中国 二歳児ひき逃げ事件

 中国からの移民が増え続ける日本。 
 これら中国人と付き合って行くには、その民族性を知っておく必要がある。日本人とは全く違う世界観に生きている人々であることは、常識として知っておかなければならないだろう。


(記事転載開始)

中国・2歳児ひき逃げ事故 背景にある「助けてはいけない」風潮~中国の素顔(53)

チャイナビジネス最前線2011年10月20日 11:50  

(「NET IB NEWS」より転載 http://www.data-max.co.jp/2011/10/20/post_16399_1020_c.html

 中国山東省青島市郊外のホテルで、日々変わり行く中国を観察している現地滞在のフリーライターがいる。福岡と青島を定期的に行き来している彼に、リアルな中国の今をレポートしてもらった。

 日本ではありえないことが中国で起こった。その一部始終を監視カメラが捉え、物議を醸している。10月13日、広東省佛山市で2歳女児が続けて2台の車にひき逃げされるという事件が発生した。


 この女児は、1台目の車にひき逃げされ、道路にうずくまっていた。直後に3人の通行人が現場のそばを通ったものの誰も助け起こさず、女児はさらに2台目のトラックにひかれ、意識を失った。その後も18名の通行人が、倒れている女児のそばを素知らぬふりをして通りすぎていった。
 この監視カメラに収められていた事故の一部始終を映像で地元メディアが報じ、中国のみならず海外でも大きな反響を呼んでいる。インターネット上では「恐ろしすぎる。わが国の人間性、道徳はとうとうここまで堕ちてきたのか」「引き裂かれたのはこの女児だけではなく、いまの社会の良識だ」など、中国人の道徳心を問う多くの書き込みがなされた。

 中国では、道路などで倒れた老人を助けたところ、本人や家族から「あなたのせいで転倒して負傷した」などと治療費を請求されるトラブルもあり、「街頭で倒れた老人を、誰も助けない」現象が発生しているという。

 10月6日、中国衛生部は老人や子供がよく遭遇する怪我などの対策ガイドを公表。うち「老人が転倒した場合における技術ガイド」では、「老人が転倒した場合、手を貸して起こす前に、倒れた人の身体的状態や倒れるまでの経緯を記憶しているか確認することが必要」としている。中国政府は、このガイドをあくまでも「医学の知識のないものが、むやみに倒れている人を助け起こさないための医学的な見地によるもので、倫理とは別の問題」としているが、「倒れた人を助けない」という風潮に、政府が倫理のお墨付きを与える結果となってしまったようだ。


(記事転載終了)

 衝撃映像だ。鳥肌が立つ。

http://www.youtube.com/watch?v=6qMeI7qC5ZA

 中国共産党の世界中へのシナ人の移民政策に乗っかって、シナ人受け入れを進める政治家や官僚は事の重大さを認識しているのだろうか。
 庶民レベルの接触に問題があるというだけでない。
 彼らには国防動員法の縛りがかかっている事は特に重要だ。彼らはみな「档案」という管理名簿で統制されている。

(次のサイトを参照 http://www35.atwiki.jp/kolia/pages/1271.html


 ひき逃げ事件は日本でもある。
 しかし、中国におけるこの二歳児ひき逃げ事件では、ひき逃げ犯が一度ひいた上でさらにもう一度ひいている事も驚きだが、それ以上に、通行人のほとんどが見てみぬ振りを決め込んでいた事が、一種のカルチャーショックとして衝撃的に受け止められているようだ。
 日本ではちょっと考えられない事件だが、かの国では日常的な事件である事を知っておく必要があるだろう。

 これは、記事にあるように、別に老人が助けた人を逆に訴えた事件があったから、弱者に対するいたわりを控えるような風潮が現れたというような甘いものではない。彼の文明の生態に深く根ざすものなのだ。

 戦前に活躍した支那研究家、いわゆる支那通の長野朗(あきら)の著作には洞察に満ちた支那観察が随所に語られている。
 これを読むと支那人というのは中華人民共和国となった今も一切変わっていないことがわかる。
 
 昭和四年刊行の『日本と支那の諸問題』には次のような今回の事件を髣髴とさせる事件の数々が記されている。
 
 支那人の主なる性質の一つはその利己的なことであって、この方面では徹底した性格を備えている。日本では「旅は道づれ世は情け」とか、「情は人の為ならず」等と云う諺があるが、支那では人が殺されようが死のうが全く無関心である。私の友達が同文書院(上海の日本人学校、東亜同文書院)の旅行で洞庭湖を船で行っているうちに船が転覆して溺れそうになったが、近くを舟が幾らも通るが助けて呉れない。所が一人の男がポケットから一元の銀貨をつかみ出して見せた所が、忽ち方々から舟が集まって助けて呉れたので、六人の命が一元で、一人当たり十七銭ばかりになると話したことがある。

