織田信長と論語

 以前、「織田信長と論語」と題した文章を掲載したことがある。
 これは「南洲翁遺訓解説」という連載の「天地自然の道」補記として文章にしたものだが、それを再掲載する。


(引用開始)

 織田信長が『論語』を読んでいたなどというのはありそうもない話だ。
 実際、私の知る限りでも、彼が『論語』を読んだなどという記述に接したことがない。それどころか、彼の言動はことごとく非『論語』的と言ってよいほどである。

 ならば、どうしてそんな題をつけたのか、という話になりそうだが、簡単に言えば、「徳川家康と論語」という題で、南洲翁遺訓解説の補記を書いたから、その第二弾ということで付けただけである。

 しかし、見当はずれかといえばまんざらそうでもない。
 というのは、これまで何回かにわたって述べてきた、南洲翁という英雄の日本文明史上における真の偉大さを理解するために踏まえておく必要がある超越者の伝統、すなわち天道思想の伝統において、織田信長が果たした役割には大変大きなものがあるからである。
 実は、私は信長という人物の出現が、日本人の宗教感覚、これは山本七平流に日本教と言ってもいいだろうが、その宗教感覚に一種の革命を起こしたと考えているのである。
 彼の革命児として果たした役割はこの面にまで及んでいる。否、むしろ彼の革命児としての本質は、こちらの方にあったと言っても過言ではなかろう。


 日本の歴史を鳥瞰してみて、日本人の道徳性は、神道・仏教・儒教の習合思想、いわゆる天の思想(のちの天道)として把握されるべきだと思う。
 そして、さらに、これら三教がどのように位置付けられ、統合されていったのかが問われなければならないと思う。

 梅原猛氏によると、聖徳太子はかの有名な「十七条憲法」で「仏教を中心として儒教、道教を加えた三教一致の道徳を確立」しようとした、という。
 ここにすでに三教習合の道徳観が示されているが、この『十七条憲法』の中心にあるのはあくまでも神道的なものだ。
 聖徳太子自身が個人的に信仰していたのは仏教であったが、神道を中心とする神仏儒の三教に道教を加えた道徳観で、この国の道徳を確立しようと考えた。しかし、聖徳太子も参加した、蘇我氏と物部氏の対立で、闘争の結果、崇仏派の蘇我氏が勝利することで、仏教が隆盛を迎えることになる。それでも日本は仏教一本槍になったというわけではなく、大化の改新で律令制を取り入れるなど、儒教的なるものへの目配りも忘れられることはなかったし、また神話に連なる皇室がこれらの中心である以上、神道的なものが三教の習合による社会統合の要(かなめ)であり続けたことは明らかである。

 その後、仏教は奈良時代末期には神仏習合説を生み、平安時代の末期になって、「本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)」が盛んに唱えられることになる。これは仏教側からの主張で、神とはインドの仏(本地)が衆生済度(しゅじょうさいど)のためにその迹(あと)を日本に垂れたものとする説である。
 これは外来の宗教である仏教が日本古来の神道を取り込むことで、その正統性を確保するために生まれた説であった。つまり仏教側からのアクションであって、日本古来の宗教としてすでに正統性を備えている神道はあくまで受身であった。

 しかし、時代が下ってこれを逆転させる説が伊勢神道に出てくる。つまり本地が日本の神で、その迹をインドに垂れたのが仏であるとする考え方だ。
 これを継承して発展させたのが、「唯一宗源神道」を唱えた卜部兼倶(うらべかねとも、一四三五~一五一一)である。彼の生きた時代は、応仁の乱(一四六七~一四七七)を境に、日本の旧秩序や価値体系が崩壊し、戦国時代に突入していく時代と重なっている。彼の主張はそういった時代状況と無縁ではないだろう。この時代の日本は、自己の勢力拡張をしきりに謀る武家はもちろんのこと、仏教勢力でさえ自衛のための武器・兵を所有し、城塞を構え、対立する他宗派を焼き討ちするほど、精神の荒廃した時代であった。

