西郷隆盛の命日

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 本日九月二十四日は西郷南洲翁が鹿児島・城山で斃れた日である。
 明治十年(一八七七)のことである。

 維新最大の功臣・西郷隆盛はなぜ決起し、なぜあそこまで戦わなければならなかったのか。
 その意義を問うことは、厳しい国際情勢を生き抜いていかなければならない現在の日本人にとって、大東亜戦争の意義を問うことに匹敵する重要性を持つ。
 いや、こう言うべきか。
 現在の我々は、米中が仕掛けれくる情報戦に勝つために、大東亜戦争の意義を問い、そして、これを世界に発信していく必要性に迫られているが、その意義を回復するには遡って明治維新の意義が問われなければならない。なぜなら明治維新の結果として、大日本帝国が生まれ、そして、その宿命として大東亜戦争が戦われたからだ。その結果として戦後がある。
 今、日本の戦後というものが克服されなければならないとするならば、当然、これら歴史の大きな流れが踏まえられていなければならないのだ。

 その一つの起点と言える明治維新の精神を象徴する人物として真っ先に挙げられなければならないのが西郷隆盛だ。

 明治のクリスチャン内村鑑三は、日本のことを西欧に紹介するために著した『代表的日本人』で、その筆頭に翁を挙げた。

「維新革命における西郷の役割を十分に記そうとすれば、革命の全史を記すことになります。ある意味で一八六八年の日本の維新革命は、西郷の革命であったと称してよいと思われます。」

 また同じ明治人で、内村の『代表的日本人』の出版にも深くかかわった大言論人・徳富蘇峰は、大正十五年の西郷南洲先生五十年記念講演会において、次のように語っている。大正十五年と言えば、明治の精神は空洞化し、大正デモクラシーを経て、国民精神が軽薄の一途を辿り、さらにはマルキズムが知識人の間に浸潤した時代であった。


「国民がその国の偉人、その国の豪傑、そういう人々を尊敬し、嘆美し、従って崇拝することの出来る間は、その国民は、まだ血が通っている国民である。他にいろいろ弱点があっても、欠点があっても、醜態があっても、幾らか取柄のある国民である。しかしながら、偉人を偉人とせず、豪傑を豪傑とせず、崇拝、嘆美、称讃、欽慕というようなことを、一切除外してしまうような国民になった時には、最早これは済度し難きものであると思います。私は、南洲翁を慕うという国民の心が実に有難い。こういう心がある間は、日本はまだまだ大丈夫である。これが無くなる時には、恐らくは国が亡びる時と思います。」

 
 徳富蘇峰の父・一敬の師は横井小楠であり、蘇峰自身、堯・舜を理想とした小楠の王道思想の継承者を自負していた。
 小楠、南洲翁の二者を天下で最も恐ろしい人物としたのが勝海舟。
 若き日の蘇峰は、14才の時に故郷熊本を戦渦に巻き込んだ西南戦争に大変な関心を抱き続けたし、勝邸に間借りしていた縁もあって、海舟の南洲翁に関する談話の多くを直に聴いて自己の発行する新聞「国民新聞」に公表してる。

 南洲翁は隣国肥後の家老・長岡監物を君子として尊敬していたが、長岡は小楠を中心とする肥後実学派の領袖であった。南洲翁は安政四年十月、江戸へ上るに際して、大久保を伴って肥後に立ち寄り、長岡を訪問している。これが大久保の藩外活動の始まりとなった。長岡の息子・米田虎雄は、西郷・大久保が二人で泊まっていったことは自分が知っているだけでも五・六度はある、と語っている。
 長岡が慧眼を持った人物であったことは、息子によく、西郷は創業の大材、大久保は守成の大材、と言っていたことでもわかるだろう。征韓論破裂から西南戦争までの一連の事件は、明治維新が創業から守成の時代へと向かう過程で起きた悲劇と言えるが、これは西洋の内政状況を実見した大久保を中心とするグループの性急さが、皇政復古維新を起こした精神の延長線上で事業を発展させようとしていた南洲翁を中心とするいわゆる征韓派との衝突を引き起こしたといえるだろう。明治維新がこの時点で創業から守成に切り替えるべき時機にあったか否かが、これらの事件の評価、二人の人物の評価に決定的な影響を与えることになる。
 その過程で維新を継承していく上での大事な何ものかが失われようとした。

