日本人の卑しさと「和」の文化

「えんだんじ」氏が指摘する日本人の卑劣、卑怯、卑屈の指摘は、身近な社会生活の中でいくらでも思い当たるところがある。
 氏の指摘するところによると、日本民族の欠陥とは、一つは、正義感の欠如、一つは現実直視力の欠如、一つは「長いものに巻かれろ」式の態度、一つは理性より情緒に流されがち、という点にある。そこから日本民族の卑劣、卑怯、卑屈な生き方が生まれる。 

 しかし、私はそれらが民族的欠陥という表現をされるとどうも違和感を感じる。
 なぜなら、よその国と比較して、日本人が格別、卑劣、卑怯、卑屈な民族性を持っているとは思えないからだ。歴史的に見てもそうである。むしろ寛容にして高貴な精神において、日本人には格別な点があるように思える。

 それらの欠陥はむしろ、どの民族、国民も持つ、人間の性に根ざすものであり、日本人も例外ではない、そう考えるべきだと思う。大東亜戦争の敗戦によって生じた戦後文化は、それを増長させて、今に至っていると考えるべきではないのか。

 それらについて既に「和」の文化を温床とする生活態度との認識を示しておいた。そして、それは伝統というよりも、その意味が問われることのない、慣習としての「和」の文化が温床となっているように思われる。

確かに、我々は今でも「和」の文化の中に生きていて、それに対して無意識であればあるほど、その個性は、状況に応じて、特に国際社会との関係性において、容易に欠陥、弱点に転化していくようである。
 このことは現在のマスコミや政治の世界に顕著に現れていると言えよう。
 戦後のパラダイムによる「和」は日本人の腐敗を促進するような内容を持つ。それを正そうとする歴史教科諸運動を行う側にも、そういった卑劣、卑怯な精神が紛れ込んでいることは、前回のプロパガンダ・ブログの例を見てもわかるはずだ。彼らはマキャベリズムでそうしているのかもしれないが、その議論は「正統保守」の看板を汚すものだ。

 日常接する人の多くが、交際上の必要性から、表面上「和」してはいても、言動をつぶさに見ていくと、いざとなったら平気で人を売るだろうと感じることは少なくない。
 つきあいの深度、利害一致などの程度にもよるだろうが、その限度を超える状況の変化があれば、掌を返したように態度を変える人が大半だろう。
 日本人の大半が情況倫理の世界を生きているのだ。
 彼らは自分の利益のために、あるいは、身を守るために、本音と建前を使い分けている。しかし、建前のつもりが、長期的に内面を蝕んでいくということがあるのだ。
 しかし、それは、利己主義が蔓延した現代社会の中で、庶民が自分の生活上の利益を守る上での小さな知恵でもあり、庶民生活の中に現前として生き続けている以上は否定しても始まらない。
 理想はそういった現実に立脚していなければ、単なる空想となってしまうだろう。
 

 ここで私は伝統を重んずる立場から述べてみたい。
 「和」の文化はわが民族の個性である。それは長所であると同時に、短所ともなりうる。堕落した精神の温床であると同時に、高尚な精神の温床ともなる。
 日本の知識人や指導者が本来心がけるべきことは、この個性を否定して懸かることではなく、その個性が長所として働き、短所として働かぬように導いていくことである。

 「和」の文化は日本社会の端々にまで生きているが、その反省的自覚に立って、「和」の文化の在り方を問うた最初の思想家が、おそらく聖徳太子であった。

 それは「十七条憲法」に明確に現れている。

(憲法十七条全文は次のサイトで訳文つきで閲覧可能である。

http://www.geocities.jp/tetchan_99_99/international/17_kenpou.htm


 聖徳太子はその第一条において、「和」の貴重さを訴えているが、第二条以下は、それを達する上での心構えを様々に説いている。
 太子の人間社会に対する洞察は深く、「十七条憲法」は現代的意義を全く失ってはいない。私より公を優先する姿勢がなければ、「和」は腐敗の温床なるとの警鐘を発しているとも読めるのである。
 日本人にとって、その貴重性は、侵略国アメリカの強姦によって生まれた、私生児である日本国憲法など足元に及ばぬ。

