『天籟』…「敗戦時の記憶 【その壱】」

 八月に入って、十五日までは、蝉しぐれの中、毎年、我々日本人がかつて経験した異常な民族的記憶が甦る期間である。

 相変わらずマスコミでは、戦前・戦中の日本を悪に仕立て上げての反省ごっこが繰り返されるが、こういった真の反省から程遠い欺瞞的態度が物事の発展を阻害するのは、昨今の隣国との関係を見れば分るだろう。
 お隣の国々、中国や北朝鮮・韓国の主張は彼ら自身の事情によるものであって、それ以上のものではない。彼らにとって歴史とは現在の彼らの生活・利益に奉仕するためのものであって、それ以上の意味を持たないのだ。
 それは、アメリカも同様であるし、これら隣国への隷従的態度で飯を食っているわが国のマスコミ人や経済人、多くの政治家にも言えることであろう。
 彼らは歴史を語るが、一様に時流迎合に上手なのであって、上手に過去を振り返っているわけではないのだ。
 小林秀雄が言うように、われわれは過去を上手に思い出さなければならないのだろう。


 最近読んだ長谷川三千子氏の『神やぶれたまはず』(中央公論新社)は、敗戦時の見失われ、忘れられた一瞬を上手に丁寧に思い出すことに成功した稀な例で、非常に感銘を受けた一冊である。

 この本は、桶谷秀昭氏の労作『昭和精神史』の長谷川氏の読書体験が元になっている。
 当初「『昭和精神史』考」として書き始められたが、たった二回の連載で筆を折ることになった。理由は、準備不足であることに気づいたから、という。確かにこれは途方もない試みで、向こう見ずというより、むしろ偉大な一歩を踏み出したと解釈しておくべきものだろう。最初の試みの挫折から八年を経て、ようやく長谷川氏はこの忍耐を要する事業を成し遂げた。それが『神やぶれたまはず』である。

 この本で扱われているのは、様々な知識人が残した、昭和二十年八月十五日正午の玉音放送を聞いたときの記憶である。
 長谷川氏はその記憶の意味を、丁寧に問うていく。
 扱われている知識人は、折口信夫、橋川文三、桶谷秀昭、河上徹太郎、太宰治、伊藤静雄、磯田光一、吉本隆明、三島由紀夫らである。

 個々の知識人の表現の仕方は様々だが、その記憶とは、河上徹太郎の昭和二十一年春頃書かれたらしい、次の文章に象徴されるような記憶である。


「国民の心を、名もなく形もなく、ただ在り場所をはつきり抑へねばならない。それは、八月十五日の御放送の直後の、あのシーンとした国民の心の一瞬である。理屈をいひ出したのは十六日以後である。あの一瞬の静寂に間違はなかつた。又、あの一瞬の如き瞬間を我々民族が曽(かつ)て持ったか、否、全人類の歴史であれに類する時が幾度あつたか、私は尋ねたい。御望みなら私はあれを国民の天皇への帰属の例証として挙げようとすら決していはぬ。ただ国民の心といふものが紛れもなくあの一点に凝集されたといふ厳然たる事実を、私は意味深く思ひ起したいのだ。今日既に我々はあの時の気持ちと何と隔りが出来たことだらう!」


 あの時の記憶はしばらくすると占領軍の検閲を受けたジャーナリズムの嬌声にかき消されて、さしあたり、それが絶望と憤懣の表情となって現れたという。あの記憶は半年もすれば、すでにそのままに思い出すことが非常に困難になっていたのだ。戦後はその傾向にさらに拍車をかけることになり、今日まで至っている。

 あるいは直観的にわかりやすいものとして、日本浪漫派の詩人・伊東静雄の日記に書き付けられた次の文章を挙げてもいいかもしれない。


「十五日陛下の御放送を拝した直後。
太陽の光は少しもかはらず、透明に強く田と畑の面と木々とを照し、白い雲は静かに浮び、家々からは炊煙がのぼつてゐる。それなのに、戦は敗れたのだ。何の異変も自然におこらないのが信ぜられない。」



