西南戦争の起因に関する史料 「西郷南洲翁の正気 (その参)」

史料③


鹿児島に鎮まっていた南洲翁は、政府の砲艦外交を道義的には恥ずべき外交としながら、朝鮮が開国した以上は、大陸政策着手の機会はまだ先と考え、私学校などで後進の育成に力を注いでいましたが、明治十年一月中旬になって、再びロシア・トルコ間で緊張が高まって戦争になった、との情報を入手します(実際の開戦は四月)。そして、私学校は二月下旬をめどに、兵器を携えて上京する準備に取り掛かります。(-③)
 これは大陸政策着手の輿論を喚起するためで、陸軍大将・西郷隆盛が薩摩義勇軍を率いて上京し、政府に大陸政策着手を提議する、という行動を取ろうとしたのだと推察されます。



 まずは、明治九年の秋から翌十年正月五日までの約四カ月間、鹿児島に帰省していた有馬藤太の談話。


「鹿児島滞在中は、始終西郷先生を訪問し、征韓論についても、しばしば先生と話をした。
『まだその時機が来ない。マー四、五年待たねばならぬ。が、あながち武力に訴えねばならぬということはない』
といっておられた。桐野はもっと気が長く、『十年、十年』といっていた。」(『維新史の片鱗』)



念のため、ここで「征韓論」という言葉を使用しているのは、有馬であって、南洲翁ではないことを確認しておく。
 少なくとも、明治八年九月二十日の江華島事件をきっかけとする朝鮮の開国によって、武力を用いる必然性はかなり失われていたが、翁や桐野が時機を待って鹿児島に鎮まっていたことはこの証言からも窺える。


 続いて、鹿児島の外城士出身の谷口登太の証言である。
 この人物は、私学校のスパイとなって、政府が送り込んだ工作員「東獅子」の一人、中原尚雄に近づいて、政府による、南洲翁を含む私学校幹部暗殺指令の情報をもたらした、西南戦争の謎を解く上での鍵を握る重要人物である。
 その彼が、後に政府に捕らえられ、九州臨時裁判所で取調べを受けた際の口供記録で注目すべきことを述べている。
 彼は、台湾出兵に共に参加して旧知の間柄であった中原尚雄の帰省の意図を探ることを私学校側から要請された際のことを次のように述べているのだ。

 下線部をよく読んで頂きたい。


「自分儀別に勤め場もこれなく、農業のみ致し居り候処、明治十年一月二十六日と覚え、兼ねて知音の鹿児島福昌寺門前居住士族相良長安、自分方へ来り、おまえは東京へ出ると云うことなるが、そうかと相尋ぬるに付き、決して然らざる旨相答えたる処、然らば何故私学校へは入らざるやと相尋ぬるに付き、何も訳はこれなく候えども、鹿児島へは三里余りも相隔たり、困窮の身分、弁当の手当にも差支うるに由り、これまで入校致さざる旨相答え候処、(相良曰く)私学校と云うものは、外難の生じ候節の為に備え置くものなるを、吾が国において戦争にても起こすものの如く相考え、入校致さざるは大いに間違いのことなり。当時既に亜細亜・土耳其(トルコ)にて戦争相始まり居るに付き、日本へ及ぶも測り難し。その時に至り、彼是致し候ても、合戦の出来るものにてはこれなきに依り、来る旧暦正月中旬頃までには、私学校党繰出し、上京の手筈にて、兵器等も十分取調べこれあり、昨今入校する者最も多し。若しその時に至り臆病を垂るる様のことにては、二才共より毆(たた)き殺さるるも測り難きに付き、速やかに入校致し候方身の為なるべしと勧め候末、…」


 相良がここで言っていることは歴史的事実で、この四月にロシアはコンスタンチノープルを目指して、老大国オスマントルコ帝国に宣戦を布告することになる。「日本へ及ぶも測り難し」というのは、ロシアとトルコが戦争を始めれば、イギリスが黙っているはずなく、英・ロの緊張が高まれば、日本の北辺においても両者の緊張が高まる可能性が出てくる、ということであろう。
 (その弐)で紹介したように、南洲翁は、トルコをめぐるロシアと英国の対立を利用して、英国と手を組んで、日本が一憤発すれば、ロシア恐るるに足らずと考えて、朝鮮問題への着手を唱えた。ロシア朝鮮国境周辺のポシェット湾からニコライエフスクまで兵を派遣してロシアと対峙しようという考えからであった。後の地政学に言うところの、海洋国家英国との同盟による、ユーラシア大陸第一ハートランド・ロシアの挟撃がその目的である。さすがの大陸軍国ロシアも東西同時に事を挙げられては後手に廻らざるを得ないというのが翁の読みである。一八五三~一八五六年のクリミヤ戦争においてロシアは、トルコに加担した英仏連合軍に破れたことがあった。  
 有馬藤太が鹿児島に滞在していた正月五日まで、翁は「まだ、その時機が来ない」と言っていたが、彼の帰京後、国際情勢は急転し、大陸政策着手の時機が到来したのだ。

 ちなみに、『西郷隆盛暗殺事件』の著者日高節の調査によれば、私学校の記録に相良長安なる人物は存在せず、口供にある福昌寺門前付近にもそのような人物は存在しなかったとのことである。『薩南血涙史』によれば、私学校幹部は協議の上、相良という人物ではなく、谷口の旧友である田中市右衛門をして説かしめたことになっている。
 谷口登太の証言は注意を要するのであるが、相良長安なる人物が何者であるにせよ、口供を読む限り、これが歴史的事実に符合する以上、城下士から「唐芋侍」と蔑まれていた一外城士に過ぎない谷口による、思いつきの作り話ということはありえず、当時、政府の密偵でさえ探知できなかった私学校側の機密事項であったと考えてまず間違いないだろう。

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