 もちろん日本の歴史は太子の描いた理想にはむしろ反する流れを描いてきた。「承詔必謹」どころか、皇室の権力は藤原氏に奪われ、一族の最盛期に、道長は「この世をば、わが世とぞ思ふ、望月の、欠けたることも、なしと思へば」と嘯いた。
 やがて権力は、武家に握られることになり、鎌倉、室町の世を経て、戦国時代を迎えることになる。
 応仁の乱の発端から六十年を経て即位した後奈良天皇の御代、戦乱の全国規模での深まりとともに、皇室の衰微は甚だしく、財政上の理由から、践祚から十年もの間、即位式を行うことができなかった。
 結局、大名からの寄付により即位の礼を行うことができたが、その間、宸筆を売って財政の不足に充てることもあったという。この境遇が好転したのは、信長の出現によってである。後奈良天皇の次代、正親町天皇の御代のことである。
 彼の天下一統の事業が、皇室を押し立てる形であったことが、維新回天の基となったのである。

 信長が尊皇家であったか、非尊皇家であったかが問題にされることがあるが、そんな後世の問題意識は信長には関心がない。信長は独自の天下観で皇室を尊んだだけであって、それ以上でもそれ以下でもなかっただろう。皇室は信長の天下構想の中で、不可欠にして貴重な存在であったのだ。

 このような歴史を背景とする一方で、聖徳太子の「十七条憲法」に連なる精神の流れは確実に継承されてきた。聖徳太子の「十七条憲法」は読めば読むほど深読みができる。

 十七条憲法を一言で表すなら、天皇の下での公の精神による「和」、と言い表すことができると思う。
 その公の精神の内容をもう少し腑分けしてみれば、内的規範における仏教の尊重と、外的規範としての漢学、なかんづく儒教の尊重を看取できる。外的規範とは人間の社会交際上の規範であり、政治面における規範となる。
 この内的規範及び外的規範両面から「和」を達成しようと言うのが、太子の描いた理想である。


 この憲法が秀逸なのは、当時の頽廃した現実に立脚して理想という一軒家が建てられているというところにある。
 当時の日本は、昔ながらの神々に抱かれて生活している集団(党)があるかと思えば、シナを通じて渡来した天竺の仏の教えを奉ずる集団(党)が主導権を争うということがあった。蘇我氏と物部氏の争いがそれで、太子自身、崇佛派の蘇我氏に味方して、物部氏と戦った経験があった。
 殺生とは仏の教えの禁ずるところである。そのことに対する深い反省が「十七条憲法」を生んだと言っていいのだろう。
 一方で、シナから渡来したのは仏教だけではなく、漢籍があった。いわゆる漢学であるが、儒教を要とするこれらの思想もまた、宗教性を持たぬまま、朝廷周辺の知識人には浸透しはじめていたようで、憲法には取り入れられている。

 太子が、身分に捕らわれぬ、有用な人材による登用を目指して制定した冠位十二階の制度は有名だが、それが儒教的規範に則っていたことは、その冠位が「大德 小德 大仁 小仁 大禮 小禮 大信 小信 大義 小義 大智 小智」という儒教の推奨する徳目で秩序付けられていることからも明らかだ。
 太子が政治規範として儒教を重要視していたことは明らかである。

 この太子が定めた冠位制度は「隋書」の倭国の記述にも見られるから、太子が、今で言うところのグローバルスタンダードを意識していたことが窺えるのだ。明治維新の精神の発露である「五箇条の御誓文」の精神は、その源流をたどれば「十七条憲法」にまで遡ることができるのである。
 

 深読みに過ぎるかも知れぬが、私が太子の深い洞察と叡智に感服するのは、憲法の第一条に「和」を以て貴しと為すとした事にある。

 太子が指摘しているように、人皆党あり、また達(さと)れるものは少ない。
 党とは当時で言えば、それぞれが属する氏族であるし、奉ずる宗教である。太子は蘇我氏との関係が深かったし、仏教を奉じていた。達れる者が少ないのは、仏教を奉じながら、その禁ずるところの殺生を行ってしまったことでもわかる。

