『仁‐JIN‐』…「敗戦時の記憶 【七】」

主君・烈公の『弘道館記』を敷衍した藤田東湖の『弘道館記述義』は、本居宣長の「からごころ」批判を意識し、これを克服したものとなっている。それは後期水戸学の特徴でもある。

 東湖は言う。


 上古は世質に人朴にして、未だ書契あらず。所謂道なるものも、また寞然として聞くことなし。然らばすなわち道は、固より、上古に原(もと)づかざるか。曰く、何ぞそれ然らん。当時はただその名なかりしのみ。すなわちその実のごときは、すなわち未だ始めより天神に原(もと)づかずんばあらず。…


 これは明らかに、宣長が「この篇は道といふことの論ひなり」とした『古事記伝』「直毘御霊」での主張を取り入れたものだ。

 これは、逆に言えば、宣長の「からごころ」批判が、外国の学問・宗教である儒学を奉ずるものにとって、いかに痛いところを突いたものであったかを表すが、いく度かの時代の変遷を経て、歴史の下流にいる現代人は、「からごころ」が移入する前の、すなわち漢字を取り入れる以前の古代人の素朴な心のままに生きられるわけではない。古代は遥か遠くなりにけり、である。

 東湖は、宣長に限ったものではないが、国学者全般の弊を次のように表現している。


 近世、古学者流あり。よくその失を弁じ、彼此考証し、参互錯綜し、以て千載の惑いを釈(と)けり。その典籍に功あるや、また大なり。然れどもその弊に至りては、すなわち鴻荒を論説すること、なお身その世に処(お)り、目その事を視るがごとく、喩えを引き類を推し、喋喋弁析して、以て向(さき)の古典を疑いし者を屈せんと欲す。ああ、これまた私智を以て神代を測るなり。すなわち枉(まがれ)るを矯めて直きに過(すぐ)るなからんや。

 「私智を以て神代を測る」という批判は、国学者でもある上田秋成が宣長との論争で述べた批判だが、東湖もまた国学者の独断を行き過ぎと批判したのである。「過ぎたるは猶及ばざるが如し」「怪力乱神を語らず」の儒学の伝統に則った批判だ。
 宣長の仕事はその伝統を大きく一歩踏み出したところに他の追随を許さない真価があるのだが、それは一般化されにくい性質のものである。東湖の批判も無理はない。

 一方で、東湖は儒教の聖人君子を模範とするよう説きながらも儒学的規範について批判もしている。
 それは最も重要な国體に関するところにおいてだ。

 東湖はいう。


 …然らばすなわち唐虞三代の道(伝説的聖人・堯舜の道)は、ことごとく神州に用ふべきか。曰く否。治教の資るべきものは、すでにほぼ前に陳べたり。而して決して用ふベからざるもの、二あり。曰く、禅譲なり、曰く放伐なり。…


 要するに日本に決して取り入れてはならないものが二つあり、それが禅譲と放伐、すなわち易姓革命である、というのだ。

 後期水戸学においては、儒学も国学も批判的に乗り越えられていたと見るべきだろう。すなわちここに見られる国體論は、外来の思想ではなく、かといって独り善がりで夜郎自大の中華思想といったものでもなく、内省的批判を経た日本という国本来のあり方を、当時の書き言葉で表したものといっていいだろう。

 もちろんその内省的批判の根拠となった価値規範が、現在では過去の規範の一つでしかない支那伝来の儒学だったわけだが、そこから得られた知見は豊かで、意識されるされないは別として、現代でも通用し、受け継がれているものは多いのである。
 大体からして、この国の伝統の中心をなす、皇室そのものがその伝統の継承者なのである。


 さて、長谷川氏は、すでに見たように、ヨーロッパの「自然法」の考へにきはめて近いとした「道」が行われていれば、「宝祚無窮」「国体尊厳」「蒼生安寧」「蛮夷戎狄率服」の四つの事柄が循環連鎖して実現される、と東湖の思想を敷衍しているわけであるが、それは自然の道であっても、人間が厳しい大自然の中で生きていく上で努力が欠かせないように、無為自然では先の四要素を循環させることができない。
 そこで天皇、国民の双方に、分に応じた不断の努力が求められる。すなわちそれが「人能く道を弘む。道、人を弘むるに非ず」だ。 

