『国体護持』…「敗戦時の記憶 【その参】」

 長谷川氏は『神やぶれたまはず』の最終章で、戦争末期に現れた「国體護持」の思想を議論の俎上に上げている。

 国體思想が本格的に時代を動かしたのは幕末・維新期にまで溯る。
 氏が国體思想の代表例として挙げているのが、藤田東湖の『弘道館述義』であるが、次のように要約されている。


 そこでの東湖は、まづ(ヨーロッパの「自然法」の考へにきはめて近い)「弘道」といふものを考へ、その「弘道」にもとづいて日本には、「宝祚無窮」(皇室がきはまりなく続きさかへること)「国体尊厳」「蒼生安寧」(天皇が民の安寧を第一の事として常に心がけられること)「蛮夷戎狄率服」(周辺諸国が自づから日本に従ひ服すること)の四つが実現されてゐる、と説く。さらに、そこで重要なのは、これら四つの事柄が互ひに循環し、つながり合つてゐる、といふことである。東湖はそれをこんな言ひ方で語つてゐる。

「蓋し蒼生安寧、是を以て宝祚窮まりなく、宝祚窮まりなし是を以て国体尊厳なり。国体尊厳なり是を以て蛮夷戎狄率服す。四者循環して一の如く各々相須(ま)つて美を済(な)す。」

 すなはち、天皇が民を「おほみたから」として、その安寧をなによりも大切になさることが皇統の無窮の所以であり、だからこそ国体は尊厳である。そしてさういふ立派な国柄であればこそ、周辺諸国も自づからわが国につき従ふ。これらはすべて一つながりの循環をなしてわが国の美を実現してゐるのだ、といふことである。この全体が、いはば広義の「国体」であると言ふことができて、いはゆる「国体思想」と呼ばれるものは、この全体的な広義の〈わが国の国がら〉を指してゐると考へてよいだろう。



 東湖の思想は幕末の志士に浸透していって、王政復古討幕運動の理想となって明治国家にも継承されていった。
 この国體思想が、大東亜戦争末期、その明治維新によって成った大日本帝国の存亡の危機に際して、「国體護持」の掛け声とともに思い出されたとしても、それは自然のなりゆきであった。
 この国體観念を、魔術的な力を振るった非宗教的宗教と言ったのが戦後民主主義の旗手的学者・丸山真男であったが、それは現象面の観察に過ぎず、わが国の伝統に対する無智が生んだ見方といっていいだろう。
 それが国體と呼ばれるか否かは別として、この観念は幕末維新期からの近代日本国家を支えてきた思念であったといっても過言ではないのである。

 現に、戦後、これを否定した途端、我々日本人は、それまで命懸けで抵抗してきたコミュニズムやアメリカニズムに代表される国際的に「強力な史観」「優勢な時代精神」に膝を屈してしまった。「自虐史観」「東京裁判史観」「唯物史観」も、スターリニズム・マオイズムやそれらの亜種も、戦後世界を席巻した「強力な史観」「優勢な時代精神」そのものである。
 しかし、それらは「勝てば官軍の言葉」どおり、われわれはいくさに敗れて、いわば力に屈して、受け入れざるを得なかっただけで、思想的に敗れたわけではない。本来「勝てば官軍」という言葉には、判官びいきの感情が強い日本人にとって、そういった勝者に対する揶揄、敗者に対する同情が込められていたはずである。
 そうであろう。
 賊軍に正義はなかったのか。
 もちろんあったからこそ、徳川や会津の名誉は回復され、いまだにドラマに取り上げられ、広範な視聴者の共感を得るのである。もちろんそのことによって勝者に正義がなかったということにはならないが、それらは後世、歴史として比較検証されるべきものだ。もちろん日本が戦勝国連合によって賊軍にされた大東亜戦争もそういった問題である。

 日本は力に屈して、多くの人間は勝者の押し付けてくる精神、史観にひざまづいた。知性の弱いものも、利口なものも、勝者の価値観に嬉々として従った。そういった中で、違和感を感じ続け、垂直方向の精神運動を示す言葉に引っかかり、これを見つめ続けた人々はむしろしっかりとした知性を持続した人びとであったといえる。思えば、あの戦争における日本人の戦いぶりそのものが、水平方向の精神運動では理解できないものであチた。
 戦後、日本が物的復興を遂げる中で、この垂直方向の精神運動が見失われていったのは無理もない。