 なぜそのようになるのか。

「人皆心あり、心おのおの執(と)るところあり。彼是とすれば、則ち我は非とす。我是とすれば、則ち彼は非とす。我必ず聖なるにあらず。彼必ず愚なるにあらず。共にこれ凡夫(ぼんぷ)のみ。是非の理(ことわり)なんぞよく定むべき。相共に賢愚なること鐶(みみがね)の端(はし)なきがごとし。」(第十条)

 だからである。

 だから続けて、

「ここをもって、かの人瞋(いか)るといえども、かえって我が失を恐れよ。我独り得たりと雖も、衆に従いて同じく挙(おこな)え。」

となる。

 こういった現実認識を前提に、第一条の

「上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。」

となるのだ。


 第一条の「和を以て貴しと為せ」について、仏教に通じた学者は仏教の精神の現われだという。仏教学者の中村元氏や梅原猛氏などがそうである。
 一方で、儒教に詳しい人は、『論語』にある有子の言葉「礼の用は和を貴しと為す」を出典とするという。確かに礼の「和」達成における用は、第四条で触れられているし、冠位十二階の制度では、徳、仁に続く高い位置を与えられている。
 一方で、日本の有史以前からある「和」の原理の発露である、とする歴史家・井沢元彦氏のような見方もある。

 ここで神仏儒の三教が出揃ったわけだが、私は以上のような主張を為す識者より太子の方が数歩深い洞察力と高い見識を持った思想家であったと思う。
 それぞれの説はまんざら見当違いではないだろう。
 しかし、「人皆心あり、心おのおの執るところあり、彼是とすれば、則ち我は非となし、我是とすれば、則ち彼は非となす」のが、凡夫の性なのであるから、太子はそういった現実を踏まえた上で、それを越えたところに和を成すという理想を描いたに違いないのである。
 
 佛教には佛教の臭気が、儒教には儒教の臭気がある。また、それぞれが属する党(とむら)がある。それぞれが、それぞれの神を、超越者を、党派意識を手放すはずがない。だから、それぞれが、それぞれの宗教の教条として受け止められる言葉として、佛教者たる太子が自ら信じた三宝を敬うことを差し置いて、「和」という言葉を第一条に選び、御皇室の下で、まことの「和」を成せるように憲法を制定した。
 その結果、後世の、神道者流も、佛教者流も、儒者流も、自分の中の超越者への帰依を満足させながら、党派意識を満足させながら、御皇室の下に和すのが、日本本来の有り方だと考えるようになった。

 そう考えれば、「十七条憲法」「和」の精神の由来が、佛教にある、いや儒教だ、いや神道だ、と言って、自説に固執して対立している知識人、あるいは宗教家は、太子の掌の上にあるわけで、その深い叡智に遠く及んでいない、ということになる。
 つまり、それぞれの立場に固執する人間が「和」という言葉の意味は知ってはいても、「和」の精神を知らない、という人間社会の現実に直面して、それでも敢えて、知らず識らずの内に、それぞれの分に応じて、「和」を成すように、神仏儒道の道に精通していた太子は、この言葉を選んだのではないか、ということである。

「和」の精神とは、その文言にあるのではなく、「和」の状態を成す事にある。その点、後世の識者が何と主張しようと、「和」を成すことの大切さは日本人の共通認識となっている。
 ただ、凡夫からなる現実の社会は、党(自己の所属する集団)の利害に捕らわれて、日本大の公という点から言って、形式的「和」は成せても、それが事理の通じたものとはならない。「和」の文化の慣習としての作用である。

 しかし、太子の思想は地下水脈として受け継がれ、江戸期の儒学を中心に展開した学問の刺激を受けて復活する。
 その結実として幕末の維新運動がある。
 その精神を集約したものとして、既に「五箇条の御誓文」を挙げた。しかし、この御誓文もまた、表面的な理解に止まって、真の理解がなされているとは言いがたい。「維新」をスローガンに掲げても、維新の精神に欠けていては維新が成るはずもない。 

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック