「和」の伝統 … 勝海舟 ①

 野田現首相が就任時の所信表明演説で強調した「正心誠意」という言葉は、『氷川清話』にある勝海舟の言葉から取ったのだと言われている。
 その首相が「正心誠意」取り組んでいるのが、財務省が進める消費税の増税だ。
 その財務省にあって、消費税増税を推進しているのが、「影の総理」とも言われる財務省官僚の勝栄二郎氏で、彼は一時、勝海舟の子孫という噂が出回っていた。しかし、これは本人が取材で否定しているように、事実ではないらしい。むしろ、誰かがそういったイメージを意図的に流布したように思える。首相が勝海舟の言葉を入れたのも、その情報戦略に乗っかったものだろう。
 つまり、首相は政権を切り盛りするために、財務官僚とグルになったものと思えるが、この消費税増税で喜ぶのは、財務省のみならずアメリカもそうだろう。野田首相は、アメリカの意に沿う政権運営こそが長期政権実現の秘訣、ということをよく知っているのだ。露骨に中国寄りで、政治的苦境に立たされた小沢一郎氏は大きな戒めとなっている。
 しかし、この消費税増税を望んでいるのは中国も同じだろう。
 少なくとも、野田首相の「正心誠意」は日本国民のほうに向けられていない。

だからこそ、その政権下では次のようなとんでもないことが起きている。

http://www.youtube.com/watch?v=_WtmXZ-ebes&list=UU_39VhpzPZyOVrXUeWv04Zg&index=0&feature=plcp


 今回は「正心誠意」の本家本元、勝海舟に付いて触れたい。
 勝海舟の「正心誠意」が、野田首相のそれと、言葉は同じであっても、精神がいかに違うものであるか。

「再び、『和』の伝統 ・・・島津斉彬」の中で、順聖公・島津斉彬の政治態度が後継者達に受け継がれていくが、それをよく体現したのが、西郷南洲翁であり、島津久光であり、勝海舟であった、と述べたが、これは人脈という側面からの見方であって、むしろ、彼らは同じ伝統を生きた、と言ったほうが表現が適切だったように思える。
 同じ伝統の中で互いに切磋琢磨し、時に反発し対立、時に共鳴、協力し合って歴史を創り上げた。斉彬はその先覚的存在と位置づけるべきだろう。

 斉彬の交際は多岐にわたるが、進取気鋭の幕臣・勝海舟とも連絡を取り合っていた。
 斉彬は若き勝を、今の日本にとって得がたき人材と心得ていたのだろう。

 勝は後に、

「私は(順聖)公に面会もし秘密の書面も数回往復したるにより、よくその人物を知って居た。前にも言ふ通り、私は早くより蘭人に就いて海外の事情を心得て居るから、近づけておかなければ不都合だと思ったのであろうか、たびたび書面の往復をした。」

と述べている。

 また、

「斉彬公はえらい人だったヨ。西郷を見抜いて、庭番に用ゐたところなどは、なかなかえらい。おれを西郷に紹介した者は、公だよ。それゆゑ、二十年も以後に初めて西郷に会った時に、西郷は既におれを信じて居たよ。」

とも言っている。

 勝は後に西郷南洲翁との間で江戸城無血開城という離れ業をやってのけたこともあって、後から振り返って、下級藩士の中から西郷を見抜いて抜擢したことを、斉彬の偉大さを表す一つの事例として挙げているが、斉彬在世中は、彼の偉大さをどこまで認識していたか定かではない。おそらく傑出した人物であることは認識していたであろうが、その本質まで理解をしていたとは言えないだろう。
 それは南洲翁に対しても同じで、江戸城無血開城以後の彼に対する認識、西南戦争以後の彼に対する認識は、それこそ劇的な深化を遂げていったはずで、それらの事件以前から同じ認識に達していたというわけではない。『氷川清話』など、後世の回想を読む際には、その点に気をつけておかなければならない。

 勝もまた、独立した一己の傑物であって、幕末の時勢が煮詰まった段階において、幕府の閑職にありながら、その高い見識を持していた。いや、その高い見識を持していたが故に、衰勢にある組織の中で閑職に追いやられていた、と見るべきだろう。

 一般に理解されているような権謀術数的なものとは違って、非常に思想的な、薩摩藩を中心とする王政復古討幕運動の結果、幕府は政治的にじりじりと追い詰められ、遂には京都を放棄せざるを得なくなり、大阪(大坂)に退去するが、鳥羽・伏見の戦に破れて、東帰のやむを得ざるに至る。
 その過程で官軍に対する恭順の意向を固めた慶喜は、勝を再起用するに至った。しかし、それは勝の見識を認めたというよりも、薩長の人士と交流のある勝を起用して、慶喜の意志を官軍側に達しようとの意図から出た選択だったように思える。経緯はどうであれ、勝は、大変困難な状況の中で、自己の見識を行う機会を得た。

 この間の勝が引き受けざるを得なかった困難は言語に絶するものがある。
 当時、幕府は上方における敗戦を経て、崩壊寸前の状を呈していた。
 幕軍は大坂でも江戸でもむやみに兵を新徴募して、訓練の不十分な、劣悪な兵によって肥大化しており、これらが一斉に東帰して受け入れが追いつかず、しかも敗北によって士気は乱れており、脱走は相次ぐわで、統制が利かなくなっていたのである。
 勝は兵の脱走を食い止めようと奔走した。彼の奔走が文字通り命懸けであったのは、何度も殺されそうになっていることでもわかる。事実、彼の従者の一人は狙撃されて大怪我をし、一人は命を落としている。
 
 艱難汝を玉とす、という言葉があるが、勝が常人と違うのは、ここで自らの弱さを直視したことである。
 彼はその上で、死生を天に任せる覚悟をした。
 するとどうだろう。
 勝はそのときの心境を、「解難録」に書き記している。

「これより心中快然、挙止唯一人敵に逢えば、唯その討たるべきを知ってこれと力を争わず、心中はなはだ安穏を覚え、恐怖の念ようやく消滅す。実に心中語るべからず。笑うべし、歎ずべし。遠く古人の大難にあたってその行為せし所を察せば、貴ぶべし、及ぶべからず。愧じてほとんど慚死せんとす。」 

 
 もはや紛擾して組織の体を成していない幕府を背負った勝は、この心境で、勢いづく官軍に対することになるのである。

 勝が目指したのは、官軍の参謀、なかんづく西郷南洲翁の存在であった。慶喜恭順の意志を官軍に達するために、官軍参謀宛に書簡を送り、自らの誠心を披瀝しようとした。
 しかし、この手紙が南洲翁の朝敵・慶喜に対する道義的怒りに油を注ぐことになるのである。

 翁は諸隊長を前にして、手紙の内容を伝え、激怒した。その場に居合わせた大村藩士・渡辺清は次のように回想している。


「その手紙を西郷は我々隊長連に示しまして、顔色火の如くなって申すには、諸君はこの書を見て、何と御考えあるや。実に首を引き抜いても足らぬは、彼の勝である。人を視ること土芥の如く、尤も官軍を視ることを、如何に視て居るのであるか。果して恭順の意であるならば、官軍に向って注文することは無い筈。彼れの譎詐というものは、今日に始まったことではありませぬ。勝は申すまでもなく、慶喜の首を引き抜かねば置かれぬじゃないか。」

 勝の回想によれば両者は肝胆相照らす仲だったはずだが、これは一体どうしたことだろう?

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