信長とは一体、何者であったのか

 最近、宮崎正弘氏のメルマガを読んでいて、呉座勇一氏の『陰謀の日本中世史』【KADOKAWA】という本の書評が載っていました。氏はこの本の中の白眉として、本能寺の変の真相をめぐる諸説の検証に言及する中で、氏自身の明智光秀論、信長論を語っています。

宮崎正弘の国際ニュース・早読み < <書評 呉座勇一『陰謀の日本中世史』

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 宮崎氏のメルマガは最新の国際情勢を知る上で実に有益な情報を最速で伝えてくれる、読者の皆様にも是非お勧めしたい無料のメルマガです。
 その最新の情報に付された氏のコメント、分析は非常に鋭く、大変参考になるものです。
 非常に知的な分析で、インテリジェンスに疎い筆者は、その情報の恩恵を被っていて、どうこう批判できる立場にありませんが、そのインテリジェンスがわが国の歴史に向けられた時、何かその本質を見誤った結論を導き出していることが意外に多いのではないか、そんな気がするのです。

 インテリジェンスとは一般的には「知性」という意味ですが、得られた個々の情報や事実に対する分析から総合的に相手の意図や真相を推理する「諜報」の意味で使われることもあります。「諜報」とは基本的に、自分とは利害の対立する相手に対して行われる行為で(もちろん味方の動向を知るために行われることもありますが)、それは利害の対立する相手ですから、とりわけ加熱する政治状況の中にあっては、彼の行為を陰謀論的に解釈しがちになります。

 それを避けるためには相手の思想の根源や信仰にまでさかのぼってみるのでなければ、情報や事実の向こうに隠された、あるいは隠れている真相を精確に突き止めることはできません。つまり、真の「知性」とは言えない。

 しかし、「諜報」という意味では、危機管理を前提としていますから、悪意を前提にそれを分析し、それに対し可能な限り備えをするのは正解ということになります。
 たとえば中国共産党は、表向きはどうであれ、日本の侵略を狙っているから、それに対し万全の備えをする。中国人の日本への移民は年々増加の傾向にあるのは周知の事実で、彼らに対する中国共産党の統制力がどの程度のものか、表向きはわからないが、インテリジェンスの素人である筆者ですら、彼の国には「国防動員法」という有事の際の総動員法があり、各中国人が「档案」と呼ばれる名簿で統制されているのは知っているのであり、いざという時、彼らが暴動を起こし、都市機能をマヒさせ、日本人を襲うだろう、との想定の下に備えをしておくのが危機管理だ、ということになります。

 宮崎氏もその論者の一人ですが、地政学的、あるいは経済学的視点から中国共産党はいずれ立ち行かなくなる、というのはかなり前から言われてきましたが、ところがどっこい、中国共産党は軍事費を毎年増加させ、今や世界中の脅威となっています。ある番組で、その事を指摘されたとき、宮崎氏は「常識的に考えればとっくの昔に崩壊しているはずなんですよ」という趣旨のことを言っていました。
 それでも、アメリカのトランプ政権が反中姿勢を固めたことで、中国共産党政権は今や窮地に立たされていますが、狡猾な彼らはサバイバルに必死で、ここまでしたたかにやって来たのであり、今後も非常識な、すなわち我々の常識、発想を超えた手段にでて、したたかに生き残る可能性も無きにしも非ずです。少なくとも、危機管理においては、それを前提に備えをなすべきで、むしろ彼らの力を弱める方向で、あるいは崩壊させるための諜報活動を行うべきですが、日本の現状はその備えが全くできていないと言っていいでしょう。つまり、日本のインテリ階級の「インテリジェンス」はお粗末に過ぎるということです。

 中国共産党にとって日本国憲法の改正は是非とも阻止しなければならないことで、安倍政権が倒れることによって最も喜ぶのは彼らです。つまり、日本の国内にあって安倍倒閣を推し進める勢力は、確信犯なら中国共産党のエージェントということになりますし、無自覚なら、自分がやっていることの本質が分からな
い、彼らに利用されるだけの「ノー・インテリジェンス〈阿呆〉」ということになります。
 日本はすでに中国製の「トロイの木馬」が中枢だけでなく各地にどんと据えられていて、反安倍を叫ぶ輩は、まるで平和の宴に酔いしれているトロイヤ市民のようです。気が付いた時には城壁は破られ、街は制圧されている、そんなことになりかねないのです。特に来年の今上陛下の御譲位から、再来年のオリンピック・イヤーにかけて、「トロイの木馬」は起動するかもしれないので注意が必要です。

