安倍首相の歴史的使命

 16日の衆院議院総選挙で、自民党が単独過半数(241議席)を大幅に上回る293議席を獲得して政権与党に返り咲いた。公明党との連立で言えば、計323議席となり、参院で否決された法案の再可決を可能にする320議席(3分の2)以上を押さえたことになる。

 自民党の 安倍晋三総裁は、来週の特別国会で第九十六代総理大臣に選出されることになる。
 現状では、最善の結果が出たと思われ、素直にこれを喜びたい。


 だが、政権の前途は問題が山積だ。
 まずは思想信条とは関係なく、国民の広範な支持を獲得すべく、円高・デフレ対策の実施に力を入れていくべきだろう。
 その成果によって得た広範な支持を基盤に、スローガンの「日本を取り戻す」政治が行われなければならないが、その取り戻すべき日本が一体どのようなものなのかが気になるところだ。

 前回の総理大臣就任時、まずなした村山談話の踏襲、祖父岸信介の事跡の否定的評価、靖国神社参拝の曖昧化、中国との融和優先、という過ちを再度犯してはならない。

 中国のメディアの論調にはすでに、「タカ派」の再登場に警戒感が漂う一方で、前回日中関係の修復で見せた安倍氏の現実を見る柔軟な政治姿勢に対する期待感も表明されている。この報道には日本における「タカ派」総理大臣の出現を望まぬ中国共産党からのメッセージが込められていると見るべきだろう。何と言っても、かの国には言論の自由など存在しないのだから。
 もちろん、それに乗ってはならない。
 なぜなら、マスメディアの情報操作とは裏腹に、相手国の経済に依存しているのはむしろ中国経済のほうだからだ。日本のGDPにおける対中輸出の割合はたかが2パーセントに過ぎないのである。経済関係の冷えこみにより、日本経済が受ける影響は少ないが、中国経済は大打撃を蒙ることとなる。
 反日を党是とする中国共産党はいまや、高まるバブル崩壊の足音に恐れおののいているのが現状であり、中国国内の反日世論を刺激する「タカ派」総理の出現は、習近平体制への過渡期にある中国共産党にとって本当に厄介な事なのである。
 むろん、ここに言う「タカ派」との表現は、彼ら反日国家にとって、ということであって、日本国民から見れば、また国際常識から見れば、ようやく現れたまともな宰相ということである。日本のまともな政治によって、反日はむしろ中国共産党にとってのアキレス腱ともなりかねないのである。

 日本文化チャンネル桜の水島総氏は安倍氏について、選挙前、今回は前回とは違うようだ、と言っていたが、そうなのだろう。そうでなければ、安倍総理再登場の歴史的意味もない。

 日本という国家、文明が長い歴史を有する以上、取り戻すべき日本は、歴史の視座にどっかと腰を据えたものとならなければならない。それほど現在の日本は国家の存亡において本質的危機に直面しているのである。それは、幕末以来、大東亜戦争を経て、連綿と続く民族的課題といっていいだろう。


 安倍氏の祖父・岸信介氏は、大日本帝国政府商工省の官僚であり、その後、満州国建国とともに彼の地に渡り、国務院高級官僚として「満州開発五カ年計画」に携わった経歴を持ち、帰国後は、東条内閣に商工大臣として入閣した。敗戦後、A級戦犯容疑者として逮捕されるも不起訴となり、公職追放の憂き目を見た。追放解除後は、政界に復帰し、自由党に入党したが、吉田茂の「軽武装・対米協調」路線に反発して除名され、その後、鳩山一郎と日本民主党を結成。保守合同により自由民主党が結党されると幹事長に就任した。石橋湛山内閣では外務大臣に就任し、次いで後任の内閣総理大臣となって、日米安保の確立に尽力した。(以上「ウィキ」解説を要約。「岸信介」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%B8%E4%BF%A1%E4%BB%8B

 言わば、戦前-戦中-戦後の日本の歩みを象徴する人物の一人で、略歴を見る限り、当時の革新官僚のご多分に漏れず、国家社会主義に傾倒した人物であったようだ。だからこそ、社会党に入党しようなどという選択肢もありえたのだろう。

 安倍氏が取り戻すべきとする日本のあり方はここを源泉とするものになるはずで、彼が保守の本道を歩むとすれば、祖父の辿った道について顧みることが欠かせないだろう。中でも「自主憲法」の制定は、祖父の政治的遺言と言ってよく、戦後日本にとっての最重要課題だろう。
 少なくとも、政治的発言とは言え、前回のように、この祖父の事跡を否定するようでは、本当の日本を取り戻すことはおぼつかないと言わなければならない。
 政とは正なり。
 まずは名を正すところから政治を始めよ、と言ったのが、かの孔子である。これは「正名論」と言って、伝統的な言葉正しい政治のことであり、欺瞞に満ちた民主党政治に対するアンチテーゼである。
 日本的儒学の伝統に基づく明治維新がこの基本原則に則って進められたことを回顧すべきだろう。


 ここでより大きな歴史の視座に腰を据えて、安倍総理の果すべき歴史的役割について考えてみたいと思う。

 安倍氏の志が本物であり、祖父・岸信介という源泉に立ち返って、自身が持つ政治家としての能力を最大限発揮したとして、どのような事績を歴史に刻むことができるだろうか。
 そもそも彼が所属する自民党とは、自主憲法制定を党是として掲げながら、それを為しえなかっただけでなく、その腐敗・堕落から国民の支持を失って、民主党という、外国勢力とみなさざるを得ない革命政党に与党の地位を奪われてしまった政党である。その責任は限りなく重いと言わざるを得ない。
 今回、おそらく多くの国民は消去法で自民党を択ばざるを得なかったと思われる。民主党政治があまりに酷くて国民にそっぽを向かれただけで、自民党がその過ちを償って、信頼を回復したと言うわけではないのだ。むしろ信頼回復はこれからの政治にかかっていると言わなければならない。
 安倍氏を総裁として政権与党に返り咲いたはいいが、少なくとも総裁選において議員票と党員票の合計で最も票を集めたのは、安倍氏ではなく、石破氏の方だったことが問題である。なぜなら石破氏と言えば、防衛庁長官を務めた人でありながら、筋金入りの自虐史観の徒なのである。(参照『えんだんじのブログ』「石破幹事長は邪魔だ!」http://www.endanji.com/?p=543

 結局、議員による決戦投票で安倍氏が逆転したわけだが、これまた自虐史観の谷垣氏に続いて、石破氏がこれだけの支持を得、幹事長に起用せざるを得なかった事情を見ると、保守政党としての自民党の体質は、政権交代前とさほど変わっていないのではないかと疑わざるを得ないのだ。
 さらに自民党は今後も中国共産党との関係が深い公明党と組んで政権を運営して行かなければならない。
 安倍氏の志がいくら良い方向を向いていたとしても、この状況を背景に、どれほどのことをなしうるだろうか。すでに安倍氏はデフレ・円高対策に意欲的であるが、これを切り口にしていくしか選択肢はなかった、とも言えそうである。むろん、この選択は、政略としても正しいと思えるのであるが。

 ここで連想するのが、最後の将軍徳川慶喜である。
 安倍氏が置かれた歴史的位置は慶喜のそれに極めて似ている。

 徳川慶喜は若い時から英明との声が高く、将軍職を継いだ時には、慧眼な木戸孝允をして、家康公の再来とまで言わしめた人物だ。家康の再来は言いすぎだろうが、少なくとも政治家としての実力は、徳川家の中興を担うだけの資質を持っていただろう。すでに京において、将軍後見職や禁裏御守衛総督として十分な政治経験を積んでいた。

 貴公子としては並外れた決断力を持ち、将軍就任後は、長州に敗れて地に堕ちていた幕威の回復に努めた。当時、幕政の回復は日本の政治の回復を意味していたのである。列強公使、中でも英国公使パークスは彼の将軍としての登場を心から歓迎した。
 ここで薩摩藩の断固とした行動がなかったならば、その後の歴史はどうなっていたか分からない。日本再生に向けての改革が、徳川家のイニシアティヴで進められることになったであろう。
 彼の胆力が、大政奉還という、幕府支持者の思惑とは別の方向で発揮されたのは、薩長の断固とした行動があったことが外的要因ではあったが、内的要因としては、勤皇を義務付けられていた水戸徳川家の家訓が彼を強く拘束していたからだ。幕政支持者からは無しと見られた彼の胆力はこの方向で発揮されたのである。

