明治天皇と西郷隆盛 (その弐)

 明治十年の西郷南洲翁の決起は天皇の心を大きく動かした。
 それは当面、政府に対する不信感に基づく政務拒否という態度になって現れた。この状態を憂いた大久保利通、伊藤博文は、君徳育成のための侍補制度を作った。これが、薩軍が延岡に追い詰められて、起死回生の可愛岳突破を試みた頃、明治十年八月の事である。 

 この時、二等侍補に択ばれたのが、明治四年の宮中改革で侍講に抜擢されていた旧肥後藩士で、横井小楠の弟子と言っていい元田永孚である。
 勝海舟はこの老儒を「温良恭謙譲の人」と評している。
 侍講時代の元田は明治天皇に『論語』の講義を行ってきた。
 元田はいわば漢学担当で、ほかに洋学担当の加藤弘之、国学担当の福羽美静が侍講を務めた。

 侍補は、その役割をさらに一歩進めて、天皇の君徳大成を補佐・補導する役目である。
 すでに天皇の信頼を得ていた元田は鋭意これに取り組むこととなった。
 彼はまず『論語』の講義を実践的な立場から新たにやり直し始めた。
 天皇が『三国志』の英雄、なかんずく張飛を好んでいることを知った元田は、「張飛の声大なりと雖も、堯舜の声に及ばず。堯舜の勇は万邦も協和す。張飛に勝れること万々」と言ったという。
つまり、元田は若き天皇に古代支那の伝説的聖天子である堯・舜たれ、と説いたのである。 これは天皇親政の主張であり、師である横井小楠や南洲翁の国體観と同じであった。
 『論語』は天皇親政の教科書と位置づけられていた。
 南洲翁が「遺訓」第二十三条で「堯舜を以て手本とし、孔夫子を教師とせよ」と言っていたことを想起すれば、そこに通底する精神は見えてこよう。


 天皇親政は洋行以前の大久保の国體観でもあったが、西洋視察後の彼が、君徳養成の重要性は認識しつつも、天皇親政の国體観まで維持していたかは疑わしい。
 彼は征韓論で閣議が割れた際、議論では完全に征韓派に敗れたが、いざ奏上の段になって、太政大臣三条実美が精神錯乱に陥ったのを奇禍として、裏から手を回して、同志と言っていい岩倉を太政大臣の代理となし、征韓派と天皇を遮断する陰謀を張り巡らすと同時に、偽りの報告書を起草、奏上して、征韓派を政府から追い出した。
 大久保には大久保の正義があったが、その目的は薩長閥の防御にあり、そのために重要な外交事案を犠牲にさえしたのである。
 彼は外政には疎い、内政重視の政事家であり、政事と君徳は必ずしも一致する必要性を感じていなかった節があるのだ。少なくとも西洋実見後の彼はその傾向が強い。

 この政府破裂後、大久保はその反作用の対策に追われ、内乱を誘発するわ、反対したはずの外征を実施するわで、政府は迷走に迷走を繰り返し、そして西南戦争に至るのである。
 事の発端は薩長閥の防御にあったから、天皇の彼らへの依頼をいいことに、しばしば敵対勢力と天皇を遮断し、天皇を欺くこともしばしばであった。
 さらに天皇の意見が彼らの意見と合わぬ場合は黙殺することもよくあったらしい。彼ら、すなわち、明治六年の閣議でいわゆる征韓論に反対した元勲は、外部から見て天皇を私しているかの観があり、また、そう非難されても仕方ない事実もあったのである。
 南洲翁の決起によって、明治天皇はそういった状態に置かれていることにようやく気づかれたらしい。

 南洲翁は幕末以来、同じ価値規範、同じ国體観に基づいて行動していた。
 西南戦争も同じであり、この戦争には、欧化の勢に対する抵抗の意義を秘めていた。
 武力に基づく対決は、この戦争を以て終焉したが、葛藤は国家の中枢、すなわち天皇の周辺で継続したのである。

