西郷南洲翁の正気 (その壱)

 宮崎正弘氏のメルマガ『宮崎正弘の国際ニュース・早読み』に連載中の「正気を失った日本」 第四回目に西郷南洲翁が取り上げられたので、転載させていただく。

(記事転載開始) 

『西郷隆盛は思想である』

(「平成24(2012)年 1月10日(火曜日)通巻第3536号」
http://melma.com/backnumber_45206_5380480/ )  

 ▲西郷隆盛はなぜ決起したのか

 西郷隆盛命を祀る西郷神社は鹿児島市内の高台にある。南州墓地に隣接し、錦江湾を見下ろす。
 墓地の陣形をみてぞっとなった。若き日に、最初に訪れたときは名状しがたい震えがおさまらず、十数年を経て二度目に参詣したときは穏やかな春の日だったにもかかわらず鬼気迫る悽愴な雰囲気が漂っていた。
 我が師林房雄は畢生の大作『西郷隆盛』を残したが、けっきょく、西郷の人生は謎のままとして余韻を残した。

 南州墓地の構造的なかまえは恰も西南戦争の西郷軍の布陣、中央にある西郷の墓の右に桐野利秋、左が篠原国幹、以下最後まで西郷と行動を伴にした村田、永山、池上、別府、辺見ら烈士七百四十九体が眠る。
 かれらは敗北必至であるにもかかわらず、新政府に「尋ねたきこと之有り」とした西郷の動かされ自ら死地に赴いた。後世の歴史に「その刻印」を、すなわち正気を伝えるために起った。

 西郷その人とて私学校の生徒らが弾薬庫を襲ったときは鹿児島に不在であり、狩り犬とともに野良着をきて近郊の山麓にあった。
 西郷は暴発した生徒らとは無関係であると主張すれば、事件は小さな窃盗事件として片付けられたかもしれない。しかし西郷は学生の暴走に呼応するかのように起(た)ったのだ。それは死をもろともしない、歴史における正論を鮮明に後世の記憶に残すためであり、合理主義や科学で、西南戦争の意義をとくなどと賢しらな歴史家の言はあまりにも現代的衒学である。

 湊川に散った楠正成も、庶民の困窮を見かねて起った大塩平八郎も合理主義では説明できない義挙であり、日本の悠久の歴史の美を求めて散華した。


 ▲はじめから軍事的勝利を計算にいれていない

 やや冷静に西南戦争を客観視するなら、万一の僥倖がのぞみえたのは挙兵した部隊を熊本を素通りさせて福岡、長崎をおさえ、一挙に船舶を確保して大阪へ攻め上る手段があった。その緒戦の勝利を目撃すれば各地の不平浪士らが西郷軍に合流する可能性はあった。勝利の蓋然性は極端に薄いとはいえ、民衆は西郷軍に味方していた。軍費不足を西郷札を印刷して物資を調達したときも付近の農家は西郷札を受け取ったように。

 しかし政府軍は豊富な軍事金と軍備を背景にして八代から上陸して西郷軍の兵站を絶ち、小倉からは支援部隊がかけつけ、田原坂の激戦ではやくも挙兵側の敗北はみえていた。田原坂で篠原国幹、西郷小兵衛らが戦死した。
 だが、兵力の差がかくも歴然としていたとはいえ、政府軍は簡単に西郷軍を砕けなかった。優秀な火力をもってしても西郷軍の抜刀隊の鬼神を脅かすほどの殺気に怖じ気づいた。
 朝敵と位置づけて殲滅を鼓舞する新政府に、正統性があるかどうかは不問に付すとしても、西郷討伐軍には、東京にいた薩摩出身者は参戦を潔しとせず、結局は戊辰の敵として警視庁にくわわった旧会津藩士らの合流あって、軍略が成立した。

 やがて官軍は辛勝するが、その西郷軍への精神的負い目を覆すことは不可能だった。はたして西南戦争は政府軍からしても正義の戦争だったのか?
 後の「抜刀隊」の歌は、官軍の士気を鼓舞する歌であるにもかかわらず敵を褒め称えてやまないのである。
 ♪
 我は官軍わが敵は
 天地容れざる朝敵ゾ
 敵の大将たるものは
 古今無双の英雄で
 これに従う強者は
 共に飄悍決死の士
 鬼神に恥じぬ勇あるも
 天の許さぬ反逆を
 興せしものは昔より
 栄えしためし有らざるゾ
 敵の滅ぶる其れまでは
 進めや進め諸共に
 玉散る剣抜きつれて
 死ぬる覚悟で進むべし