 現在中国共産党はウィグルやチベットでナチス・ドイツ以上の規模と質のホロコーストを行っていて、特にウィグルでは各家庭に漢人の監視員を置いて、また監視カメラを設置し、家の中においてもウィグル語の使用を禁じ、これに反すれば再教育が必要ということで、収容所に入れられて洗脳が施される、という最悪のところまで弾圧が進んでいるとの事です。これが完了した時、ウィグル語の死、すなわちウィグル人の絶滅という、人類史上最悪の事態は起きてしまうことになります。
 これはこのまま抗日を党是とし、反日を国是とする中国共産党の日本侵略が進行した場合の日本人の将来の最悪の事態でもあります。

 遠近法の魔法によって、一片の雲でさえ、太陽や月を隠すことはできます。雲ならともかく、人間の手になる遮蔽物によってでさえ、いや、それこそ手のひらによってでさえ、太陽や月を目から隠すことは可能なのです。太陽に手をかざして真っ赤に流れる僕の血潮が見えたところで、手をおろして見れば、そこには混乱と暴力の波が押し寄せている、そんな光景を目の当たりにするかもしれないのです。
 国民にとっての目であり耳であるマスメディアによって、森友・加計、あるいは官僚のセクハラ問題などは、日本の存立にかかわる問題から日本国民の目を覆うために盛んに喧伝されているように感じられます。


 さて、話を元に戻します。
 日本人が「インテリジェンス」という言葉は知らなくとも、日本人全般が生き延びるための知恵、すなわち「インテリジェンス」を豊富に持っていた戦国時代の話です。

 当時最高のインテリジェンスの持っていたことで衆目が一致するのが、信長であり、秀吉であり、家康であったでしょう。
 戦国の三覇者にして、天下人です。

 家康には「狸親爺」の異名もあって、おそらく大坂の陣で豊臣家を没落させたからでしょうが、何か腹黒い陰謀家のイメージがありますが、信長と秀吉には何か機略縦横の天才のイメージがあって、それは概ね、彼らの戦における戦法・戦術や戦略に対する解釈から導かれているように思われます。

 この点について、宮崎氏は先のメルマガで、信長について、

「率直に言って織田信長への評価は著しく高い。
 信長はそれほどの天才的軍略家でもなく、抜きんでた指導者としては、手ぬかり、判断の甘さが目立つ武将である。とくに信長への過大評価を生んだのはイエズス会の報告書が最近全訳されたことも大きい。」

 としています。
 やはり一言で言うなら、現代的な「インテリジェンス」という評価基準で、信長に失点を付けているのです。

 一方で、氏が保守主義の立場から「本能寺の変」を義挙だとして、その人物を高く評価しているのが明智光秀で、その人物像は、同じ保守仲間の故・井尻千男氏の『明智光秀 正統を護った武将』に依拠しているようです。

 近年、明智光秀の評価は急上昇しているようで、筆者はこの井尻氏が長年温めてきた構想を世に問うた労作を読み、また光秀の末裔である明智憲三郎氏が先祖の無念を晴らすために書いた『本能寺の変 431年目の真実』も読みましたが、前者は自己の保守思想、國體観を光秀に投影した、やはりこじつけ感の強い内容で、また後者も史実に対する解釈が現代的インテリジェンスによるこじつけ感が強く、特に光秀肯定願望の裏返しとしてのアンチ信長感が強く、筆者が知っている史実からだけでも容易に否定できる薄っぺらい信長観に終始していて、とても信用できる代物ではない、という読後感を持ちました。
 ちなみに明智氏は当該著書の中で、情報システムの仕事に就いていた方で、その畑での経験を生かして「歴史捜査」に取り組んでいると紹介されています。

 一言で言うなら、いくらインテリジェンス自慢の知識人であっても、現代のインテリジェンス、常識は、そのまま戦国時代のインテリジェンスに適用できない、ということになると思います。
 特に信長は戦国の、いやそれだけでなく、当時衰微の極みにあった皇室に象徴されるように、混乱衰退の極みにあった國體を立て直した、言わばその強烈な個性によってパラダイムを大きく転換させる起動力になった人物であり、戦後日本のインテリジェンスの範疇に容易に収まる人物ではないのです。文明史的な視点がどうしても必要な人物です。

