転がらぬ岩

 西尾幹二氏の一言に端を発して書き始めた「皇室と『論語』」はようやく核心に入ろうとしているが、文章がなかなかまとまらない。

 この内容は『西郷南州伝』を書いているうちに、すなわち明治維新という故き事を温めるうちに心の中に醸成されてきた日本の国体観、文明観であって、いずれ書かなければならないと思ってはいたものの、まだまだ先のつもりであった。まだまだ調べなければならないことは多いし、どう書いていいかわからなかったからである。これは今でも変わらない。

 西尾氏は支那における『論語』は嘘の固まりと言ったのであって、これに異議を唱えるつもりはない。その通りだからだ。昨今世界中に設立されている孔子学院の例を挙げれば十分であろう。あれは情報工作機関である。

 私が西尾氏に言いたかったのは、日本には支那とは違う『論語』解釈の歴史、受容の歴史があるのであり、これは文明の根幹に関わることであるから、「『論語』は嘘の固まり」との言い切りは、支那嫌いが高じて、『論語』読まずの『論語』嫌いが多い保守論壇の誤解を増長させる恐れがある、ということであった。

 保守論壇に横行している儒学批判、ひいては『論語』批判は程度が低いものが多い。
 孔子もまた食人の習慣があったとか、論外である。
 儒教体制が東アジアに停滞をもたらしたとかも皮相の見解であって、そのような面が確かにあるにしても、どのような社会規範・社会体制も、文明が衰退期に入って、人が精神の溌剌さを失って、これに屈従すれば、社会は停滞するのであって、これは古今東西変わらぬ現象だろう。
 要は衰勢の中にあって、人がもがき苦しんで、これに違和感を感じ、抗おうとする中から、文明再興の萌芽は生まれるのであるが、外的要因がその芽を摘んでしまうことが多いのだ。
 その意味で、無関心とか、諦観こそがわが内なる敵といっていいかもしれない。

 自分の問いかけと、氏の返答は食い違っていて、私は古くから生きる規範として日本人に読まれてきた『論語』の、日本人なりの通釈の歴史があり、それに則って行動することで日本の歴史が動かされてきた面があり、それはどこまでも歴史である、と言いたかったのだが、西尾氏は『論語』も含めて聖典の動かぬ真実を求めてもそれは原典が今に伝わらない以上、不可能であり、求めても無駄である、と答えたのである。

 私も西尾氏の著作『江戸のダイナミズム』でそれは勉強しており、趣旨は了解しているつもりである。
 しかし、人間の知性や認識能力は完全どころか欠陥だらけであり、誤解も含めて思想を形成し、歴史を動かしていく。例えば、中国や韓国の主張する近現代史は捏造だらけで、稚拙な政治的デマゴーグに満ちているが、我々日本人の側が、自己主張の強い意志を持たず、それどころか向こうの言い分を無気力に受け入れてしまったりすれば、言ったもの勝ちで、そのように歴史は動いてしまうのである。

 古来『論語』は日本人に大きな智慧をもたらしてきた。
 先人の重要なバックボーンとなってわが国の発展に寄与してきた思想の一つである。

 確かによく指摘されるように儒教には実学の軽視という欠陥がある。
 それは、この『論語』に既に現れているわけだが、孔子自身は苦労人で自ら「吾れ少(わか)くして賤し、故に鄙事に多能なり」というだけあって、農事に携わった経験も言葉ににじみ出ているし、司馬遷の『史記』によれば役人をしていたこともある。下層民としての実生活の上に、これらの思想を築き上げていたのだ。孔子が世に知られ、人生経験も蓄積して思想らしい言葉を語るようになったのは、ようやく四十という不惑の齢を過ぎてからのことである。

 だから、実務に従事する日本人にこそ、『論語』を読んで欲しい。
 そう考えて、『論語』の復権に取り組んでいる。
 『論語と算盤』の著者で経済人の渋沢栄一も同じ趣旨で『論語』を称揚した。私はまた別の側面から光を当てようとしているだけだが、あまりラジカルだと、人はついて来れないらしい。
 ラジカルは過激とか、急進的な様を表す言葉だが、本来は、根本的とか根源的という意味合いの言葉である。根源的言動は一般の眼には、時には過激、時には急進的に映るが、本当の意味で時代を動かすのはこういった人々であろう。


 今回、ひょんなことから準備不足のまま書き始めたが、思わぬ収穫は、これまでただ『論語』をわが国にもたらした人物ぐらいにしか思っていなかった王仁という人物が、平安時代まで公家社会において、非常に尊敬されるべき重要な人物として記憶されていたことを知ったことにあった。
 我々の先人が文字を学ぼうと決意したのは、賢人王仁を通じて、賢者の言葉を学ぼうとの動機を強く持ったのがきっかけであり、それは朝廷において『論語』の名を以て記憶された。『古事記』や『日本書紀』の記述はそのように読める。
 この出会いは、日本人の言葉や文字に対する感性を決定付けたように思える。

 一方で、王仁もまた日本の文化を理解しようと努めたようで、難波津の歌は、和歌の父のような存在である、とは紀貫之が『古今和歌集』「仮名序」で論ずるところである。そして、おそらくは書き言葉としての日本語の父とも伝承されていた。
 だが、いつの頃からか、それらの記憶は忘れられた。
 時の経過もさることながら、日本語としての文字の使用に習熟し、日本語として確立されたことが、文字の父としての王仁の存在を忘れさせたのであろう。


 このようなことは、支那嫌い、『論語』嫌いの保守には大した意味のないことかもしれない。しかし、保守は国を愛すとか、歴史を大事にとか、伝統を重んずるとか、常々言っているはずだ。ここに好き嫌いという私を差し挟んではならないのではあるまいか。
 中国の脅威が差し迫っているからと言って、敵性言語として、敵性思想として、この伝統を抹殺しなければならないとすれば、それこそが支那流だろう。
 支那人は言語を、『論語』を、嘘の固まりにしてしまった人々。
 日本人は言語を、『論語』を、まこととしてきた民族である。
 そこをこそ直視すべきなのではあるまいか。

 これは信仰の話ではない。
 どこまでも歴史の話として書いているつもりである。

 こういった話は迂遠なようで、読者の関心も薄いようだが、このことの重要性をちゃんと指摘する知識人がいないようなので、書き続けなければならない。



 よく日本文明は融通無碍といわれる。古くは支那文明、新しくは西洋文明を貪欲に学び、時にこれに習って、近代化を成し遂げてきた。

 "Rolling stone gathers no moss."

