天長節に隠された文明史的意味 (その弐)

 平成二十三年、今上陛下、御誕生日に際しての御感想(宮内庁ホームページより)

 http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/gokanso-h23e.html



 日本の天長節を祝うという伝統が、当時の超大国唐の影響下で移入され、唐消滅後も継続して現代にまで至っている事は(その壱)で触れた。

 初めて儀式が執り行われたのは宝亀六年(775年)十月十三日。
 光仁天皇の御世のことである。

〔「天皇誕生日」ウィキ解説 ; http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E8%AA%95%E7%94%9F%E6%97%A5


 この時代の日本は、シナとの緊張関係によって、大変な変貌を遂げた時代であった。
それは明治維新の原点となるような民族的経験であったといえる。
  
 先ず前史として、支那に隋という超大国が出現し、黄巾の乱による後漢の衰退以来、混乱していた支那を四百年ぶりに統一した。日本は遣隋使を通じて、この先進文明を積極的に摂取した。
 第一回の遣隋使の派遣は推古八年(600年)のことだが、推古十五年(6007年)には第二回が派遣され、このとき、聖徳太子がかの有名な国書「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々」を遣隋使小野妹子に持たせた。
 これは当時の東アジアの秩序意識から言えば、破格の文書だった。
 なぜなら東アジアにおいて、天下を支配するのは、天子である支那の皇帝のみで、対等な国など存在しない。それが、今の中国共産党に相も変わらず受け継がれている支那の中華思想なのである。

 聖徳太子の国書は、この支那の中華意識、華夷秩序に対する挑戦であり、対等な天子であることを主張するこの文書を読んだ、悪名高い隋の皇帝煬帝は激怒したと伝えられている。

 その後、隋が滅びて、強大な帝国唐が成立すると、その脅威は朝鮮半島にまで迫ってきた。
 地政学的に見て、朝鮮半島が覇権国家の影響下に入ることは、日本の安全保障に決定的な影響を及ぼす。これは古代から現在に至るまで日本国家が背負った宿命といってよい。

 このときも日本は敏感に反応した。
 天智天皇の時代、日本は朝鮮半島に軍事介入して、百済を助けて、唐・新羅連合軍と戦ったが、白村江の戦いで敗れると、天智天皇は国内の集権化を図った。これは唐の軍隊が日本列島に攻め込んでくることに対処するためである。

 しかし朝鮮半島を支配するつもりの唐は、今度は新羅を攻め滅ぼすために日本と結ぼうとする。そういった状況下で、壬申の乱が起きて、親新羅政権である、天武王朝が成立する。
 天武天皇は、新羅と結んで唐の影響力を朝鮮半島から排除しようとしたわけだが、唐の制度、文化を積極的に取り入れて、中央集権化を推し進めた。

 これは西洋列強の脅威に対処するために、西洋文明を積極的に取り入れた明治維新とその発想は全く同じである。明治の日本も、朝鮮半島に対する列強の支配に対処するために、政治的・軍事的介入をして、西洋列強やシナと対立が深まっていくことになったのだ。

 このように天武天皇がシナ文明の取り入れに積極的だった影響で、以後八代続く天武王朝は、基本的にシナかぶれの王朝であったといっても過言ではない。

そもそも壬申の乱の主役の一人大海人皇子、すなわち後の天武天皇自身が、易姓革命を意識して、政変を戦った。
 『日本書紀』によると、大海人皇子の兵は、衣服の上に赤い布切れをつけていたという。これはシナにおいて漢王朝を開いた高祖劉邦が、項羽と天下を争った際、赤い幟を用いたという故事に倣ったものであったらしい。
 つまり、天智天皇崩御後、大友皇子と皇位継承をめぐって対立した大海人皇子は、天命を受けて、新王朝を開いた漢の高祖劉邦に、自らをなぞらえていた、ということだ。
 だから、死後に贈られる天智天皇と天武天皇の諡(おくりな)は易姓革命を意識したものとなっている。

 森鴎外の『帝謚考』によると、「天智」という諡の由来は、武王に討伐された殷(いん)の紂王(ちゅうおう)が、追い詰められて焼身自殺したときに身につけていた玉の名である。『周書』はこの玉を天智玉と記している。武王は焼け残った四つの天智玉を戦利品にしたという。
 一方、天武天皇は、天が命を授けた武王になぞらえられている。これもまた『周書』「大明武」に拠っている。
 鴎外は他に、『国語』「楚語下」にある「天事は武、地事は文、民事は忠信」を出典の候補として挙げているが、先代天智天皇の諡とあわせて考えてみれば、どちらが由来かは判然としているだろう。
 つまり、諡を送った人物は、天智天皇を仁義を賊(そこな)った殷の紂王に、天武天皇を天命を受けた周の武王になぞらえて、易姓革命・湯武放伐論を援用している、ということだ。

