「和」の伝統 … 勝海舟 ②

 西郷南洲翁は勝の書簡を諸隊長に示して激怒して見せたという。
これは官軍の士気を鼓舞するための演技だったとする見方もあるが、それは違う。これは本心からの激怒であった。
 なぜなら、皇政復古討幕派は慶喜の、延いては幕府の上方における行為に心底激怒していたからだ。
 常に徳川一門として、朝廷側にあって宗家のために何かと周旋してきた親藩・越前福井藩の家老・中根雪江でさえ、慶喜の甘い態度に対して、弁解の余地がないことを諭すための書簡を送らざるを得なかったほどである。
 そもそも将軍職就任の時から木戸孝允は慶喜を家康の再来として警戒してきたし、南洲翁や大久保は彼を譎詐権謀の人物と見ていた。東帰後の彼の恭順の態度に何らかの奸謀が隠されているとみていたのだ。だから、関東へ向けて進軍する官軍は、その策略を極度に警戒していた。
 その、箱根を前にして緊張に包まれる官軍に勝の書簡は届けられた。
 勝は誠心を披瀝するつもりで、幕府軍は海軍で圧倒的優位に立っていることを誇示し、それを活用しての必勝の戦略を明らかにした上で論を一転、それでもこれを用いないのは、慶喜の恭順の意志が本物だからである、という主張をした。これは慶喜への献策の論理と同じであり、勝の本心である。
 しかし、南洲翁らはこれを逆に受け取った。

 再び、大村藩士・渡辺清の回想談からの引用である。

「…(西郷は)ここに勝麟太郎より手紙が参って居るから、これを見て呉れと云うて、開いて見せました(原註、その手紙はその後西郷が所持して居る筈、今は如何なったか、至って長きものである)。その大要は覚えて居りますから申しましょう。
 そもそも徳川慶喜に於いては、大坂を引払うて、江戸に参ったも、全く朝廷に対して恭順なる実を捧ぐるが趣意になって居る。我々もその意を体して、何所までも恭順を主として居るのである。然るに堂々と征討の兵を向けられ、今にも江戸城に打ち掛かるの勢を持って居らるるが、如何なる御見込みであるか。若し徳川家に於いて、朝命を拒み、また征討の兵を拒むというならば、如何様ともその所作はあるべし。徳川家に於いては、軍艦十二艘を所有致して居る。これを以て先ず二艘を摂海に浮かべ、また二艘を以て九州中国より登る兵を妨ぎ、また二艘を以て東海道筋の然るべき所に置き、また二艘を以て東海道を下る所の兵を攻撃し、残る四艘を以て横浜に置き、同港をしっかり保って置く。斯くの如きことを為したらば、恐らくは九州より登る兵も、東に向って下る兵も、躊躇する位のことではあるまいと思う。我がその事を為さざる以上は、恭順の実を挙げて居る。これを証拠に見て呉れよ。
 吾、貴公とは従来知己である。天下の大勢は目に著いてあるだろう。然るに今日手を束ねて拝している者に、兵を加えるというは如何。実に平静に不似合いの挙動と考える。これは暫く措いて、兎も角も征討の兵は箱根以西に留めて呉れなければならぬ。然らざれば慶喜の意も、我々の奉ずる意も、全きを得ずして、如何様の乱暴者が沸騰するかも知れず。今江戸の人心というものは、実に沸いたる湯の如し。右往左往、如何とも制することは出来ない。それに今官兵箱根を越したならば、到底我々恭順の実を、ここに挙ぐることは出来ないに依って、是非箱根の西に兵を置いて貰いたいと云う主意。」


 これは何度も言うように、勝にとって真情の吐露に他ならないのであるが、翁が官軍に対する恫喝と受け取ったについては理由がある。
 一つは勝の示した軍略が、官軍参謀の警戒しているところのもので、いわば図星であったこと。さらに、翁が諸隊長に向かって言っているように「果して恭順の意であるならば、官軍に向って注文することは無い筈」だからである。これは道理だ。
 少なくとも、この段階で、官軍側には江戸の状況が一切伝わっておらず、勝の言う鎮撫の困難がどれほど真実味があるか、確かめようがなかったのである。
 つまり、箱根からこちらに兵を進軍させるな、というのは迎撃体制を整えるための時間稼ぎであり、翁は、智謀の士・勝海舟が、譎詐権謀を逞しくしている慶喜の帷幄にあって、奸謀を支えていると見たのだ。
 これは京に残った大久保も同じで、彼は勝を梟雄と見ており(『大久保日記』)、翁が彼の仕掛けた罠に嵌るのではないかと恐れていた。

 一方、大久保の心配をよそに、翁には、余裕綽々としたところがあって、当時の書簡に次のような事を書いている。

「賊軍には智将もこれあり、大久保(一翁)も勝も参政に出候由に御座候間、決して油断は相成らず候。両人を相手に勝負を決め候儀、実に面白かるべきとこれのみ相願い居り申し候。敵方に智勇の将を置き戦を成し候儀、合戦中の一楽、この事に御座候。」

 
 そこへ、勝の、読みようによっては狡猾とも読める親書がもたらされたものだから、激怒しても決して不思議ではないのである。翁からすれば、勝よ、所詮お前も慶喜と同じ穴の狢だったのか、というのがこの親書を読んだ時の正直な感想だったであろう。

 それが渡辺の回想にある翁の次の言葉となったのだ。

「彼れの譎詐というものは、今日に始まったことではありませぬ。勝は申すまでもなく、慶喜の首を引き抜かねば置かれぬじゃないか。」

 もちろん翁はこれまで勝に欺かれたことはない。つまり、冒頭の「彼れ」は幕府そのものを指している。特定の人物を挙げるなら、やはり将軍慶喜を指していると読むほかないのである。

 このように、南洲翁ら薩摩藩指導者は自分らは道理を推し進めているとの確信を持って、事を運んでいた。その一方で、慶喜の将軍職就任以後の上方における政争に関与してこなかった勝は、将軍東帰後に現場に、政争の表舞台に復帰したようなものだから、どうしてこのような事態に至ったのか、事情に疎いところがあった。
 疎かったが、ただ本質だけはしっかりとつかんでいた。
 将軍東帰前後の勝の建言書の類を読むとそれが伝わってくる。

 彼の見るところ、敵方、すなわち皇政復古討幕派の方策は「旧歳以来の所置を考えれば(慶応三年以来鳥羽伏見の戦までを指す)、所謂逆にとりて順に守るの風あり。また我を激してその策に陥らしむ策多くして、先ず勝ちて後に戦うか。」というところにある。
 これは逆にとりて順に守る、というより、特に薩摩の方針が、名正しく、言順なる態度で事に臨むところにあるからで、逆に、今で言う与党の立場で、様々な難問の処置に追われ、正義ばかり言ってられない幕府の行為が、彼らの主張する、名正しく、言順なる政事に反せざるを得ない事情からきている。
 幕閣の現実主義的対応が、彼らに非難の根拠を与え、それが幕府側を激せしめ、さらに非難の根拠を与えてしまう。それははたから眺めていれば、まるで、相手を苦境に立たせるために、ことさら正義を言い立てているように観察できる。なぜなら、彼らはこれとは別の挑発的行為を繰り返しているからだ。具体的には、江戸の薩摩藩邸に浪士を匿って、江戸の秩序撹乱を企てたことなどが挑発行為の明白な証拠となろう。
 そういう悪循環に陥らせて、道義的優勢に立った上で、戦おうとしている。
 薩長のやり方は勝にそのように映った。
 そして遂に一戦、わずかな兵で十倍以上の兵を持つ東軍に勝ちを得た。
 そこで勝は言っている。

「今、彼、大勝に乗じて猛勢当るべからず。天子を護して群衆に号令す。尋常の策の如きは、その敵する所にあらず。」

 尋常の策ではとても太刀打ちできない。

 だからこそ、

「我、今、至柔(恭順のこと)を示して、これに報いるに誠意を以てし、城渡すべし、土地納めるべし。天下の公道に処して、その興廃を天に任せんには、彼またこれを如何せむや。」

 これが勝の東帰した慶喜への献策である。

 なぜなら彼には

「後来天下の大勢は、門望と名分に帰せずして、必ず正に帰せん。私に帰せずして、公に帰するや必せり。何ぞ又毫(ごう)も疑を存せんや。」

 という、大勢に対する達観があったからだ。
 これを挽回するには大道を踏むしかない。

 そこで官軍参謀の位置にあって、同じ大道を踏んでいる人物と見込んでいた南洲翁への親書となるのである。

 一通目の親書がむしろ逆効果であったことは既に触れたが、彼は二通目の親書を送った。今度は同じ幕臣の山岡鉄舟に託した。これが功を奏した。
 豪胆にして率直な山岡の態度は南洲翁の気に入り、慶喜の態度、江戸の事情、幕府の内情を見事、官軍の側に通ぜしめたのである。勝の主張に嘘がないこともようやく判明した。
 そこで初めて勝の「正心誠意」も大きな力を発揮する。

 勝が南洲翁に送った名文を紹介しよう。 

「無偏無党、王道堂々たり。
今官軍鄙府(ひふ、ここでは江戸を指す)に逼(せま)るといえども、君臣謹んで恭順の礼を守るものは、我徳川氏の士民といえども、皇国の一民たるを以てのゆえなり。且つ皇国当今の形勢、昔時に異なり、兄弟牆(かき)にせめげども、外その侮りを防ぐの時なるを知ればなり。然りといえども鄙府四方八達、士民数万往来して、不教の民、我主の意を解せず、或はこの大変に乗じて不軌を計るの徒、鎮撫尽力余力を残さずといえども、終にその甲斐無し。今日無事といえども、明日の変誠に計り難し。小臣殊に鎮撫力殆ど尽き、手を下すの道無く、空しく飛丸の下に憤死を決するのみ。
 然りといえども後宮の尊位(静寛院宮あるいは天璋院か)、一朝この不測の変に到らば、頑民無頼の徒、何等の大変牆内(しょうない)に発すべきや、日夜焦慮す。恭順の道、これにより破るといえども、如何せむ、その統御の道無き事を。唯軍門参謀諸君、よくその情実を詳らかにし、その条理を正さんことを。且つ百年の公評を以て、泉下に期すに在るのみ。
 嗚呼痛ましいかな、上下道隔たる。皇国の存亡を以て心とする者少なく、小臣悲歎して訴えざるを得ざる処なり。その御処置の如きは、敢えて陳述する所にあらず。正ならば皇国の大幸、一点不正の御挙あらば皇国瓦解、乱民賊子の名、千載の下、消ゆる所なからむか。小臣推参して、その情実を哀訴せんとすれども、士民沸騰、半日も去るあたわず。ただ愁苦して鎮撫す。果たしてその労するも、、また功なきを知る。然れども、その志達せざるは天なり。ここに到りこの際において何ぞ疑いを存せむや。恐惶謹言。」

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