明治天皇と西郷隆盛 (その壱)

 西南戦争という、西郷南洲翁の決起が天下の人心を動かしたという点で何よりも興味深いのが、彼らと政治的だけでなく軍事的にも対立している政府の私するところとなっている、明治天皇の心をも動かしたらしいことである。
 それは明確に意識化され、行動化されたわけではなかったが、政務拒否という消極的な態度となって表れた。
 翁の決起はおそらく明治天皇のエートスに訴えかけるところがあったのだ。薩軍の立場についての理解を可能にする情報が、ほとんど遮断されている環境にいるにも関わらずである。
 天皇がまだ十六歳であった慶応三年十二月九日の王政復古の大号令以来、十年間に亘って、その周囲を王政復古派で固められ、太政官の決定したことを積極的に受け入れてきた天皇が、政府に対し拒絶的態度を示すなどということはなかった。
 父孝明天皇の十年式年祭のため、一月二十四日東京を発った天皇は、二十八日に京都入りしていた。
 当初の日程では、京都での行事を終えた後、奈良に向かい、神武天皇陵を参拝し、二月十四日に神戸より東京へ還幸する予定であったが、西南地方の不穏が伝えられる中で、西国地方の人心の動揺が心配されたため、還幸は二十一日に延期された。
 二月十一日、大和地方に遊び、初めて神武天皇陵を参拝した天皇は、その感激から、もう一日大和に滞在したいと言い出したが、近臣に「鹿児島の風雪穏かならざるの時、一日も早く還幸」をと説得されて思いとどまったという。
 これについて飛鳥井雅道氏は次のように観察を述べている。

「予定変更を、前例なくこの時に限っていいだしたのは、『明治天皇紀』がいおうとする大和への愛着だけではなく、むしろ、京都へ還って西郷軍との正面対決の政治的場にひきだされるのがいやだったからではなかったか。」(『明治大帝』)

 『明治天皇紀』の記事によれば、大和国より還幸後、天皇の態度に明らかにこれまでとは違ったものが観察されるようになったらしい。

「京都に行幸以来、宮殿御間取の都合により、日夜常御殿に在らせられ、拝謁者御引見の時を措きては御学問所に出御あらせられず、大和国より還幸の後もまた同じくして、唯毎朝西南事変に就き、太政大臣三条実美よりその概要を聴きたまうのみ。而して常御殿にありては女官左右に奉事し、大臣・参議と雖も、九等出仕を経ずば天顔に咫尺するを得ず。」

 行幸に供奉していた近臣らが心配し、再三諫奏に及んでも、天皇は態度をなかなか改めなかったという。
 熊本攻防戦たけなわの三月二十一日、『明治天皇紀』の記事によれば、天皇は隔日に学問所に出てゆくと言ったというが、事態は改善されなかった。
 そして二十五日の記事は興味深いことを記している。

「日々深宮を出でたまわず。僅かに二月二十一日・三月十八日の両日、御所内馬場にて乗馬あらせられしのみ。」

 三月二十五日にも天皇は馬に乗っているが、これは木戸の説得により二時間だけ京都市中を巡回したという自発的なものではなかった。
 飛鳥井氏によると明治八年の天皇の乗馬は二百二十五回に及んだというから、明らかに異常な態度である。
 明治四年七月前後の大改革において、南洲翁・大久保らは宮中改革に強い関心を注いだ。結局は、吉井友実が宮中改革に鋭意取り組むことになったが、そもそもこれに自ら任じようと強い意欲を示していたのは、大蔵卿になって洋行した大久保であった。彼はこの改革に先立って、天皇の侍従に、横井小楠の弟子として肥後で評判の高い老儒元田永孚(ながざね)を推薦している。
 吉井は、大久保が閣議で問題の多い大蔵省を担当せざるを得なくなったため、代わりにこれを行ったのである。
 この時の大改革において、結局は当初予定されていなかった廃藩置県が断行されたため、そちらに関心が向けられがちだが、本来は天皇親政という改革の大眼目としての宮中改革が南洲翁と大久保の間で予定されていたことは間違いない。翁は天皇の侍従を硬骨な武士で固めて、天皇の英気を養成しようと考えていた。村田新八や山岡鉄太郎など、南洲に近い人物が侍従に挙げられているところをみても、彼の主導であったことは間違いなかろう。そして、おそらく翁は謹厳で実行力旺盛な大久保を改革の適任者と認めていたのだろう。これに代った吉井は鋭意これに取り組んで、満足行く成果を挙げ、翁を喜ばせた。
翁が天皇の成長ぶりを伝えた叔父の椎原国幹宛の書簡(明治四年十二月十一日付)の乗馬に関するくだりを引用しておこう。

「色々御変革相成り候内、喜ぶべく貴ぶべき儀は、主上の御身辺の御事に御座候。…(中略)…御馬は天気さえ能く候えば、毎日御乗り遊ばされ候て、両三日中より御親兵を一小隊ずつ召し呼ばれ、調練遊ばされ候御つもりに御座候。これよりは隔日の御調練と申す御極まりに御座候。是非大隊を御自親(おんみずから)御率い遊ばされ、大元帥は自ら遊ばさるとの御沙汰に相成り、何とも恐れ入り候次第、有り難き御事に御座候。」

 天皇の乗馬は、不明確ながら即位以降記録にしばしば見られるというが、それが日常的に取り入れられたのは、この明治四年の宮中改革からであったのだ。当然翁の書簡からわかるように、それは大元帥としての、すなわち天皇親政(親征)と深く結びついてのものであった。おそらく天皇にとって、この軍隊の統帥の面においての、模範というか、師範となっていたのが、当時倒幕を遂行した天下無比の武将と考えられ、翌明治五年七月には陸軍大将となる翁ではなかったか。
 高島鞆之助の談話には「翁は元帥だったのじゃが、その後、陛下が大元帥で御居でになるという事を知られてからは、決して元帥の称号を用いず、いつも陸軍大将だけで済まされたのじゃ」(『大西郷秘史』)とあるが、今回の西南戦争で翁が国家危急の際には、陸軍大将たる自分に兵を統帥するという大元帥の権限の一部が潜在的に含まれていると解釈していたことは明らかで、大元帥たる天皇とこれに次ぐ統帥の権限を有する陸軍大将たる翁の間に、他人では窺い知ることの出来ぬ、暗黙の意志の疎通があったとしても不思議ではなかった。
 明治六年四月末、二日間に亘って、天皇親臨のもと、近衛兵二千八百名の演習が下総(しもうさ)国千葉郡大和田村で行われた。これを記念して、この地は習志野と改名されたのだが、この夜は連日の大雨であったという。天気が荒れて天幕が倒れそうになり、近衛都督である翁が心配して駈け付けると、天皇は「雨がもるのだけが困る」と言ったという有名な逸話がある。
 また少し遡って、明治五年六月の九州地方行幸の際、熊本において、供奉の翁と海軍少輔川村純義が、船の出港のことで、激しい口喧嘩となった際も、天皇は二階の玉座からこれを眺め、翁の死後も、侍従との会食において、この思い出をしばしば物語ったことがあった。
 維新の元勲の中で、翁が天皇の心の中で、特別な位置を占めていたことは明らかであろう。
 西南戦争勃発後の天皇の政務拒否と、大元帥としてのあり方と肉体的に密接に結び付いている乗馬を取り止めたことと、今現在西南の地で陸軍大将として政府に激しい戦いを挑んでいる翁への感情を結び付けることは決して強引なこじつけでも何でもないのである。天皇の乗馬は、戦争が終結してしばらく経った十一月頃再開されている。
 もちろん聡明であった明治天皇は、翁の武力蜂起が閣議の決定を受けた三条の上奏を受け入れるだけの自分への反抗ではなく、政府を牛耳っている三条・岩倉以下への反抗であることがよくわかっていたであろう。翁が征討将軍である有栖川宮熾仁親王に対し伝えようとした、天子の御親戚でありながら政府の非道に加担し、失徳を醸すとは何事か、という趣旨の批判は、直感的なものではありながら、明治天皇にも伝わって、心を深く動かしていたとしか思えないのである。
 昭和天皇が昭和十六年日米開戦の決断を迫られて詠んだ、明治天皇の有名な御製がある。

 よも(四方)の海 みなはらから(同胞)と 思う世に、など波風の たちさわぐらむ

 日本の存亡を賭けた日露戦争に際して、明治天皇が詠んだとされる御製であるが、実は西南戦争に際して読まれた御製であったとの説がある。詠われている内容からみて、この説のほうがしっくりと来るように思える。
 四方の海に、つまり世界に、皆はらからと漕ぎ出そうと思っている時代なのに、なぜ波風が立ち騒がなければならないのであろうか。
 明治天皇の西南戦争勃発における態度と翁に対する信頼を頭に置いて、この歌を詠むと、その切実な思いがひしひしと伝わってくるではないか。
 天皇は戦争の大勢が決した七月末には東京に還幸したが、戦争中を通じて政務に対する不熱心さは変わらず、月に四乃至六度しか太政官代に出向かなかったという。
 渡辺幾次郎の『明治天皇の聖徳・重臣』には何に取材したものか不明ながら、次のような記事がある。

「明治十年秋の頃であった。或る日皇后や女官等に西郷隆盛という題を賜うて和歌を詠じさせた。西郷の罪過を誹らないで詠ぜよ、唯今回の暴挙のみを論ずるときは、維新の大功を蔽うことになるから注意せよ、と仰せられた。」

 激しい犠牲を伴った半年以上に亘る内戦がようやく終わった頃に、政府が必死に討滅の努力を行い、新聞が挙って激しい非難を書き立てた、当の賊たる翁にこのような配慮を示した明治天皇が、政府と距離を取ろうとし、西郷贔屓の感情を有していたことは明らかであった。
 そして、明らかにこの戦争を経て、天皇は君主としての態度を改めるに至るのである。
 これは西南戦争の大きな意義のひとつであった。

〔以上、『(新)西郷南洲伝〈下〉』より、一部改変して転載〕

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