西郷隆盛

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zoom RSS 「豊臣秀吉の天才」(再掲載)

<<   作成日時 : 2018/01/18 08:23   >>

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織田信長の天下一統事業の継承者となった豊臣秀吉に関して、通俗小説の類に慣らされた読者は、今から論じるラジカルな秀吉論について来れるだろうか。

 彼の天才ぶりについては夙に知られている。
 戦争、特に攻城の名人であると同時に、調略の達人であった。人たらしの天才という言葉はどこかで聞いたことがあるだろう。
 だが、多くの人がその天才ぶりについて語り、そういった関連書籍も多いので、ここではことさらにそれらの逸話を取り上げようとは思わない。
 私が関心あるのは、信長によって開眼し、受け継がれていった、秀吉の天下人としての自覚がどのようなものであったかについてである。

 「天才」という言葉は現代社会においてインフレーションを起こしている言葉の内の最たるものの一つだろう。商業的キャッチフレーズとしての「天才」から、自称「天才」まで、現代社会において「天才」はいたるところに繁殖し、言葉として世俗化しつくしている。

 「天才」とはそもそも天賦の才能ということで、天から賦与された才能ということである。
 白川静氏の『字通』によれば、出典は、清代・趙翼の撰になる詩論『甌北詩話(おうほくしわ)』にある次の一文である。信長・秀吉の時代にはなかった、意外と新しい言葉ということになる。

 
 杜(杜甫)独り千古(の名)有りと雖も、李(李白)の名、終にこれに因りて稍(すこ)しも減ぜず。読者、ただ杜は学ぶべきも、李は敢えて学ばず、すなわち天才及ぶべからざるを覚るなり。


 天才とは学んで得られるような類の才能ではないのだ。
 そうやすやすと与えられるものではないことは簡単に理解できるだろう。
 しかも、それは、超越的存在から与えられるものである以上、その存在が強く意識され、その前に謙虚にならなければ十分開花しないもののはずだ。
 しかし、開花した以上は、空前絶後の業績となって後世に伝えられる。
 そういうものだろう。

 秀吉の天才はどうだろう。

 秀吉が信長から引き継いだ天下一統事業において彼の才能は遺憾なく発揮された。様々な幸運にも助けられたが、それは、この文脈から言えば、天佑神助と表現されるべきもので、彼の行動を天が嘉した、と理解すべきだろう。
 彼は同時代人から「猿」と呼ばれたが、その統一事業は誰も「猿」真似出来る類のものではなく、学んで得られるようなものではなかった。
 すなわち天才である。

 秀吉自身がどのような信仰、思想を持っていたかはよく分らないが、彼の思想を窺うよすがになる文書として、有名な外交文書を挙げておこう。

 宛名は、インディア・ビアソレイ(インド副王)、すなわちポルトガルによるアジア侵略拠点であるインド西海岸ゴアの副総督である。
 日付は天正十九年七月二十五日。

 秀吉は自らの天下一統事業を簡潔に述べた上で次のように書いている。


 「…然りと雖も、一たび大明国を治めんと欲するの志あり。不日樓船を泛(うか)べ、中華に到るもの、掌を指すが如し。その便路を以て、その地(インド)に赴くべし。何ぞ遠近異同の隔たりを作(な)さんや。
 それ吾が朝は神国なり。神は心なり。森羅万象。一心に出でず。神に非ざればその霊生ぜず、神に非ざればその道成らず、増劫の時、この神増さず、減劫の時、この神減せず。陰陽不測、これを神と謂う。故に万物の根源と為す。この神、竺土(インド)に在りて、これを喚(よ)びて仏法と為し、震旦(シナ)に在りて、これを儒道と為し、日域に在りて諸(こ)れを神道と謂う。神道を知れば、すなわち仏法を知り、また儒道を知る。
 凡そ人、世に処するや、仁を以て本と為す。仁義に非ざればすなわち、君、君たらず、臣、臣たらず。仁義を施せば、すなわち君臣、父子、夫婦の大綱、その道成立す。もしこれ神仏の深理を知らんと欲せば、随て懇求せよ。而してこれを解説すべきなり。
 爾(なんじ)の国土の如きは、教理を以て専門と號す。而して仁義の道を知らず。この故に、神仏を敬せず、君臣を隔てず、ただ邪法を以て正法を破せんと欲するなり。今より以往、邪正を弁ぜず、胡説・説を為すなかれ。彼の伴天連の徒、前年、この土に至り、道俗男女を魔魅せんと欲す。その時、且つ刑罰を加えり。重ねてまたこの界に来たり、化導を作(な)さんと欲せば、すなわち種類を遺さず、これを族滅すべし。臍を噛むなかれ。ただ好をこの地に修めんと欲するの心あらば、すなわち海上既に盗賊の艱難なく、城中幸いに商売の往還を許す。これを思え。…」(原漢文)

