小林秀雄と「和」の伝統

 聖徳太子の「十七条憲法」を通じて、「和」の伝統について考えているが、ちょうど、小林秀雄が「和」の伝統について語った文章に出会ったので紹介しておく。

 文章の題は「文学者の提携について」で、戦争真っ只中の昭和十八年十月に『文藝』誌上に発表されたエッセイである。
 大東亜戦争に前後する時代は、荒れ狂う国際情勢の中で、「和」の文化が最も、長所としても、また短所としても作用した時代であって、日本が再び似たような国際情勢に直面している今日、伝統を再生させ、この荒波を乗り切る上で最も関心が払われなければならない時代である。

 小林の文章は、現代的に色々な読みかたができるだろう。


 「大東亜の文化の新しい建設のために、アジアの各文学者が共通の理想の下に、提携し協力するといふことは、空前の盛事だと僕は思ひます。
 しかし、この提携といふことを考へますと、僕は非常にむつかしい仕事だと思ってをります。近い例を挙げますと、共通の理想を持つといふことと、提携の実を挙げるといふこと即ち文学者間に本当の人の和といふものを実現することは、全く違ったことである。嘗てのわが国の文学者達が社会主義といふ共通の理想の下に提携し運動したことがあったが、人の和といふやうなものは全然現れなかった。現れたものは党派の対立だとか、個人間の反目だとか、さういふくだらない醜態だったに過ぎない。しかも、この共通の理想を持ったといふ安心が片方にあって、その上で争ひが起るのだから、争いが非常に複雑な悪質なものになった。これは申すまでもなくイデオロギイとか組織とか、さういふものに眼が眩み、一方、人の和といふ深刻な事実を曖昧な陳腐な概念として軽蔑した。その罰です。この最近の苦がい経験について、われわれ文学者は充分反省してゐるかどうか、僕は非常に疑問に思ひます。
 一体、現代の文学といふものは非常に観念的な性格を持ってゐる。これは近代文学の最大特徴の一つだといって過言でないと思ふ。例えば、これも非常に卑近な例ですが、一時は唯物思想といふものがわが国を風靡したことがありましたが、観念論を攻撃するさういふ論者等は、自分の唯物論が実は極端な観念論であることに一向気づかなかった。かういう観念性といふものの深いまどはし(惑わし)から現代の文学者達はもうすっかり開放されてゐるとは、どうしても信ずることが出来ない。現代のジャアナリズムを御覧なさい。歴然たる証拠があるではないか。

 …(中略)…伝統に還れという声が高い。しかしさういふ高い声の裡に、伝統はまるで生きてゐない。どうしてさういふことになったかといふと、伝統は観念ぢゃない、伝統は寧ろ物なのであるといふ簡単な事実を皆忘れてゐるところから、さういふことになると僕は思ふ。
 伝統は物だ、と僕は申し上げたが、伝統は物質だと言ふのではない。物といふ字は元来、存在といふ意味の字です。伝統は物であるとは、伝統とは存在する形だといふ意味であります。例えば、文学伝統といふものはどこにあるか。文学伝統とはわれわれの現に所有する古典です。われわれの先輩が遺した文学的遺産といふ明瞭な形である。これを外にしては文学伝統といふものはどこにもあるものではありません。従ってこの文学伝統を真に理解するといふこと、つまりわれわれがこの文学伝統を継承するといふこと、それは、かういふ明瞭な形を古人が刻苦精励して作り出した、その或る深奥なる実際の手腕を、われわれも刻苦精励して体得するより外に道はないのであります。

…(中略)…

 『君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず』、とは孔子の有名な言葉ですが、若し孔子の生涯に想ひを致すならば、いかにこれが彼の実際経験から発した肺腑の言であるかを知るでありませう。われわれの提携運動の前途には小人同じて和せざる危険があるかないか、これはわれわれの努力次第です。かういふ大提携運動には、勿論政治家の協力が必要だ。政治的手段、組織が必要だ。しかし、文学者間の真の和は、つまるところ、作品を創るという実際の仕事の容易に人の知り難い喜び、或は苦しみを互に分ち合ふといふところに現れざるを得ないのであります。そういふことを考へますと、提携といふことは戦ひと同様に困難な仕事だと思ひます。」



 以上、文章からわかるように、小林秀雄は、聖徳太子についても、「十七条憲法」についても、また「和」の伝統についても語っていないが、太子と同じ問題意識に立っていたことは明らかである。

 文学提携運動に限らぬ、当時の日本社会に対する問題意識を語った、といっていいように思える。「和」を基調とする日本人の提携運動が、小人同じて和せず、の類に陥りがちであることを、おそらくは、未曾有の国難に際して、国策遂行に協力する中で、肌身を以て感じていたのだ。

 孔子の言葉を借りるなら、日本人の「和」の文化とは詮ずるところ、「同」であり、これを救うには、君子の努力を要する。それは戦時中、唯物思想、国家社会主義思想に捕らわれて硬直した、軍部を含む、官僚機構に楯突く勇気を要するものであり、確かに、戦いと同様、いや日本人にとってそれ以上に困難な仕事であったことは間違いないだろう。
 真の「和」を以て貴しとなす所以である。

 こういった大提携運動が成果を出すには確かに政治家の協力が必須であるが、それは君子による政治が必要ということである。大東亜会議にせよ、大東亜共栄圏構想にせよ、充分な成果を果し得なかったが、それは「君子」による「和」が「小人」が作り出す「同」の大勢を乗り切れなかったということだろう。
 政治が政治手段、組織を備えると、どうしてもそこには小人が入り込んでくるのである。
 小林は敏感にもそのことを見抜いていた。 
 真の「和」を冀い、「同」ずることの出来なかった小林が、文章を書くより、骨董いじりに没頭して、『論語』に出てくる隠者風にならざるを得なかったのも、今にして想えば、文学者としての必然だったように思える。

 しかし、運動が持つ構想の実現は見なかったとしても、西洋諸国の植民地からアジア諸国の独立への道筋を作ったという、一部の成果を挙げたところを見ると(それでも史上まれなほどの巨大な成果であるが)、日本には大勢に飲み込まれたものの、無数の君子がいた、ということでもある。
 敗戦直後の座談会で述べた「僕は無智だから反省なぞしない、悧巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」との放言が一部、人口に膾炙しているところを見ると、敗戦の大勢に同ずる小利口者への小林の皮肉が、戦後日本人の腐敗を一部止めた面もあったわけで、彼の戦後の言論活動が、「和」して「同」ぜぬ「君子」のそれであったことがわかるのである。

 小林が戦時中に危惧した「小人、同じて和せず」の大勢は現在の日本社会においても変わらない。いや、むしろ病膏肓に入るの感がある。
 
 これは最近のTPP問題における口裏を合わせたような大手マスコミの参加支持の論調に現れているし、官僚の主導した消費税増税における政治家の動向にも現れている。

 いわゆる「保守」陣営とて例外ではない。
 教科書運動における「つくる会」と産経新聞の対立もそうだろう。
 産経新聞の行動は大に同じさせようとするものである。これに対する「つくる会」の態度は、「同」の強制に屈せず、「和」そうとするもののように見受けられる。

 伝統とは物であり、存在する形である。それは芸術作品や古典という存在する形となって、時代を超えて、現在を生きる我々の元に届けられてくる。しかし、それを生き返らせるのはわれわれの努力である。

 人能く道を弘む。道、人を弘むるに非ず。
 
 我々の足元まで続いてきた道は、これを自ら刻苦精励して歩いて、初めて未来に向けて切り拓かれていくのである。それ以外に、民族の真の創造的発展はありえない。
 「十七条憲法」も、『論語』も、先人に読み継がれ、模範とされてきた、我々が現に保有せる古典ではないか。

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