「維新」という言葉

小林秀雄が前回紹介した「文学者の提携について」というエッセイの中で、言葉のインフレーションという面白いことを言っている。


 今日は文化といふ言葉が非常に流行してゐるが、これは勿論昔の武化に対する文化という意味で使はれた意味での文化ではない。恐らく、Kultur(カルチャー)の翻訳語でしょう。嘗てCivilizationの翻訳語の文明といふ言葉が流行したが、いつの間にか、文明とは言はなくなり、文化文化といふことになった。どうして文明が文化に変ったか、二つの概念の差異について学者には論はあるだらうが、そんなことは大したことではない、本当は飽きたのです。文明文明と言ってゐれば何か高遠なことを言っているやうに思はれたが、そのうちに文明堂のカステラといふ風な物が出来て来たりして、文明と言へばカステラを思ふといふやうなことになっては言葉に威厳がなくなって来た。仕方がないから、今度は文化といふことにしてみたまでである。これも長続きはしますまい。もう先きが見えてゐる。文化といふ言葉を濫用すれば言葉のインフレーションが起る。政府はインフレーションに対していろいろと対策を講じてゐるが、言葉のインフレーションについて考へるところまでは、手が廻らぬ。それを文学者がやらねばならぬわけであります。


 これは現代で言えば、「維新」という言葉に当てはまる。
 かつて戦後の一時期、「革命」とか「造反有理」という言葉が流行ったが、やがて飽きられた。そこで、その語感を引き継いだ言葉として、「維新」という言葉がもてはやされるようになった。そのように思える。

 しかし、この「維新」という言葉も、明治の文明開化以来、既にインフレーションを起こしてきた言葉であった。「昭和維新」を唱えた革新官僚、軍人の多くが、実は国家社会主義というイデオロギーにとらわれていたのである。これは一種の大「同」運動であり、決して大きな「和」、大和をなすものではなかった。
 つまり、今「維新」という言葉は、元の意義を論ずる者もまれになった、二重のインフレーションを経た言葉なのである。だから、政治家は、この言葉のインフレーションに対して対策を講ずるどころか、逆にインフレ増幅装置となっている始末である。皆口を開けば「維新」を言っている。
 「平成維新」は明るい響きを持つ言葉として、誰もが一度は耳にしたことがあるであろう。
 文学者もまた、そんな金にならぬ面倒なインフレーション対策などやりたがらない。

 そもそも「維新」とは、『詩経』「大雅・文王篇」にある「周は旧邦なりと雖も、その命は維(こ)れ新たなり)」という一節から来ている。
 「維」という漢字には移ろいやすいものを繋ぎ止める意味がある。これに「新」が加わって「維新」となると物事を一新する意味になるが、その軸として古いものを維(つ)いで物事を新たにしていく意味を含んでいる。
 先人が変革の必要性を感じてこの言葉を選んで使ったとき、その変わらぬ軸として皇室を思い描いていた。

 安永八年(1779年)、平戸藩が創設した藩校に「維新館」と名づけた際、幕府から詰問を受けていることを見ても(謀反の意志を疑われたのだ)、当時の常識として、幕府の再興をイメージする言葉ではなかった。天保元年(1830年)、水戸藩の藤田東湖が藩政改革への決意を述べた際にこの言葉を用いたというが、これは水戸徳川家の再興を指しているものと思われる。
 自己の属する藩組織に準えて用いられてきたと考えられるが、幕末の慶応三年十月、皇政復古討幕運動が煮詰まったとき、薩摩藩首脳部は、挙兵を決意し、討幕趣意書を討幕派の公卿に提出して、それに応じた宣旨降下の働きかけを嘆願している。その中に「維新」という言葉が出てくる。皇政復古運動の中心で、しかも重要な文書の中で使われた言葉として、もっと取り上げられて然るべきだと思われる。

 この趣意書は、儒学的尊皇の見地から見た、幕府年来の罪状を列挙し、なぜ義挙を決意し、それに相応の宣旨降下を嘆願するに至ったかを述べたものであるが、そのくだりは次のようになっている。

「…大樹公御継業、御維新の時に当たらせられ、…」

 これは、最後の将軍・徳川慶喜が征夷大将軍職を継いだ時(慶応二年十二月五日)が、維新の時に当たっていたとの認識を表しているわけで、将軍の代替わりによる徳川家の再興を「維新」と呼んでいるとも読めるのであるが、実はこの時、通常ならありえないようなタイミングで一大事件が起きていた。幕府を一貫して支持してこられた孝明天皇が崩御されたのである。 