 これらの所説は、狡猾にして酷薄な信長像が前提となっていて、何か実在の人物としての、あるいは偉大な人物としての信長像は見えてこないのですが、明智の「謀反」がかりに義挙であったとするなら、その前提として、信長の奸悪性もまたしっかりと検証される必要があるはずです。

 信長の事跡を検証する上で土台となるのは一次史料、すなわち書簡の類ですが、信長の場合、太田牛一の『信長公記』、キリスト教宣教師フロイスの報告類もまた一級史料あるいはそれに準ずるものとされています。

 宮崎氏は次のように書いておられます。

「俗説がおびただしくでたのは江戸時代である。第一級資料とはとても言えない、しかも事件から百年以上を経過しての歴史書から、適当な推量、妄想の拡大が、とんでもない説を大量に世に送り出した。
 そもそも明智を「主殺し」の裏切り者と決めつける印象操作を行ったのは秀吉である。そのほうが横から信長政権を簒奪した、極悪人として評価されることを恐れた秀吉が真実をぼやかし、嘘でゆがめる効果があったからだ。
 したがって後世の後時江(後知恵?)が多い『太閤記』に加えて、『信長紀』『信長公記』が生まれ、これらによって、じつは信長への過大評価も同時になされたのである。」

 しかし、ここにもインテリジェンスの不精確さがあって、光秀の「義挙」は事件直後から主殺しの謀叛であることは明らかでしたし、『信長公記』は近習の太田牛一が自身の日記をもとに信長の死後まとめたものであって、『信長記』は、太田牛一を「愚にして直」と評した儒者小瀬 甫庵が、「愚にして直」なる記録である『信長公記』を元に、大いに脚色して書いたものです。つまり小瀬 甫庵の『信長記』に関してはともかく、太田牛一の『信長公記』に関しては後世の後知恵とは言えないのです。細かい間違いはあるようですが、一家臣の立場から見た率直な記録として十分信用に値するのです。

 フロイスの書類も同時代史料であって、キリスト教的価値観を基準にした人物に対する評価はともかく、事実関係は大いに参考になるものです。フロイスの信長に対するインテリジェンス面での評価が高かったのは事実ですが、キリスト教的価値観からは晩年の信長を傲慢で盲目に陥った「悪魔」とさえ評しているのです。

 筆者は氏の表現を借りれば、「それほどの天才的軍略家でもなく、抜きんでた指導者としては、手ぬかり、判断の甘さが目立つ武将」であった、その所以に関心があります。信長はわれわれの常識の枠にはまりきらないものを見据えていたからこそ、そのような手抜かり、判断の甘さが生じたのではなかったか。それが筆者の中に生まれてきた仮説です。

 筆者は角川文庫版『信長公記』の校註を担当している奥野高広氏の『増訂 織田信長文書の研究』も購入して、『信長公記』『完訳 フロイス日本史』を読み込んで、信長の思想、天下国家観ついて考えたことがあり、その成果は『十人の侍(上)』にまとめました。詳しくはそちらをお読みいただきたいのですが、ここでは簡単に触れることにします。

 宮崎氏も指摘しているように、安土城山腹の総見寺の御神体は信長自身であり(これはフロイスの記述にも信長自身が宣言した書いてあります)、天守閣が「天主」と呼ばれていたことに信長の野心が顕れているとして注意を喚起していますが、筆者の見解でも、信長は、自分こそ「天主」の影向したものである、と信じていたと思います。
 ただ筆者は信長自身これを深く信じて疑わなかったことだと理解しています。
 つまり、政治的演出としてではなく、自分自身が万物の主宰者であり、絶対神であると固く信じていた、ということです。「神なき合理主義がほとんどニヒリズム(虚無主義)と紙一重だ」との批判は信長には当たらないのです。
 絶対神を中心に据えた合理主義であり、ニヒリズム(価値相対主義・虚無主義)ではないということです。考えてもみてください、若い時から天下一統を絶対的正義として、時に命懸けでこれに取り組んだ信長の精神がニヒリズムと紙一重な訳がないではありませんか。戦国時代の終焉、すなわち天下の平定を意味する天下一統を絶対正義とするがゆえに、それを邪魔した比叡山は憎悪され、徹底的に弾圧されたのです。