 ある意味、江戸城無血開城に至るまでの維新史の流れは、薩長とこの慶喜の合作であったという見方もできるのである。薩長との軋轢に対する慶喜の苦悩と努力が、維新改革に向けての前段階に政治的空白を作らしめず、また比較的スムースに政治権力の移譲を可能にしたという見方もできる。もっとも、彼慶喜は薩摩藩の行動を奸悪で排除すべきものとみなしていたのであったが。

 『西郷南洲伝』「維新初政」編の次回配信分で徳川慶喜について書いているが、実は私は、この最後の将軍を歴史的に高く評価している。
 彼は江戸期の良質の傳統を継いだ貴公子であり、その故に、徳川末期の政治において、言わば歴史の意思というものに苛め抜かれたのであったが、これを最後まで背負い抜いたのである。

 一方で、安倍氏もまた、戦前-戦中に繋がる、戦後の良質の伝統を引き継いだ人物である。保守の支持者はそう見ているのだろう。
 おそらく、その見方は間違ってはいないと思われるが、そもそも、岸信介もその潮流にあった、戦前の革新の試みは、伝統という観点から見て、根本的な欠陥を持っていたといいうるのではないだろうか。

 彼らが皇道精神の名の下、行おうとした全体主義的施政は、幕末から明治にかけて国民精神となっていった武士道精神を抑圧した。
 これは彼等エリート官僚・軍人達が、当時世界の潮流であった、共産主義や国家社会主義にかぶれていたからである。国家指導者が明治以来の日本を支えてきた武士道精神を封建道徳として否定しては、その改革は、足元のぐらついた、脆弱なものとなって、やがてはやせ細ったものになっていかざるを得なかっただろう。
 硬直化した官僚機構のまま、日本は戦争に突入し、修正の利かぬまま、敗戦へと向かうことになるが、近代思想に基づく戦略や政策の破綻とともに明らかになってきたのは、近代日本を支えてきた精神が、実は、国民一般にまで浸透していた、エリート達が封建的との名の下に葬り去ったはずの武士道精神であったと言えるのではなかろうか。

 武士道精神と一口に言っても、その内容は多様で簡単には言い表せぬものがあるが、少なくとも、明治維新を担った武士達のエートスは、戦国期の荒々しくも素朴な武士道が、儒学を中心とする学問的陶冶を経て、熟成されたものであり、それは日本のあり方、すなわち国体観や世界観を備えるまでになっていたのである。
 しかし、いざ明治政府が出来上がってみると、これらのエートスは抑圧を受け、政府は開化の潮流に流されていくことになる。その分岐点となった事件が、いわゆる征韓論破裂から西南戦争にいたる一連の事件である。以後政官界における主流は欧化主義となり、第三世代である昭和の官僚、知識人は、大正時代に流入した最新の思潮として共産主義思想の洗礼を受けることになった。

 その弊害が最も顕著に現れたのが、近衛内閣であろう。
 近衛文麿自身が学生時代に共産主義に傾倒した人物であり、国家社会主義であった。彼がある仮装パーティーでヒットラーに変装した写真は有名だが、彼が憧れたナチスとはナショナル・ソシアリズムの略であり、正式名称の和訳は、国家社会主義ドイツ労働者党である。
 日本における共産主義者と国家社会主義者の違いは、皇室の存在を否定するか、これを奉戴するかにあり、国家社会主義者は、この天皇奉戴の一点でかろうじて伝統と繋がっていたと言いうるだろう。しかし、それ以外の点は、封建的との名で傳統を切り捨てており、むしろ思想的には共産主義との親和性を持っていた。
 それゆえに、近衛首相の周りには正体を隠した共産主義者が多く入り込んで、国策に大きな影響を与えたのである。有名なところで言えば、スパイ・ゾルゲの一味であった尾崎秀美を中心とする「朝飯会」のメンバーだろう。
 彼らは、支那事変の泥沼化による日本の疲弊、そして南進政策によるアメリカとの開戦を画策した。それを支えた理論が敗戦革命論である。これは敗戦の混乱の中でこそ、革命は成就する、との恐ろしい考えで、共産主義者達は、祖国ソ連を守るためにも、日本をアメリカとの戦争に向かわせようとしたのである。アメリカの方では、ルーズベルト大統領の周辺に入り込んだ共産主義者(例えば、ハリー・デクスター・ホワイトなど)が日本との開戦に向けて策動した。むろんそれは共産シンパであったルーズベルトの目指すところでもあった。
 敗戦後、共産主義運動が急激に活発化したのはこういった背景があったからである。このことを昭和天皇が非常に心配されたのは、昭和二十一年元旦の詔書(いわゆる「人間宣言」)に、次のようにあることからも拝察される。