 こうした時代状況で、卜部兼倶は日本に根ざした古来からの神の道が、まず隣国支那に枝葉を伸ばし、インドに花開き、その実が落ちて日本に帰ってきたのが、儒教や仏教であるとした。
 このように発想を逆転させれば、儒教や仏教の教えを神道の教えとして取り込むことが出来る。彼はこのように本来融通無碍(ゆうずうむげ)で受身の宗教である神道の生命力を回復させ、より強固ならしめ、伊勢神道から神敵と非難されつつも、日本全国の神祇(じんぎ)を強引にその支配下に収めていった。

 そして、時代はやや下って、戦国の世に織田信長が現れる。
 彼は日本の伝統とは異質な存在に見られがちだが、必ずしもそうではない。彼もまた天道思想という日本の伝統から生まれた人物である。彼が特異なのは、その天道思想の中で自身をどのように位置づけたかであり、全く伝統との根が切れた異質な人間というわけではないのである。
 信長を追求すればそれこそ一冊の本になってしまうので、深入りするのは避けたいが、少なくともその天道思想の要の部分に神道的なものがあったことは間違いないように思える。
 彼の先祖は越前の織田剣神社の神官で、彼が越前を支配下に治めた際、現地司令官の柴田勝家に織田剣神社の保護を命じているところから見て、自己の源泉に自覚的であったことは間違いない。また彼は桶狭間の戦いの出陣の際に軍勢の集合場所を熱田神宮(祭神は武神ヤマトタケル)に指定し、戦勝祈願を行った。またさらには、武田勝頼と雌雄を決した長篠の合戦の際も、同神社に使者を送って戦勝祈願をさせている。そして熱田神宮の築地塀を修復(一部現存)させているところを見ても、その神力を認めていたことは確かだろう。
 信長に関して最も信頼できる史料とされる、太田牛一の『信長公記』に記されている「火起請御取り候事」という記事を読んでも、彼が神力というものを信じていたことはまず間違いない。
 ちなみに火起請(ひきしょう)とは、真っ赤に焼いた鉄斧を手に取って、有罪無罪を神意によって判定する裁判法である(落とせば有罪、落とさなければ無罪)。これは日本古来のもので、上古には探湯(くかたち)と呼ばれていたものである。『日本書紀』にもしばしば出てくる。

 このように神道的なるものを信仰の根底に置いていた信長は、独自の天道観で精神的秩序の崩壊した社会を統合しようとした。

 それが最もよく表れているのが、安土城の内装である。
『信長公記』によれば、この安土城は七層からなる高層建築であり、第五層目には絵がなく、第六層目は仏教を主題とする絵で飾られており、最上階第七層の天主閣(後の天守ではなく天主と表現されたことがミソである)は、天井が天人影向(ようごう)の所となっており、座敷の絵は儒教的主題の絵で囲まれている。
 間に絵のない第五層目を挟んで、四層目以下は様々な意匠の絵で飾られているところから見て、俗世界を超越したものとして六層目・七層目を構想したのだ。だとすれば、彼は社会統合の原理として、儒教を仏教より上の原理として考えていたことになる。
 しかもキリスト教的なものはこの中から排除されている。彼はキリスト教徒が持ち込んだ文明の利器には影響を受けたが、その世界観を日本の統合の原理とは認めようとはしなかったのだ。その点思想的には、不干斎ハビアンより先んじていたと言える。
 では、儒教と仏教はどのように彼の中で位置づけられていたのかといえば、それはおそらく、政治的統合の原理としての儒教と、死生観など個人的信仰としての仏教というように位置づけられていたのではないかと思う。
 孔子が言うところの「鬼神は敬して遠ざく」であろう。
 実際、彼の比叡山延暦寺の焼き討ちや石山本願寺との十年に及ぶ闘争は、宗教の政治的影響力の強制的排除がその目的であった。それは信長の残虐行為から目をそむけず、冷静に事情を観察してみれば明瞭なことだ。信長は仏教徒の信仰そのものは否定していない。あくまで政治にかかわるなということだった。
 そして、この信長の政治方針は、彼の後継者である秀吉や家康に受け継がれ、幕末に至るのである。徳川家の宗教政策について、勝海舟が「従来徳川では、宗教は敬して遠ざける方針を執って、・・・(中略)・・・ 治めざるをもって、治めるのが、幕府の宗教に対する政略であった」(『氷川清話』)と言っているのは示唆に富んでいるといえよう。
 この政策の起源が信長にあり、彼が徹底的に仏教勢力の政治的干渉を排除したからこそ、治めざるをもって治めることが可能になったのである。日本人が近代において、パレスチナにおいて繰り広げられているような凄惨な宗教戦争を経験せずに済んだのは、信長と、その方針を受け継いだ秀吉・家康のおかげである。

