昭和の日

 四月二十九日は「昭和の日」と呼ばれる祝日である。

 この祝日の意義は、昭和天皇の御誕生日であるくらいのことは誰でも知っているが、過ぎ去りし昭和の御代を偲ぶ、くらいの意義しか、多くの人は感じていないのではないだろうか。

 戦前、天皇の御誕生日は「天長節」として祝われた。

 「天長節」の名は、天子の誕生日を意味し、『老子』の「天長地久」という言葉に由来している。

 天は長く、地は久し。
 天地の能く長く且つ久しき所以の者は、その自ら生ぜざるを以てなり。故に能く長生す。
 ここを以て聖人は、その身を後にしてしかも身は先んず。
 その身を外にしてしかも身は存す。
 その私無きを以てに非ずや、故に能くその私を成す。


(『老子』)


 意訳すれば次のようになろうか。


 天は長く、地は久しい。
 それは天と地が自ら生きようとの意思を持たないからだ。だからこそ長く生きられるのである。
 これによって聖人はその身を後方に置きながら、人より先んじている。
 その身はほかにありながら、そこに存在している。
 それは、聖人が私欲を成そうとの意思を持たないからで、だからこそその私(道を成さんとの志)をよく成すのである。

 これは前回紹介した儒学思想における天子の概念と矛盾しない。

 昭和天皇を偲んでどうしても思い浮かぶのが昭和の大戦であるが、ポツダム宣言受諾の聖断を下された時の大御心を詠んだ御製は次ぎのようなものであった。


 爆撃に 倒れゆく民の 上をおもひ いくさとめけり 身はいかならむとも


 生涯一万首以上の和歌を詠まれたという昭和天皇が、和歌の規範を外れて、ここまで字余りの御製を詠んだということは、いかに意余りで、その感情に堪えないものであったかということを表し、少し経って冷静になられてから、次のように調えられている。


 身はいかに なるともいくさ とどめけり ただたふれゆく 民をおもひて


 当時、国際世論(といっても勝利を手中にしていた連合国側の世論だが)は天皇処刑を求める声が強かったから、降伏は天皇の御命を敵に差し出す覚悟を必要としており、当時の緊迫した状況下において、「身はいかならむとも」との表現は、決して大げさなものではなかったのである。
 
 昭和二十年に始まる米軍の占領期間中に天皇が御詠みになられた御製はこの大御心をあらわされたものが多い。
 昭和二十一年元旦の詔書は、日本復興の指針を国民に示したものであり、その第一義は明治天皇の「五ヶ条の御誓文」であったが、これは教育勅語に繋がる儒学受容の伝統から生まれた精神であった。
 昭和天皇は、わが国の固有の神道的伝統と渡辺浩氏が言うところの人類史上「最強の体系的政治イデオロギー」である儒学が習合した幕末維新以来の伝統に絶対の自信をお持ちになられていたのだろう。天皇は詔書の中で御誓文を御示しになられた後、「叡旨公明正大、又何をか加えん」と付言して、占領軍、延いてはマッカーサーの要らぬ干渉に警戒感を示し、これを排除しようとの大御心を示していられる。


 直後に行われた歌会始の御題は、天皇御自身が定められたもので「松上雪」であった。

 ここで詠まれた御製は、


ふりつもる み雪にたへて いろかへぬ 松そををしき(松ぞ雄々しき) 人もかくあれ


 で、『論語』の一節「歳寒くして、然る後に松柏の彫(しぼ)むに後れることを知る」を本歌(?)とするものであった。



 この占領期間が正式に終わって、一応、主権を回復したのが昭和二十七年四月二十八日のサンフランシスコ講和条約の発行した日であり、すなわち昭和二十七年の「天長節」の前日であった。

 この主権回復を詠んだのが次の御製である。


風さゆる み冬は過ぎて まちにまちし 八重桜咲く 春となりけり

 


 国家の祝日としての「天長節」の始まりは明治元年九月二十二日だが(明治六年の太陽暦の採用より十一月三日)、朝廷の祝典としては古く、宝亀六年(775年)の光仁天皇の御世にまでさかのぼる。

 日本において天長節を祝う意味合いは、天子、聖人として、日々、道を成そうと努めておられる今上天皇の御存在を祝すると同時に、ご長寿を祈るということにある。
 『老子』の原典を読む限りそういうことになろう。
 しかし、この天長節が歴代天皇に対して長く祝われてきた歴史事実から見て、その意味合いは、御皇室が現在まで、天地とともに、存続してきたことを寿ぐとともに、これからのいやさかを祈る、ということに重層的に積み重なってきていることになる。
 つまり、天長節が毎年、これからも祝われ続けるという意識の前提からすれば、この伝統を続けるということは、自然に、御皇室の繁栄が長久に続くことを祈ることを含むことになるということだ。

 やはり「天皇誕生日」などという軽薄な名称はやめて、「天長節」に戻すべきだろう。
 そもそも祝祭日の名が改変されたのは、占領期間中のことであって、「神道指令」などを発して日本人の宗教意識を攻撃したGHQに対する配慮からだったのだから、戦前の名称の復活は、日本が立ち直る上で非常に重要な意味を持っている。
 十一月三日の「文化の日」も、戦前の「明治節」に戻すべきで、「明治節」とはすなわち明治の御世の「天長節」に他ならないのである。四月二十九日の「昭和の日」はまだましと言えるが、これもまた昭和天皇の御世の「天長節」であり、「昭和節」と改められるべきだろう。

 これらの御代を偲ぶということは、明治開国以来、わが国が歩んだ苦難の道のりを振り返るということでもある。歴史認識の回復に格好の機会を与えることになる。

ちなみに昭和二十一年の昭和天皇の御誕生日にいわゆるA級戦犯は起訴された。
 処刑は昭和二十三年十二月二十三日、すなわち当時皇太子であらせられた今上陛下の御誕生日に執行された。
 マッカーサーらは、明らかにこれらの日を選んで、事を運んだのである。
 そこにこめられた彼らの意図はともかく、この事実もあわせて、頭の中に刻んでおく必要があるだろう。

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