西南戦争における薩軍の戦略に関する史料 「西郷南洲翁の正気 (その五)」

 南洲翁が「はじめから軍事的勝利を計算にいれていない」という第二の点についてコメントさせていただきます。

 確かに南洲翁は鹿児島県令の大山綱良に「一つ条理に斃れ候」と書いていて、勝敗を度外視していたようなところがあります。これは、不正は政府に、正義は我にある、という自信の現われでもあり、この戦争が正気の発現であったことを裏付けています。
 しかし、一方で、南洲翁は勝つために人事を尽くしてもいるのです。その大胆略は、翁が一世の智勇を推倒したものといってよかろうと思います。
 一般に薩軍は、「孫子」が下策とした、天下一の堅城・熊本城の攻略に拘泥して敗北したと考えられていますが、これは一知半解に基づく誤りです。薩軍が実際に熊本城を力攻したのは開戦直後の二日間だけであって、この間に諸隊長間で、「孫子」の先の命題を巡る激しい議論があって、戦略を切り替えたのでした。
 新たに選択された戦略は、最小限の兵を割いて熊本城包囲を継続して、主力は熊本に殺到する政府軍を迎撃する、というものでした。
 どう違うの?と思うかもしれませんが、戦略目的が違います。
 これを理解してもらうために、拙著『(新)西郷南洲伝』では、古代ローマの英雄ユリウス・カエサルのガリア戦役7年目のアレシア攻防戦の事例を挙げました。
 カエサルは、ガリア人の聖地にして難攻不落の要塞であるアレシアに立てこもった、ベルチンジェトリクス率いるガリア部族連合の主力八万を、五万弱のローマ兵で包囲し、これを囮にして、籠城軍の救援に駆けつけた二十五万以上の兵からなるガリア軍を打ち破った。ローマ軍は、内と外から敵を受けるという危険を敢えて冒して、これを破ることで、より大きな戦略目的を達成しました。この勝利によって、七年にわたったガリア戦役の帰趨は一気に決したのです。ガリア人は以後反抗の気勢を失いました。
 南洲翁が同じ戦略的発想をしていたことは、鹿児島県令・大山綱良に「彼(政府軍)の策中に陥り、この籠城を餌に致し、四方の寄せ手を打ち破り候えば、ここにて勝敗を決し申すべく」と書き送っていることからもわかります。
 一方で、政府軍のほうも、熊本城が落城するかどうかは戦局全体を左右すると考え、全力を尽くしたのです。田原坂の戦いがあれほど激しいものになったのも、それが原因です。大東亜戦争同様、不利ではあっても、決して、初めから負けることがわかっていた戦ではなかったのです。
 薩軍が政府軍の攻撃に持ちこたえている間に、熊本籠城軍が先に音を上げて城が落ちていれば、天下一の堅城が落ちたという情報が伝わって、全国の不平士族が立ち上がった可能性は大きかったのです。薩軍に呼応しようという勢力や情勢の変化を窺っていた勢力は全国に多数いたのです。

 もちろん南洲翁がアレシア攻防戦を知っていたわけではありません。翁の大胆略の模範となっていたのは、楠木正成の千早赤坂の戦いです。翁のご先祖は、楠木氏と共に幕軍と戦った菊池氏であり(だから奄美大島への遠島中、菊池源吾、すなわち菊池氏の矜持こそが吾が源である、ということを意味する名を名乗っていた。)、これを勤皇の模範としていました。王政復古時の軍略が、元弘の役を下敷きにしていたことは知られています。
 楠木正成はわずかな手勢を率いて千早の小城に立ちこもり、天下の敵をひきつけます。そして、奇計奇手を駆使して、雲霞の如き幕軍を翻弄、九十日間持ちこたえます。このことが呼び水となって、一度は沈滞した討幕の気運は盛り上がり、全国の一斉蜂起を誘いました。そして、ついには幕軍の中からも寝返りが出て、討幕を成し遂げたのです。
 南洲翁が熊本の戦いにこの歴史的事例を重ね合わせていたらしいことは、鹿児島県令・大山綱良宛ての書簡からも窺えます。(-⑤)