 その大事なものがどのように継承されたかを叙述しようとしたのが、まだ書きかけの拙記事「明治天皇と西郷隆盛」である。西南戦争をきっかけに政府の方針に疑問を懐いた明治天皇に、侍補として、大きな精神的影響を与えたのが、小楠の弟子・元田永孚であった。彼を侍補に推挙したのが大久保であったというのは、結果から見れば皮肉であるが、大久保の人物の懐を示しているとも言えよう。
 元田は若き天皇に、堯舜たれ、と説いた。そのためには、政府との対立も辞さなかった。
 蘇峰はこの元田とも交流があった。

 その蘇峰のライフワーク『近世日本国民史』は、そもそも明治天皇の崩御をきっかけに、明治天皇御宇史を書きたいとの志を懐いたことに始まる。様々な事情から、大正七年、蘇峰五十六歳の時に、織田信長の時代から書き始められたこの大作は、日暮れて道遠しで、昭和二十七年、九十歳でようやく、西南戦争、そして紀尾井坂における大久保利通の遭難までで筆を置かざるを得なかった。宿望を果したとはいえないが、少なくとも、自己が活動を始める寸前の時代までは歴史を叙述しきったのであり、明治維新の精神とは何ぞや、という事に付いては誰よりも知り尽くしていたと言えるだろう。

 しかし、そのような思想的血脈に恵まれた蘇峰でさえ、南洲翁については次のように書かざるを得なかった。

「西郷隆盛はその生前から既に偶像となっていた。死後においては年と共にいよいよその光を増してきた。今日において、何処までが南洲の正味であるか、これを審定するは頗る困難である。何故ならば、西郷の背後には大なる後光が煌(かがや)いて、これを正視することさえ困難であるからである。」(『近世日本国民史』第百巻「明治時代」)

 蘇峰はむしろ、どちらかと言えば理解しやすい政治家としての大久保利通に感服した。彼は維新の三傑、すなわち西郷・木戸・大久保は奇しくも明治10~11年に相次いで斃れたが、その目指す事業は、明治時代を通じて、同僚や後進によって全て成し遂げられた、と見ている。
 多くの面についてそれは言えるかもしれないが、彼もまた何かを見失っていたとは言えまいか。
 彼の終戦後の日記を読むと、懺悔の言葉に溢れている。


 戦後の保守にも南洲翁の精神を顕彰するものは多いが、江藤淳の理解を超えるものでなく、ましてや蘇峰の批判精神の上に出るものでもない。蘇峰は、新島襄が創設した同志社に入学し、洗礼を受けたこともあることからもわかるように、キリスト教にも理解があったし、西洋の保守思想にも、また日本の歴史にも、儒学を中心とする漢学にも精通していた。
 歴史・伝統を重んずる立場の戦後の保守にそのような素養を持つ人物はほとんど存在しないだろう。


 憂慮は、現在、南洲翁の思想・行動をありのままに受け止める目が失われてしまっていることである。
 南洲翁研究の総本山と言えば、鹿児島にある西郷南洲顕彰会であろう。その会誌『敬天愛人』は新研究や失われていた関係書簡の発掘など、大きな成果を挙げてきたが、近年の会の活動には衰退が見える。
 私は創刊号から第二号を除く全号を持っているが、かつては漢籍に造詣の深い研究者が存命で、重厚な論考が多かったのだが、現在は読み応えのある論文が少なくなってきているように感じられるのである。

 西郷南洲顕彰館前館長の故山田尚二氏は立派な方だったようだが、以前、お会いした時、遺訓を読むと南洲翁における儒学の聖典の影響は明らかなのに、なぜ南洲翁の言動をそれでもって解釈しようとしないのか、との疑問をぶつけたことがあった。解る人がいない、との返答を頂いて、意外な思いをしたことがある。会としては当然、解る人を養成していく責務があるのではないか、と思ったのだ。