 また、その信長が皇室を守り立てる形で、天下統一を進めたことも当然重大な意味を持っている。
 彼は天皇を儒教的天子として尊ぶとともに、天照大神の子孫という神道の総本家として、日本の神々とともに、日本人の神道的感情を統合する意味合いもあったのだろう。安土城天守閣(天主)横にあり、これと空中廊下で連結していた跡が見つかった本丸御殿は、江戸期の御所の清涼殿と同じ構造をしているという。
 『信長公記』にある「御幸の間」「御座所」と記されているものがそれらしいが、これは天皇の居館として作られたものらしい。彼はおそらく安土城内に御所を置こうとしたのだ。それは結局実現しなかったが、この建築様式が後の江戸時代の清涼殿に継承されて行ったのである。
 安土城における天皇の居館の存在は、皇室の権威の単なる政治的利用という範疇をこえて、信長が彼独自の天道的世界観における重要な要素として天皇を位置づけようとしていたことを表しているように思える。そして、その天道的世界観において、信長は儒教原理を仏教原理の上に置いた。つまり江戸そして明治への流れを作ったのは信長であったということができるのである。 

 さて、今回信長に触れたのは、日本における神仏儒の習合思想(天道思想)が、それまでの神仏の習合に重点が置かれたものから、神儒の習合に重点が置かれたものに変化したことを述べるためである。この思想はすでに『太平記』の原型と思われる部分(全四十巻中、巻二十一までの部分)に現れているが、建武の中興という一時的な運動を除いて、禅宗の付属物として渡来してきた朱子学が、江戸時代になって官学となり、主客転倒の立場になった背景には、こういった天道思想の変化の流れがあった。その決定的な事件が信長の出現だったのである。
 彼は、強力な政治的強制力を以て、日本人の宗教革命を行った。
 そして、その後継者たちによって、学問の時代は用意され、その学問的成熟を経て、王政復古は実現するのである。



(引用終了)

 記事のアウトラインについては今更、改める必要性を感じない。が、信長と『論語』という切口の記事としては、大きな修正が必要ではないか、そんな気になっている。

 傍証的にしかいえないが、間違いなく信長は孔子の思想を知っていたし、自ら『論語』を読んではいなかっただろうが、その内容には深い関心を抱いていた。
 そして、その天下一統の事業は必ずしも非『論語』的ではない。
 最近『信長公記』を通読してみて、そのことに気づいた。

 世に信長好きを公言する人は多く、その革命児振り、天才振りを賞賛する人は多い。
 逆に、信長の天才性に懐疑の眼を差し向けた本もある。その残酷さ、狭量さを指摘する人も多い。

 しかし、我々凡人から見て、天才という形容は、あくまでも相対的なものである。だからこそ現代において天才という言葉は乱用される。
 信長自身もそのことはわかっていたからこそ、各分野において最も卓越した人物に、天下一の称号を与える、との指示を出したのだ。
 識者の信長の天才性に対する着眼は、それが各行為の独創性に対する関心に止まる限り、彼の事業の矮小化にしか繋がらないのではないかと思われる。