 ここにはより激しい感情が刻印されている。
 この文章は桶谷氏の心を強く捉え、一つの確信を与えた。

 昭和二十一年生まれの長谷川氏は、長じて「闇の中からうまれて出てきた」という然とした感覚を抱いていたという。それがこの民族的難題の探究に向かわせたのだが、様々な知識人の記憶を丁寧にときほぐしていった上で、氏は旧約聖書にある「イサク奉献」の話を取り上げて、理解の補助線を示した上で、最終章で、我国の国體、特に天皇と国民の関係性に眼を据える。

 そこに至るまでの記述は安易な要約を許すものではなく、こうして感想を書こうと思って再読してみると、初読時に心の片隅で感じていた困惑はより大きくなってくるのであるが、それは、一つは桶谷秀昭氏のいう精神史的な手法に起因しているように思われる。
 
 桶谷氏の探究の根本にあるのは彼の敗戦経験に由来している。氏はかつて「原体験の方法化について」(昭和三十七年)という文章の中で次のように書いたことがあった。

「現在、私のモチーフの究極のところにあるのは、いかに強力な史観、いかに優勢な時代精神のもとにあろうと、ひとりの人間の原体験は、それらと同等の独立した価値をもつという確信である。」

 これは、敗戦時十二歳から十六歳で、戦争中の指導者の言うことを真にうけた唯一のグループ、と世代論で括った鶴見俊輔を意識しての発言で、桶谷氏は、この世代論は必ずしも間違いではないが、もしこれを「だまされていた」の一言で葬り去るなら、思想の次元としてはそうした言い方は意味をなさない、という。

 引用文中の「強力な史観」「優勢な時代精神」とは、自身の経験としてはかつて真にうけた皇国史観を念頭においていたと思われるが、戦後これを語る時は、マルクス主義とか唯物史観とか呼ばれるものを意識していたであろうし、戦勝国に押し付けられた日本悪玉史観、いわゆる東京裁判史観もそのうちに含まれるだろう。

 強力な史観、優勢な時代精神はそれ自体で独立した価値を有するものの、迎合するだけの安易な精神にまで独立した価値があるとはいえない。
 与えられた「強力な史観」、「優勢な時代精神」の裂け目を覗き込み、そこに落ち込んだ経験を原体験とし、そこから這い上がった思想でなければ、それと同等の独立した価値を獲得することはできないだろう。
 桶谷氏も戦争中の指導者の言うことを真には受けていたわけで、その時代の日本における強力な史観、優勢な時代精神の中にあって、玉音放送によって、その裂け目を垣間見て、そこに一度落ち込んだ深刻な経験を原体験として見つめ続けたからこそ、『昭和精神史』は独立した価値をもつのである。

 そもそも彼がその中で育った、皇国史観と呼ばれる「強力な史観」、当時の日本人が強制を余儀なくされるほど優勢であった「時代精神」は、西洋文明が押し付けてくる「時代精神」「史観」との対決を運命付けられたものであった。
 敵は皇国史観のみならず、日本文明そのものを敵視し、キリスト教精神、近代主義、そこから派生したアメリカニズムや共産主義などの立場から、様々な難問を日本に突きつけてきた。一方で、日本が深い関係を持っていた支那には中華思想という根強い思想があって、日本を敵視した。

 この時代、すなわち昭和という時代は世界を舞台に、「強力な史観」、有力な「時代精神」が覇を競い合った時代と言えるだろう。二度の世界大戦を通じて世界の陸地の大半を植民地化していた西欧が没落し、代ってアメリカが勃興、第二次世界大戦で、受身の思想であった皇国史観が没落した。そこで勃興したのがソ連を主体とするコミュニズムであった。
 しかし、奇妙なのはアメリカ大統領ルーズベルトがソ連に対するシンパであり、指導層の少なからぬ人物がコミュニズムに犯されていたことだ。
 開戦前、日本においても首相の近衛文麿のブレーンには、尾崎秀実を始めとするコミュニストが多くいて、日米を開戦に誘導したのである。それはソ連の国益にかなっていた。尾崎の盟友、リヒャルト・ゾルゲがソ連のスパイとして検挙された事件は有名だ。
 開戦前に逮捕された尾崎は獄中で、次のように述べたそうだ。
 いわゆるA級戦犯の一人・重光葵の回想『昭和の動乱』に次のようにある。


 「尾崎は捕らえられた後に、検察当局に述懐して、『自分が長く仮面を覆った危険な潜行運動をしたその苦心のために、頭の髪は全く白くなってしまった』と云い、また、『自分等の日本赤化運動は、すでにその目的を達し、日本は遂に大戦争に突入し、擾乱は起り、革命は必至である。自分の仕事が九分通り成功しながら、今その結果を見ずして死ぬのは、残念である』と述べた。
 近衛公は、辞職後、或る日、記者に対してゾルゲ事件のことを語り、尾崎の検察当局に対してなしたる前記の告白を繰返して、『実に戦慄すべきことである』と語った。近衛公は、更にその時、『自分がある政策方針を樹てて、表面陸海軍側の賛成をも得て、これを実行に移す場合に、何処からともなく故障が起って、如何しても、思うようにならなかった』とも述懐した。ゾルゲ及び尾崎は、一九四四年に死刑執行せられ、クラウゼンや中西は終身刑となったが、終戦の際、占領軍によって逸早く政治犯として他の共産党員と共に、釈放された。宮城とヴーケリッチは獄死した。その他の連累者は、有期刑を判決されたが、これまた全部終戦の際、占領軍の釈放するところとなった。
 ゾルゲ事件は、この種事件の判明した一事件に過ぎない。共産党の世界にわたる組織は、政治、文化、経済の各部門に、或いは第五列として、或いは間諜として、あらゆる手段を用い、その目的を達するために、信念的暗躍を行っていることが、戦後次第に世界の人々に知られるところとなった。」



 当時の日本が直面していた思想的危機が尋常なものではなかったことがわかる。だからこそ皇国史観が必要とされたのである。戦後、多くのコミュニストがもぐりこんだマスコミが皇国史観を仇敵視するのもゆえあることなのである。
 
 コミンテルンのスパイたちを周りに置いたのは近衛自身の責任である。
 近衛自身が学生時代、河上肇に付いて熱心に共産主義を学んだ人物であり、彼がヒットラーに憧れを抱いていたことは有名だ。ちなみにナチスとはナショナル・ソシアリズムの略で、国家社会主義政党である。
 彼の学習院時代からの親友で、終戦時内大臣を務めていた木戸幸一もまた、河上肇に師事したマルクス主義者だ。

 木戸は敗戦の年に次のように語っていたそうだ。

 昭和20年3月3日、宗像久敬に対して、ソ連は共産主義者の入閣を要求してくる可能性があるが、日本としては条件が不面目でさえなければ、受け入れてもよい、という話をしている。さらに「共産主義と云うが、今日ではそれほど恐ろしいものではないぞ。世界中が皆共産主義ではないか。欧州も然り、支那も然り。残るは米国位のものではないか」とし、「今の日本の状態からすればもうかまわない。ロシアと手を握るがよい。英米に降参してたまるものかと云う気運があるのではないか。結局、皇軍はロシアの共産主義と手をにぎることになるのではないか」と述べている。(「宗像久敬日記」)

 これを聞いた宗像は「ソビエットと手をにぎり共産主義でゆくべきかは之は大なる問題なり」と日記に認めている。
 高松宮殿下も昭和十九年五月の時点で「実際の処、神ながらの道も共産主義も少しも変わらんではないか」と仰られていたそうである(『細川日記』)。

 社会主義者・共産主義者の一斉検挙である三・一五事件直前の一九二八年二月九日から二十五日まで、モスクワで二七ヵ国から九十二名の代表が参加し、コミンテルンの執行委員会の第九回会合が開催された。
 会議では、資本主義体制が最終的崩壊の段階に入っていること、及び、全ての共産党の正しい在り方は高度に攻撃的、軍事的、極左路線であることといったことを宣言した。
 要は、世界革命の頓挫を期に、コミンテルンはより過激化していたのだ。
 国家転覆を狙うコミンテルンの手先に対する、一斉検挙という、田中義一首相の果断は褒められていい。
 張作霖爆殺事件はそういったら流れで捉えられるべき事件である。最近はコミンテルン犯行説や息子の張学良犯行説まで出てきている。これまで犯人とされてきた河本大作はコミュニストではなかったかと思われる。

 張作霖爆殺直後の七月十七日から九月一日にかけては、第六回コミンテルン大会がモスクワで開催され、五十七ヵ国から五百三十二名の代表が出席した。
 スターリンが直接に指導して決議された綱領の内容は、いわゆる敗戦革命論に基づいたもので、次の三項である。

 (1)自国政府の敗北を助成する。

 (2)帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦に転換させる。

 (3)民主的な方法による正義の平和は到底不可能であり、戦争を通じてプロレタリア革命を遂行する。


 この三つの方針に基づくコミンテルンの暗躍こそが、日本の内政混乱、シナ事変、引き続いての大東亜戦争勃発の大きな要因となったのである。張作霖爆殺事件によって当時の田中内閣が倒れたことで、スターリンは自己の方針に自信を深めたのではなかったかと思われる。
 この敗戦革命論の実践において大きな功を現した人物が、日本では近衛内閣のブレーンを務めた尾崎秀実や風見章であり、同志であるゾルゲであったのだ。


 さて、冷戦と呼ばれるアメリカニズムとコミュニズムの戦いにアメリカは勝利したわけだが、その驕慢ゆえに、今、彼らは没落の時代を迎えつつあり、そこに付け込んで台頭したのが、コミュニズムと習合した中華思想を持つ中華人民共和国である。しかし、現状を見る限り、これももはや破裂・暴発の危機を迎えている。再び混乱の時代を迎えているのが現在である。
 日本人の多くはあの敗戦時の原体験をとことん見つめることなく終わったため、心の空白をアメリカニズムやコミュニズムで埋めざるを得なかったわけだが、あの原体験が深刻で、時代に優勢な精神に安易に迎合できなかった人々がいた。桶谷氏が『昭和精神史』で扱った人びとがそうであるし、桶谷氏自身がそうであった。
 現在の世界的な思想の混乱の中で、もし日本が自主独立の道を歩むなら、あの原体験をとことん掘り下げて、その原石を切磋琢磨し、何かを創出していく作業は避けて通れないところだろう。


 長谷川氏は桶谷氏の事業を引き継いで、あの瞬間を経験した日本人の内側に入って、その経験の意味を問うていくのであるが、それは扱われた当人の思想の未熟さや誤解を含んでいる。特に「神」観念の混乱においてそれは著しいように思われる。長谷川氏もまた、外来の一神教の絶対者を「神」と訳したことによる近代日本における「神」観念の混乱を混乱のままに受け入れて叙述を進めていて(意図的にだと思われるが)、そのことが読んでいて混乱してくるのである。
 結局の所、それを抜け出すには、長谷川氏が「イサク奉献」の話に移る前に取り扱った三島由紀夫の章で示しているように、また最終章で示しているように、歴史事実を語ることによってしか解消されえないであろう。

 これは歴史教育の重要さを物語っているが、日本の近現代史は子供達の教育からすっぽり抜け落ちていて、日本に悪意を持つ外国の意を受けた、あるいは迎合したマスコミの印象操作の恰好の餌食となってきた。歴史に関心を持たない多くの人が、戦前の日本は悪いことをしたと漠然と思いこまされている。
 だが歴史事実を知ればそんなことはない。逆に彼らの悪が明らかとなる。だから歴史認識問題は未だに政治問題なのである。
 歴史事実を知ることは、勝利によって犯罪を問われることのなかった第二次世界大戦における戦勝国(一九四九年建国の中華人民共和国を一応入れるとして)による世界秩序に対する挑戦となるのである。

 長谷川氏が最終章で示しておられるとおり、この問題はとことん掘り下げていけば、国體、伝統の問題に行き着く。
 自分なら、単刀直入にそこから入ってしまい、長谷川氏のような、個々の精神の丹念な検証作業はできないだろう。
 むしろ戦後生まれの自分が敗戦という事実を踏まえつつ、丹念に検証したいと思うのは、我国の国體、伝統とは何か、という問題である。
 ここ数ヶ月書いてきた、西尾幹二氏の「『論語』は嘘の固まりですから」との一言に端を発する日本の伝統に関する記事は、その入り口となるもので、大東亜戦争をわれわれがどのように捉えるか、捉えるべきか、ということに繋がってくるということは常に意識している。