 元田は侍補就任と共に、同志の侍補、佐々木高行、高崎正風、吉井友実(一等侍補)と共に、彼らが人物と認めていた大久保を宮内卿に就任させ、共に親政運動を展開しようとした。
 吉井は南洲翁、大久保とは幼なじみであり、そもそも明治四年の宮中改革で、やむを得ず大蔵卿に就任した大久保に代わって宮内大丞、宮内少輔を務め、宮中改革を断行してきた人物である。
 彼らは大久保本人の同意を得、三条・岩倉の了解を取り付けた。しかし、大久保の内務卿と宮内卿の兼務は不可であり、内務卿は今や大久保の腹心となっている伊藤博文に引き受けてもらう必要があった。
 彼らは伊藤の説得を試みることになった。

 明治十一年五月十四日早朝、吉井、元田、高崎、佐々木は高崎邸で会し、元田はかねてからの予定通り、午前八時からの御進講のために参内し、高崎、佐々木は伊藤博文を訪れた。

 伊藤はこの日の事を後に次のように語っている。

「…すると翌朝佐々木高行、高崎正風の二人が遣って来て、当時君側にある侍補の事に付て、侍補だけでは君徳の培養が不十分であるから、どうぞ大久保公に、宮内省の方も兼ねて君側の方にも尽力する様に働いて呉れんかと云う話をして居る中に、大久保公から手紙が来た。今から私は直ぐ参朝するから、君も直ぐに来て下さいと云う文意である。」

 佐々木の日記によれば、伊藤は賛成したとのことであるが、彼は大久保からの参内の要請を受けて、佐々木・高崎に断って、直ぐ参内の仕度に取り掛かった。

 一方、元田の方は、天皇への『論語』の講義を始めたばかりであった。
 元田が「御前に出て『論語』の一章を講じ、未だ二、三言を終らざる」うちに、異変が天皇に伝えられた。
 参朝途上の大久保が凶徒に襲われたというのである。
 世に言う紀尾井坂の変である。


 大久保遭難の詳細は省くが、犯人は征韓派の旧士族であった。
 征韓論政変から西南戦争勃発を経て、南洲翁の城山での死、大久保の遭難によって終わる一連の大事件は矮小化されて論じられていて、これが明治国家のあり方、すなわち国體に関する問題を孕んでいたことは余り知られていない。
 これは大東亜戦争まで引きづったまま、解決を見ない問題であったし、現在ではさらに見えにくくなって続いている国體に関する問題である。

 現代人には、司馬遼太郎風に「この国のかたち」と言ったほうがわかりやすいかもしれないが、そんな形骸化した言葉より、GHQにより使用を禁止された「国體」という言葉のほうがずっと良い。国の體といえば、この国を構成する一員、すなわち一細胞である我々の體の問題であり、決して他人事ではないからである。親切、親身にならざるをえなくなる。
 GHQや共産主義者の狙いもそこにあったのであり、彼らは日本の伝統、文化を分断し、破壊しようとした。だからこそ、日本の伝統や文化を再生しようという時に、大東亜戦争という断絶が強く意識されるのは当然なのだが、実は、大東亜戦争に突入した大日本帝国自体が、この明治の最初の十年以来の葛藤を抱え込んで、克服しきれぬままの国家だったのであり、もし本当に歴史の回復を願うのなら、この明治の草創から問題は考えられなければならないのである。

 林房雄は幕末以来の東亜百年戦争と言ったが、21世紀を生きる我々には、少なくとも、東亜百五十年、或は東亜二百年戦争という大きな視点を必要としている。
 なぜなら、日本文明が直面している最大の問題は、これまでの覇権国にして侵略国アメリカの隷属状態からの脱却と、日本の侵略を目指し、膨張する覇権主義国家・中国の怨望にどう対処していくかにあるからである。

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