日本文明の二重性

 西尾幹二氏を中心とする現代史研究会メンバーによる討論を見て、興味深いことが語られていたので紹介したい。
 西尾氏自身、歴史は未来から来るものであり、我々が動けば歴史は動く、というだけあって、現在の国際政治を意識しながら、歴史を深く掘り下げた内容の濃い討論となっている。


1/3【現代史研究会SP】「反日の米中連携」その実態と行方[桜H25/4/27]
http://www.youtube.com/watch?v=zctOVmDSkN0&feature=youtube_gdata

2/3【現代史研究会SP】「反日の米中連携」その実態と行方[桜H25/4/27]
http://www.youtube.com/watch?v=okJ-Cyukgc0&feature=youtube_gdata

3/3【現代史研究会SP】「反日の米中連携」その実態と行方[桜H25/4/27]
http://www.youtube.com/watch?v=M9Si4KveAPc&feature=youtube_gdata

 
 ここで取り上げたいのは、3/3の動画の九分頃からの西尾氏の日本文明観、国体観である。

 大雑把にまとめると次のようになろうか。


 〔日本人は天皇を超える神を必要としている。
 日本の文化は二重性があって、神仏信仰で、神と仏の両方があった。天皇を超える仏教という超越原理を持つ文化、言わば形而上の世界があって、この二重性が日本を豊かにしてきた。
 これによって西欧文化を理解することができたが、支那やアメリカには形而上の世界がない。〕

 これをそのまま受け取ることはできない。
 確かに、表面的な観察では支那やアメリカにはそういったところは見出せないかもしれないが、西尾氏自身、アメリカはキリスト教原理主義の国であって、日米戦争は宗教戦争であった、という卓見を示しておられる。
 また、支那の場合も現代社会はそうかもしれないが、古典文学の世界では必ずしもそうではなく、政治の場においても、天命思想にもとづく皇帝による専制支配と天を祭る儀式や臣下との関係を規制する儀礼は、それがフィクションであるにせよ、密接不可分の関係にあった。そもそも形而上・形而下という言葉自体、支那の古典『易経』を出典としている。

 日本文化の持つ二重性がこの国を精神的に豊かにしてきたというのは見識ある知識人が夙に指摘してきたところであって、福沢諭吉も『文明論之概略』「西洋の文明を目的とする事」で、別の含意ながら、支那の元素は一、日本の元素は二であるとして、そのことが西洋文明を理解しやすいものにしたという趣旨のことを述べている。

 福沢の言う二つの元素を今の言葉に翻訳すれば、権威と権力で、日本は言わば権々二分の国であるということだ。
 支那は周末期諸子百家による多事争論の社会だったが、秦の始皇帝による統一以来、権威と権力が一体となって、一元素の国になった。
 日本はよく知られているように、中古以来、武家による権威と権力の分離が行われて、二元素となった。
 これは日本にとっての僥倖で、元素が一であれば、思想の向かうところは必ず一方に偏し、胸中に余地を残さない。しかし、日本は元素が二で、元素が二つあれば、その自由な運動を許すことになって、その間に一片の道理を雑(まじ)えざるを得なくなる。このように人心活発は自由の気風を生じ、逆に道理を必要とする。
 この精神が西洋文明の摂取という困難を、他文明よりは比較的容易にしてきたというのである。

 大雑把に要約したが、ダイナミズムに富んだ文明理解である。
 しかし、それは踏み込んでみれば、そもそも日本の神道文化の寛容性が土壌になっている、ともいえるだろう。
 西尾氏の言う神仏信仰の二重性の継続的発展は、この二元素文明が生じさせたものともいえるだろうし、また別種の二重性をも生じさせてきた。

 しかし、仏教の教えが育んだ形而上世界の追及は鎌倉時代に最盛期を迎えて、以後停滞、そして沈滞に至ったような印象を持っているがどうだろう。
 仏教のことは詳しくないので断言はできないが、戦国時代、殺生を禁じられているはずの仏教勢力は、いわゆる僧兵を養って、自ら殺生を行うほど頽廃していたのであって、この勢力を殺ぐべく起ち上がったのが織田信長であった。
 織田信長は狂気のみの英雄ではない。理性の英雄でもある。
 この二つは言わば英雄の中に生ずる二元素である。
 彼は大名に比肩する城塞を構えた仏教勢力を乱世の一要因と見、根源的に正そうとした。その結果、根切りが必要であるとの結論に達したまでである。
 彼は、仏教の純粋な信仰そのものまで根絶しようとしたわけではなかったのだ。

 彼以後の支配者は天下統治の見地から、仏教を「敬して遠ざく」政策を採って、幕末に至った。信長を非難するばかりで、そういった自己の頽廃を直視できない仏教が再興して、日本文明の再興進展に大きく寄与することはないのではないだろうか。 
 仏教は確かに庶民の生活にまだ生きているかもしれないが、それが大きなエネルギーとなって、日本の文明を動かすことはもはやないだろう。
 最近も、仏僧が北朝鮮のエージェントのような行動を為して話題になったが、これを非難する大きなエネルギーは、仏教界から湧き出てこない。

 先ほどの「敬して遠ざく」とは『論語』の言葉だが、戦国時代の混乱から信長・秀吉・家康の三代を経て、日本は一応の統一を見、これを継承発展した江戸期を経て、幕末維新を迎える過程で、この思想は二元素を維持したままの統合に重要な作用を働くことになるが、そのことは「皇室と『論語』」の次回で触れたい。

 だが、これが西尾氏と自分の見解の違いになるが、日本人が今後必要とする超越的存在は、少なくとも仏ではあるまい。
 もちろん聖書の「神」でもなかろう。
 むしろ、それはおそらく、我々が文字との出合い以来、育み、戦国期のキリスト教との邂逅を経て磨き、発展継承してきた、我々の言葉の蓄積の中に潜在的に眠って、未だ体系化のなされていないし、またなされるべきでもない潜在的信仰であろう。
 それは価値規範の危機に直面して初めて自覚される信仰である。
 それは西郷南洲翁や中村敬宇流に「敬天愛人」と言ってもいいし、夏目漱石流に「則天去私」と言ってもいいし、福沢流に天道と言ってもいい、天を超越的存在とし、天に仮託されるなにかである。

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