明治天皇と西郷隆盛 (その四)

 起草者は元田だったとは言え、明治天皇の大御心である「教学聖旨」に反発した内務卿・伊藤博文は、開化思想と科学主義を基調とする「教育議」を奏上に及んだ。西洋を実見してきた彼としては、彼なりの忠義心から、このような大胆な反論に及んだのだろう。
 もちろん、これに元田が納得するはずはない。「教育議附議」を書いて、伊藤の論を一つ一つ反駁した。

 元田は本質論を述べる。
 西洋にも修身学はあるが、これは君臣の義薄く、夫婦の倫を父子の上に置く以上、四書五経の上に出るものではない。これは彼らの国教であるキリスト教に由来しているからであり、我国の道に悖るものである。だから四書五経を中心とし、これを国学の倫理に関するもので補い、その上で西洋の書を学ぶべきである、と。
 また、伊藤は、国教を作るな、時を待て、と言うが、そもそも国教とは作るものではない。祖訓を敬承し、これを闡明すれば、それがすなわち国教ではないのか。そもそも、日本は、天孫ニニギノミコト以来、天祖を敬し、さらに儒教を取り入れ、祭政教学一致で歩んできたのである、と。
 彼の論は伝統的な国體観に由来していて、国教は国體を明らかにすれば自然と立ち上がって来るものだ、というのである。

 侍講時代の元田は漢学担当であり、帝王学として専ら『論語』を講じてきたのに対し、洋学担当の加藤弘之が講じてきたのが「自助論(セルフ・ヘルプ)」として知られるサミュエル・スマイルズの『西国立志編』であった。
 これは当時の学制による教科書ともされていたから日本人全般の教科書といってよかった。
 明治天皇もご進講を受け続けてきたわけだから、その内容をよく知った上での元田等への共感だったことは明らかで、だからこそ『教学聖旨』「小学条目二件」の現学制批判となって現れたのだ。元田は明治天皇の大御心を体して伊藤と論争していたのである。
 
 この対立は翌十月、政府による侍補制度の廃止へと繋がっていくこととなる。それは政府の侍補等に対する報復処置といってよかろう。
 きっかけは参議・黒田清隆が侍補の副島種臣を免職しようとし、これに侍補が抵抗した際、副島を免職するくらいなら、侍補制度そのものを廃止せよ、と主張したため、それならとばかりに、政府は、目障りな侍補を無力化しようと、制度自体の廃止に及んだのであった。

 副島種臣と黒田清隆の確執は征韓論破裂にまで遡る。

 明治六年五月、北海道開拓次官の黒田は、北海道開拓に力を注ぐべしとの立場から樺太放棄の建議を為したが、九月には、それに相反する樺太出兵の建議を為した。そこには、状況の変化と北海道開拓次官として筋の通った理由があった。彼自身の本来の考えは樺太の領有権放棄にあったが、政府がそれを採用しない以上、樺太は日本の領土であり、そうである以上、国土は守らなければならない。しかし日本政府の態度を見てか、ロシア兵は樺太において日本人居住者への乱暴をエスカレートさせていたのである。黒田は六月に調査員を派遣した結果、派兵の必要性を認めたのであった。

 征韓派の板垣退助はこれを征韓の論議を牽制する意図を秘めていると考え、奸物視し、南洲翁にもそう伝えた。これを翁から聞いた黒田は怒り、板垣を訪れて詰るということがあった。これに対し、板垣も堂々としたもので、奸物視する理由を述べ、怯むところがなかった。
 これが黒田の征韓派に対する不信の始まりである。

 しかも、黒田の樺太出兵の建議は、外務省の反対にあって、太政官で却下された。当時の外務卿は副島種臣である。彼は外交上の高等戦略から、ロシアとの間で、大陸で兵を動かす際の交渉材料として、樺太領有権放棄の交渉を進めており、この時点での樺太出兵には反対だったのである。 
 黒田は要するにこれらを根に持った。これが彼をして征韓論阻止に走らせる要因となったのである。
 彼は恩師ともいえる南洲翁を裏切り、征韓派の動向をスパイするという、自ら「奸物らしき所行」と表現するほかない、恥ずべき行動に及んだわけであったが、征韓論破裂をきっかけに内政の危機的状況は深刻化し、西南戦争の終焉によってようやく一段落した。
 西南戦争、それは薩摩人にとって骨肉相食む大悲劇であり、それ故、ますます異郷の敵を奸物視せざるを得なかったと言えそうである。当然、それはこの明治十二年の段階でも継続していて、征韓論破裂で下野していた副島の侍補への復帰には心穏やかでいられなかったはずで、この君側の奸を払わねばとの思いは、黒田の心に付き纏って離れなかったであろう。


 副島種臣は肥前佐賀藩の国学者の家に生まれ、藩校等で儒学を修めた上に、フルベッキに英学及び万国公法を学んだ当時一級の知識人で、維新後、頭角を現した人物であった。決して奸物視されるような人物ではない。
 王政復古後、樹立されたばかりの政府の大綱を定めた「政体書」の起草者の一人でもある。
 外遊以前の大久保とは政事上の見識がよく一致していたとは侍補の佐々木高行の評である。大久保外遊中の留守政府内では、自然、特に外交政策の上において、南洲翁と意見が近かった。
 
 彼は儒教王道主義者であり、征韓論政変では征韓派として中心的な役割を果した人物の一人であった。当時、彼は外務卿であったが、外交の原理として、『論語』を中心とする儒教の規範を実践的に応用し、大きな成果を現したのである。マリアルース号事件もその一つだったし、対清外交はその真骨頂であった。

 彼は特命全権大使として清朝に遣いした際、清朝の老大臣達を前にして豪語した。

「ここに種臣外務に任ぜし以来、交通上において、彼国(西洋諸国)公法・内政等の書を読み、事を処すると雖も、情を揆(はか)り、理を度(は)かるには、貴国(支那)経史の如く明白快通なる者有らず。今や日月の照る所、殆ど孔子の言を知り、以て聖人とせざるなく、苟(かりそめ)に政を為す者は、中外同じく一理なり。種臣漢籍を読む一万五千巻余り。これを本として外務に施し、而して外事治まり、外人従う。それ妙契無くんば焉んぞ能くここに到らんや。…」


 副島が『論語』を中心とする漢学を、道徳学としてのみならず、政事の規範として実践拡大しようとの志を持ち、また、手ごたえを感じていたがわかるだろう。
 南洲翁の大陸政策はこれをさらに徹底したものであったが、ここでは省略する。

 ともかく、伊藤が元田を気に食わなかったように、黒田は副島が気に食わなかったわけだが、その背景には、単なる政争に止まらぬ、明治国家のあり方と日本の国體との関係という、国家の本質に関する争いがあったのである。
 結局、形としては、侍補制度を廃止に追い込んだ内閣のほうに軍配は上がったが、却って、明治天皇の信頼は侍補の方に深まった。
 政治的勝利は思想の堕落につながりやすいが、政治的敗北は往々にして思想の内的深化に結びつくものなのである。

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