 信長は孔子の思想を知っていて、それを実践しつつ、それをさらに超えようとした。もちろん、彼が天下一統事業の叩き台にしようとしたのは、孔子の思想のみではないが、少なくとも、その要石と認識していたことは、安土城天主第七層の内装を見てもわかることだ。

 儒者・小瀬甫庵の『信長記』を元祖とする、後世の小説の類が、我々の眼から信長の実像を霧の向こうに追いやってしまっている。
 彼らによって創作された挿話は、我々の持つ好奇の眼を釘付けにするが、第一級の史料とされる太田牛一の『信長公記』にしても、個々の事件の異常性にとらわれ過ぎると全体像が見えなくなってしまう。『信長公記』は角川ソフィア文庫でも出ていて入手しやすいにもかかわらず、通読した人はあまりいないのではあるまいか。

 西尾幹二氏はブログで次のように言っている。

「歴史家のヤーコブ・ブルクハルトは例えばツキュディデス(古代ギリシャの歴史家)のなかには今から百年後にようやく気づくような第一級の事実が報告されていると言っている。過去の資料は現在の私たちが変化して、時代認識が変わると、それにつれて新しい発見が見出され、違った相貌を示すようになるという意味である。歴史は歩くにつれて遠ざかる山の姿、全体の山容が少しずつ違って見える光景に似ている。それは歴史が客観でも主観でもなく「自己」だということである。」

 信長の事跡を、家臣の立場から、ありのままに記録して残したような太田牛一の『信長公記』にも同じ事が言えるのではないだろうか。
 今度、熟読し直してみて、この家臣の残した記録から浮き上がってくる信長像は、一般に流布されたそれとは違っていて、新鮮な驚きの連続であった。彼の行為は謎に満ち満ちている。


 ブルクハルトといえば、次の言葉を思い出す。

「歴史は往々にして突然一人の人間の中にみずからを凝縮し、世界はその後この人に従うといったことを好むものである。これらの偉大な個人達は普遍と特殊、止まるものと動くものとが一人の人格に合致したものといえる。彼らは国家や宗教、文化や危機を集約するものなのである。…(中略)…危機にあっては既存のものと新しいもの(革命)とが合して一つとなって、偉大な個人のうちにおいて頂点に達する。これら偉人達の本質は世界史の真の謎である。彼らのその時代に対する関係は(聖婚)とでもいえ、そのようなことはほとんどただ恐るべき時代、偉大さに唯一最高の規準を与え、またただ偉大さへの要求のみをもつ時代においてだけ行われうるにすぎない。」(『世界史的諸考察』ブルクハルト、藤田建治訳、二玄社)


 これは拙著『(新)西郷南洲伝』において、幕末の英雄、島津斉彬とその遺志を継承した西郷南洲翁の事跡を形容するために引用した文章だが、その延長線上には、維新回天への道筋を用意した人物として、信長という、霞がかって山容の捉えがたい巨峰が、家康や秀吉といった峰ゝの向こうに、天に向かって巍々として聳え立っている。
 その全容を捉えるためには、この山脈に深く足を踏み入れなければならないだろう。

 ブルクハルトの上の言葉は、信長にも、より大きな意味で当てはまるだろう。
 信長の存在は、まさに歴史の大きな謎である。
 その思想の根源にあるものを見つめない限り、彼は決してその正体を現しはしない。
 
 これは以前からだが、私は南洲翁と信長がかなり似ていると感じられてきた。もちろん、似ているということは別の個性ということでもあるが、この、似ている、という直観に一般の同意は得られないだろう。
 
 

 印象論になるが、狩野永徳の弟・宗秀が描いたとされる長興寺所蔵の一番よく知られた肖像画は、幾分の狂気を感じさせるが、一番似ているといわれるイエズス会のジョヴァンニ・ニッコロが描いた写実的な肖像画の方は、彼の剛毅にして高貴な精神を表しているように感じられる。

 この肖像画は、信長の次男・信雄の子孫である出羽天童藩織田家に伝えられたものだという。

(「織田信長」ウィキ解説参照;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7) 


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