百五十年経ってますます明治維新が理解できなくなった日本人

 もう師走。
 今年もあと少しですが、本年は明治維新百五十周年ということもあって、NHK大河ドラマが『西郷どん』であったり、明治維新を見直すと称して、否定する内容、今風に言えば「ディスる」ための本が多く出版され話題になりましたが、内容のモチーフを表しているはずの題名や帯の宣伝文句を見るだけで、皮相な内容が想像されるものばかりで、全く読む気がしませんでした。

 読んでみたいと思ったのは、まだ読んでいませんが、松浦光修氏の『明治維新の大業』ぐらいです。この著の副題は、「大東亜四百年戦争のなかで」となっていて、世界史を鳥瞰する内容であることが想像され、読む価値があるのではないかと期待が膨らむのです。

 ところで、去る十一月三日は「文化の日」でした。しかし、祝日の意味を考えた時、戦前の呼び方である「明治節」という方が何を祝うかはっきりしていて、より「文化」的です。「明治節」は明治時代には「天長節」と呼ばれていて、明治天皇の御生誕日を表していました。

 この日に前後して、日本文化チャンネル桜で行われた討論番組で明治維新が扱われていて、会津びいき薩長嫌いの星亮一氏などが出ていましたが(原田伊織氏は体調不良につき欠席)、他にも保守の論客数名が出ていました(明治維新に詳しい松浦氏は都合がつかず欠席)。

 保守の論客でまともな事を言っていたのは、重鎮である小堀桂一郎氏で、大きな連関の中で論じなければならないという事と、維新の内発性ということを指摘していて、流石だと感じ入りました。また元「正論」編集長の上島嘉郎氏も、われわれの父祖の歴史として考えなければならない、と非常に常識的なことを述べていて、共感しました。

 他の論客については、上記の三つの視点が不徹底で、見ようによってはそうかもしれないが…程度の見識で、薩長の王政復古討幕運動について理解を拒絶し、彼らに対する恨みつらみで貫かれた星氏などは、何か繰り言を続ける老婆のように見えました。

 確かに愚直であった会津人の直面した悲劇は同情に値します。
 明治維新の礼賛者である徳富蘇峰は『近世日本國民史』第七十一巻「奥羽和戦篇」の序文で、東北の鎮撫に向かった九條総督とその幕下の仕事について、「唯力を以って感服すべき事を知って、心を以って東北人士を服する所以を知らなかった」と批判しています。
 蘇峰は奥羽戦争を総括して次のように評しています。

「予は返す返すも遺憾とする。もし大山(綱良)や世良(修造)の代りに西郷隆盛をして、九條総督の参謀たらしめ、仙台・米沢・久保田・南部・奥羽諸大藩の執政者と膝を交えて語らしめたならば、或いは一兵に衂(ちぬ)らず、檄を伝えて千里を定むることが出来たかも知れぬ。不幸にして彼は故山に帰り、再び出でて越後口の兵を見、庄内に乗込んだ時には、一切の事が既に落着した後であった。ただ庄内はこれが為に永く久しく西郷に心服し、今尚庄内人士は西郷に対しては、特別の敬意を払いつつある。これ所謂る力を以って服せず、心を以って服したからである。」

 筆者はこのコントラストに注目し、官軍と言っても一枚岩ではなかったことを強調しておきたいと思います。
 明治維新否定論者の多くは、明治維新を単なる政権奪還闘争と見、そこにさも正義はなかったと言わんばかりに、謎多い事件を薩長の指導者の陰謀、暗殺などと主張しますが、史料的根拠のないこじつけ、少し厳しい言い方をすれば「下種の勘繰り」ともいえる内容であることが実に多いのです。

 討論で出ただけでも、坂本龍馬暗殺の黒幕、あまり有名ではなく筆者も知りませんでしたが赤松小三郎の暗殺、赤報隊事件の相楽総三や伊牟田尚平の粛清が何の史料的根拠も、合理的考証もなく、西郷南洲翁に結びつけられていました。しかし、これらは南洲翁について研究した筆者に言わせれば、一を聞いて九を誤るたぐいの「下種の勘繰り」という事になります。彼らは自分の専門対象について一として語ることはできても、他については謙虚に語るべきで、一を聞いて十を知る天才ならともかく、本来なら一を聞いて一を知るぐらいの知的謙虚さが必要ではないでしょうか。本来なら専門的な学者とはそういった謹厳さを資質として具えているべきではないかと思われます。
 その知的謙虚さもなく、その小さな見識を拡大して残りの大について語るから、明治維新という文明史的事件を大きく見誤るのです。