 長谷川氏によれば、わが国の国體思想は、ギリギリの国家存亡の危機において、困難なジレンマを生じさせてしまった、という。

 当時のアメリカを中心とする国際社会は、この国體思想を中心に結束して戦っている日本人という、異教の民を根絶せずには置かない勢いであった。彼ら特にアメリカの差別意識は日本人を絶滅させても構わない、とまで高じていた痕跡がある。それが、主要都市への無差別爆撃による民間人の大量虐殺、そして、ついには二つの原爆の投下へと繋がった。もちろん彼らが、日本国民は天皇を「生き神」と仰いでいる、と勘違いしている以上、天皇の存在は邪教の根源であり、処刑されるべきものであった。
 これは共産勢力とて同じだった。彼らは天皇制廃絶を企み、敗戦革命の工作を行ってきたのである。

 そういった民族存亡の危機にあって、日本国民は「宝祚無窮」「国体尊厳」のために死をも厭わず戦い抜く覚悟を固めていった。そんな日本人にとって、降伏は天皇の命を生贄にして、自らが助かることに他ならない。「宝祚無窮」という国體を強く信じて戦っていればいるほど、そんなことはできなくなる。逆に、天皇にとって、本土決戦で一億玉砕して、大宝である国民が全滅するまで戦う、というのは「蒼生安寧」を図るという皇室の本義に反する。
 わが国の国體思想が生んだジレンマとはそのことである。

 わが国の国體が本物であればあるほど解けない難局、言わば、このゴルディアスの結び目を一刀両断にしたのが、昭和天皇の御聖断であった。
 八月九日の御前会議における昭和天皇のお言葉は、当時の内閣書記官長・迫水久常の回想によれば次のようであったという。


「このまま戦争を本土で続ければ日本国は亡びる。日本国民は大勢死ぬ。日本国民を救い国を滅亡から救い、しかも世界の平和を、日本の平和を回復するには、ここで戦争を終結する他はないと思う。自分はどうなっても構わない。」


 この御前会議の直後より、天皇のこの時のお言葉を元に詔書の作成が開始された。しかし、詔書の中に、どうしても書いてはならないお言葉があった。それは天皇陛下の「自分はどうなっても構わない」との御一言である。もしこれが書かれていたら、戦勝国側は、それみたことか、エンペラー自身が罪を認めたぞとばかりに天皇の戦争責任を追及したことだろう。その結果、当時の状況では、天皇陛下は戦争犯罪者として処刑される可能性が高かったのである。
 しかし、もっと大きな理由は、「宝祚無窮」を信じて、そのために命を投げ出して戦っている日本国民に降伏を納得させることができない、というところにある。国民の側からすれば、「天皇陛下万歳!」という、「宝祚無窮」の信念・祈念で戦っているのに、天皇陛下の命を敵に差し出すことによって成り立つ降伏は絶対に承服できない、ということである。
 そこで国民を承服させるためのレトリックとして「国体護持」という言葉が用いられたのだ。


 それが玉音放送となって結実した。


 朕、深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み、非常の措置を以て時局を収拾せむと欲し、茲に忠良なる爾臣民に告ぐ。

 朕は帝国政府をして、米英支蘇四国に対し、其の共同宣言を受諾する旨通告せしめたり。

 抑々、帝国臣民の康寧を圖り、萬邦共栄の楽を偕にするは、皇祖皇宗の遺範にして、朕の拳々措かざる所、曩に米英二国に宣戦せる所以も、亦実に帝国の自存と東亜の安定とを庶幾するに出て、他国の主権を排し領土を侵すが如きは、固より朕が志にあらず。

 然るに、交戰巳に四歳を閲し、朕が陸海将兵の勇戰、朕が百僚有司の励精、朕が一億衆庶の奉公、各々最善を尽せるに拘らず、戰局必ずしも好轉せず、世界の大勢、亦我に利あらず。しかのみならず、敵は新に残虐なる爆弾を使用して、頻に無辜を殺傷し、惨害の及ぶ所、真に測るべからざるに至る。
 而も、尚交戰を継続せむか、終に我が民族の滅亡を招来するのみならず、延て人類の文明をも破却すべし。斯の如くむば、朕何を以てか億兆の赤子を保し、皇祖皇宗の神霊に謝せむや。
 是れ、朕が帝国政府をして共同宣言に応ぜしむるに至れる所以なり。

 朕は、帝国と共に、終始東亜の解放に協力せる諸盟邦に対し、遺憾の意を表せざるを得ず。
 帝国臣民にして戰陣に死し、職域に殉じ、非命に 斃れたる者、及、其の遺族に想を致せば、五内為に裂く。且戦傷を負ひ、災禍を蒙り、家業を失ひたる者の厚生に至りては、朕の深く軫念する所なり。