 これは秀吉の直筆文書ではない。
 豊臣政権で数々の外交文書を手がけた臨済宗の僧・西笑承兌が書いたとされる。だが、たとえ彼が書いたとしても、独裁者として君臨した晩年の秀吉の意向を無視した文章が書けるはずもなく、少なくとも秀吉の思想の一側面を表していると見ていいだろう。

 ここで彼は日本がどういう国で、自分が何者かを語っている。
 彼の、いわば国体に関する思想が表現されているのである。
 しかも、それは信長同様、キリスト教文明との摩擦が触媒となっている。

 信長が禅僧を重んじたのは、父・信秀が帰依した臨済宗妙心寺派の僧・沢彦宗恩を師としていたことでも明らかだ。「信長」の名を択んだのもこの沢彦宗恩で、後に「岐阜」「天下布武」という信長の大志を表現する言葉を与えている。

 信長は禅宗の見解を取り入れ、安土城を称える文章を書くよう、儒典に深く通ずることで著名だった天竜寺妙智院・策彦周良に依頼したが、断られ、代わりに推薦された妙心寺派の南化玄興がこれを担当することになった。
 彼は儒教の太極と老子の道、それに仏教の心の一致を説いたというから、仏教僧とも、儒者とも、道士とも区別がつかない。
 要は、その説くところが信長の信頼を得たわけだが、後に後陽成天皇や秀吉の崇敬を受けたという。
 信長はこの南化玄興が書いた「安土山ノ記」を喜び、この禅僧に黄金百両・小袖三重、また彼を推挙した策彦に対して金子百両・銀子百両・小袖三重を贈ったという。満足だったのだろう。
 秀吉は自己の天下国家観にこれを引き継いだといっていい。
 
 
 ゴアはキリシタンにとって東アジア宣教の拠点だった。
 そして、彼らにとって最大の侵略・宣教目標は支那であった。
 当時、支那を支配していたのは明朝である。日本人にとって、仏の故郷・天竺に侵略の拠点は置かれ、次は儒道の故郷・唐(シナ)が侵略目標とされている。唐・天竺・日本を以て天下と考えていた日本人にとって事は重大である。秀吉はだからキリスト教の悪意を警戒し、信長の遺策であった大明国の征服を急いだ。

 信長の遺策というのはフロイスの記録に

「信長は、事実行われたように、都に赴くことを決め、同所から堺に前進し、毛利を平定し、日本六十六ヵ国の絶対君主となった暁には、一大艦隊を編成してシナを武力で征服し、諸国を自らの子息たちに分ち与える考えであった」

とあるからだ。(第五五章)

 信長は四国征伐、毛利討伐という外へ踏み出しての戦争を行って、その内側で大きな平和事業、文化政策を行うという、関東平定時に行ったのと同様の事を企てていただろう。おそらく、それは、井沢氏が主張しているように、大坂への巨大城市の構築であったに違いない。
 既に大坂では、十年の長きに亘る戦いを経て、石山本願寺を退去せしめていた。信長の死後、秀吉はいち早く(天正十一年)、石山本願寺跡地に築城に取り掛かる。後の大坂城である。
 築城は、織田政権の後継者争いであるいわゆる「賤ヶ岳の戦い」の決着がつくと、すぐに始められている。この早さは、とっさの思いつきとは思えない。以前から用意されていた構想であり、信長の天下一統事業の継承を天下に知らしめる意味があったのだろう。


 信長の構想では、安土城は、家督を譲り、天下の儀与奪を免許したばかりの長男・信忠に譲るつもりだったであろう。そして、東アジア全体の統治を見据えた巨大天主の構築を思い描いていたのではなかったか。
 そして、そこでは、安土城では間に合わなかった、キリスト教的世界観をもっと取り込もうとしていたように思える。もちろん、それは信長こそが宇宙の主宰者であると示唆する内容だったであろう。あるいは最上階の影向の所では、それを祝福するものとして、支那の聖人賢者とならんで、イエス・キリストを中心とするキリスト教の聖者(セイント)が描かれたかもしれない。あるいは、彼を悪魔視するキリリシタンとは敵対関係になって、今度は意図的に排除されただろうか。 


 話を元に戻そう。
 信長の構想を引き継いだらしい秀吉は、この天主の死後、十年近くを経て天下の一統を達成し、天正も十九年になって、ようやく外征の遺策に取り掛かろうとした。

 ゴアの副総督が先の書簡をどのように受け取ったかわからないが、少なくとも当時のインドはヒンズー教が隆盛を極めており、仏教はほぼ壊滅状態にあった。この日本の支配者は世界を知らず、その思い込みから誇大妄想に陥っている、と思ったかもしれない。しかも我が「デウス」の御教えを邪法扱いするとは何事か、と。