 明治維新は対立軸が沢山あって、簡単に理解できる事件ではありません。
 朝廷には朝廷の、幕府には幕府の、薩摩には薩摩の、長州には長州の、会津には会津の、それぞれ立場や正義があって、しかもそのそれぞれが一枚岩ではありませんでした。それを単純に語ることが出来る人の単純脳がうらやましく思われる程ですが、それでは何も理解できないので、すでに紹介した小堀氏や上島氏のような視点、特に内発性を重視した視点は重要です。

 筆者は筆者なりに、その視点に立って『十人の侍』という本を上梓いたしました。 日本の歴史を、文明史的視点に立って、深く掘り下げて書きましたが、その着想は、西郷南洲翁を明治維新理解の基軸に据えることで得たものです。
 筆者は十年以上前、西郷南洲翁の事跡について研究し、『(新)西郷南洲伝』上下巻という史伝にまとめましたが、十年の構想を経てまとめた今回の著作は、その南洲翁という人物を生んだわが国の伝統を深く掘り下げ、その流れを追った上で、明治維新を改めて叙述したものです。
 これを読めば明治維新の内発性は大いに理解されるはずです。
 ただし、それは薩摩藩を中心に据えた明治維新であって、それ以外の見方が可能なのも十分弁えております。

 そもそも時勢の煮詰まった慶応三年の時点で、王政復古討幕運動の政治的中心は、朝敵となり、幕府との戦争で領内に逼塞していた長州ではなく、薩摩藩でした。
 つまり、明治維新は最終的に薩摩主、長州従という形で、対立を孕みながらも、協調的に進められたのです。この関係は王政復古の本番ともいえる廃藩置県、そしてその後の開化政策の時期まで基本的に続き、その主従関係が逆転するのは征韓論破裂から西南戦争に至る政変で、西郷を中心とする薩摩の主となる勢力が没落したからです。

 明治当時、維新三傑といえば西郷・大久保・木戸を言いましたから、彼らの関係を詳細に見ていくことが維新運動を理解する上で不可欠ですが、西郷・大久保は言うまでもなく薩摩藩の指導者です。両者が協力関係にある時、事業は挙がり、両者が対立することで政府は瓦解の危機に陥りました。
 しかし、幕末期の事業に関しては、このコンビの仕事としてでなく、実はトリオとしての理解が不可欠なのです。

 トリオといっても三傑の三人ではありません。
 西郷・大久保に加えて、彼らの主君であった島津久光の理解が、幕末の薩摩藩の政治運動を知る上で欠かせないのです。

 実は久光は維新史で最も誤解されてきた人物の一人と言えるかもしれません。彼は、英主斉彬の遺志を継いで当初から開港論者で、朝廷主・幕府従の公武合体論者でした。
 なぜ薩摩藩の運動が他藩から伺い知れず、後世から理解しにくいものになったかと言えば、一つには、この久光に対する誤解があったものと思われます。

 薩摩藩は幕末、長州に比べ、よく統制されていた印象がありますが、決して一枚岩ではありませんでした。それを何とか王政復古討幕運動に持って行けたのは、西郷・大久保の指導力もさることながら、この久光の賢明な判断と指導力があったからです。
 これは明治維新を知る上での鍵になると思われるので、その根拠となる史料「久光親話記」を紹介しておきたいと思います。


 西郷南洲顕彰会機関誌『敬天愛人』第二十二号、芳即正氏論文末尾に紹介されている史料で、明治十八年頃、薩長不和の遠因について忠義とその弟忠斉が父久光に問い質した際の談話を記録したものだとのことです。
 その中で、久光は長州征伐時の事情について情理を尽して語っているわけですが、とても興味深いことを語っています。

