い例を挙げますと、共通の理想を持つといふことと、提携の実を挙げるといふこと即ち文学者間に本当の人の和といふものを実現することは、全く違ったことである。嘗てのわが国の文学者達が社会主義といふ共通の理想の下に提携し運動したことがあったが、人の和といふやうなものは全然現れなかった。現れたものは党派の対立だとか、個人間の反目だとか、さういふくだらない醜態だったに過ぎない。しかも、この共通の理想を持ったといふ安心が片方にあって、その上で争ひが起るのだから、争いが非常に複雑な悪質なものになった。これは申すまでもなくイデオロギイとか組織とか、さういふものに眼が眩み、一方、人の和といふ深刻な事実を曖昧な陳腐な概念として軽蔑した。その罰です。この最近の苦がい経験について、われわれ文学者は充分反省してゐるかどうか、僕は非常に疑問に思ひます。
 一体、現代の文学といふものは非常に観念的な性格を持ってゐる。これは近代文学の最大特徴の一つだといって過言でないと思ふ。例えば、これも非常に卑近な例ですが、一時は唯物思想といふものがわが国を風靡したことがありましたが、観念論を攻撃するさういふ論者等は、自分の唯物論が実は極端な観念論であることに一向気づかなかった。かういう観念性といふものの深いまどはし(惑わし)から現代の文学者達はもうすっかり開放されてゐるとは、どうしても信ずることが出来ない。現代のジャアナリズムを御覧なさい。歴然たる証拠があるではないか。
 …(中略)…
伝統に還れという声が高い。しかしさういふ高い声の裡に、伝統はまるで生きてゐない。どうしてさういふことになったかといふと、伝統は観念ぢゃない、伝統は寧ろ物なのであるといふ簡単な事実を皆忘れてゐるところから、さういふことになると僕は思ふ。
 伝統は物だ、と僕は申し上げたが、伝統は物質だと言ふのではない。物といふ字は元来、存在といふ意味の字です。伝統は物であるとは、伝統とは存在する形だといふ意味であります。例えば、文学伝統といふものはどこにあるか。文学伝統とはわれわれの現に所有する古典です。われわれの先輩が遺した文学的遺産といふ明瞭な形である。これを外にしては文学伝統といふものはどこにもあるものではありません。従ってこの文学伝統を真に理解するといふこと、つまりわれわれがこの文学伝統を継承するといふこと、それは、かういふ明瞭な形を古人が刻苦精励して作り出した、その或る深奥なる実際の手腕を、われわれも刻苦精励して体得するより外に道はないのであります。
…(中略)…
 『君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず』、とは孔子の有名な言葉ですが、若し孔子の生涯に想ひを致すならば、いかにこれが彼の実際経験から発した肺腑の言であるかを知るでありませう。われわれの提携運動の前途には小人同じて和せざる危険があるかないか、これはわれわれの努力次第です。かういふ大提携運動には、勿論政治家の協力が必要だ。政治的手段、組織が必要だ。しかし、文学者間の真の和は、つまるところ、作品を創るという実際の仕事の容易に人の知り難い喜び、或は苦しみを互に分ち合ふといふところに現れざるを得ないのであります。そういふことを考へますと、提携といふことは戦ひと同様に困難な仕事だと思ひます。」