 だが、ここで注目したいのは、現実のインドではなく、秀吉が主張する日本である。

 日本は神道の国であり、これが支那においては儒道となり、天竺においては仏法となったのだ、と秀吉は言う。
 これは伊勢神道や、そこから派生した卜部(吉田)兼倶の唱えた「唯一宗源神道」の考え方だ。 

 ここには江戸社会にさきがけた天下統合の規範が示されており、信長が示した道であることは「織田信長の天道思想」で記したとおりである。その統合された未来への道しるべが安土城であり、この天主は五階に八角円堂を持つ。

 内藤昌氏の『復元安土城』によれば、これは卜部兼倶が創建した「大元宮」の八角円堂の建築様式を取り入れたものだという。
 卜部兼倶は、伊勢の神霊が吉田社に移ったとして、京都東山に「大元宮」という八角円堂を建て、そこに宋儒学をはじめとして、道教・仏教を加え、さらにキリスト教のデウスに近い、天御中主神と同一神とされる「国常立尊(くにとこたちのみこと)」という宇宙の根源の神を祀っていた。

 秀吉がインド副総督への書簡で開陳した日本の国体は、信長の天下一統思想を継承したものといえるのである。
 ここで面白いのは、処世の倫理を説くにあたって、儒教倫理が語られていることだが、天そのものについては語られていない。
 

 秀吉は数ヵ月後に今度は、当時スペインの植民地であったフィリピンに対して書簡を送っている。
 日付は天正十九年季秋十五日となっている。季秋とは陰暦の九月を指す。

 ここでは先の書簡の内容をもっと要約した形で、超越的存在としての天が出てくる。

「それ吾が国、百有余年、群国雄を争い、車書軌文を同じうせず。予や誕生の時に際し天下を治むべきの奇瑞あるを以て、壮歳より国家を領し、十年を歴ずして、しかも弾丸黒子の地を遺さず、域中悉く統一するなり。これによって三韓・琉球・遠邦異域、欵塞来り享す。今や大明国を征せんと欲す。蓋し我が所為にあらず、天の授くる所なり。…」

 そして、要は、速やかに朝貢使を送って来なければ討つぞ、と脅すのである。


 秀吉はこの書簡の中で、彼の成功は天の授けるところだという。
 しかし、彼の人生を振り返ってみれば、本能寺の変までの彼の成功は信長に授けられたものだ。これは当時においても周知の事実であった。秀吉はその主君の命ずるところに、その才力のみならず、生命までも懸けて功名を成し遂げてきた。それを認め、領国まで与えたのもまた信長であった。
 その信長は晩年、天主として君臨した。
 天主とは天の主宰者の化身である。
 秀吉は信長が主張するままに、まさにそのように信じたのではなかったか。それほど、信長は秀吉にとって絶対的存在ではなかったか。

 本能寺の変から四ヵ月余り経って、信長の葬式を大々的に施行したのは、秀吉であった。十月十五日のことである。
 その三日後付書簡で、彼は次のようなことを書いている。

「安土へ祇候致し、上様の御目にかゝり候へば、御座所へ召し上げられ、筑前が額を撫でさせられ、侍ほどの者は筑前にあやかりたく存ずべしと、仰せ出され候について、なほなほ励みを致し、…」(『太閤の手紙』桑田忠親より引用)

 ここに書かれたことに嘘はなかっただろう。
 霊魂の存在を信じなかった信長の葬礼施行は、秀吉にとって、天下の御政道に他ならなかったに違いない。
 現に、織田家の宿老衆が葬儀を執り行おうとしないことについて、同じ書簡で

「御宿老衆御仏事の沙汰もこれなきについて、天下の外聞いかがと存じ、御存知のごとく、小者一僕の者召上げられ、国を下され候て、人並みを仕り候事は(自分が卑賤の身分より取り立てられて現在に至っていることを言う)、上様(信長を指す)の御芳情、須弥山よりも重く存じ奉るについて、かなはず御仏事いたし候。…」

 と真情を吐露している。
 須弥山とは世界の中心となる聖なる山のことである。
 秀吉は、仏教的世界観で、信長の恩を世界の中心となる聖なる山より重い、と言っているのである。

 秀吉は続くくだりで、

「…(信忠の長男・三法師君、後の秀信に)御跡をも嗣がせられ、六十余州の御仏事御座候はば、筑前(自分を指す)は御葬礼すぎ、追腹(おいばら)十文字に切り候ても、八幡大菩薩、恨み御座なく候。此のよし、信孝様へ御披露頼み入り候。」