 惟ふに、今後帝国の受くべき苦難は、固より尋常にあらず。爾臣民の衷情も、朕善く之を知る。然れども、朕は時運の趨く所、堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、以て萬世の為に太平を開かんと欲す。
 
 朕は、茲に国体を護持し得て、忠良なる爾臣民の赤誠に信倚し、常に爾臣民と共に在り。若し夫れ、情の激する所、濫に事端を滋くし、或は、同胞排擠互に時局を亂り、為に大道を誤り、信義を世界に失うが如きは、朕最も之を戒む。宜しく挙国一家子孫相伝え、確く神州の不滅を信じ、任重くして道遠きを念ひ、総力を将来の建設に傾け、道義を篤くし、志操を鞏くし、誓って国体の精華を発揚し、世界の進運に後れざらむことを期すべし。爾臣民其れ克く朕が意を体せよ。



 玉音は、ラヂオの電波状況が悪く、雑音だらけで聴き取りづらい上に、詔書の伝統に則った漢文特有の難解な表現ゆえに、正確に聴き取れた国民はほとんどいなかったが、これが降伏を意味することだけはわかったという。
 死を覚悟していた国民は、それを捧げるつもりの天皇陛下そのものから、生き延びよ、そして、国家再建に尽くし、国体の精華を発揚させよ、との詔を承ったのである。 


 「蒼生安寧」をはかるのは皇祖皇宗の遺訓だが、実際に、御自身が命を投げ出さなければそれを達成できないような難局に直面した天皇はそれ以前に存在しない。また国民全体のレベルで「宝祚無窮」のために命を投げ出さなければならないような国難に直面したのも有史以来初めてのことである。
 この瞬間というのは日本の歴史が凝縮した瞬間で、伝統の真価が問われる一瞬であったといえるだろう。
 玉音放送は、その答えが出た瞬間であり、音なき音、声なき声が一瞬ながら聞こえたかもしれない一瞬であった。

 玉音放送は図らずも国民的祭儀であった。
「承詔必謹」を胸に、当然激励のお言葉をいただくものと思い込んで、玉音放送に臨んだ国民の心が、このような祭儀に臨んで、一瞬の静寂を経験したのも当然であった。
 しかし、その背後に聴こえたかもしれない、音なき音、声なき声を正確に聴き取ることは至難の業である。日々の喧騒、ジャーナリズムの嬌声の中で、その一瞬の記憶が見失われていったのも自然の成り行きだったように思える。
 太宰治が「死ぬのが本当だ、と思ひました」と小説に書き、伊藤静雄が「何の異変も自然におこらないのが信ぜられない」と日記に書き付けたのは、せめてもの、プリミティヴな、その記憶の刻印であった。


 長谷川氏はこの国民的経験を旧約聖書のイサク奉献の話を土台に次のように表現している。


「歴史上の事実として、本土決戦は行はれず、天皇は処刑されなかった。しかし、昭和二十年八月のある一瞬-ほんの一瞬-日本国民全員の命と天皇陛下の命とは、あひ並んでホロコースト(引用者注・・・いけにえを丸焼きにして神に捧げるユダヤ教における儀式〈燔祭〉)のたきぎの上に横たはってゐたのである。
『通常の歴史が人間の意識に実現された結果に重点を置くとすれば、実現されなかった内面を、実現された結果とおなじ比重において描くといふ方法』が『精神史』の手法なのだ、と桶谷氏は言ふ。さうだとすれば、われわれの歴史が持った、この『神人対晤』の瞬間は、精神史といふ方法によってのみあらはれ出てくる性質のものである。ふつうの歴史家が、すべてここを素通りしていったのも当然のことであった。
 しかし、精神史のうへでは、われわれは確かにその瞬間をもった。そしてそれは、橋川氏の言ふとほり『イエスの死にあたる意味』をもつ瞬間であった。折口信夫は、『神、やぶれたまふ』と言った。しかし、イエスの死によって、キリスト教の神が敗れたわけではないとすれば、われわれの神も、決して敗れはしなかった。大東亜戦争敗北の瞬間において、われわれは本当の意味で、われわれの神を得たのである。」



 これは非常に含蓄に富んだ結論で、あの時、われわれ日本人がホロコーストのたきぎの上に横たわっていた、というのはまさにその通りだろう。
 そして、われわれは本当の意味で、わが国体が正真正銘の本物であることを証明し(何に対して?)、われわれの神を得た(どんな?)。
 ならば、われわれは〈イエスの復活にあたる意味〉についても問わなければならないのではないか。 

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