 天武天皇は謎の多い人物だ。

(「天武天皇」ウィキ解説;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87

 正史上、天智天皇は天武天皇の兄ということになっているが、皇室批判のタブーが取り払われた戦後になって、異説が現れた。

 ウィキの解説を引用する。

「天武天皇の出生年は日本書紀に記載が無い。他に記載が無いのは崇峻天皇のみであり、これは異例の事である。

 鎌倉時代に成立した『一代要記』や『本朝皇胤紹運録』『皇年代略記』が記す没年から生年を計算すると、それぞれ生年が推古天皇30年(622年)・31年(623年)で、『日本書紀』による兄・天智天皇の生年・推古天皇34年(626年)を上回る。従来、『一代要記』などの65歳没は56歳(同55歳)の写し間違いで、逆算して631年生まれであるとの説が定説化していた。

 ところが戦後になって、前記の史料が示す年齢を正確なものと解釈し、系図上では父が舒明天皇で天智天皇の弟とされているが、「天武天皇は天智天皇の異母兄、若しくは異父兄だったのではないか」という説が現れた。天智と天武は兄弟ではないとする非兄弟説や、母皇極天皇が舒明天皇の前に結婚していた高向王との間に生まれた漢王と同一人物ではないかとする天武異父兄説がある。」


 どちらの説が真相か決め手を欠くが、私は井沢元彦氏の説に説得力を感じているので、井沢説の問題点があれば誰かにご教示いただきたいと思っている。

 井沢氏の提示する逆説は論理の筋が通っている上に、傍証も示されていて、説得力を持つ。この説に立てば、腑に落ちることも多い。例えば、天武天皇が正史の編纂を企てた理由もわかりやすくなる。 
 少なくとも、批判は、氏が提示している論点に答えるものであってほしい。

  天武朝についての考察は書くときりがないので最小限にとどめておくが、ともかく、天武王朝は、皇位継承の不安を抱えつつ(だから女性天皇の即位がたびたび行われた)、支那文明の摂取が行き過ぎて、八代で途絶えた。
 その最後には、かの有名な道鏡事件がある。

 最後の称徳女帝は、自らを皇帝と称し、怪僧・弓削道鏡への禅譲(要は暴力を伴わぬ、弓削氏への自発的な易姓革命。但し道鏡は清僧であったとの説もある。)を断行しようとしたが、勅使・和気清麻呂が宇佐八幡宮の御神託、「天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ」を持ち帰って、断念せざるを得なくなり、失意のうちに崩御された。

 これで放伐論による易姓革命で成立した王朝が、支那思想としては、それより一歩上の理想的易姓革命である、禅譲に失敗して、途絶えたことになる。
 支那文明の摂取が行き過ぎた、とはこの意味においてである。
 
 天武王朝とは、基本的に天武天皇の男系継承によって成り立った王朝だったが、その一方で、天智天皇の女系継承王朝でもあった。
 というのは、天武天皇の皇后である持統天皇(次代の天皇)が、天智天皇の娘だったからだ。だから仮に天武天皇が皇族の血を受け継いでいなかったとしても、一応は、女系王朝としての継続性は認められることになる。
 ところが称徳天皇の禅譲は、それさえも一気に断絶させようとの意図を持ったものでもあったから、深刻な皇統断絶の危機であったのだ。
 
 これを阻止したのが、宇佐八幡宮の神勅だった、というのが謎に満ちていて面白いところである。

 ここに奇跡と言っていい出来事が起きる。
 天智天皇の男系皇族・白壁王が、藤原氏の支持で、天皇位に返り咲いたのだ。
 それが、生誕の日を、初めて、支那伝来の天長節として祝われた光仁天皇である。

 しかし、光仁天皇の皇后・井上内親王は聖武天皇の皇女、すなわち天武系であり、したがって、二人の子である皇太子の他戸親王は、天智天皇の男系であるとともに、天武天皇の女系であるということになる。
 天武王朝時代との逆転が起きたのだ。
 そして、面妖なことに、井上内親王が大逆を企てたということで罰せられ、他戸親王は廃太子の憂き目に遭った。後に二人は変死を遂げている。
 これが光仁天皇の意思に関係していることは、以後、天皇が二人の怨霊の祟りを苦にし続けたことから察せられるのである。
 代わりに皇太子に立てられたのは、光仁天皇と朝鮮系の高野新笠との間に生まれた山部親王、後の桓武天皇であった。つまり、桓武天皇は、天武系の政治的影響が少ない、完全な天智系の天皇だったわけだ。
 父・光仁天皇と子・桓武天皇が、王朝の正統性を、そこに置いていたことは様々な事から窺える。なにより、光仁天皇は山部親王に、天智天皇が定めた法に従って皇位を賜り仕え奉れ、と命じて即位させているのである。

 そして、さらには、天武系の天皇を皇統として認めていなかった。
 傍証を挙げると、一つは、皇室の菩提寺である泉涌寺に、天武天皇以下八代の天武系天皇の位牌が祀られていないこと。一つは、歴代の天皇陵に対する奉幣の儀が、平安時代(つまり桓武天皇の時代)以降、天武系の天皇に対しては一切行われていないこと。一つは、即位した桓武天皇が平安京への遷都を行った際、日本で初めての、支那の皇帝が天を祀る郊祀(こうし)の儀式を行っているが、このとき桓武天皇は、その王朝の初代皇帝として父光仁天皇を祭っていること(つまり称徳孝謙女帝と光仁天皇の間で王朝交代があったと認識していたことになる)。
 
 以上のことから言えるのは、光仁天皇以後の皇室が、天武王朝を正統な王朝と認めず、桓武天皇は天命を受けた天子と考えていたことだ。
 総体的に見れば、天武王朝の興廃を経て、支那文化の受容の行き過ぎが修正されたことになるが、受容そのものは勢いとして進められた、ということである。
 これは天智天皇の系統への復古ということであり、維新回天と同じことを意味する。私はこれを、言葉そのものは使われていないものの、皇室による「維新」と捉えることが出来ると考えている。
 「維新」とは『詩経』「周は旧邦といえども、その命は維(こ)れ新たなり」に由来する言葉だ。
 すなわち、天智系から見て新たに天命が下された、ということである。ここが王朝が交代する易姓革命との違いだ。

 超大国・唐の勃興という、東アジアの国際情勢の中で、皇室のあり方、すなわち、この国のあり方(国體)が、ここで反省され、意識化されたと見ることができるのである。
 この同じ動きの中で、国語の確立という問題が立ち表れてくる。
 漢語による『日本書紀』という正史の編纂と、漢字を使用しての、大和言葉で伝承されてきた神話の記録である『古事記』の編纂という事業も、同じ流れの中での出来事なのである。
 天長節のお祝いも、支那文化受容の一つの表れである。

 日本文明は重層的である。
 我々の表層文化は、十二月二十三日を天皇誕生日として祝うが、これはGHQの「神道令」による伝統の切断を経たものであり、その根底には、GHQに紛れ込んだ共産主義の一派、フランクフルト学派、あるいは構造改革派の二段階革命論がある。彼らの革命論の第一段階は、歴史と伝統文化破壊となっている。
 平成の御世に入ってからの構造改革の発想は、この学派に端を発するものだ。それが民主党政権の成立によって、日本の国家中枢に入り込んでしまった。彼らがまた皇室典範改正や女性宮家創設の議論を持ち出したのは、そこに日本の歴史破壊、伝統断絶の悪意を秘めているからである。

 この戦中と戦後を遮るアメリカニズムとコミュニズムという固い岩盤を、「天長節」と、名を正すことで割り、より古い地層に出て、その名の起源まで掘り進めば、この国の国體の問題に行き当たる。 
 外国文明摂取の行き過ぎが文明を死に至らしめるという点で、天武王朝断絶と皇室における維新の教訓は、現代の皇位継承の問題や国家のあり方を考える一助になるのではないか。

 明治維新以来の西洋文明の摂取は、時の勢いでやむ終えなかった。それがなければ、西洋列強によるアジア侵略を前に生き延びることは難しかっただろう。
 しかし、コミュニズムにせよ、アメリカニズムにせよ、その摂取の行き過ぎは、文明の死に至らしめる。文明が中毒症状を起こすからだ。

 今、我々は原点に立ち返ることを強く求められているのではないだろうか。

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