と書いている。

 八幡大菩薩とは、神仏習合によってこのように呼ばれたが、もと八幡神で、応神天皇とされる。武家の崇敬篤く、平将門は八幡大菩薩によって「新皇」の地位を保証されたとされている。
 石清水八幡宮で元服した源義家が「八幡太郎義家」を名乗ったのは有名だ。その子孫に当る源頼朝は八幡神を鎌倉に迎えて鶴岡八幡宮として崇敬した。同じ源氏の足利将軍家も八幡神に対する崇敬は篤かった。

 信長が荒廃していた石清水八幡宮を再興したのは既に触れた。
 秀吉もまた八幡神(八幡大菩薩)を信仰していたようで、自分の死後、東山方広寺に八幡宮を建立し、自分を新八幡として祀るよう遺言したという。
 これが認められず、後に豊国大明神となったのは、朝廷が卑賤の身から成り上がった秀吉を、応神天皇と同一視される八幡神にすることを望まれなかったからだと思われる。
 
 『太閤の手紙』の著者・桑田忠親はこの手紙の解説で、この手紙は堂々たる宣伝文で、芝居がかりな名文句と評している。

「その実、秀吉は追腹を十文字にかき切るような人物では決してなかった。死にたいと云う奴に限って、決して死なないものである。秀吉は、このような名文句で信孝をたらしこみながら、信長の天下を奪ったのだ。そうして、間もなく、勝家と信孝を屠り、信雄と三法師を臣従させたのである。結局、力のある者の主張が正義として通る世の中であった。現今でも、世界的には、これと同様な情勢が続いているが、太閤の時代は、日本国内として、なお正義の力ではなくして、力の正義の通る世の中だったのである。」(桑田忠親・前掲書)

 うーん、私はここまで書いてきて、この見方に懐疑的になっている。
 宣伝文なら、このようなあまりに長たらしい文章は慎まれるべきだからである。
 桑田氏でさえ、引用に当って「頗る長文であって、一見煩わしいようだが、秀吉がいかに人心の機微をつかむに妙を得ていたかを知るのに、十分な史料といっていい」と書いているのである。
 長たらしい文章は、感情的敵対者は読まない。
 ちゃんと読むのは同情者か、理性で自らを律している人だけである。桑田説のおかしさは、このことで人心の機微をつかめなかったからこそ、対立は深刻化したのではなかったか。
 この手紙を読む限り、秀吉は道理を説いて、対立を回避しようとしているのである。

 確かに今でも、世界は力の正義が通る世の中である。だから未だに第二次世界大戦の敗戦国日本は、東京裁判史観を克服しえず、戦勝国とその驥尾に付した隣国による歴史の歪曲捏造を受け入れざるを得ないできたのだ。
 戦国時代と呼ばれる太閤の時代もそうだったが、信長、それを継承した秀吉・家康はそれを変えようとしたのではなかったか。
 違う何かをその心奥に秘めていたのではなかっただろうか。
 彼らは様々な世俗の価値観を整理しつつ、天下一統という理想を成し遂げようとした。そのためには力による強制を必要とした。
 そこが他の戦国大名と、信長・秀吉・家康の三者の違う所である。

 この時期の秀吉が織田家相続、ひいては天下相続における劣勢を、いかに悪辣で神がかり的な深謀遠慮によって克服し、織田家の天下を簒奪したか、との見方は、若い頃に読んだ司馬遼太郎の小説もそのように描いていたし、歴史学界のブラックジャック・井沢元彦氏も、『逆説の日本史・11』「朝鮮出兵と秀吉の謎」で、司馬史観を継承して、推理を尽している。
 利巧な見方で、読むほうとしては滅法面白いのであるが、今読み返してみると、理屈はなんにでも引っ付くという感無きにしもあらずで、これについて検証不十分ながら、敢えて異論を提議しておきたい。

 信長の天下一統事業に命を投げ出して尽くしてきた秀吉は、この主のために追腹を十文字に切るぐらいのことはできたのではなかったか。

 幕末、英主・島津斉彬がその志半ばで夭折した際、彼を神と仰いだ西郷南洲翁は殉死しようとしたが、僧・月照の説得によって翻意し、その遺志を継ぐと誓った。そして、薩摩潟への月照との投海から蘇生してからは、これを天命と受け止め、その実現に邁進し、維新回天の偉業を見事成し遂げたことを想起して欲しい。

 秀吉もまた、弔い合戦に死力を尽くし(中国における毛利との対峙からの起死回生、いわゆる中国大返しは当時の常識で言えば狂気の沙汰である)、もっともそれをなしうる条件にありながら、みすみす好機を逃し、それを行い得なかった信長不肖の息子・信孝を戴いて、見事仇を報じた。
 そうでありながら、信孝は秀吉の諫言を用いるどころか、この織田家の功臣を疎んじ、その資格を父から与えられなかったにもかかわらず、家督相続への野心をあらわにして、もう一人のうつけ信雄と争いを始めている。
 天下の御政道を顧みず、父の葬礼も執り行わず、だ。
 秀吉の先の手紙は、その衷情を述べたものではなかったか。
 

 実は秀吉の行為に対する悪意に満ちた解釈は同時代にもあり、徳川家康でさえ、そのような見方をしていた。
 彼は豊臣家滅亡直後、次のように語った事があったという。


「大坂陣之已後、駿府にて或時、近習衆え権現様(家康)仰せ付けられ候は、恩を得たる主人、又は主の子供などへつらく当たりたるものは、たとへ当分仕合よくて、別条なきごとくこれあり候ても、子孫に至り、その報ひは逃れざると思はるゝ。子細は織田三七郎信孝切腹の時の御辞世に、

 昔より 主を討つ身の 野間なれば むくひをまてや 羽柴筑前

と読み置かれたりとの義は、その時分より我等なども聞及び居りたる事なるに、右野間の内海にて信孝切腹と云うも、五月七日の由なり。今度大坂にて、秀頼が自殺せしは、八日なれども、豊臣家の滅亡は七日なり。何と天道報応の理、恐ろしきものにはなきかと仰せられしとぞ。」(『駿河土産』)


 信孝の辞世にある「主を討つ身の野間」とは、平治の乱で敗れた源頼朝の父・義朝を家来の長田忠致(ただむね)が暗殺した場所であった。彼は義朝の首を平清盛に差し出した。恩賞が目当てだったという。
 後に、厚顔無恥にも長田は「美濃・尾張を呉れてやる」という頼朝の言葉に釣られて懸命に仕えたが、平家追討が終った暁には、「身の終り(みのう・おわり)をくれてやる」と処刑されたという。頼朝の報復を受けたのだ。
 信孝もこの故事を踏まえて、秀吉め、報いを待っていろ、と辞世を詠んだ。
 余りに口惜しかったのだろう。
 腸をつかんで周囲に投げつける無念腹を切ったという。
 寺にはこの時使用した刀と血のついた掛け軸が残っているそうだ。

 信孝が切腹して果てた尾張の大御堂寺野間大坊附近の地名は内海(うつみ)という。辞世はこれと「討つ身」を掛けている。 
 頼朝から多くを学んだ家康も当然、この故事を踏まえて、上記のように語ったものだろう。

 しかし、よく考えて欲しいのは、家康は独立した大名として、信長の事業に同盟・協力してきた人物で、少し距離を置いたところから、信長の天下一統事業を学んだ人物である。信長は目の前の教師であり、反面教師ともなりえた。
 一方、秀吉は、信長の家臣として、まさに体の一部のようになって、主の天下一統事業に身を挺して取り組んできた人物である。信長の四男於次丸(秀勝)を養嗣子としており、義理の親戚関係でもあった。
 秀吉は変な学問がないだけに、偉大なる恩人・信長の思想、偉大さをそのまま受容し、粉骨砕身取り組んできたような印象を受ける。
 そうでなければ、あれほど峻厳で曲事(くせごと)を嫌う信長の信頼を勝ち得ることはできなかっただろう。

 秀吉にとって信長という主は絶対的であって、その亡き後、主の語った、あるいは示した天下構想は彼の中でますます絶対性を帯びていったのではなかったか。

 そもそも、織田家の天下という考え自体、信長にはなかったのであって、彼は家督相続と天下の御政道を分けて考えていたように思われる。
 彼は家督は早くに長男・信忠に譲って、岐阜城を与えたが、天下の儀は容易に許そうとはしなかった。それを許したのは甲州征伐において信忠の振る舞いが及第点を与えられるものだったからである。
 当然、若い頃から辛酸を嘗めてこれを克服してきて、人の考えの表裏を見抜くことに長けていた秀吉は、信長の近くに仕える身の者として、その程度のことは、後世の象牙の塔の住人たちよりもよく理解していたであろう。

 遠征に先立って、信長は補佐役につけた滝川一益に厳しく注意を促している。

「然してその内に聊爾の動(はたら)き努々(ゆめゆめ)無用に候。自然少(すこし)も越度候はば、外聞実儀然るべからず、曲事(くせごと)たるべく候。城介(じょうのすけ、信忠)事わかく候て、この時一人粉骨をも尽くし、名を取るべしと思う気色相見え候間、毎々卒爾の儀これ有るべく候、…万一楚忽(粗忽)の動き候て、聊かも越度候はば、縦い自身命いき候共、二度(と)我々前へは出ずべからず候条、大方(ひととおり)に覚悟すべからず候。…」(天正十年二月十五日付 滝川一益宛書簡)