 だから、桶谷氏や長谷川氏があの日本国民が経験したシーンとしたあの一瞬をどのように受け止めたかに興味があった。

 桶谷氏はあの瞬間、日本国民は「天籟」を聞いたのだ、と表現している。

 ここでは長谷川氏が引用している範囲内で引用してみる。

 桶谷氏は言う。


「八月十五日正午、昭和天皇の終戦の詔勅を聴いて、多くの日本人がおそはれた『茫然自失』といはれる瞬間、極東日本の自然民族が、非情な自然の壁に直面したかのやうな、言葉にならぬ、ある絶対的な瞬間について考へた。そのとき、人びとは何を聴いたのか。あのしいんとした静けさの中で何がきこえたのであらうか。
 『天籟』を聴いたのである、と私は書いた。天籟とは、荘子の『斉物論』に出てくる言葉で、ある隠者が突然、それを聴いたといふ。そのとき、彼は天を仰いで静かに息を吐いた。そのときの彼の様子は、『形は槁木(枯木)の如く、心は死灰の如く、』『吾、我を喪ふ』てゐるやうであつたといふ。
 さういふ状態でなければ『天籟』は聞こえない、と荘子は隠者の口を通して語つてゐる。」



 長谷川氏はこれを引用したうえで、次のように敷衍している。


 「実は、この『天籟』といふ言葉こそが、『昭和精神史』二十章において、桶谷氏があの「今日なほ納得のいく答へをみいだせない一つの謎」に対して見出した答へ-あるいは答へへのヒント-なのであった。
 『天籟』とは、文字通りには「天のひびき」といふ意味の語であるが、荘子の『斉物論』において、これは人のたてる音である『人籟』、大地の噫気(あくび)たる風のたてる翏々(りゅうりゅう)たる音である『地籟』と対比して、いはば或る種の超越的な観念として語られてゐる。すなわち、それ自体はいかなる音でもなく、ただもろもろの音を音たらしめてゐるもの-その〈沈黙としての音〉が天籟であるといふのである。
 …(中略)…(桶谷氏にとって)重要なことは、この『天籟』といふ言葉によって、あの『無表情な虚無』の謎-日本民族にとっての、最も貴重な瞬間と、戦後のもっとも異様な症状とを同じ一つの表情がつないでゐるといふ謎-が解決の糸口を与えられた、といふことだったに違いない。
 この『天籟』といふ言葉をもう一度呼び出すことによって、桶谷氏は『昭和精神史 戦後編』の主題をつかみ得た、と言ふことができよう。…」



 桶谷氏は『天籟』という言葉によって、当時日本人の内側に起きた精神史的事件を、「垂直に天にむかひ地に潜行する運動」と捉えた。垂直方向の精神運動だから、水平方向の運動に応答していない。二次元の眼で水平運動を注視していれば、垂直方向の動きは停止したただ一点にしか見えないのである。
 当時の日本人がジャーナリズムの嬌声の中で、絶望と憤懣の表情を見せながらも、占領軍の横暴という水平方向の激しい動きに、不気味なほど従順な態度を見せたのも、この応答のなさに起因している、というのである。

 戦勝国側やこれに迎合したマスコミがこの一点を黒色に塗りつぶすことに嬌声をあげ続けるうちに、国民はあの一瞬を忘れ、水平方向のみの視点で世界を眺めるようになった。それは焼け野原を生き抜かなければならぬ生活の必要性がそうさせたのであり、やむを得ぬ面もあった。しかし、あの一瞬が日本国民の精神にある刻印を残したのは、八月に入ると、たとえそれが誤魔化しに満ちていようと、二度にわたる原爆の投下があった六日と九日、および玉音放送が行われた日である十五日に、様々な場で思い出されることにも現れているだろう。

 われわれは、中国や南北朝鮮、アメリカ、そしてそれら優勢な時代精神、強力な史観に迎合したマスコミの嬌声に惑わされることなく、上手に、丁寧に過去を思いだす必要がある。長谷川氏の『神やぶれたまはず』はそこへの扉をひらく貴重な一冊である。

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