「惟(おも)フニ長キニ亘レル戦争ノ敗北ニ終リタル結果、我国民ハ動(やや)モスレバ焦躁ニ流レ、失意ノ淵ニ沈淪セントスルノ傾キアリ。詭激ノ風漸ク長ジテ道義ノ念頗ル衰ヘ、為ニ思想混乱ノ兆アルハ洵(まこと)ニ深憂ニ堪ヘズ。」

 未だにこの詔書を天皇の「人間宣言」と誤解している、お利口さん、お馬鹿さんが日本人にも大勢いるから困ったものだ。これは、彼らの思惑通り、日本が物質的にも、精神的にもずたずたにされた、その成果である。

 戦後、アメリカ占領軍に紛れ込んだ共産主義者たちによって、日本国憲法が作成され、押し付けられた。
 この日本国憲法の正当性を補強する論が、東大の憲法学者であった変節漢・宮沢俊義の「八月革命説」である。八月とは敗戦の八月のことだが、この時、ポツダム宣言の受諾により、革命が起き、主権が天皇から国民に委譲された、とする説である。空論も甚だしいが、共産主義者にとっては、戦争突入も彼らの為したことであり、そう考えられたのかもしれない。以来、これは憲法学会の通説となっていて、内閣法制局もこれを奉じ、政府はこれに拘束され続けている。女系天皇論も、女性宮家の問題も同じ意図からでてくる、日本の伝統を破壊する意図を秘めた悪謀である。

 以上のように、戦前の政府や軍部に多くいた革新勢力は、自覚的、あるいは無自覚的にこういった策謀に利用され、あるいは加担してきたのであり、こういった歴史の反省を踏まえなければ、真の「日本を取り戻す」ことはできないのである。

 ともかく安倍氏が取り戻すとした日本には、ここまでの反省を含んでほしい。そうでなければ、おそらくは慶喜ほどの歴史的役割を果すことは出来ないのではあるまいか。
 もちろん、これは日本の衰退期の歴史にようやく現れたまともな宰相に対する最大限のエールである。


 ちなみに、本日十二月二十三日は今上陛下の御誕生日、戦前に言うところの天長節であるが、昭和二十三年のこの日、マッカーサーの悪意によって、東条英機以下、いわゆる東京裁判のA級戦犯が処刑された日である。マッカーサーは白人に逆らった日本に対する報復として、今上陛下(当時皇太子)の御誕生日に、東條英機、土肥原賢二、廣田弘毅、板垣征四郎、木村兵太郎、松井石根、武藤章等、A級戦犯七名の処刑を行った。彼らは殉国七士と呼ばれている。
 マッカーサーは彼らの遺骨が日本人の手に渡って、象徴として担がれることを嫌って、海に捨てるつもりであったとされる。勇気ある日本人がこれを奪い返した。

 塩田道夫氏の『天皇と東条英機の苦悩』からの引用である。

「全部の遺体が焼けたのは、一時間半ほど経ってからだった。窯の扉が火夫によって開けられ、長い鉄のカキ棒で白骨が取り出されると、火葬場長の飛田はA七人の遺骨の一部を七つの骨壷に入れて他の場所に隠した。

 ところが、この隠した骨壷は、誰かがA級戦犯を憐れんだのか、線香を供えたために、香り煙のために監視の米兵に見つかってしまった。このため骨壷は米兵の手もとへ移った。米兵は、鉄製の鉢の中へ遺骨を入れると、鉄棒のような物で上から突いて、骨を細かく砕きはじめた。それはまさに死者にムチを振る惨い行為であった。

 米軍がA級戦犯の骨を砕いて、空から東京湾へ撒くという噂があった。それは日本人が英雄崇拝の対象になるのを恐れて海にばら撒くというのである。遺骨を隠すことに失敗した飛田は、内心穏やかでないあせりがあった。