史料⑤

「苟しくも当時万国対峙の形勢を知らんと欲せば、春秋左氏伝を熟読し、助くるに孫子を以てすべし。当時の形勢と略ぼ大差なかるべし。」(西郷南洲翁遺訓・追加二)


「私学校の当時の模様を述べんに、毎日孫子その他二書を、隔日に朝九時より近藤慶助氏の講義あり、常は一組の壮士昼夜当番の任に当り、夜は宿泊し、昼は総ての壮士会して講義を聞けり。而して各自自ら好む処に随いて研究せり。先生(南洲)にありては、毎日出席さるることなく、折々見えられたり。しかし篠原氏やその他私等は毎日出席したり。また各舎の居る処にも、その他各方面に私学校の分校の如きもの建てられたり。而して田舎にても各郷に於いても、私学校に出でざる者とは御互いに交際せずして、彼等は怠惰柔弱なる者なりとせり。私学校の目的としては真面目にして着実に励み、勤むる精神を養わんとし、専ら確固たる気風の養成に心を用いし。漸次知らざるの間に剛毅の精神教育成熟せり。」(河野主一郎)


「その戦いを用(おこ)なうや久しければ兵を鈍(つか)らせ鋭を挫き、城を攻めればすなわち力屈(つ)き、久しく師を暴(さら)さばすなわち国用足らず…(中略)…故に兵は拙速なるを聞くも未だ功久なるを睹(み)ざるなり。…」(『孫子』第二篇「作戦」篇)


「戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり。故に上兵は謀を伐つ。その次は交を伐つ。その次は兵を伐つ。その下は城を攻む。攻城の法は已むを得ざるが為なり。」(『孫子』第三篇「謀攻」篇)



 二月二十一日、鎮台の攻撃を受けた薩軍は開戦を決議し、今後の方略を評議した。
『西南記伝』はそのとき行われた議論を次のように記している。これをよく読めば、『孫子』の先の命題を前提にした議論であることは明らかだろう。


「初め薩軍の熊本に入るや、首帥西郷隆盛、本荘に於ける田添某の邸に寓し、仮に本営をここに設け(原註、居ること二日間、地勢便ならざるを以て、本営を春日なる北岡神社の隣地に移し、尋(つい)で二本木豪商鳥井某の邸に転ぜり。)四番大隊長桐野利秋、一番大隊長篠原国幹、二番大隊長村田新八、三番大隊長永山弥一郎、五番大隊長池上四郎、六番七番連合大隊長別府晋介等の諸将を会して、進軍の方略を議したり。
 篠原国幹策を献じて曰く、『我軍もしこの孤城に屑々として曠日(こうじつ)彌久するにおいては、恐らくは進取の機を失せん。今日の事唯当に全軍力を一にし、四面合撃一挙して城を屠るのみ。若しそれ我軍これが為にその一半を喪うとも、この城にして一たび陥落するあらば、天下の大勢我に帰せんこと必せり。また何ぞ必ずしも躊躇するを須(もち)いんや』と。
 議略(ほ)ぼこれに決し、先ずこれを押伍(おうご、下士)以下に告げ、その余は発するに臨み、これを令せんとし、未だ発せざりき。
 然るに二十二日の夜、薩軍後発の諸将西郷小兵衛(一番大隊一番隊長)、野村忍介(四番大隊三番小隊長)等、各その隊を率いて川尻に達し、熊本城強圧の議決するを聞き、相議して曰く、
『今や天下の人心挙って現政府の施設に平ならず。而して肥後既に我軍の掌中に帰し、形勢我に利あらざるはなし。然るに全軍を挙げて孤城を攻圍し、徒にその精鋭をここに竭(つく)すは、決して上策にあらざるなり。宜しく先着部隊をして専ら攻囲の任に当らしめ、全軍これより直に進みて行々(ゆくゆく)官軍の外援を破り、両筑豊肥の地を略し、長崎・小倉の形勝を控扼(こうやく)せば、縦令熊本城急に抜けざるも、城兵終に飢困して、自ら陥るに至らずんば已(や)まじ。果して然らば九州風靡、海内鼎沸、天下の大事手に唾して成るべきなり』と。
 すなわち相伴いて本営に至り、その決を西郷に仰ぎたり。
 西郷(小兵衛)・野村等相携えて本営に至り、その決を西郷に求むるや、先着諸将桐野・篠原・村田・永山・池上・別府等またその座に在り。篠原固くその主張を執り、激論時を移すも決せず。西郷沈思する者これを久うし、断然全軍強圧の策を中止するに至れり。」



蛇足ながら解説を施すとすれば、「孫子」によれば、兵は拙速を貴ぶ。攻城は下策である。しかし、天下の堅城・熊本城を放置して、進軍すれば、そこが政府軍の根拠となって、背後を衝かれるおそれがある。そこでどうするかだが、陸軍少将・篠原国幹は全軍で、今のうちに一気に攻め落とすべきである、と主張した。ところが後続の諸隊長(西郷小兵衛や野村忍介等)は、それは「孫子」が言ったように上策ではない、先着部隊だけで攻囲して動けなくしておいた上で、全軍はこのまま進軍すべきである。そうすれば、天下の形勢は薩軍に帰す。そう言って反対した。
 前者は大局的観点から、攻城の法は已むを得ないと判断したのに対し(だから薩軍の一半を喪うことを覚悟している)、後者は、下策だから攻城はやめて、包囲するにとどめて、北九州方面の攻略に主力を投入せよ、と主張している。いずれにしても、天下の形勢を薩軍に引き寄せるための方略で主張が対立したといってよい。 
 
 南洲翁が諸隊長の激しい議論を聞いて、沈思黙考した末の決断は、鎮台兵四千が籠る天下の名城熊本城に、私学校全兵力一万三千の内、四千名足らずを以てこれを攻囲し、残りを政府軍の迎撃に当たらしめる、というものであった。
 折衷案といえば折衷案だが、兵力の分散を避け、矛盾を克服する解決策であり、薩軍の道義的制約を考えれば、むしろ大胆略であったと言いうる、というのが私の主張である。
 ここでは軍略としての観点からの記述にとどめるが、政府に対する不満勢力の求心力になるには、道義性が求められた、ということは忘れてはならない視点である。
 薩軍はこの軍事行為のもつ道義性を十分に宣伝しえず、新聞等を活用した政府の情報宣伝戦に敗れた、という側面を看過するわけにはいかない。その証拠に、西南戦争に関する一般の認識は、いまだに政府側の用意したものばかりであり、薩軍の立場が十分に緻密に分析されたことはない。いまだに、薩軍、延いては西郷決起の理由がよくわからん、という愚論ばかりが罷り通ることになっている。ちゃんと史料として残されているにもかかわらず、だ。
 

 南洲翁は熊本攻防戦の趣旨及び展望を大山綱良に次のように書き送っている。

「…下拙(自分の卑称)、事柄分かり兼ね候えども、敵方策も尽き果て候て調和(講和)の論に落ち候か。畢竟敵方において熊本籠城に相成り候ては、各県蜂起致すべきに付き、全力を熊本に相尽くし、猶この事破れ候わばもう致し方なく、それ切りとて策相立てず候儀、慥かに聞き得候に付き、即ち彼の策中に陥り、この籠城を餌に致し、四方の寄せ手を打ち破り候えば、ここにて勝敗決し申すべく、地の形と云い人気と云い其の所を得候に付き、我が兵を一向此処に力を尽くし候処、既に戦いも峠を切り通し(やり過ごし)六七分の所に討ち付け(打ち付け)申し候。…」(三月十二日付大山綱良宛書簡)


 熊本城籠城軍を餌にして、政府軍を誘き寄せ、これを破れば、各県において一斉蜂起が起きて勝敗は決する。そういった展望を持っていたのである。
 この時、翁の脳裏には千早の戦いが再現されていなかっただろうか。
 大楠公の正気が宿ってはいなかっただろうか。

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