 東湖は言っている。


 …蓋し、国體の尊厳は、必ず天地正大の気に資(と)るあり。天地正大の気は、また必ず仁厚義勇の風に参するあり。然らばすなわち風俗の淳漓(じゅんり…厚い薄い)は国體の汚隆、ここに繋(かか)る。上に在るの君子、あに心を留めざるべけんや


 この精神に則って維新回天の偉業は成った。木戸孝允も、西郷南洲翁も東湖の思想的影響を強く受けた。
 そして、それは「皇政復古の大号令」「五箇条の御誓文」に受け継がれていく。西郷南洲翁は、政府が欧化政策に流されていくなかで、この精神を守るために西南戦争を戦い抜いた。彼の決起は明治天皇の目覚めを促す一つのきっかけとなり、その精神は「教育勅語」にも受け継がれていって、国民精神を形成し、大東亜戦争という一大叙事詩となるのである。

 そして、「玉音放送」で戦争が一段落した後も、思想精神上の戦いは終わらなかった。占領軍は物理的抵抗力を奪った後こそ、わが国の言葉を乱し、国民精神を解体すべし、と心得ていたのである。それが「聖書」の影響を強く受けたものであることは既に述べた所である。
 神道指令、検閲による言論統制、焚書、聖書の配布などはそのことを表している。これらの日本解体政策は未だに日本に深刻な影響を与え続けて、深刻な事態に陥っているから現代的課題でもある。
 
 この民族精神史上最大の危機に直面して、昭和天皇がいち早く国民に発した警鐘こそ、昭和二十一年元旦の詔書(いわゆる「人間宣言」)だった。



 茲に新年を迎ふ。
 顧みれば、明治天皇、明治の初、国是として五箇条の御誓文を下し給へり。

 曰く、

 一、広く会議を興し万機公論に決すべし
 一、上下心を一にして盛に経綸を行ふべし
 一、官武一途庶民に至る迄各其志を遂げ人心をして倦まざらしめんことを要す
 一、旧来の陋習を破り天地の公道に基くべし
 一、智識を世界に求め大に皇基を振起すべし

 叡旨公明正大、又何をか加へん。朕は茲に誓を新にして国運を開かんと欲す。須らく此の御趣旨に則り、旧来の陋習を去り、民意を暢達し、官民挙げて平和主義に徹し、教養豊かに文化を築き、以て民生の向上を図り、新日本を建設すべし。
 大小都市の蒙りたる戦禍、罹災者の艱苦、産業の停頓、食糧の不足、失業者増加の趨勢等は、真に心を痛ましむるものあり。然りと雖も、我が国民が現在の試錬に直面し、且徹頭徹尾文明を平和に求むるの決意固く、克く其の結束を全うせば、独り我国のみならず、全人類の為に、輝かしき前途の展開せらるることを疑はず。夫れ家を愛する心と国を愛する心とは我国に於て特に熱烈なるを見る。今や実に此の心を拡充し、人類愛の完成に向ひ、献身的努力を効すべきの秋なり。
 惟ふに長きに亙れる戦争の敗北に終りたる結果、我国民は動もすれば焦燥に流れ、失意の淵に沈淪せんとするの傾きあり。詭激の風漸く長じて、道義の念頗る衰へ、為に思想混乱の兆あるは洵に深憂に堪へず。
 然れども朕は爾等国民と共に在り。常に利害を同じうし休戚を分たんと欲す。朕と爾等国民との間の紐帯は、終始相互の信頼と敬愛とに依りて結ばれ、単なる神話と伝説とに依りて生ぜるものに非ず。天皇を以て現御神とし、且日本国民を以て他の民族に優越せる民族にして、延て世界を支配すべき運命を有すとの架空なる観念に基くものにも非ず。
 朕の政府は国民の試錬と苦難とを緩和せんが為、あらゆる施策と経営とに万全の方途を講ずべし。同時に朕は、我国民が時艱に蹶起し、当面の困苦克服の為に、又産業及文運振興の為に勇往せんことを希念す。我国民が其の公民生活に於て団結し、相倚り相扶け寛容相許すの気風を作興するに於ては、能く我至高の伝統に恥じざる真価を発揮するに至らん。
 斯の如きは、実に我国民が、人類の福祉と向上との為、絶大なる貢献を為す所以なるを疑はざるなり。一年の計は年頭に在り。朕は朕の信頼する国民が朕と其の心を一にして、自ら奮ひ、自ら励まし、以て此の大業を成就せんことを庶幾ふ。