 残酷を極めた比叡山焼き討ちもこの絶対的正義から割り出された事件で、氏も触れている東大寺正倉院所蔵の銘香「蘭奢待」の切り落としは正式な手続き、すなわち勅許を得た上で行われているのであり、この行為のどこが伝統と権威を蔑ろにした行為と言えるのでしょうか。
 この時の信長の奈良行きは、大和国の國主と言える、比叡山延暦寺(北嶺)と並ぶ仏教勢力である奈良興福寺(南都)に対する威嚇のために実施されたもので、もしその目的を最優先するなら、無理を言って挑発することも可能だったでしょう。信長はこの時、同じ銘香の「紅沈」の切り取りも所望しましたが、寺側が先例なしとして頑強に抵抗したため、これを諦めたといいます。これは恐らく勅許を得ていなかったから、無理押ししなかったのでしょう。

 このように宮崎氏の信長に対するインテリジェンスはあまり精確とは言えないのですが、ここでさらにメルマガで触れられている「馬揃え」と「譲位」の問題を取り上げてみたいと思います。

 今谷明氏の『信長と天皇』以来、信長の天皇に対する態度を考える上で、常に挙げられる論点が、この「馬揃え」と「譲位」にくわえて「三職推任」の問題です。
 「馬揃え」は 信長が安土次いで京で挙行した軍事パレード、「譲位」は信長が正親町天皇に譲位を勧めた事、「三職推任」は信長の官職推任問題です。
 今谷氏は、信長が天皇という存在を抹殺したい衝動に常に駆られていた、とのモチーフで、この研究書を書いておられますが、一度読んだだけでは彼の仕込んだ偏見〈モチーフ〉とその判断基準によって選択引用された史料に騙されてしまいそうになりますが、もう一度読むと、彼の引用している史料や挙げている事実が、彼のモチーフと矛盾し破綻をきたしていることに気づきます。

 彼は信長と天皇という存在を対立関係と見ていますが、たしかに一部意見が対立するところはあっても(対仏教政策とその裏返しとしての対キリスト教政策)、基本的協調関係が持続したことは疑いようがありません。
 これは何度も信長が包囲網を形成され、窮地に立たされても変わりませんでした。朝廷は常に信長の側に立ち続けたのです。
 信長が「天主」として「天子」である天皇より自己を上に位置づけていたのは思想的に間違いないと思いますが、少なくとも両者の関係は破綻することはなかったのです。

 今谷氏が挙げた三つの論点は相互に絡み合っていて、ここで検証する余裕はありませんが、簡単なところで一つだけ指摘しておくと、「馬揃え」は朝廷を威嚇するための軍事パレードなどではありません。これは断言できます。
 できれば『信長公記』の記述を一度実際に読んだいただきたいのですが、入手しやすい角川文庫版『信長公記』を挙げておくと、巻十四冒頭部分(337~347頁)にその事情が詳細に述べられています。

 この、信長の家臣である太田牛一が自ら体験し、記録したところの「馬揃え」を素直に読めば、馬にまたがった侍連中も、それを見た天皇をはじめとする公家たちも、趣向を凝らした衣装を着飾って、共に楽しむ、言わば平和の祭典として行われたのであり、それを見た群衆もこの珍しい催しを非常に楽しんだのでした。フロイスが記すところでは、七百人の武将が集合し、見物人は二十万に近かったといいます。
 争いに倦んだ戦国時代の人々が、たかが威嚇目的の軍事パレードに、当時の人口から見てちょっと信じられないような数の群集が集まった、というのはにわかに信じがたいことではありませんか。
 威嚇目的だとこじつける人は、実は、正親町天皇が「馬揃え」の後、信長のもとに勅使を遣わせて、謝意を伝え、何と、もう一度見たい、といい出したことをどう捉えているのでしょうか。信長はこの希望に応え、数日後、もう一度別の趣向で「馬揃え」を行わせて、京の人々を貴賤問わず楽しませています。
 これは両者の良好な関係がなければあり得ないことで、京市民の信長に対する支持がなければこのような盛大な祭典を挙行することはできなかったでしょう。
 だからでしょう、今谷氏によれば、正親町天皇は安土に戻った信長に上臈局を遣わせて、左大臣への推任を行ったのです。しかし、信長はいったんは謝絶しています。