 信忠は若いゆえ、功名心に駆られている。それは天下の事においては私情であり、曲事は許されない。実状においてのみならず、外聞においても許されない、というのであるから厳しい。
 だが、信忠は甲州征伐においてそれに十分応えたのである。だから天下の儀の与奪は免許された。

 一方の次男信雄、三男信孝はどうか。
 両者はともに伊勢攻略の見地から、同地の北畠家、神戸家の養子とされた。つまり、家督相続の件では論外に置かれた。

 では、天下の儀においてはどうか。
 北畠信雄は評判のうつけであり、論外。功名心に駆られて失敗し、父の譴責を被ったこともある。天正七年六月の事だ。
 神戸信孝は素質に恵まれた若者であり、既に勇敢さを示していたが、ようやく四国討伐でその真価を問われようとしていた。
 天正十年五月七日付信孝宛朱印状で、きつく戒められている。

「今度四国に至って差し下すに就きての条々、

一、讃岐国の儀、一円その方に申し付くべき事、
一、阿波国の儀、一円三好山城守に申し付くべき事、
一、その外、両国の儀、信長、淡州(淡路)に至って出馬の刻、申し出ずべき事、

右の条々、聊かも相違なく相守り、国人等の忠否を相糺し、立て置くべきの輩は立て置き、追却すべきの族は追却し、政道以下堅く申し付くべし。万端、山城守に対し、君臣・父母の思いをなし、馳走すべきの事、忠節たるべく候。能くよくその意をなすべく候也。」


 信長は、信孝を三好(康長)山城守の養子とし、四国に封ずる計略だったといい(『宇野主水日記』五月二十九日条「阿州三好山城守養子として御渡海あり」)、だからこそ馳走して忠孝に励め、との訓諭となったのである。
 ここで認められたからといって、信孝は、家督相続、天下儀与奪の権、双方から遠い所にあったというほかない。

 もちろん秀吉他、有力家臣に家督相続の資格がないのはいうまでもないが、天下の儀についてはむしろ、信忠亡き今となっては、茶湯その他、天下の御政道を以て認められた彼らのほうが近い位置にいたといえるだろう。

 信長の天下構想をよく知る秀吉は思ったのではないか。

 柴田権六勝家は硬骨の武将として主の寵を受けたが、その天下構想をどこまで理解していたか疑わしく、織田家の家老としてはともかく、天下を宰領する器ではない。現に信孝と信雄の家督争いが生じた時、信孝なんぞに加担している。
 信孝は本能寺の変当時、最も近い大坂に軍勢を集結させる途中であったにもかかわらず、父の敵討ちに素早い行動を起こせなかったし、葬礼も執り行わなかった。天下意識はないに等しい。
 滝川一益も才略は一流であっても、その天下意識は徹底したものではない。
 しかし、彼らは私情に凝り固まって、上様の天下構想の継承の重大性を何よりも意識し、家督相続について筋目正しい信忠の子・三法師を推している、この無私な秀吉を排斥しようと企てている、と。

 秀吉がこの時期なさざるを得なかった無理に、後世は天下に対する腹黒い野心を読み取ったが、それは世間が、この出自の卑しい、成り上がり者に対する反感あるいは悪意が、敵対した勢力のみならず、功利的見地から味方についた勢力にも共通してあったからであって、秀吉の中には、彼らとは別の次元の正義があったのではなかったか。

 彼の赤心は人の腹中に入り込んで、その心を読みぬいた。
 彼はそれによって、主・信長の腹中の、善悪の彼岸にある、天下一統という正義を、虚心坦懐に見抜いて、それを為すことを自らの使命として受け止めてきた(当時はそのような言葉で意識されなかったとしても)。それは後に「天の授けるところ」と表現するのがもっともふさわしいと思われただろう。

 信長の昇天後に起きた織田家の低俗なる内紛は、彼にこの正義を研ぎ澄まさせ、徹底させたのではなかったか。

 以上推理してきた秀吉の考え方そのものが、武家社会において、こじ付けでも、なんでもなく、むしろ先例に則った伝統的な考え方であったのは、実は、先に紹介した『駿河土産』の中で家康が示した考え方がこれを裏付けているのである。

「権現様(家康の事)駿河御城にて御夜話の節、御伽衆之内より、右大将頼朝公の儀は形のごとくなる明大将の様に申触れ候えども、平家追討の節、名代としてさしのぼせられ、殊更、軍忠などにも尽されし参河(三河)守・範頼、伊予守・義経両人の舎弟達を誅戟致され候、と有はよろしからぬ事の様に取沙汰仕候と申上られ候えば、御聴き遊ばされ、外の面々の方へ御向ひ遊ばされ、いづれもいかが存候哉との上意に付き、誰も右申上られたる仁に同意の旨御請申上られ候處に仰出され候は、

(以下、家康の談話)