 現館長の高柳毅氏にはお会いしたことはないが、以前、南洲翁が漢訳聖書を読んでいたことに関する、大変優れた研究を『敬天愛人』誌上に発表されていて、読んだことがある。しかし、数年前鹿児島を訪問した時に見た顕彰館の展示などは、やたら翁と聖書の関わりを強調するような展示になっているように思われて、これもまた疑問に感じたものである。

 また数年前、翁の辞世が発見されたと新聞などで話題になったことがあったが、官軍の従軍医師の日記に書き付けられた、「西郷隆盛」と書き添えられた漢詩を翁の辞世と判定された高柳氏の南洲翁理解には首を傾げるものがあった。西南戦争のおける南洲翁の戦いには、諸史料に当たって後悔の念は微塵も感じられないにもかかわらず、後悔の念があったかのように解釈されているのだ。
 翁に後悔の念があったのなら、なぜ旧私学校奪取後、檄を飛ばして、兵の徴募を新たに行おうとしたのだろう。もちろん支持者の多い鹿児島での再起を期してだろう。そこに後悔の念などあろうはずもない。

 高柳氏は上智大学の出身で、どうもクリスチャンのようである。
 前館長の山田氏もクリスチャンであったらしく、もしそうなら、二代続けて、クリスチャンの館長という事になる。もちろん、その事自体に問題はない。表向き、顕彰会の運営にその思想信条が持ち込まれているというわけでもなさそうである。
 しかし、どうも根底にあるその思想信条によって、南洲翁の像が微妙にゆがめられていく可能性を感じて、心配なのである。
 先の辞世と言われる漢詩を本物と鑑定したその背後にあるのは、キリスト教の懺悔の思想ではないのか。
 それが混入した結果の誤判定ではないか。
 そう思われるのである。

 ネットで「高柳毅 キリスト教 聖書 西郷隆盛」と検索してみると色々でてくる。
 実は、クリスチャンとしての高柳氏は、西郷はクリスチャンであった、と主張しておられるのである。

  例えば、次のサイト、

 http://www.mariasansou.com/col2/col2.cgi?mode=main&no=56


  *「西郷隆盛は、キリシタンだった」講演セミナ-の素描

 西郷隆盛顕彰館館長・高柳毅氏の講演要旨
  1 西郷さんは、陽明学の「知行合一」の生き方を学び、それを実践された。
  2 西郷さんは、物事を真摯に受け止め、誠実、誠、仁を大切にされ、それを実践された。
  3 そのような求道的な生き方が、キリスト教と出会った時、まさに、合致し、自然に基督教徒となった。
  4 征韓論ではなく、遣韓使節論者であり、二段階論で韓国との国交を考えていた。
  5 西郷さんは、国会開設を促進した先駆者である。
  6 坂本龍馬暗殺を西郷さんが図ったという説は、薩摩を陥れる詐計であり、龍馬が、葬式は、大久保一翁と西郷にやって欲しいといっていたことから、ありえない。
  7 西南戦争は、大久保利通が、西郷を排除しようとして起こさせた不当の戦さであった。

 

 高柳氏によると晩年の翁は有志に聖書を講義していたというが、そのような史料は存在しないし、それなら、なぜ西南戦争の大義にそれが盛り込まれなかったのだろう。
 氏の研究にあるように、確かに翁は漢訳聖書を読んだことがあっただろう。慶応二年、英国公使パークスを鹿児島に迎えた際のことだ。翁に親炙した旧薩摩藩士・有馬藤太の回想は具体的で、その頃を窺わせる内容であるし、遺訓にもわずかながら聖書の影響は見られる。
 しかし、それはキリスト教と儒教に相通ずるものがあるということではないのか。例えば、プロテスタントの山本七平によれば、晩年の内村鑑三は『孟子』をよく読んでいたという。山本の父は内村の熱心な弟子であった。しかし、そのことを以て晩年の内村が儒者になっていたという事にはなるまい。
 筆者とて、幕末の志士の愛読書であった『靖献遺言』を読んだ時、なぜか『福音書』のイエスにどこか似ていると思ったし、『(新)西郷南洲伝(下)』「西南戦争編」を書いた時も、薩軍の城山への敗走を、キリスト教の殉教に準えて叙述したこともある。もちろん、だからと言って、南洲翁がキリスト教徒だったと言っているわけではない。

 もし、高柳氏が晩年の翁がキリシタンであったことを信じているなら、なぜ正々堂々と『敬天愛人』誌上でその論を展開しないのだろう。逆に、私的信条と公的立場を峻別するなら、なぜ聖書との関係を誇張するのだろうか。そもそも信条と公的立場の完全な峻別など可能なのだろうか。その信仰が本物であればあるほど、こちらへはこの立場で、あちらではこの立場でと利巧に使い分けることは困難なのではないだろうか。

 高柳氏には南洲翁をキリスト教の聖者(セイント)と見たい願望があるのではないだろうか。氏にとって、南洲翁を顕彰することより、キリスト教を顕彰することが隠れた動機となっているのではないだろうか。そして、次の館長もクリスチャンに引き継ぐつもりだろうか。
 高柳氏によって、日本人の精神性にとって大変重要な南洲翁の思想の改変が翁研究の総本山で行われていくのではないか、との悪い予感がしているのである。


 ここで読者の判断の材料となる史料及び歴史的事実を掲げておくことにする。

 まず、南洲翁と聖書との関わりを示唆する史料。

 (遺訓の二十四条)

「道は天地自然の物にして、人はこれを行うものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給うゆえ、我を愛する心を以って人を愛するなり。」

 (筆者注・・・おそらくこの原典と思われるのが、明治八年九月庄内藩士戸田務敏が人を愛することの根元について教えを請うた際、翁が与えた教戒である。「人は人を相手にせず、天を相手にするものなり。故に天より見れば我も人も同一に愛すべきなり。因りて己を愛する道を以て、人を愛するものなり。」この最後の部分について『西郷隆盛全集』「新約聖書〔マルコ伝〕おのれの如く汝の隣を愛すべし」と注を付している。)


 旧薩摩藩士・有馬藤太の回想には次のようにある。

「間もなく耶蘇(キリスト教)教師について、取調べるため、照幡(てるはた)大忠と神戸に出張した。耶蘇のことなど何にも知らぬからおおいに閉口した。その点では、西郷先生の眼の早いのには感心したものだ。いつだったか忘れたが、ある日西郷先生を訪問すると、『日本もいよいよ王政復古の世の中になり、おいおい西洋諸国とも交際をせにゃならんようになる。西洋では耶蘇を国教として、一も天帝、二も天帝というありさまじゃ。西洋と交際するにはぜひ耶蘇の研究もしておかにゃ具合が悪い。この本はその経典じゃ。よくみておくがよい』といいながら、二冊ものの漢文の書物を借してくれた。『私は無学でコンナむずかしいものはとても読めません』『自分で読めねば、今藤新左衛門にでも読んでもらえ』持って帰ったものの読むのはイヤだ。三、四十日ほどたってから先生に返してしまった。今度神戸に出張して、耶蘇教を調べるのにはたと当惑、あの時一ぺんでも読んでおけばよかったと後悔したものだ。」

(筆者注…慶応二年のパークスの鹿児島訪問前の一時期に、薩摩藩主以下、漢訳の『大英国志』(トマス・ミルナー・ギブソン撰、慕維廉《ム・ウェイリヤン》訳)を研究した経緯がある。)



 次に、クリスチャンではなく、むしろ「孔孟の徒」であることを推測させる「遺訓」の言葉から。

(第八条)「広く各国の制度を採り、開明に進まんとするならば、先ず我が国の本体を据え風教を張り、そうして後、しずかに彼の長所を斟酌するものぞ。そうせずしてみだりに彼に倣ったならば、国体は衰頽し風教は萎靡して匡救(ただし救う)すべからず。終に彼の制を受けるに至らんとす。」

(第九条)
「忠孝仁愛教化の道は政事の大本にして、万世に亙り宇宙に弥(や)り易(か)うべからざるの要道なり。道は天地自然の物なれば、西洋と雖も決して別無し。」

(第十一条)
「西洋は野蛮じゃ…実に文明ならば、未開の国に対しなば、慈愛を本とし、懇々説諭して開明に導くべきに、左は無くして未開蒙昧の国に対する程むごく残忍の事を致し己を利するは野蛮じゃ。」