 骨を砕き終えた米兵は、黒い箱を七つ出して、砕いた骨を入れた。そして箱の上に1から7までの番号を書き入れた。この遺骨の入った箱は、A級戦犯の遺体を巣鴨から運んでんきた米兵が持ち去った。台の上に灰と一緒に残っていた小さな骨は、米兵の監視つきで火葬場にある共同骨捨て場に捨てるように命じられたのである。

 A級戦犯の遺骨を奪う計画は。小磯国昭大将の弁護人だった三文字正平によって進められていた。三文字弁護士は、米人弁護士のブルウェットに相談し、彼を通じてGHQに処刑されたA級戦犯の遺骨を遺族たちに渡せるように嘆願していたのである。ところが、マ元帥は一向に首を振らなかったため実現はしなかった。

 そこで三文字弁護士は、巣鴨プリズンにおいて処刑されたA級戦犯が、久保山で火葬されることを探りあてた。三文字は火葬場のすぐ上にある興禅寺を訪ねて住職の市川伊雄と会った。市川住職は東京裁判にも傍聴に行き、裁判の不公平さに怒りを抱く一人であった。三文字弁護士が市川住職に協力を求める説明にも熱が入った。

 このA級戦犯の遺骨が米軍の手から戻されないと、国民が不公平だった東京裁判の結果を認めたことになる。彼らの命令で戦場に駆り出された三百万の英霊さえ、辱めを受けて浮かばれなくなる。市川住職も日本人として耐えがたいことだったので、三文字に協力することを引き受けた。市川住職は、火葬場長の飛田を三文字に紹介したのである。

 久保山火葬場の内部に働く人の協力で、はじめはA級戦犯の遺骨を分けて隠すことができたのが、米兵の監視に見つかり失敗した。今度は、火葬場の共同骨捨て場に捨てられているA級戦犯の骨を持ち出さなくてはならない。次の新しい骨が捨てられるまでは、一応、少しは他の骨も混ざってしまったとはいえ、七人の遺骨は残っている。

 これを盗み出すのは十二月二十五日の夜と決めた。米軍の監視がクリスマスで気がゆるんでいる隙に実行しようというのである。暗くなり、頃合を見計らって、三文字弁護士と市川住職は勝手知ったる飛田火葬場長の案内で火葬場の骨捨て場に忍び込んだ。

 三人は米軍の監視に見つからぬように、闇夜の中で外套を頭からかぶり、身をかがめながら作業を始めた。三人は暗がりの中で音を立てないように、根気よく手探りで遺骨を探し集めた。七人の遺骨は全体の一部でありながら、大きな骨壷に一杯分を集めることができた。

 火葬場から盗み取ってきた遺骨は、湿気をとるために再度焼かれた。遺骨のことが世間に漏れては米軍の咎めを受けることになる。そこで三文字の甥で、上海の戦線で戦死した三文字正輔の名前を骨壷に書いた。これを興禅寺に預けて供養することになったのが、A級戦犯として処刑された七名の秘められた供養であった。」



 遺骨は、翌昭和二十四年五月、伊豆山中の興亜観音に密に葬られ、昭和三十五年八月十八日に愛知県幡豆郡幡豆町の三ヶ根山の山頂付近に分骨、ここに殉国七士廟が設けられ現在に至っている。墓域の入り口門柱には、内閣総理大臣・岸信介の名が刻まれている。岸は分骨直前の七月十六日まで内閣総理大臣を務めていた。殉国七士廟建立には、日米安保条約改定を引き換えに退陣した岸政権下では隠されざるを得なかった国家意志が働いている。
 ここに封印された我々の歴史がある。

「A級戦犯」の靖国神社への合祀が行われたのは昭和五十三年のことである。
翌五十四年五月二十六日、昭和天皇皇后両陛下は、翌二十七日の植樹祭出席のために三ヶ根山・山頂附近にある「グリーンホテル三ヶ根」(廟から500メートル程の所にある)に御宿泊され、早朝、廟に向かって、密かに鎮魂の祈りを捧げられた。同年、十一月八日には、美智子妃殿下と紀宮殿下も同じ御部屋に御宿泊されている。

 真の日本を取り戻した暁には、こういった逸史が、マスメディアのみならず、公教育の場で堂々と子供たちに語られるようにならなければならない。
 安倍首相に託された歴史的使命は、そこへの扉を開くことである。

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