 小林秀雄はここで、聖徳太子についても、「十七条憲法」についても、また「和」の伝統についても語っていませんが、聖徳太子と同じ問題意識に立っていたことは明らかです。
 文学提携運動に限らず、当時の日本社会に対する問題意識を語った、といっていいように思われます。「和」を基調とする日本人の提携運動が、小人同じて和せず、の類に陥りがちであることを、おそらくは、未曾有の国難に際して、国策遂行に協力する中で、肌身を以て感じていたのでしょう。
 孔子の言葉を借りるなら、近代日本人の「和」の文化とは詮ずるところ、「同」であり、これを救うには、君子の努力を要する。それは戦時中、唯物思想、国家社会主義思想に捕らわれて硬直した、軍部を含む、官僚機構に楯突く勇気を要するものであり、確かに、戦いと同様、いや日本人にとってそれ以上に困難な仕事であったことは間違いないところでしょう。
 筆者が大衆の世論による「同」ではなく、真の「和」を以て貴しとなす所以です。
 こういった大提携運動が成果を出すには確かに政治家の協力が必須ですが、それは君子による政治が必要ということです。大東亜会議にせよ、大東亜共栄圏構想にせよ、その立派な理想にもかかわらず、充分な成果を果し得ませんでしたが、それは「君子」による「和」が、「小人」が作り出す「同」の大勢を乗り切れなかったということでしょう。
 政治が政治手段、組織を備えると、どうしてもそこには小人が入り込んでくるのですが、小林は敏感にそのことを見抜いていました。 
 真の「和」を冀い、「同」ずることの出来なかった小林が、文章を書くより、骨董いじりに没頭して、『論語』に出てくる隠賢者風にならざるを得なかったのも、今にして想えば、文学者としての必然だったように思えるのです。彼はこの時代に『古事記』を読みたいと思い、どうせならということで本居宣長の『古事記伝』を読んでいます。そして戦後、ソ連すなわちロシア型ボルシェビズムの扇動と資金援助があった安保闘争の時代に、江戸時代における儒教の伝統を顧み(『考えるヒント2』)、十一年の歳月をかけて大著『本居宣長』の執筆に取り組むことになるのです。
 「八紘一宇」というアジアの提携という理想を掲げた運動はたとえ構想の実現は見ることが出来なかったとしても、西洋諸国の植民地からアジア諸国の独立への道筋を作ったという、一部の成果を挙げたところを見ると(それでも史上まれなほどの巨大な成果ですが)、日本には大勢に飲み込まれたものの、無数の君子がいた、ということでもあります。
 敗戦直後の座談会で彼が述べた「僕は無智だから反省なぞしない、悧巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」との放言が一部、人口に膾炙しているところを見ると、敗戦の大勢に同ずる小利口者への小林の皮肉が、戦後日本人の腐敗を一部止めた面もあったわけで、彼の戦後の言論活動が、「和」して「同」ぜぬ「君子」のそれであったことがわかるのです。
 小林が戦時中に危惧した「小人、同じて和せず」の大勢は現在の日本社会においても変わりません。いや、むしろ病膏肓に入るの感があります。そして、それは日本を襲ったロシア型ボルシェビズムによる直接支配と、英米式民主主義による間接支配を策動した、それらの背後にいるグローバリストたちの望む状態でそこに彼らは付け込んで日本解体を推し進めているのです。
 伝統とは物であり、存在する形です。それは芸術作品や古典という存在する形となって、時代を超えて、現在を生きる我々の元に届けられてくる。歴史もまた同じであって、国民共有の過去の記念碑としての歴史的事件は、史料という物によって現在まで運ばれてくるのです。
 歴史とはすなわちこの物に対する解釈ですから、解釈の仕方によってその現れ方は変わってくるのであって、逆にわれわれは歴史から臨む姿勢や精神的態度が問われることになるのです。
 古来歴史が鑑と言われてきた所以はそこにあります。
 言葉という物に載って伝えられてきた精神、それらを生き返らせるのはわれわれの努力です。
 孔子はこの事を次のように表現しています。

 「人能く道を弘む。道、人を弘むるに非ず。」
 
 尊王の総本山、國體学を創始した水戸の藩校『弘道館』の名の由来となった『論語』の言葉です。われわれの足元まで続いてきた道は、これを自ら刻苦精励して歩いて、初めて未来に向けて切り拓かれていくのです。それ以外に、民族の真の創造的発展はありえません。
 「十七条憲法」も、「五箇条の御誓文」も、その価値規範の背骨となった『論語』も、先人に読み継がれ、模範とされてきた、われわれが現に保有せる古典なのです。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 1

なるほど(納得、参考になった、ヘー)

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック