名著誕生の条件 (その弐)

 昭和四十三年に日本国内で発生した学生運動という騒乱の中で、小林秀雄とは別種の伝統の危機を感じて、名著を物した人物がいる。
 漢字の碩学・白川静である。

 この人もまた、小林同様、感性のずば抜けて鋭い文学者であった。
 漢字の起源である「金文」「甲骨文」という碑文の研究に没頭していた彼が横目に見ていたのは、昭和四十三年暮れから四十四年にかけて起きた、勤める大学における大学紛争であり、また、専門の対象である支那で荒れ狂っていた文化大革命であった。
 これも昭和四十一年より十年間に亘って、中国全土を蔽った、紅衛兵と呼ばれる学生の運動であった。背後にいたのは権力奪還を狙う毛沢東である。
 これによって、日本人が有史以来大きな影響を受けてきた、支那のある種の良き伝統は無残に破壊されたが、これは秦の始皇帝に始まる、独裁者による専制への回帰という点で、支那文明における復古的側面があった。
 この東アジアの伝統に対する危惧から白川氏の、日本の伝統的視点による画期的名著『孔子伝』(中公文庫)は生まれた。

 この名著誕生の経緯は、文庫版のあとがきに、氏自身が書き記している。

「(昭和)四十三年の暮近く、私の大学では、両派の学生の間に機関紙の争奪をめぐる闘争があり、前後二回に、約九十名の負傷者が出た。それを合図とするように、紛争は燃え上がった。
 紛争は数ヶ月で一おう終熄したが、教育の場における亀裂は、容易に埋めうるものではない。特に一党支配の体制がもたらす荒廃は、如何ともしがたいもののようである。私はこのとき、敗戦後によんだ『論語』の諸章を、思い起していた。そして、あの決定的な敗北のなかにあって、心許した弟子たちを伴いながら、老衰の身で十数年も漂泊の旅をつづけた孔子のことを、考えてみようと思った。」


 白川氏もまた、小林秀雄と同様、あの戦争という危機に直面して、伝統という問題と向き合ったのである。そして、共産革命という世界的な第二の伝統の危機に直面して、それを意識化し、文章につづった。
 それが『孔子伝』であるし、白川漢字学の集大成である『字統』『字訓』『字通』の辞書三部作の完成であった。
 そういった見方が出来ると思う。

 というのは、彼の漢字への取り組みには、次のような問題意識があったからである。

「敗戦後の五十年にわたって、わが国の文教政策は、占領軍の指示するままに、極めて貧弱な当用漢字表の規制を受けて、古典や漢字形式の資料の全体が、国民教育の場から姿を消した。古典はもとより民族文化の象徴であり、新しい文化はその土壌の上にのみ生まれる。自らの土壌を失った文化が、新しい発展に向かうことはもとより不可能である。国語の乱れ、国語力の低下は、戦後五十年に及ぶこの文教政策の上から、当然に予想される結果である。」(『文字講話』)

 現に日本は新しい展望を見出しえなくなっている。これは自らの土壌を見失った文化と化しているからである。
 例えば政治家や知識人は「維新」という言葉を乱用するが、そこには御一新、すなわち革命という浮薄な精神しか宿っていない。だから、そもそも「都」とは天皇陛下の居られるところを言うのに、大阪都構想という言葉が安易に語られて、誰もそのことのおかしさを指摘しようとしない。
 浮薄な精神文化にもとづく改革は人間生活を破壊する。
 だから何を語りかけるにせよ、それは根源的なところから発せられた言葉でなければならないのである。

 上記の問題意識を踏まえて、白川氏は続けて、次のように自らの遠大な志について述べている。

「漢字の理解を通じて、かつての漢字文化圏が回復されるならば、その時東洋の精神的連帯が回復され、かつての東洋的な理念の世界も、正当に理解されるであろう。また漢字を使用したかつての文化圏でも、漢字を回復することによって、自らの国語のうちに含む半数を超える漢字の使用を回復し、多くの語彙を、正当に本来の表記に復すことができよう。それはかつての東洋の文化圏を回復し、新しい東アジアの文化圏を組織することに連なるはずである。」


 この志にも日本人固有の国際主義(西洋のインターナショナリズムとは異なる)を精神を読み取ることが出来よう。
 西洋近代文明の席巻、なかでもアメリカニズムとコミュニズムによって破壊された、東洋的理念の復権の前提となる漢字文化の復興。
 そして、その中心として、東洋思想の縦糸をなす孔子の思想。
 それらの集大成をなす仕事が、『孔子伝』であり辞書三部作であるというのはそういうことである。

 〔ちなみに「集大成」という言葉は、そもそも孟子が孔子の中庸の徳を評した言葉を出典としている。

「以って速やかなるべくんばすなわち速やかにし、以って久しくすべくんばすなわち久しくし、以ってお処るべくんばすなわち処り、以って仕えるベくんばすなわち仕えるは、孔子なり。
 …(中略)…
 孔子は之を集めて大成せりと謂うべし。集めて大成すとは、金声して玉振するなり。(注…金声とは音楽の始まりに鳴らす鐘の音、玉振とは音楽の終わりの、磬と呼ばれる楽器を打つ音。)金声すとは条理を始むるなり、玉振すとは条理を終うるなり。条理を始むるは智の事なり、条理を終うるは聖の事なり。智はたとえばすなわち巧みさなり、聖はたとえばすなわち力なり。なお百歩の外にゆみ射るが如し、その至るはなんじの力なり、その中(あた)るはなんじの力にあらざるなり。」



 小林秀雄も、白川氏も、『論語』の研究、あるいは『論語』の研究者を通じて、伝統の問題を考えたというところが面白い。これは江戸期の学問の雄、幕末の英傑達と同じ精神の流れに属している。

 応神天皇の御世に朝鮮半島より渡来した『論語』という書物は、学問が公家や僧侶で独占されてしまっていたが故に、容易に一般に普及することはなかった。しかし、後醍醐天皇の建武の中興の破綻に端を発する、いわゆる「南北朝の動乱」という、旧秩序崩壊の時代を迎えて、日本史上初の木版印刷本である『論語集解(しつかい)』が刊行された。正平十九年(一三六四年)のことである。

 このことには世界史的意義がある。
 支那文学者・貝塚茂樹は次のように述べている。

「木版印刷術が、まず『論語』から手がつけられたということは、『論語』という本が、あの乱離の時代に、心ある人々からどんなに強く求められたかをあらわしている。これは約一世紀おくれて一四五〇年ころ、ドイツのグーテンベルグがラテン語の『聖書』を、活字印刷によって刊行したのと並行する文化史的現象である。
 西洋において『聖書』が、暗黒の世界を救済するものとして希望の源泉とされたように、日本においても『論語』が乱世を脱する指針を蔵していると考えられたのであろう。」(『世界の名著 孔子・孟子』中央公論社)


 やがて日本は応仁の乱を経て戦国の世に突入する。
 これを収束せしめたのは、最下層の身分から天下人まで這い上がった豊臣秀吉であったが、豊臣家の天下は続かず、彼の死と共に幕を閉じた。
 日本は学問好きの徳川家康によって、ようやく秩序の安定期に入った。

 『慶長年中卜斎記』によれば、家康は、

根本、詩作・歌・連歌はお嫌いにて、論語・中庸・史記・漢書・六韜・三略・貞観政要、和本は延喜式・東鏡(吾妻鏡)なり。その外色々。大明(シナ)にては、高祖(漢の劉邦)寛仁大度をお褒め、唐の太宗・魏徴をお褒め、張良・韓信、太公望・文王・武王・周公、日本にては頼朝を常々おはなし成られ候。

 であったという。

 新しい物好きの秀吉と違って、家康は学問好きで、保守的な思想傾向を持ち、その晩年には、彼が好ましく思った古典の出版、普及に尽力している。 

 家康が最も好んだ古典の一つが『論語』である。
 彼は、秀吉が再び朝鮮半島に攻め込んだ慶長二年(一五九七年)に『論語』の講義を受け、さらに駿府に隠居した後も、林道春を召して、『論語』の講義を受けた事実がある。
 このとき使ったテキストが、朱子の注釈による『論語集註』であった。その前後から日本では四書(『論語』『孟子』『大学』『中庸』)の本文や注釈が出版されるようになった。

 『論語』の表現に倣えば、君子の徳は風、小人の徳は草であり、風を上(くわ)えれば、草は必ず伏す、すなわち、下々は上の好むところに倣うのであり、支配者が拝金主義であれば社会はその風潮に染まるし、奸智であれば、庶民は生きていくためには奸智にならざるを得ない。支配者が反日自虐史観であればそれに染まるし、左翼であればそれに染まっていく。
 これはプラトンの描くソクラテスのたとえで言えば、民衆は巨獣の力に奉仕し、屈従せざるを得ないということである。
 しかし、孔子のたとえで言えば、民衆は草である。地表に出ている部分は、風に靡くかも知れぬが、それが地中に根を張ったものである以上は、暴風に根こそぎ引き抜かれぬ限りは、大地から養分を得て生きている。
 文化の土壌というものが大切なのはそのためである。
 それは生活の基盤であり、それを安定的に維持してきたものが、慣習とか伝統といわれるものだ。

 家康とは、そこに着目し、安定した秩序を創出しようとした人物だ。
 巨獣の首に伝統という手綱を掛け、これを統御しようと苦心した人物といっていい。荒れ狂う巨獣とて地球の重力から自由とはなりえず、大地にへばりついて生きていかざるを得ない宿命をどうすることも出来ない。

 家康の遺言とされるものはそういった認識に達していたことを窺わせるものとなっている。
 ソクラテスは巨獣には勝てぬことを達観していたが、家康はそれに根気よく取り組んで、大方の方向性を定めた人物と言えるのではないかと思われるがどうだろう。
 彼が文化的土壌を耕して創出した江戸体制は、二百五十年にわたる太平をこの列島にもたらしたのである。

 家康の遺言である。

 人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。いそぐべからず、不自由を常と思えば不足なし、こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。堪忍は無事長久の基、いかりは敵とおもえ。勝つ事ばかり知りて、まくること知らざれば害その身にいたる。 おのれを責めて人をせむるな、及ばざるは過ぎたるよりまされり。 

 この遺訓は、家康本人のものか、後世の創作にかかるものかは諸説あるようだが、いかにも『論語』的で、彼の事跡を振り返ってみれば、その重厚にして波乱に満ちたな人生は、まさに こういった遺訓に結実せざるを得なかっただろう、という気がする。
 彼がその生涯を通じて、背負い続けた重荷とは一体何だったか。
 それはやはり、次の遺訓を読んで見れば、天下の政道というところに行き着かざるを得ないように思える。

わが命旦夕に迫るといへども、将軍斯(か)くおはしませば、天下のこと心安し。されども将軍の政道、その理にかなわず、億兆の民、艱難することあらんには、たれにても其の任に代らるべし。天下は一人の天下に非ず、天下は天下の天下なり。たとへ他人天下の政務をとりたりとも、四海安穏にして、万人その仁恵を蒙らばもとより、家康が本意にしていささかもうらみに思うことなし  

 ここに言う将軍とは、息子の秀忠のことだ。家康はすでに征夷大将軍職を息子の秀忠に譲っていた。

 当時は戦国大名と言われる野獣たちの時代である。戦乱に倦んでいたとは言え、人々の気性は荒かった。
 家康は、武田信玄をして「海道一の弓取り」と言わしめたほどの武将であり、これを以て、群雄割拠の社会という、気の荒い巨獣に臨んだが、過ぎたるは猶及ばざるに如かず、でその力を過信してはいなかった。
 彼は関が原の勝利で、天下一の弓取りとしての地位を確立したが、そこから文武による秩序の確立を目指すようになる。彼が神仏儒の学者を側に置くようになったのはそのためである。
   
 当然、家康を神とし、祖法を重んじた江戸幕府は、学問を重んじ、その風潮は下々にまで伝播した。
 そして、儒学がその中心とならざるを得なかった。
 それが江戸期の古典復興(ルネッサンス)につながり、政治学・歴史学・国体論としては水戸学に、古典学としては、本居宣長の『古事記伝』という偉業に結実した。それらを前提に、幕末の危機を迎えて、王政復古と相成った。王政復古とはまさにルネッサンス(再生・復興)という思想運動の結実ではないか。
 家康の遺訓の中に、すでに大政奉還の芽は宿っていたのである。将軍の政道が理に適わず、億兆の民が艱難に陥った時、その任に代わったのは、家康が、学問に専念するよう規制した朝廷だったのである。
 これが近代における日本文明発展の礎となった。
 

 ともかく『論語』を中心とする儒学が日本人に文明再生の手掛かりを与えたのは、疑うべくもない。

 危機の時代を迎えて、凡庸な知識人が、あるいは、常識、知性の未発達な学生が、マルクス主義というアヘンを吸引して、迷走、暴走していく中で、それを横目に見ながら、感性の鋭い知識人が、この伝統に回帰して、名著を物した、というのは、ある意味、当然の成り行きであっただろう。

 宣伝、広告の氾濫した時代に名著と謳われる書物は多い。
 しかし、時代の風雪に耐え、本物として、古典的名著として生き残るものはごくわずかである。
 『本居宣長』にせよ、『孔子伝』にせよ、一度読んだだけでは歯が立たない。
 何度読んでも、どこかに咀嚼しきれぬ読後感が残る。
 しかし、それは『古事記』という意味不明の碑文、『論語』という、簡潔に見えながらも深遠な内容を持つ碑文に、精神の印しを読み取ろうとした、先人の苦心の痕跡だからである。

 最後に、白川氏の時勢に対する慨嘆の言葉を紹介しておこう。 

「孔子の時代と、今の時代とを考えくらべてみると、人は果たしてどれだけ進歩したのであろうかと思う。確かに悪智慧は進歩し、殺戮と破壊は、巧妙に、かつ大規模になった。しかしロゴスの世界は、失われてゆくばかりではないか。『孔子伝』は、そのような現代への危惧を、私なりの方法で書いてみたいと思ったものであるが、もとよりそれは、おそらく私の意識のなかの、希望にすぎなかったかも知れない。」

 絶望感が漂っている。
 
 先日、北朝鮮の金正日が亡くなったとの報道が衝撃を伴って世界中を駆け巡った。動乱の時代への扉が今開こうとしている。
 我々日本人は今、未来への展望を見出しえず、絶望の中に立ち尽くしているかのようにも見える。
 だが、人間はどんなに絶望しても、夢くらいは見れるものだ。だから見せ掛けの希望で民衆を誑かすイデオローグは後を絶たない。しかし、このような騙し騙されの関係から、新しい発展に向かうことなどありえない。
 今後も絶望は深まる一方だろう。
 そして、希望はより激しく求められていくことになろう。

 未来への希望を見出すなら、偉大な先人が絶望の中で見た希望、徹底した懐疑を潜り抜けた本物の希望を、胸に灯し続けたいと思うのは、この国に生を受けた者として最も自然で、理性的な態度と言えるのではないだろうか。

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この記事へのコメント

noga
2012年01月02日 20:41
アセアン・プラス・スリー (ASEAN+3) は、東南アジア諸国連合と日本・中国・韓国で協力してゆく枠組みである。
プラス・スリーは、日本・中国・韓国で、特殊なアジアの3国 (特ア3国) とも呼ぶことのできる国々である。
これらの国々は、儒教に関係が深い。儒教は、孔子を尊ぶ。どの社会にも孔子の教えに対して愛憎の念を持っている。批林批孔のようなものである。

日本語にも、中国語にも、韓国語にも時制がない。
だから、話の内容が実況放送・現状報告のようなものになる。だから、これら3国の民族間では漢字を介した話が通じやすいのであろう。
聖人である孔子の発言内容も御多分にもれず実況放送・現状報告であった。
論語の <述而第七> には、「子不語 怪・力・乱・神」(し かい・りょく・らん・しん をかたらず) と書いてある。
孔子は、奇怪なこと、勇力のこと、乱倫のこと、神秘なことを口に乗せて主張することがなかったと弟子が証言しているのである。

特ア3国においては、インド・ヨーロッパ語族のように時制にしたがって、我々はどこからきて、何者であり、どこに行くかの考えの形式に内容がない。
だから、我々には現世はあっても、インド人のように前世と来世の内容には深くかかわる考えがない。それで、仏教の伝来も正確にはならないのであろう。

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812




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