『その方共が存寄(ぞんじより)は世上にて判官贔屓とて、うばかか(姥嬶)共の寄合て茶のみ雑談にする事にて、一向用に立ぬ批判といふものなり。頼朝は天下をとられたる人也。惣じて天下を支配するものの事は代をも譲り渡べきと思ふ惣領の子壱人より外には次男三男という事もなく、増てや兄弟など云て外に立置儀にてはこれなく、親類のよしみたるを以て大身に取立て、国郡の主とはなし置くといへども、外々の諸大名に少しも替る事とては是なし。去るによつてその面々も、猶更、身をもへり下り、別て公儀をうやまひ、万事つつしみてこそ然るべき儀なるを、左はなくて親族顔して我がままを働き随分の仕形に及ぶと、いかに子や弟なればとて、見のがし聞のがしにばかり致し置くは、外々の諸大名共への仕置も相立ざる義なれば、依怙贔屓をはなれ、相当の仕置に申付とあるも、天下を取るものの心得の一つなり。但し、不行義・不作法といふばかりの義ならば、身上を果し、流罪などに云い付けても事満べき儀なり。既に逆心というに至りては死罪に行ふより外の儀はこれなく、世の治乱を考へ、万民安堵の義はかるがゆへなり。列国の大名の心得と天下を取るものの心得とは大きにかわりある事なり。頼朝のあしきというにては有るべからず』

との上意にてこれあり候となり。」(『駿河土産』巻二・十一「駿河にて御伽衆の内より頼朝公の噂咄仕候付上意之事」)


 つまり、信長は頼朝の天下統治の伝統に則っていたのであり、要は秀吉はこれを、この時期、家臣の身でありながら、心ならずも行わざるを得なくなったわけである。家中にこの信長公の考えを理解している者がいないことが、その後の相続争いの中で明らかになってきたからであろう。
 我々は、家康に言わせれば、秀吉の天下人への出世について、うばかかどもの茶飲み雑談程度の話を真に受けてきたことになる。確かにこれは天下のために一向用に立たぬ批判だ。

 天下人にとって、惣領の他、次男三男、兄弟ということもなく、これらには親類のよしみということで、国郡を与えはしても他の大名とかわるわけではない。彼らはむしろ、公の儀を敬い、身を慎んでしかるべきである。ところがそうでなくて、天下人の親類顔をしてわがままを働くなら、えこひいきを離れ、相当の処分をするのが天下人の心得である。ただし不行儀・無作法という程度なら、身分を取り上げ、流罪にする程度でよいが、(天下への)逆心というなら話は別である。世の治乱を考え、万民安堵をはかるため、死罪にするほかない。

 おそらく信長の股肱として、その思想をこのように理解し、そのように自らを処して来た秀吉は、この主の次男三男の、公の儀を存外に置いたわがまま、そしてこれに加担して恥ずるところのない宿老衆に、この対立のどこかで義憤を感ずるようになったのではないか。それはすなわち天下人の自覚であった。

 ところが、織田家の御曹子や宿老は、その気位の高さから、織田家に卑賤の身から取り立てられた秀吉の恩義のみを注視し、天下人たる資格も器量も認めないどころか、主家への逆心を持つ者とみなした。

 それは織田家の相続に関与し得ない独立大名の家康とて同じであった。
 彼にとって秀吉は織田家において当主の位置にいなかったのであるから当然であった。源氏長者で、武家の棟梁だった頼朝とは違うのだ。
 彼は「織田家の天下を奪った」秀吉の不義を認め、信雄と同盟を結び、対決した。
 それが天正十二年の小牧長久手の戦である。

 ここで家康は徳川四天王の一人、榊原康政をして秀吉への弾劾文を書かせている。(原漢文)

「それ羽柴秀吉は野人の子なり。草萊より出でて、僅かに馬前の走卒となる。信長公これを寵異す。一旦の特挙に遇い、将帥に拝せられ、大邦を食む。その恩高きこと天に似、深きこと海に似たり。これ世を挙げて知る所なり。然るに信長公卒して、秀吉忽ち主恩を忘れ、遂に際会によりて非冀を企謀し、将にその君を滅ぼし、後その国家を奪わんとす。惨なるかな。向に信孝公を殺し、今また信雄公と兵を結ぶ。大逆無道、騰(あ)げて言うべからず。それ誰かこれを疾視せざらんや。今我が寡君(家康)、信長公の旧好を懐い、切に信雄公の微弱を恤(あわれ)み、赫然として旅を整え、勢の衆寡を量らず、大義の当然に仗(よ)り、天人の悪む所を伐つ。人々、あに彼の暴悪に党し、以て乃祖の佳名を千載に汚さんや。これ尚は専ら力を義軍に合し、速やかに彼の逆賊を討ち、以て海内の人心を快くせんことを。因って以て告ぐ。」(『榊原家譜』)