 将軍職を継いだばかりの慶喜は、これを機に懸案となってきた兵庫開港の勅許を得ようと、二条関白に天皇への拝謁を願い出たが、万事先例主義の朝廷では、将軍職宣下の御礼参内を済ませてから改めて奏上するように答えた。結局、十二月十三日御礼参内、十五日に奏上のため改めて参内と決まったが、十二日になって、天皇が風をひかれたとのことで、御礼参内は十五日、奏上は十八日ということになった。しかし、十六日になって、天皇の病が実は痘瘡であることが明らかとなり、二十五日には崩御された。
 まるで、なにものかが慶喜の奏上を拒んだかのようであった。
 孝明天皇の崩御が討幕派にあまりに有利に働いたために、当時から岩倉具視による毒殺説が囁かれたことからも、タイミングの微妙さが窺えるのであるが、岩倉具視の思想に分け入ってみれば、暗殺はありえないように思える。

 天皇の崩御が公にされたのは二十九日。年が明けた慶応三年正月九日に、当時十六歳の睦仁親王が践祚した。
 これを受けて、正月二十二日、薩摩藩首脳(西郷南洲翁・小松帯刀・大久保利通ら)は、非常の決意を秘めて、諸侯会議招集の周旋のの準備の為、鹿児島に帰った。非常の決意を秘めてとは、この諸侯会議の結果如何で、幕府との武力対決も辞さぬ構えであった、ということである。

 彼らはこの諸侯会議で、慶喜へ大政奉還の建言を行うつもりであった。
 慶応三年五月に島津久光が将軍慶喜に謁見するに際し、西郷南洲翁は、久光への建言を行って、慶喜に大政奉還を説得するよう述べている。

 そのくだりは次のようになっている。


「…いずれ天下の政柄は天朝へ帰し奉り、幕府は一大諸侯に下り、諸侯と共に朝廷を補佐し、天下の公議を以て所置を立て、外国の定約(条約)においても朝廷の御所置に相成り候て、万国普通の定約を以て御扱い相成り候わば、忽ち御実行相挙り、万民初めて愁眉を開き、皇国のために力を尽くさんことを冀い、人気振い起り挽回の期に至り、一新致すべき事と、大道を以て御諭解在らせられたき儀と存じ奉り候。」


 『西郷隆盛全集』の解説によれば、原本は西郷の筆跡で、巻き表には久光の自筆で「丁卯五月西郷大久保の大趣意書」と記されているそうである。これは坂本龍馬の手になる、いわゆる「船中八策」より一月ほど早い。
 上の文書を読めば明らかなように、先の「維新」の言葉に徳川家の再興を思い描いていたとは考えられない。皇室の再興、延いては日本の再興こそがその眼目であったことは間違いなく、新将軍の就任に、新天皇の践祚が重なったことで初めて維新の時が来たことを直感的に覚った、と読むのが自然であろう。
 このように、「維新」とは皇室の再興と一体になった言葉であった。

 これに対し「易姓革命」という言葉がある。
 これは王朝の姓が易(か)わる、すなわち王朝交代を意味する言葉であり、支那の国體を表す言葉である。
 支那は有史以来、放伐(追放・討伐)による王朝交代を常とする国であり、それに引け目を感じた儒者が、武力による放伐によらぬ、自発的王朝交代、すなわち易姓革命である禅譲説話を創り上げた。これが堯舜禹の神話である。堯は有徳の舜に天下を譲り、舜もまた有徳の禹に天下を譲った。この禹が我が子に天子の位を継がしめたところから世襲は始まるとされる。禹は夏王朝の始祖となった。夏王朝は殷王朝に取って代わられ、殷王朝は周王朝に取って代わられる。孔子はこの周王朝末期、春秋時代の人だ。

 日本は古来、こういった王朝交代のありかたを一貫して否定してきた。つまり日本において「維新」という言葉が用いられるのは、神話に繋がる万世一系の皇室という存在を前提としているからであって、国體と密接に関係しているのである。

 「維新」とは英訳すれば、復古を意味する[the Restration]になるが、[revolution]を翻訳する際、「革命」の語が用いられたのは、そこに「君主制」[monarchy]の廃止が含まれていたからである。「易姓」の二文字が削られたのは、世襲の意味合いを含まぬからだ。
 共産主義は君主制を否定するが、ソ連の革命輸出組織「コミンテルン」の指令の中に[monarchy]の廃絶があり、それが日本において「天皇制」と訳されたのは、日本における君主とは天皇陛下に他ならないからである。つまり「天皇制」という言葉はコミンテルン用語であり、その存在の否定、廃絶を前提とする言葉だということである。

 この「維新」という言葉の意味を曖昧にさせてはならないのは、左翼の「革命」という言葉が力を失って、「維新」という言葉を使い始めたとき、この言葉は二重のインフレーションを経て、その意味を逆転させて、根軸となるものを絶やす悪意を秘めている可能性があるからである。これは大変危険なことだ。

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