 「転石、苔を生さず」という。
 日本文明の持つ国際性にはこういった側面を見ることが出来よう。 
 しかし、国体は変化を本質とするものではあるまい。むしろ国体を守るために変化を余儀なくされるものだろう。
 日本の国体には、転石苔を生さずと観察される面があるものの、一方で、これら転石を飲み込んで、皇室を中心とする「細石の巌となりて苔の生すまで」の伝統が、その球体の中心に、重心になっている。 

 転石たる民を中心にプラグマティックに歴史を見ていけばなかなかわからぬが、皇室を中心にすえて歴史を見ていけば、自ずとそういう歴史観、国体観が拓けて来るだろう。

 「ウィキぺディア」の解説によれば、「さざれ石(細石、さざれいし)は、もともと小さな石の意味であるが、長い年月をかけて小石の欠片の隙間を炭酸カルシウム(CaCO3)や水酸化鉄が埋めることによって、1つの大きな岩の塊に変化したものも指す。学術的には『石灰質角礫岩』などとよばれる。石灰岩が雨水で溶解して生じた、粘着力の強い乳状液が少しずつ小石を凝結していき、石灰質の作用によってコンクリート状に固まってできる。」となっている。
 
 要は、この、長い年月をかけて小石を凝結させる作用を果してきた重要な要素の一つが『論語』であったことを言いたいのである。
 それは聖徳太子の「十七条憲法」以来の、皇室の下での、君子相和し、小人同ず、の「和」の伝統であった。
 『論語』は、石ころを切り上げ、磋(みが)き上げ、琢(う)ち上げ、磨(と)ぎ上げて、玉となす事も日本人に説いてきたのである。


 最近は余り聞かなくなったが、好きなロックバンド「レッド・ツェッペリン」に「天国への階段」という邦題の名曲がある。
 かのカラヤンがこの曲を聴いて完璧なコード進行だと言ったとか。
 ともかく神秘的なムードを漂わせた名曲で、彼らにしては珍しく、音楽への確信を謳った、その謎めいた歌詞をリスナーに聴かせたかったようで、アルバムジャケットに独特の字体の歌詞が手書きで書き込んである。

 Led Zeppelin-STAIRWAY TO HEAVEN

 [http://www.youtube.com/watch?v=kBPVlTibs0o]


 最後の一節は次のようになっている。

 And as we wind on down the road
 Our shadows taller than our soul.
 There walks a lady we all know
 Who shines white light and wants to show
 How everything still turns to gold.
 And if you listen very hard
 The tune will come to you at last
 When all is one and one is all
 To be a rock and not to roll.

 And she's buying the stairway to heaven



 拙いながらも訳せば次のようになろうか。

 「我々が道をくねくね下り歩いていくにつれて、
 我々の影は我々の魂より大きくなっていく。
 ほら、あそこに我々みんなが知っている女が歩いている。
 彼女は白い光を輝かせ、見せたがっている。
 いかに全ての物が今でも黄金に変わりうるかを。
 もし君が一所懸命に聴くなら、その音はついには君に聴こえて来るだろう。
 一つが全てとなり、全てが一つとなるとき、
 それは岩となって、決して転がらなくなる。

 そして、彼女は今も天国への階段を買い求めている。」
 
 
 我々は 「転石」"Rolling stone "であることをやめて、天国への階段を求めて、信じるものを音にする、だから一所懸命聴け、というのである。
 この決意表明の通り、彼らの音楽は音の核を取り出して、それを固まりにしてぶつけてくるような、ダイナミズムと音像によって聴かせるサウンドになっていく。

 「天国への階段」が収められているのは4枚目のアルバムだが、6枚目の「フィジカル・グラフィティ」におさめられた「カシミール」はその代表的な曲だろう。アルバムでいえば7枚目の「プレゼンス」は、無駄をそぎ落として、音の核だけで作られたような音の構築物のようなサウンドである。
 これらはいまや不動のロック・クラシックとなっているが、後期のサウンドは、彼らが『天国への階段』に詠い込んだように、これを信じて、これをハードに聴かなければその本当の凄さは理解できないだろう。
 彼らの音楽を不動のロック・クラシックにしたのは、この「天国への階段」以降の創作活動であった。 

 同じようなことが私がこれまで書き、またこれから書こうとしていることにも当てはまる。

 諸君、一度読んだ位で理解できると思わないでくれたまえ。
 私は一歩一歩踏みしめながら、確信を言葉にしている。
 言わば、天国ならぬ、天への階を求める者である。
 それを手にする資格が自分にあるかどうかわからない。だが、天を敬い、人を愛して、それを手にした人がかつてはこの国にいた。
 いや、今もいるだろう。
 それは決して一人ではない。
 その尊敬すべき人物たちについて語ることぐらいは自分にも何とかできるだろう。
 そこに何かあると信じ、一所懸命読んでくれたまえ。

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