御名  御璽   昭和二十一年一月一日




最後に「朕と其の心を一つにして」とあることからも窺えるように、絶望と混乱の極みにある日本国民がこの国難にあって心を一つにするように、と与えられた御言葉がこの詔書なのである。戦勝者側のキリスト教的悪意を感じ取っておられたのだろう。
 
 昭和天皇御自身が後に述べられているように、この詔書の主意は「五箇条の御誓文」にある。つまり明治の創業の精神に立ち返って、日本の再建に取り組もうとの大御心である。それが詔書の伝統である漢文体に整えられたのが、上の文章である。

 昭和天皇がキリスト教的な絶対的存在としての「神」概念の押し付けを拒否されていたことは事実だが、そのような教育を受けて、これを実際に信じ込んでいたのは、敗戦時十二から十六歳までの少年のうちの一部、いわゆる「皇国少年」たちであり、そのほかの圧倒的多数の日本国民にとって、「人間宣言」などは何の意味も持たないものであった。
 なぜなら「現人神」「現御神」が人間であることは自明のことだったからである。

 「人間宣言」とされる「朕と爾等国民との間の紐帯は…単なる神話と伝説とに依りて生ぜるものに非ず。天皇を以て現御神とし、且日本国民を以て他の民族に優越せる民族にして、延て世界を支配すべき運命を有すとの架空なる観念に基くものにも非ず」という微妙な表現は、この直前に出された神道指令(昭和二十年十二月十五日)に現れた占領軍の政策との葛藤が生んだ表現であり、皇室と国民との間の紐帯は、「終始相互の信頼と敬愛とに依りて結ばれ」と敢えて挿入されていることからも分るように、神話と儒教倫理の習合で成り立った戦前の国民精神でこれを解読すれば(昭和天皇もまた、杉原重剛からそういった倫理教育を受けてこられた)、天皇と国民との間の紐帯は、単に神話と伝説によって生ずるのではなく、それを土台にして、信義と仁愛の徳によって相互に結ばれている、ということになろう。
 つまり、このくだりもまた「弘道館記」および「弘道館記述義」から「教育勅語」の思想の延長線上にあり、その伝統的な視点に立てば、浅薄な解釈から「人間宣言」とされるくだりまでも、冒頭に掲げられた「五箇条の御誓文」を成り立たせている精神で貫徹されているのである。
 そもそも「五箇条の御誓文」もまた、、原案起草者の由利公正(三岡八郎)の述懐によれば、四書、なかんづく『中庸』の思想に則って着想されたものなのである。土佐の福岡孝弟の手を経て、木戸孝允が修正を加えて「五箇条の御誓文」の文は成った。


 もとより天皇を天皇たらしめているもの、それは神話・伝説と一つの血統を以て繋がっていることであって、インディアンの虐殺という後ろ暗い過去を持つ数百年の歴史しか持たない侵略者によって強要された「人間宣言」などで消しうるほどやわなものではない。
 しかし、天皇個人と国民の紐帯ということになれば、それを固く結ぶのものは、終始相互の信頼と敬愛によってである。これは戦前強調された神話・伝説とのつながりという垂直方向の関係性より、天皇と国民の水平方向の関係性を強調したものと解釈すべきだろう。
 これは戦前・戦中の行き過ぎを修正する大御心が働いた、と理解できるが、これを垂直方向のつながりを否定する「人間宣言」と解釈するのもまた、おっちょこちょいの早とちりで、行き過ぎというものであろう。
 

