織田信長と真暦

 前回までさくらをテーマにした記事を連載したが、「さくら(その弐)」で本居宣長の「真暦考」を紹介する中で、織田信長の本能寺の変が闇夜を選んで行われたことに触れた。

 明智光秀の謀叛の動機は諸説あっていまだ謎であり、言わば歴史の闇に属するものだが、少なくとも、信長が数十名の小姓衆を連れたばかりで京都に滞在中である上に、闇夜であることが、彼の「ときは今」との認識となって謀叛を後押ししたであろうことは想像に難くない。

 『信長公記』によると、彼が中国への出陣のために、坂本を発ったのが二十六日のことであり、丹波の亀山に一泊し、二十七日には愛宕山に参詣。何を思ったか、神前にて二度三度まで籤を引いた。
 さらに一泊し、二十八日には西の坊で連歌を興行した。
 明智光秀はここで初めて謀叛の意思を明らかにした。
 
 ときは今、あめが下知る、五月哉
 
 本能寺の変の名場面の一つである。
 この決断にいたるまでの数日、彼は、日々欠けていく月を眺めながら、迷いに迷いぬいて、意志を固めていったのだろう。

 旧暦(太陽太陰暦)にあって、朔(ついたち)は必ず新月で闇夜だが、謀叛はその晩、日付が変わった時刻に行われた。
 よって日付は二日ということになるが、一日の晩、すなわち新月が見守る中で行われたことになる。

 決行寸前の光秀の心境や如何。
 少なくとも、討たれる側の主君、信長のこの日月の運行に関する関心は別のところにあった。この辺の暦に関する意識の違いは、コントラストをなしていて面白い。

 実は、中国地方への出陣のため京都に入った信長は、この晩、公家衆を前に、暦の改変を話題にしていたのだ。

 この席で信長は、二月から四月にかけて行われた関東平定(武田勝頼の征討)やこれから行われる中国・四国地方への出陣について語ったが、そこで彼は、この年(天正10年)の十二月の後に閏月を差入れるべきとの意見を述べたのである。太陰太陽暦と閏月については「さくら(その弐)」で解説した。

 これまでの日本の正式な暦である朝廷の暦(京暦・宣命暦)では、翌天正十一年の正月の後に閏月を差し入れることになっていたのである。
 太陰太陽暦は、古代において、支那より伝来したものだが、支那において暦は、時を支配するものとして、皇帝(天子)が制定するものとされており、これを踏襲して、わが国においても、天皇(天子)が制定するものとされてきた。そのため、朝廷では陰陽寮(おんみょうりょう)を置いて陰陽頭(おんみょうのかみ)が暦の作成を司ってきたのである。

 公家社会は古来からの慣習を重んじる。

 その席にいた勧修寺晴豊は次のように日記に書き留めているそうである。

「十二月閏の事申し出、閏あるべきの由申され候。いわれざる事なり。これ信長むりなる事と各申す事なり。」
 
 公家衆の反発がここに表れている。
 しかし、これは信長にとって、無理ではなく、有理だったはずである。

 信長の暦に対する関心は、古くまで遡る。
 そもそも「元亀」から「天正」への改元は彼の強く推したことであった。
 「元亀」の元号は不祥ということで、すでに元亀三年には朝廷において改元の議が起っており、三月二十九日には使者が信長と征夷大将軍・足利義昭のもとに派遣されていた。信長はこれに同意したが、義昭のほうはこれに掛かる経費の献上を拒んで、改元は棚上げされていた。
 九月、信長は将軍への十七条の諫言を行っているが、十条目には次のように書かれている。


「元亀の年号不吉に候間、改元然るべきの由、天下の沙汰に付いて申し上げ候。禁中にも御催の由候処、聊かの雑用仰せ付けられず、今に遅々候。是は天下の御為に候処、御油断然るべからず存じ候事。」


 そして、翌元亀四年七月、義昭追放の三日後、信長は改元の奏請を行い、その七日後には、「天正」への改元が行われている。
 改元の発議は朝廷からであったが、後にこれを熱心に推進したのは信長であったことがわかる。
 彼の理念である「天下布武」が、朝廷の改元案の一つ、「天正」という言葉に感応したのだろう。

 さて、改暦の問題に話を戻す。

 今、二十五年ぶりということで、五月二十一日の金環日食が話題になっているが(本州で見られたものとしては百二十九年ぶり)、実は信長が改暦の話題を持ち出した、この天正十年六月一日も日食であった。
 ただし、この日の日食は金環日食を10とすると6の部分日食であったという。

 日食はかならず、月が太陽の影に隠れる新月、即ち太陰太陽暦の一日に起る。日食は当時の暦でも推測が可能であったが、この時の日食は京暦では推測できなかった形跡がある。
 だから、信長もとっさに改暦の問題を口に出したらしいが、彼が改暦を主張したのはこの時が初めてではなかった。この年の正月にも信長は改暦の問題を持ち出していたのである。

 当時、関東では三嶋大社の作成する三嶋暦を代表として数種の暦が用いられていた。そして、それらは閏月の挿入に関して見解を異にしていた。
 信長は関東平定を前にして、支配地域における暦の一元化を図ろうとしていたらしい。甲州出陣の軍令(二月三日)を発する直前に、朝廷の陰陽頭・土御門久脩(ひさなが)と賀茂在昌(あきまさ)を安土に呼んで、濃尾の暦者とその正当性について対決させている。二月の一日から二日のことだ。議論は平行線を辿り、結論は出なかったのだが、信長は京で作暦に携わる者を集め、改めて検討し直して、七日までに結論を出すよう命じた。その結果、京暦が正しいということになって、その結果は信長に伝えられた。
 
 天下に公正を求める信長は、宗論においてそうであった様に、専門学者による討論を通じて、より精確な暦による一元化を求めていたのだ。必ずしも京暦による一元化ということではなかった。
 以後、この問題は取り上げられた形跡はない。
 しかし、六月一日になってこの話を蒸し返したのは、おそらく、誰の眼から見ても、京暦に欠陥があることが明らかになったからだろう。

 後の江戸時代、三嶋暦は幕府によって正式な暦として採用されている。しかし、この問題に先鞭をつけていたのは信長だったのだ。
 信長は学者ではなかったが、天地と一体となった、本居宣長が後に言うところの「真暦」の感覚から、当時一流の学者が捕らわれている、言わば「からごころ」という「人作の巧」による暦の歪を正そうとした。
 とは言え、信長は天下の人々を納得せしむるところの権威たる「人作の巧み」そのものまでも否定したわけではない。意識的な政治、むしろ政事と表現したほうがいいかもしれないが、それはどこまでも「人作の巧」である。乱世における天下一統の事業はどこまでも「人作の巧」を必要としていた。彼はそれを誰よりも、大胆に、峻厳に、精緻に推し進めたのである。


 新月の夜に、公正な暦による統一を思う信長と、闇討ちを決行する光秀。


 ちなみに本日五月十一日は、一説によると、太陰太陽暦による信長の生誕日である。信長が安土城天主に降臨した日でもある。

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