 筆者の結論を端折って述べれば、信長はこの新趣向の天覧の祭典を、いまだ彼の統制に服さぬ地域を含む、日本全国に対する平和の福音として行ったのであり、「譲位」もその延長線上で考えるべきだ、ということになります。
 すなわち天正元年に始まった正親町天皇に対する「譲位」の勧めは、信長によって拓かれる新しい時代の福音となる、重要な祭典と位置付けられていた、ということです。
 正親町天皇は天正元年の時点で五十七歳。人生五十年の時代としてはすでに高齢で、誠仁親王はこの時二十二歳でしたから、「譲位」はこの時点で決して不自然ではありません。むしろ遅すぎるぐらいです。
 「譲位」をするにはその前に、上皇となってからの御住居である仙洞御所の造営が必要です。当時の御所ですら信長によって数年かけて再興再建されたもので(足利将軍の居城は数か月の突貫工事だった)、仙洞御所の造営も信長の献金によってしか成し得ないのです。
 もちろん、われわれも今上陛下の御譲位によって来年から目にすることになるであろう、「譲位」に伴う皇太子の天皇への即位式、そして大嘗祭は、信長の主催する所になります。これも絶えて久しかった平和の祭典として盛大に行われることになるのです。
 そもそも人質にしたと言われる誠仁親王に、信長が自身の京滞在中の居城として造営した二条城を献上した時も、引っ越しは盛大な祭りとして行われたのです。

 信長が天皇を利用することしか考えていなかったとする陳腐な見方は、おそらく彼の足利義昭に対する態度の延長線で考えているからでしょう。
 信長は義昭を奉じて入京し、将軍家を再興しましたが、それは伝統的権威の復興こそ、天下復興への近道だと、彼が考えていたからでしょう。
 しかし、義昭は私腹を肥やす事と権力の拡張にしか関心を持たない、ろくな人物ではなかったから、様々な確執の後、追放せざるを得なかった。そういうことではなかったかと思います。
 これもまた、彼が天下一統を絶対正義と考えていたことから必然的にこうならざるを得なかったのだと思います。

 一方、皇室はこの天下一統事業の障害どころか、精神的支持者であり、協力者であり続けたからこそ、信長も天下一統事業においてあだや疎かには出来なかったのでしょう。いや、むしろ大事に扱ったと言っていい。
 彼は最晩年の天正十年になっても、伊勢神宮の請願により式年遷宮を実現させるべく、費用として、神宮からの千貫の求めに対して三千貫を寄進しています。 

 まあ簡単にですが、信長を陳腐な権力の亡者(ニヒリスト)と見ていてはこれらの、現代の常識を超え、インテリジェンスの枠に収まりきらない信長の行動の数々を決して理解することはできないのです。それは信長の人物像に対するモチーフがそもそもからして間違っているからです。また、当時は殺伐とした戦国時代であった、という時代背景を決して忘れてはならないでしょう。
 彼はそういった当時の荒廃殺伐とした人心を「総見」し、「天主」という絶対神の下で一統を達成しようとしたのです。それに挑戦する宗教勢力が弾圧されたのも当然の成り行きであったでしょう。


 一方の明智光秀の人物像、そして謀叛の動機ですが、確かな資料が少なく、断言はできませんが、おそらく光秀に信長に対する怨恨はあったでしょう。
 謀叛を起こすほどの怨恨ではなかったでしょうが、供も連れず本能寺に宿泊していて、しかも新月の闇夜という千載一遇の機会に、腹心の斎藤利三に焚きつけられて、謀叛に踏み切った、というのが真相に近いように思われます。

 確かに彼は、変の直後、京童に対し、信長は殷の紂王だから討った、と宣伝したといいますが、前日まで謀叛を企んでいたとは考えられない手紙が残されていることからも、義挙としてあらかじめ準備をしていたとは到底考えられず、大義名分は跡付けであったとされても仕方ないと思います。

 何より、筆者は、彼が正統を護るために起ち上がったのだとするなら、なぜ盟友である細川幽斎のような人物に、その大義を説いて、義挙に加わることを勧めなかったのか、腑に落ちないのです。
 光秀は幽斎への協力要請の手紙で、利で釣ろうとしかしていないのです。これはむしろ彼の発想をよく表わしていると言えないでしょうか。