「…初めより内を治めて後に外国の処分取り掛かりになり度との見込みにて、慶喜殿へは小松(帯刀)より談合に及びし事なり。外国の御処置も初め上京の時分より建言したる通り、無謀の攘夷は下策なるは勿論、時勢止むを得ざる訳なれば、御国威のたつようにいたして開港するとの此方治論なれど、当時天下皆攘夷の論ばかりで、開港論と云えば賊臣のよう唱え立る折柄なれば、決して色に出さず時の至るを待とうとは、小松・大久保・西郷などと秘策にしたることなり。それ程色にも出さざるにゆえ、薩には開港論なりと落書や流言など多くあり、初めより無謀の攘夷と名を付け、内よく治まり兵備も十分整いたる上に、攘夷と云う事を唱えるでも、開港論を立るでも、その上の事と決したる訳なり。このよう内策ありしことを今生きて居る者に知って居るは岩下(方平)と吉井(幸輔)の両人どもならん。その時分、小松・大久保・西郷・中山(尚之介)の両三人の外知る人なく、その後、吉井・岩下両人には趣意極内申し聞かせ度と申したることあり。…」

 久光は、薩摩藩の内外において攘夷論が吹き荒れ、議論が割れていたため、藩首脳部の内策を秘しておいた、というのです。ですから討幕までの薩摩藩首脳部の方針、事情を理解するには、久光・西郷・大久保・小松を中心に、初期は中山(薩英戦争時のしくじりが原因で失脚)、後期は岩下・吉井の言動を加味し、総合的に分析していく必要があるということです。

 西郷は慶応三年頃、桐野利秋にその真意を打ち明ける際、攘夷は討幕の口実と言ったそうですが、彼らが攘夷を唱え、煽ったという痕跡はなく、攘夷論が優勢であったため、あえてそれを遮るでもなく、勢いに任せて置きましたが、攘夷論が開港を現実に推し進めている幕府を追い詰める根拠になるとの現状認識を持っていたようです。だから自らの開港論は深く秘しておいた。
 しかし、久光の主張に耳を傾ける限り、薩摩の藩論としては開港を是とするが、日本全体で攘夷か開港かは、内を治めて、兵備をよく備えた上で、最終的に是非を公論に決すべし、ということであったようです。この方策は後の史料でも裏付けられます。

 この「久光親話記」という史料は重要で、禁門の変で撃退された長州に対する征伐実施を強く主張した薩摩藩が、いつの頃からか寛大な処分を主張するようになった事情も述べられています。西郷南洲翁の書簡を時系列でたどっていくと、当初征伐実施の工作を行い、過酷な処分案で臨んでいた彼は、実施が決まり、総督が評議を開く頃には寛大な処分案を主張します。その間に、勝海舟との面会を挟んでいますが、この時、まだ過酷な処分案を撤回した様子はありません。
 実はこれを撤回させた事情が、久光による説得だったらしいのです。
 久光は前述の国内をまず治めるの論から、秀吉の島津征伐の故事を引き、長州に寛大に臨めば、恩義に感じ、朝廷に尽くすようになるかもしれない、と説き、強硬論を主張する西郷・大久保・小松を感服させたと語っています。

 以上のように、明治維新は各場面で行われた議論をしっかり追っていく必要がありますが、当時の武士は教養人でありますから、当時行われていた学問、すなわち儒教を中心に国学を加えた思想を検証する必要があるのです。
 そうすれば、幕府と薩長の対立が実は単なる権力争いではなく、究極的に國體観の相違から来る争いであったことが分かるはずです。

 これに則って、慶応三年末ごろの彼らの書簡類を検証すれば、実は西郷による江戸撹乱工作などなかった、という結論に至るのです。意外なことかもしれませんが、実は彼らに、浪士に江戸を撹乱させ、幕府を挑発するという戦略は微塵もないのです。現に、機密に参画していた吉井幸輔は大政奉還が成った後と、王政復古の大号令渙発直後、浪士たちの決起を抑えるよう江戸に指示を発しています。
 つまり、相楽総三らを隊長とする江戸藩邸に匿われていた浪士たちは、在京薩摩藩首脳部の指示を無視して、乱暴を働いたのが実情なのです。
 おそらく相楽らは鳥羽伏見の戦いを経て官軍が編成された際、そこに組み込まれながらも、浪士時代の感覚で命令違反行為を繰り返したことで処刑されたのでしょう。命令違反者を処罰するのは軍隊の常識でもあり、赤報隊粛清の真相はそんなところにあったのではないでしょうか。鳥羽伏見の戦勝を境に、パラダイムは大きく変わっていたのです。

