天皇誕生日

 明日十二月二十三日は今上陛下の御誕生日である。
 戦前は、この天皇陛下の御誕生日を『天長節』と言った。

 その由来と意義について「天長節に隠された文明史的意味(その壱)」と題して次のような記事を書いたことがあるので再掲載する。

(転載開始)



『天長節に隠された文明史的意味 (その壱)』


天子の誕生日である「天長節」の名は、『老子』「天長地久」という言葉に由来している。

 天は長く、地は久し。
 天地の能く長く且つ久しき所以の者は、その自ら生ぜざるを以てなり。故に能く長生す。
 ここを以て聖人は、その身を後にしてしかも身は先んず。
 その身を外にしてしかも身は存す。
 その私無きを以てに非ずや、故に能くその私を成す。

(『老子』)



意訳すれば次のようになろうか。


 天は長く、地は久しい。
 それは天と地が自ら生きようとの意思を持たないからだ。だからこそ長く生きられるのである。
 これによって聖人はその身を後方に置きながら、人より先んじている。
 その身はほかにありながら、そこに存在している。
 それは、聖人が私欲を成そうとの意思を持たないからで、だからこそその私(道を成さんとの志)をよく成すのである。



 国家の祝日としての「天長節」の始まりは明治元年九月二十二日だが(明治六年の太陽暦の採用より十一月三日)、朝廷の祝典としては古く、宝亀六年(775年)の光仁天皇の御世にまでさかのぼる。

 日本において天長節を祝う意味合いは、天子、聖人として、日々、道を成そうと努めておられる今上天皇の御存在を祝すると同時に、ご長寿を祈るということにある。
 『老子』の原典を読む限りそういうことになろう。
 しかし、この天長節が歴代天皇に対して長く祝われてきた歴史事実から見て、その意味合いは、御皇室が現在まで、天地とともに、存続してきたことを寿ぐとともに、これからのいやさかを祈る、ということに重層的に積み重なってきていることになる。
 つまり、天長節が毎年、これからも祝われ続けるという意識の前提からすれば、この伝統を続けるということは、自然に、御皇室の繁栄が長久に続くことを祈ることを含むことになるということだ。

 やはり「天皇誕生日」などという軽薄な名称はやめて、「天長節」に戻すべきだろう。
 そもそも祝祭日の名が改変されたのは、占領期間中のことであって、「神道指令」などを発して日本人の宗教意識を攻撃したGHQに対する配慮からだったのだから、戦前の名称の復活は、日本が立ち直る上で非常に重要な意味を持っているのである。
 十一月三日の文化の日も、戦前の「明治節」に戻すべきで、明治節とはすなわち明治の御世の天長節に他ならないのである。四月二十九日の「昭和の日」はまだましと言えるが、これもまた昭和天皇の御世の天長節であり、「昭和節」と改められるべきだろう。


 孔子は「政とは正なり」と言い、政を為すなら「必ずや名を正さんか」と言った。

 なぜか。

 名を正せば、言葉がそれに順って正しく、道理が通るようになり、(各自が納得して事に当たるから)物事が順調にはかどって、事業が達成され、それを土台に、礼楽(文化)が興り、刑罰が適当になって、民は安心して暮らせるようになるから。
 もう少し簡潔で控えめな表現ながら、孔子はそう言っている。

 今の日本の現状はますますこの逆になってしまっているだろう。
 民主党のでたらめぶり、その本家である中国のでたらめぶりは、孔子の金言を、現在および将来に不安を抱いている多くのわれわれ日本人の常識にすんなりと入ってくるのではないだろうか。


 そもそも天長節はシナの皇帝の誕生日を祝う儀式であった。
 唐の第六代皇帝玄宗(在位712~756)の時代、749年に初めて、「天長節」の名で皇帝の誕生日が祝われた。
 玄宗は道教を庇護した唐の歴代皇帝の中でもとりわけこの宗教を尊重したようだ。

 玄宗は、その治世の前半においては、「開元の治」と呼ばれる善政を行って、唐の最盛期を築いたが、その後半においては、息子の妃であった楊貴妃を寵愛して、政治を怠ったため、内政混乱を招いて、有名な寵臣安禄山による反乱にあって、都である長安を追われる身となった。
 歴史上、毀誉褒貶の激しい人物である。

 以後唐の威信は衰えて、五代十国の分裂時代へと移行していく。
 その時代の唐の様子は、三蔵法師の『大唐西域記』、マルコ・ポーロの『東方見聞録』と並ぶ、東アジア三大旅行記の一つと称される日本人僧侶・円仁の『入唐求法巡礼行記』に詳細に生々しく記録されている。
 円仁が仏法を求めて海を渡った当時の唐の混乱振り、佛教を排除弾圧しようとする道士の暗躍とこれを重用する独裁皇帝武宗の無道振りは、シナ文明の生態を知る上で、日本とシナの違いを知る上で、大変興味深いものである。

 唐王朝は鮮卑系の王朝というのが定説だが、当時の超大国で、周辺諸国に大きな政治的・文化的影響力を及ぼした。
 これは日本も例外ではなかった。

 日本は、円仁の帰国から四十七年後に菅原道真の建言によって遣唐使が廃止されるまで(唐自体はその十三年後に滅亡)、この超大国の政治的・文化的影響との緊張によって、日本文明の根幹を確立して行ったと言っても過言ではないのである。

 現代は、隋・唐以来久々に、シナ文明の政治的影響力、文化的影響力が周辺諸国を脅かす時代を迎えつつあると言えるかもしれない。
 少なくとも漢民族は潜在的にそういった野望を抱いているだろう。

 これは日本文明のピンチであるが、すでにアメリカの侵略によって文明の背骨を傷つけられている日本が、その伝統・歴史を回復する上で、幕末維新以来の危機を伴った好機となるかもしれない。
 というのは、アメリカというのは全く別種の文明で、日本はこの脅威とどう向き合うかに大変戸惑い、それに大失敗したため、自分を見失って、未だに適当な距離を取れないでいるのだが、日本人はすでにシナ文明との葛藤は経験済みだから、その記憶を呼び覚ますことで、われわれが何者であるのかを強く問い直し、見失った自分を取り戻して立ち直れる、という希望があるのである。
 否、逆に、これを機会に自分を取り戻さなければ、もはや回復不可能なほど深刻なダメージを日本文明は受ける可能性がある。
 もちろん誰からかと言えば、アメリカと中国からである。
 彼らはわれわれ日本人を、大東亜戦争の敗戦と同レベルか、それ以上の不幸に突き落とすことになりかねない。
 「天長節」の呼称という問題もそういった大きな問題の一つの現われなのである。

(転載終了)

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