 最後に、長谷川氏が聖書の「イサク奉献」の比喩を用いて表現しようとした、敗戦時に直面した天皇と国民の悲劇を、歴史の古層の言葉を用いて、つまりわれわれの伝統に則って表現してみよう。

 『論語』には次の言葉がある。

 
 志士・仁人は生を求めて以て仁を害することなし。
 身を殺して以て仁を成すことあり。



 これもまた「弘道」と同じく、『論語』「衛霊公」篇にある孔子の有名な言葉だ。

 大東亜戦争において国體(≒仁)を守るために国民は身を殺し、天皇もまたこれに対し仁を以て応えられた。
 そのことによって、仁は成された。 

 玉音放送によって、既にあの状況下における人事は尽された。後は天命を俟つ心境、それがあの国民の経験した、シーンとした心の一瞬であった。
 われわれの言の葉に表したとき、それが最も端的でずれの少ない表現だと思われる。
 もちろん、それで全てが表現しつくされるわけではない。心のベクトルとして適切だろう、ということである。

 そもそも言葉とはわれわれの思い通りにはならぬ一種の生き物であり、それらすべての物事を表現しつくせるほど完璧な道具ではない。そうである以上、表現困難な物事はむしろ、ベクトルのみ示して、後は含みを持たせた方が、間違いが少ないこともあるだろう。

 「人事を尽して天命を俟つ」という人口に膾炙した言の葉の中に、運命の支配者として君臨する「天」という言の葉に託されたわれわれの思いは多様性に富み、深み、高み、広がりを持って、一元的な解釈を拒んでいる。
 「天」とは、儒教的には天下万物の主宰者である一方で、わが国古来の思想から言えば、「高天原」とも言って、天神(あまつかみ)のいます場所である。さらに、道教では…、仏教では…、と挙げていくと、二元的解釈でも収まらないがそれが汎神論世界観である。それは、仏陀も、孔子も、キリストも「神」として共存できる世界観である。

 その汎神論的世界観は、古代、聖徳太子が「十七条憲法」に明示した神仏儒に道教を加えた世界観の中で、旧秩序が崩壊し、混乱を極めた戦国時代に現れた信長・秀吉・家康の天下一統事業を得て、仏という「神」を乗り越える形で、孔子という「神」が主流となる時代が訪れる。
 それがすなわち江戸時代であるが、それが発展継承されて大東亜戦争敗北までの明治・大正・昭和初期の日本、すなわち近代国家としての大日本帝国の価値規範の基底をなしたのである。
 昭和天皇が敗戦国の国民に示された国家再建の指針には、そのことまでも含まれている。戦後レジュ‐ムの脱却を言うなら、そこまでの再建を含んでいなければならない。
 だが、大衆社会においてその感性は、意識の表層からは失われてしまっている。だから、有識者が戦後の脱却を言うとき、議論がそこまで及ぶことは少ないのである。


 勝者による日本解体政策によって先人が歩んだ道はわれわれの眼から蔽われてしまったが、それを取り戻すかいなかは我々しだいである。が、それもまた先人の道の歩き方に倣って、取り戻すべきだろう。


 仁遠からんや。われ仁を欲すれば、ここに仁至る。


 人能く道を弘む。道、人を弘むるに非ず。



 そして…、


 己に克(か)ちて礼に復(かえ)り、仁を為す。一日、己に克ち礼に復れば天下仁に帰す。仁を為すこと己に由る。人に由らんや。


 この「己に克ちて礼に復る」という為仁の問題の重要な一つとして靖国神社参拝の問題がある。天皇陛下の参拝実現に向けての露払いとして政治家の、とりわけ首相の参拝は万難を排して行われなければならない。
 『孟子』流に、「仁」の仮面をかぶった「不仁」の「覇道」国家群からなる戦勝国連合(現在の国連・常任理事国)が、この問題に神経質に拒否反応を起こすのは必然ではあるが。


 【「敗戦時の記憶」終り】

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