 光秀は以前、この幽斎に仕えて出頭した人物で、いち早く義昭を見限って、信長につき、その才能を愛された人物です。
 幽斎が落剥の将軍義輝に仕えて朽木谷に滞在していた頃、神社の灯明の油を盗んでまで、夜学に励んでいたことはよく知られていますが、古今伝授を受けるなど、和漢の学問に通じていた人物です。
 実母は朝廷における儒学の正統である明経博士清原家の中でも名儒の誉れ高い清原宣賢の娘で、幽斎は幼少の頃、この祖父に学び、長じてからは清原国賢(宣賢のひ孫)に学んだといいます。
 宣賢は吉田神道の創始者である兼倶の三男で、幽斎は当時神道の主流をなしていた吉田神道の近くにもいたことになります。
 筆者は幽斎の学問教養こそ本物であり、正統の保持者であって、光秀は教養はあっても、それはあくまでも教養主義にとどまり、その学問は本物ではなかったかと思っています。つまり、贋物ということです。
 本能寺の変直後における両者のやり取りの中にそれは端無くも表れているのではないでしょうか。


 まあ、以上のような事を拙著『十人の侍(上)』の織田信長の章でもっと詳細に検証したのですが、信長は、耳学問ではありましたが、戦陣の合間を縫って、当代一流の人物たちから学んだのであり、仏教を早くに潜り抜け、次いで禅宗から儒学、そして吉田神道、キリスト教と潜り抜け、信長包囲網の艱難を乗り越える過程で自己の「天主=総見絶対神」思想を確立していったのであり、これを陳腐な野心家と見るのは大きな間違いであると思います。
 幽斎の学問教養は、最もよく知るはずの光秀ではなく、信長、そしてその継承者たる秀吉、家康を天下人として選びました。

 光秀が何を想い、何をしたのか、その詮索は人に任せるとして、文明史的視点に立って、戦国という、皇室の衰微と地方における割拠によって特徴づけられる時代のパラダイムを大きく変えた人物を、善悪の彼岸に立って、正視し、その事業を捉え直す事こそ、安全保障に深くかかわる国際情勢に関する「インテリジェンス(諜報)」とは別趣の、自己の歴史に対する真の「インテリジェンス(知性)」と言えるのではないでしょうか。

 その真の「インテリジェンス(知性)」をまず固めることこそ、「インテリジェンス(諜報)」を確固たるものにするのではないでしょうか。

 その「インテリジェンス」によってはじめて、理解の上に立った、みのり豊かな批判も可能であり、歴史はわれわれの内部で躍動し、生動する記憶となりうる。
 それはわれわれの現在を、そして、未来を活発なものにしてくれるはずです。 

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この記事へのコメント

2020年01月23日 21:18
この記事はヤフーブログ版の方でも私はコメントしましたが、憶えておられるでしょうか?
そして明智光秀は現在のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』の主人公となってますが。稲垣さんはこの番組を鑑賞されてるのでしょうか?

けれどこの記事で論じられてるような人物像の光秀を主人公に据えるとか、正直言って、制作側は何を考えてるのかと・・・・
反日の巣窟たるNHKの事ですから、どうせこの記事で論じられてるような諸事実なんて全く理解してない事でしょう。

実際これまでの大河ドラマは皆、思想を軽視してた感じでしたし。
あ、グローバリズムやら日本を貶める反日思想なら濃厚に漂ってましたけどね。

光秀が主人公なので、当然親友だった幽斎こと細川藤孝も登場しますけど、この記事で論じられてるような「教養主義者(似非教養人)たる明智光秀」「真正の教養人たる細川幽斎」という描写など、きっと一切出て来ない事でしょう。

恐らく制作者は無知(それ以前にそんな事に無関心)だから、最終回間近で光秀が本能寺の変を起こす時、光秀を美化して強引に義挙に仕立て上げ、信長の実像を歪め、貶める可能性は高いです。
こんな調子だから、私はNHK大河ドラマを見るのが馬鹿馬鹿しくて、もう見なくなってから結構長い年月が経っています。
哲舟
2020年01月24日 06:55
ZODIAC12さん

もちろんコメントいただいたこと覚えております。

小生はNHKに受診料を払うのが嫌で、またNHKと民放の偏向に嫌気がさして、地デジ化を機にテレビを置くのをやめました。
明智光秀に関しては、明智氏の末裔が書かれた書籍、井尻千男氏と宮崎正弘氏の明智を弁護するために書いた書籍を詠みましたが、まったく説得力を感じませんでした。

しかし、天下統一のさきがけとなった信長像に確かなものが確立されていないから、このようなまがいものが持ち上げられるのでしょう。真正の信長像が確立されていないから、秀吉像、次いで家康像もしっかりしたものが確立されない。

 日本の英雄を卑俗なレベルに引きずり下ろして悦に入るような、そんないやしい根性が蔓延しているのではないでしょうか。

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