 敵を「古今無双の英雄」とたたえ、それでも朝敵であるがゆえに進めと鼓舞しているのだから官軍側もまた凄惨にして悽愴である。
 
「賊軍をおのれの鏡とした。この倒錯した感情こそ、勝利は敗北のイロニィであることをあらはしてゐる」(桶谷秀昭『草花の匂ふ国家』(文藝春秋))

 かくて南州墓地には正気が満ち溢れて日本を見つめている。
 ーーいったい、いまの日本人はなぜここまで劣化したのか、と。

 江藤淳は晩年の『南州残影』(文春文庫)のなかにこう書いた。
 「西郷南州は思想である。この国で最も強固な思想である」

 そして南州墓地に立って、かく述べる。
「桜島の噴煙と相対峙するこの場所から、西郷隆盛、篠原国幹、桐野利秋以下が、麾下の軍勢を卒き連れて、今にものっしのっしと進軍を開始しそうな幻想に囚われる。桜島をはるかに越え、遠い南瞑の海に向かって、その幻の大軍団の進軍はつづけられる」

 西南戦争の前年におきた神風の乱、秋月の乱の戦死者の墓地にも参ったことがあるが、いずれも戦争態勢の陣形、指揮系統に沿って墓地の位置が決められている。
 南州墓地にたつと正気がひしひしと蘇る、あの霊気を感じるのである。
 

(記事引用終了)

 
 この記事に対し、次のようなコメントを投稿させていただいた。

〔コメント 1〕

「正気を失った日本」大変興味をもって読ませていただいております。
 論文の趣旨に概ね賛同ですが、各論について、あまり一般に知られていないことで、僭越ながら補足させていただきたいことがございます。

 まず第一に「西郷隆盛はなぜ決起したのか」ということについて。
 これまで解説されてきた南洲翁の決起に至る経緯には完全に抜け落ちている視点があります。国際政治、あるいは地政学的観点から見たものです。
 そもそも西南戦争の遠因は、明治六年のいわゆる征韓論破裂にあります。
 南洲翁は自らの大使派遣論に固執したわけですが、これには理由があります。
 自らが勅使となって赴くことについて、これは推論になりますが、当時、筆頭参議であり、且つ唯一の陸軍大将で、いわば日本陸軍の最高司令官であった南洲翁が、兵を引き連れずに単身で渡れば、その平和的意図と誠意は際立つはずであるし、その一方で、軍を動かすことなく、背後に日本の軍隊が控えていることを朝鮮王朝に示すことが出来ます。
 それまで、日本を侮辱するばかりで、まともに国交交渉に応じてこなかった朝鮮王朝に、日本政府の本気度を示し、海外の情勢に疎い彼らに、情勢がのっぴきならぬところまできていることを覚らせる政治的効果があります。南洲翁の立論は、注意して読めば、考え抜かれた論であったことがわかります。(-①)

 大使派遣論に固執したもう一つの理由は、後の地政学的観点からのものです。
 南洲翁にとって朝鮮問題は即、ロシア問題でした。南洲翁はロシアの南下を防ぐためには、沿海州のポシェット湾-ウラジオストック-ニコライエフスクに至る地域、および満州への出兵が必要と考えていました。そのために通り道に当たる李氏朝鮮の開国を必要としたのです。
 翁の対ロシア戦略は概略次のようなものでした。
 アジアの覇権をめぐって競争している英国とロシアの対立を利用して、陸軍国ロシアを挟み撃ちにする。征韓論争当時、西アジアにおいては、トルコをめぐって、ロシアと英国の間に緊張が高まっており、日本が世界一の海軍国である英国と組んで、東アジアで事を起こせば、トルコも奮発するはずで、東西同時に事を起こせば、世界一の陸軍国ロシアといえども恐るるに足らず。翁はそう考えていました。(-②)おそらくクリミヤ戦争の歴史を知っていたものと思われます。
 後に、日本が英国と同盟を組んで、ロシアと戦ったことを思えば、その先見性には驚くほかありません。内田良平は、対ロシア戦略としての満州と沿海州への着眼という点で、南洲翁の先見性に気づき、『西南記伝』編纂を思い立ったのです。
 翁が明治六年のこの時期を朝鮮問題に着手する絶好の機会とし、廟議で自身の大使派遣論を譲らなかったのは以上が理由です。

 これを阻んだ大久保利通の表向きの主張は、内治優先論でしたが、実を言えば、薩長閥防御がその目的でした。これは江藤新平が藩閥政治打破のために、その手始めとして長州閥排除を企てて、強力に推進していることを知ったからです。内治優先論が上辺だけのものであったのは、征韓論破裂直後に、次々と内乱を誘発させ、外征を実施していることでも明らかです。朝鮮は、砲艦外交によって、開国させられました。
 鹿児島に鎮まっていた南洲翁は、政府の砲艦外交を道義的には恥ずべき外交としながら、朝鮮が開国した以上は、大陸政策着手の機会はまだ先と考え、私学校などで後進の育成に力を注いでいましたが、明治十年一月中旬になって、再びロシア・トルコ間で緊張が高まって戦争になった、との情報を入手します(実際の開戦は四月)。そして、私学校は二月下旬をめどに、兵器を携えて上京する準備に取り掛かります。(-③)
 これは大陸政策着手の輿論を喚起するためで、陸軍大将・西郷隆盛が薩摩義勇軍を率いて上京し、政府に大陸政策着手を提議する、という行動を取ろうとしたのだと推察されます。

 私学校が上京の準備に取り掛かっているらしいことを密偵からの情報で知った大久保利通は、これを政府に対する挙兵の準備と受け取ってしまったのです。大久保は早くから私学校を眼の敵にしていました。
 大久保は私学校暴発を前提に準備を進めます。
 その結果、私学校徒による武器弾薬庫略奪事件や私学校幹部に対する刺客派遣の疑惑発覚などの悪い事件が重なり、大陸政策提議のための陸軍大将による薩摩義勇軍の上京という名分が、刺客問題に対する尋問という名分にすりかわってしまったのです。
 これは政府の不正に対する尋問の行動であって、即挙兵というわけではありませんでした。これが挙兵になったのは、陸軍大将名義で薩軍上京の目的を通知してあったにもかかわらず、県境を越えた時点で、熊本鎮台兵が攻撃を加えたからです。それが薩軍の側から見た応戦-開戦の理由でした。ここで薩軍の行動の大義が明確になるのです(-④)。

 征韓論破裂-西南戦争という事件が起きた要因として、南洲翁と大久保甲東の対立がありますが、大久保は基本的に内政家であり、国際情勢に対する認識に地政学的視点、軍事的視点を欠いており、その鈍感がこのような内政混乱を招いた、という側面があると思います。 これに対して南洲翁は東アジアの国際情勢に鋭敏で、しかも準備は周到でした。

 以前、外務省チャイナスクールの官僚が、自分に対し、西郷は外交音痴と放言しましたが、これのどこが外交音痴なのでしょう。むしろ外遊以後の大久保の外交音痴こそが、明治草創期の外交をお粗末なものにしてしまったのです。官僚機構を整備したのは大久保ですが、官僚はその保身感覚から先例踏襲主義になりがちであり、決して模範とするに値しない大久保外交の精神が現在まで受け継がれていった面もあるのではないでしょうか。今はどうか知りませんが、大東亜戦争の敗戦後、文官は責任を取らされることもなく、反省の機会を失って、戦前の官僚機構がそのまま継続したと聞きます。ある官僚は、司馬遼太郎に対し、明治の頃から全く変わっていないと歎いた、とどこかで読んだことがあります。個人としてみれば優秀で立派な人材もいるにはいるのでしょうが、一般国民の目から見て、現在の官僚は決して優秀には見えません。

 話が少しそれましたが、以上が西南戦争に対する従来の解釈に完全に抜け落ちている視点です。



〔コメント 2〕

 南洲翁が「はじめから軍事的勝利を計算にいれていない」という第二の点についてコメントさせていただきます。

 確かに南洲翁は鹿児島県令の大山綱良に「一つ条理に斃れ候」と書いていて、勝敗を度外視していたようなところがあります。これは、不正は政府に、正義は我にある、という自信の現われでもあり、この戦争が正気の発現であったことを裏付けています。
 しかし、一方で、南洲翁は勝つために人事を尽くしてもいるのです。その大胆略は、翁が一世の智勇を推倒したものといってよかろうと思います。
 一般に薩軍は、「孫子」が下策とした、天下一の堅城・熊本城の攻略に拘泥して敗北したと考えられていますが、これは一知半解に基づく誤りです。薩軍が実際に熊本城を力攻したのは開戦直後の二日間だけであって、この間に諸隊長間で、「孫子」の先の命題を巡る激しい議論があって、戦略を切り替えたのでした。
 新たに選択された戦略は、最小限の兵を割いて熊本城包囲を継続して、主力は熊本に殺到する政府軍を迎撃する、というものでした。
 どう違うの?と思うかもしれませんが、戦略目的が違います。
 これを理解してもらうために、拙著『(新)西郷南洲伝』では、古代ローマの英雄ユリウス・カエサルのガリア戦役7年目のアレシア攻防戦の事例を挙げました。
 カエサルは、ガリア人の聖地にして難攻不落の要塞であるアレシアに立てこもった、ベルチンジェトリクス率いるガリア部族連合の主力八万を、五万弱のローマ兵で包囲し、これを囮にして、籠城軍の救援に駆けつけた二十五万以上の兵からなるガリア軍を打ち破った。ローマ軍は、内と外から敵を受けるという危険を敢えて冒して、これを破ることで、より大きな戦略目的を達成しました。この勝利によって、七年にわたったガリア戦役の帰趨は一気に決したのです。ガリア人は以後反抗の気勢を失いました。
 南洲翁が同じ戦略的発想をしていたことは、鹿児島県令・大山綱良に「彼(政府軍)の策中に陥り、この籠城を餌に致し、四方の寄せ手を打ち破り候えば、ここにて勝敗を決し申すべく」と書き送っていることからもわかります。
 一方で、政府軍のほうも、熊本城が落城するかどうかは戦局全体を左右すると考え、全力を尽くしたのです。田原坂の戦いがあれほど激しいものになったのも、それが原因です。大東亜戦争同様、不利ではあっても、決して、初めから負けることがわかっていた戦ではなかったのです。
 薩軍が政府軍の攻撃に持ちこたえている間に、熊本籠城軍が先に音を上げて城が落ちていれば、天下一の堅城が落ちたという情報が伝わって、全国の不平士族が立ち上がった可能性は大きかったのです。薩軍に呼応しようという勢力や情勢の変化を窺っていた勢力は全国に多数いたのです。

 もちろん南洲翁がアレシア攻防戦を知っていたわけではありません。翁の大胆略の模範となっていたのは、楠木正成の千早赤坂の戦いです。翁のご先祖は、楠木氏と共に幕軍と戦った菊池氏であり(だから奄美大島への遠島中、菊池源吾、すなわち菊池氏の矜持こそが吾が源である、ということを意味する名を名乗っていた。)、これを勤皇の模範としていました。王政復古時の軍略が、元弘の役を下敷きにしていたことは知られています。
 楠木正成はわずかな手勢を率いて千早の小城に立ちこもり、天下の敵をひきつけます。そして、奇計奇手を駆使して、雲霞の如き幕軍を翻弄、九十日間持ちこたえます。このことが呼び水となって、一度は沈滞した討幕の気運は盛り上がり、全国の一斉蜂起を誘いました。そして、ついには幕軍の中からも寝返りが出て、討幕を成し遂げたのです。
 南洲翁が熊本の戦いにこの歴史的事例を重ね合わせていたらしいことは、鹿児島県令・大山綱良宛ての書簡からも窺えます。(-⑤)

 結局、持ちこたえられないと判断した籠城軍が正面突破を試みて、政府軍との連絡に成功することで、薩軍の戦略は失敗に帰しました。熊本からの撤退に際して、南洲翁は「この地を去れば、人気も散乱せん。快く一戦して死を決すべし」(野村忍介口供)と言ったといいます。これが木山の扇状台地に展開しての、いわゆる城東会戦になります。南洲翁や桐野利秋はこの戦を湊川の戦いと心得ていましたが、薩軍が壊乱しながらも、戦意は旺盛で、士気が衰えなかったので、撤退後の軍議で、再起を図り、転戦を繰り返すことになります。その軍議の席においても南洲翁は、「熊本に向かい、快戦すべし」と主張していたと言います(同口供)。
 政府軍もそこは心得たもので、再起を許すまじと追撃の手を緩めませんでした。それが城山まで行き着くことになりました。 

 以上のように、征韓論破裂から西南戦争に至る過程には、大東亜戦争同様、微妙な要素が多く、安易な要約を許さぬところがあって、また史料の読み込みの浅さから来る一般の誤解も多すぎて、どこから語っていいのか途方に暮れる思いがするのです。
 ともかく、南洲翁率いる薩軍は、一生の智勇を推倒し、万古の心胸を開拓すべく、後世に恥じない戦いを貫徹しましたが、こちらの心胸が小さく、閉塞してしまっていては、その真意をくみとる事は出来ません。坂本龍馬の「小しく叩けば小しく響き、大きく叩けば大きく響く。」という評言は有名ですが、叩くのは、開拓するのは、後世の我々自身なのです。



 (以上のことを裏付ける①~⑤の史料については次回掲載します。)

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