 家康軍の大義名分である。
 これを読んだ秀吉は激怒したという。理由は図星だったからとされる。
 しかし、秀吉の立場からすれば、織田家の家督は当主だった信忠の子・三法師君が継ぐべきであり、信長公の二男三男である信雄・信孝は他の大名と変わらぬ、国郡の主で満足すべきである。それが頼朝以来の武家の伝統であり、信長公の考えであった。
 それを信長公の次男三男のみならず、宿老衆まで理解しないとは何事か。
 他家の養子となっている二男三男が家督相続に名乗りを上げるなら、秀吉の養子となっている四男秀勝もまたその資格があるはずである。それをせず、三法師君を推すのは、それが道理だからである。

 家康が言うように、確かにこの秀吉の信長公より被った恩は高きこと天に似、深きこと海に似ている。いや、自分にとっては字義通りに天恩といっていい。だからこそ、信長公の遺志を行うことは、天恩に報ずることであり、正義である。逆に、それに反することを行うことこそ、人はともかく、天(信長)の憎む所である。

 秀吉の立場を代弁すればこうなろうか。
 しかし、これを秀吉の立場で表明するのは難しい。
 現に、自分の立場を、誠心をくどくど披瀝したが、信孝や勝家を筆頭に宿老衆には通じなかったではないか。
 秀吉は秀勝を喪主として信長の葬儀を大々的に執り行った(天正十年十月十五日大徳寺)。これは天下に対する御政道としてである。秀勝は、兄である信孝や信雄にも列席を求める書状を送ったが、彼らはこれを無視した。
 しかも、秀吉が野心がないことを示すために敢えて大幅な譲歩まで行って、通した清洲会議での取り決めまで反故にした。
 

 秀吉の道理、至誠は、私欲・私情に眼を眩まされた人には通じないかもしれないが、天(信長)には通じるだろう。
 すなわち人事を尽して、戦いに勝つことである。
 彼らの没落は秀吉にすれば天罰・神罰であり、天に代わりて悪を討つのだ、ということになろう。

 信玄をして「海道一の弓取り」と言わしめた家康は確かに戦争は強かった。局地戦の勝利は彼のものとなる。
 が、天下を背負った秀吉はもっと強かった。
 信雄は屈し、家康は割拠した。
 秀吉は家康に臣従を促したが、秀吉の心中を狐疑している家康はこれを無視。まだまだ彼には天下を背負うだけの器量がなかった。現に信孝に同情し、信雄に加担した。これは彼が後に語ったところの判官贔屓である。
 しかし、秀吉に家康の未熟に付き合い、割拠を許しておく暇も、余裕もなく、彼は自分が無私の精神から天下の儀を与奪していることを示すために、果ては最愛の母まで人質として差し出した。
 そこで家康もようやく折れた。

 私には一連の流れがそう読める。
 大胆略には自己犠牲を伴う。その武将としての経験から様々な計算はあったにしても、計算だけでそのようにできるものではない。利口者に腹の内が読めるくらいでは、天才とは言えないではないか。
 秀吉の天才を生んだのは、先に書いたように、天命、天道への献身ではなかったか。




 安土城址には信長のものとされる墓があって、これを作ったのは秀吉だと地元では伝えられている。そこには自然石が墓石として安置されている。どういった由来の石かわからないが、秀吉はそれが信長の墓石としてふさわしいとの根拠があって、そのようにしたように思われる。
 

 天主の化身としての信長はこの世から消え失せたが、天下一統で地を駆け回る毎日の中で、見上げてみれば、天は常に、秀吉の禿げ上がった額(信長は秀吉に禿げねずみとのあだ名をつけていた)のその上にある。
 彼が行っているのは、信長の遣り残したことであり、その遺策である。これから着手しようとしている大明国征服も、その遺策である。
 それはまさに天の授けるところとしか表現の仕様がなかったはずだ。
 だからこそ、人事を尽せば、天佑神助としか思えない幸運もあって、いかなる不利も克服しえた。それはまさに振り返ってみれば、夢のまた夢のような成功であっただろう。

 彼の独創的な才能は信長の構想実現への工夫にいかんなく発揮されたのであり、そこに、世の認めるところの彼の天才はあった。つまり天(天主)から授けられた才能であり、天才である。
 
 秀吉は天下の政道については絶対服従を強いたが、それは信長の態度に倣ったものだと言える。真似故にそこには私情が紛れ込んで、あるいは才に溺れて、堕落が忍び込むが、それは超越者ならぬ、人間の事ゆえ、仕方ないことだろう。そこがまた英雄・秀吉の人間手的魅力となっている。

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「豊臣秀吉の天才」(再掲載)  西郷隆盛/BIGLOBEウェブリブログ
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