 ともかく、むしろ浪士たちの江戸撹乱を奇貨として、戦争に持ち込んだのが、フランスと結んだ幕府の強硬派で、彼らは上方の幕閣を開戦に追いやるために、あえて江戸藩邸を砲撃し、江戸で開戦したのを理由に、大坂湾で薩摩藩船に海戦を仕掛け、大坂より陸路、兵を京に侵攻させようとしたのです。

 鳥羽伏見で薩摩兵が最初の一発を撃ったからと言って、それは真珠湾の奇襲攻撃と同じことで、アメリカが謀略により、そこに誘導したのと同じことです。アメリカは真珠湾以前に、経済制裁という戦争行為を行い、中国大陸の日本軍に攻撃を仕掛けていたのですから(そう言えば本日はアメリカ時間における真珠湾攻撃の日です)。
 薩摩藩首脳部は戦争を覚悟して、政治に臨んでいたのであって、戦争を目的に政治を行っていたのではないのです。
 大坂という京の入り口を抑えられていた薩長主力軍が、大坂湾での海戦を知ったのは鳥羽伏見の開戦より数日たってからの事でした。薩摩藩は幕兵が朝命に反して京に乱入しようとしたから発砲、撃退したのです。

 以上で言いたいのは、薩摩藩首脳部の言動を詳細、かつ総合的に分析するのでなければ、その正義、すなわち明治維新の意義を理解することはできないという事です。そのためには、いまだに謎めいた西郷南洲翁の事跡に加え、膨大な大久保利通の書簡・日記類を精査し、事跡のあまり知られていない久光・忠義父子を新たに知り、久光が「久光親話記」で名を挙げた機密に参画した人物も研究し、さらに、彼らの背骨となった学問的伝統、江戸時代の儒教や国学に関する知識も欠かせないのです。
 今の研究者にそこまでしている人がどれほどいるでしょうか。少なくとも先の討論番組に出ていた明治維新否定論者・懐疑論者にはそのような素養は全くありませんでした。

 彼らの多くは戦後日本の感覚や価値観で歴史を断罪して、それで分かった気になるという愚を犯しているのではないでしょうか。理解した上で、それらを比較衡量して初めて、ちゃんとした批判は成り立つはずですが、理解にまで達していない。
 学者、知識人のつもりなら、せめてそこまではしてほしいと思います。

 彼らは単に良心的なリベラルのつもりで、明治維新を批判しているつもりかもしれませんが、筆者が心配するのはその背後にあって確信犯的に日本の歴史伝統を否定する政治勢力があることです。

 かつての共産主義者やその一派であるフランクフルト学派の影響を受け継いで、革命のために、人民の歴史伝統を破壊しようとの悪意を持つ連中です。
 日本は敗戦以来、七十年以上の歳月をかけて、政官財、法曹やマスコミの世界を汚染されてきたのです。
 そして、その背後にはグローバリストたちがいる。
 財務省が推し進めてきた緊縮財政というデフレ政策も、移民政策も、背後にはこの国際金融資本勢力がいるのです。

最後に大正デモクラシーで日本のインテリ層に共産主義が浸潤してきていた時代に、徳富蘇峰が述べた言葉を掲載して締めくくりとしておきたいと思います。大正十五年の西郷南洲先生五十年記念講演会における発言です。

「國民がその國の偉人、その國の豪傑、そういう人々を尊敬し、嘆美し、従って崇拝することの出来る間は、その國民は、まだ血が通っている國民である。他にいろいろ弱点があっても、欠点があっても、醜態があっても、幾らか取柄のある國民である。しかしながら、偉人を偉人とせず、豪傑を豪傑とせず、崇拝、嘆美、称讃、欽慕というようなことを、一切除外してしまうような國民になった時には、最早これは済度し難きものであると思います。私は、南洲翁を慕うという國民の心が実に有難い。こういう心がある間は、日本はまだまだ大丈夫である。これが無くなる時には、恐らくは國が亡びる時と思います。」

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