(筆者注…次の十二条において、翁は、西洋の刑法における罪人の扱いが懲戒を旨とすることについて、実に文明であると褒めている。)

(第二十一条)
「道は天地自然の道なるゆえ、講学の道は敬天愛人を目的とし、身を修するに克己を以て終始せよ。己に克つの極功は、『意なし、必なし、固なし、我なし』(『論語』「子罕」)と云えり。総じて人は己に克つを以て成り、自ら愛するを以て敗るるぞ。」

(第二十三条)
「学に志す者、規模を宏大にせずばあるべからず。さりとて、ただここにのみ偏倚すれば、あるいは身を修するに疎に成り行くゆえ、終始、己に克ちて身を修するなり。規模を宏大にして、己に克ち、男子は人を容れ、人に容れられては済まぬものと思えよ。…堯舜を以て手本とし、孔夫子を教師とせよ。」

 その他いくらでもあるが、翁の中で具体的に引用されているのは『論語』『孟子』『書経』『礼記』『近思録』、書名が触れられているだけのものは『春秋左氏伝』『孫子』。他、韓退之・朱子・陳龍川・司馬温公等、支那儒者の言葉の引用あり、堯・舜・孔子の他諸葛孔明の人物評あり、わが国に眼を向ければ、藤田東湖の言葉の引用あり、曾我兄弟の誠心の顕彰あり、長岡監物の顕彰あり、となっている。

  高柳氏の見解に従えば、翁は庄内藩士にこれらの訓戒を垂れた後に、改心し、翁を仰ぎ見る彼らを欺いたまま、死地に送り込んで、賊軍の汚名を着せたことになるが、その辺はどうお考えなのだろう。
 やはり、懺悔の念を懐いて、最後まで戦ったという、クリスチャンならぬ自分には全く理解できない答えが返ってくるのであろうか。
 

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この記事へのコメント

2019年11月22日 10:02
初めまして。大変貴重なご意見感謝いたします。
 私自身も、高柳氏の論文について問題を調べておりました。その論文自体は見ておりませんが、それを参考に書かれた『西郷隆盛と聖書』という本について出版元に問い合わせているものです。私自身はクリスチャンで、狭い日本のクリスチャン社会の中で、史実がゆがめられているのではないかと感じています。上記の本についての真意を追求すると、
 
「この本は基本的に西郷研究家の高柳毅氏の論文内容に則り、その他の文献も参考にしながら、それを膨らませる形で書かれたものと認識します。
西郷が聖書に親しみ、「西郷は晩年にはキリスト教を信じていた」という高柳氏の説がすべてと言っていいでしょう。」

 すべての責任をそちらにふり、また入手出来ない確認も取れないことに不誠実さを感じていました。
 現在高柳氏の論文の内容は知るすべがないのでご存じであるなら教えてください。
 私と当該図書及び出版元のやり取りに興味がございましたら、ホームページをご覧ください。資料もそこに掲載してあるやもしれません。
哲舟
2019年11月29日 06:58
佐野様

初めまして。

コメントに気付くのが遅れ、返事が遅くなって申し訳ありません。

高柳氏にはその説のモチーフの誤りのせいか、南洲翁に対する本格的な研究はなかったのではないでしょうか。

西郷南洲顕彰会発行「敬天愛人」誌には断片的な研究をいくつか発表されていますが、第14号(平成8年発行)に「西郷が読んだ聖書」という論文を寄稿されています。
氏はこれを書いて、確信を深めたと思われます。この論文はまだ抑制的に書かれていますが、後に個人的な講演などでは西郷はキリスト教に改宗していたというようなことまで行っていたようです。氏は残念ながらシナ儒教及び日本における儒教受容の伝統、学問の伝統に関して一知半解で、この面での南洲翁の教養の深さを理解しておりません。

この論文は顕彰館に問い合わせてみて在庫があるようなら、入手は可能だと思います。

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