 つまり、車にひかれた二歳の幼児の場合、一枚の銀貨を取り出せるはずもなく、十八人の支那人の素通りと相成ったわけだ。

 さらに次のように書かれている。

 私が或る時川辺を通りかかったが、男が二三人立って居るので、何だと聞いて見ると、この河に子供が溺れて居ると云う。その河と云うのが深さが大人の腹まで位しかない処である。それを誰も助けようとしない。また河に溺死体が浮いて潮の加減で上ったり下ったり二三日もやって居るのを見ることは決して珍しくない。たまに死体を引き上げる奇特なものが居るかと思えば、衣服だけ脱ぎ取って体はまた河に投げ込むと云う有様である。支那には兵乱や土匪(土着の強盗団)等で、時々人民が避難することがあるが、そんな時には一家の主人が在り金を皆持って、親や妻子にお構いなしに逃げ出すと云う有様で、かかる混乱の際に国民性は最もよく現わるるものである。
 支那人が金を大事にするのは一つは人情が利己的なためで、金が無ければ誰もたすけて呉れるものはなく、官憲はもとより相手にしないし、野垂れ死にする外ない。そこで子供を売ると云うことにもなる。殊に旅に出て金が無くなった場合には全く動きが取れないので、最愛の妻を売り飛ばすようなこともある。子供を売るのは珍しくはない。大体十円位の相場である。支那人が金と命を同じ位に大事にするのは、無理のないことである


 いみじくも、日本人は水と安全がタダと思っている、とイザヤベンダサンが言ったように、人に優しい和の文明を築いて来た先人に日本人は感謝すべきなのだ。少なくともまともな日本人に生まれ変わって支那人になりたいと思う人は一人もいないだろう。
 
 戦前の日本人はそういった支那人に同情し、これを何とか救い出そうと動乱の支那に深く関わって行ったのである。 

 満州事変を企画した石原莞爾は次のような言葉を残している。

 支那人がはたして近代国家をつくりうるやすこぶる疑問にして、むしろわが国の治安維持のもとに、漢民族の自然的発展を期するをかれらのため幸福なるを確信する。

 多くの日本人が同じように考えていたのである。
 (ちなみに長野朗は、陸軍士官学校で石原莞爾と同期生であった。) 

 支那人、及び支那文明の本質を抉り出した長野朗のこの本は、戦後、GHQによって焚書されている。連合国の悪を暴いた本はこの世から抹殺されなければならなかったのだ。
 この本の引用は、西尾幹二氏の『焚書図書開封5 ハワイ、満州、支那の排日』(徳間書店)に依っている。

 河で溺れている子供も、誰かがお金を出してやれば助けてもらえる。
 こういった支那人の生態は古代以来のものといっていいのだろう。

 こういった事件が中国共産党に統制されているメディアで報道された事や、これに衝撃を受けたようなインターネット上の支那人の非難もまた、そこが全く別の価値観によって支配された世界である以上は、日本人が解釈した意味合いとは別の解釈がなされなければならないのだろう。

 こういった事件には孔子さまや孟子を生んだ国なのに、といった慨嘆が伴うことが多いが、実は孔子や孟子の思想はそのままでは彼の文明に受け入れられなかったのである。

 戦前の中国の思想家・林語堂は、『孟子』の思想の基本には、人間とは所詮飲食と女、という考えがあり、その思想は老獪極まりない、という趣旨のことを言っているそうだ。林語堂はもちろん、この老獪という言葉を、最も尊重されるべき肯定的な意味合いで使っている。
 日本人で古来、『孟子』をこのように読んだ日本人は一人もいなかったであろう。『孟子』の易姓革命の論理は日本の権力の消長にしばしば援用されてきたが、皇室に対する湯武放伐論の適用は慎重に避けられてきた。
 そういった学問を踏まえて、明治維新が成ったことは忘れられがちだ。吉田松陰、西郷南洲翁、勝海舟、その他多くの志士が、これらの漢籍を読みながら、身を修め、切磋琢磨し、新生日本を創り上げていったのだ。

 孟子は「惻隠の心は仁の端なり」と言ったが、それは、例えば、よちよち歩きの幼児が今にも井戸に落ちそうなのを見かければ、思わず助けの手をさし伸ばしてしまう、その心のことであり、人なら誰でも持っている心だとした。
 あるいは孟子の時代には多少なりともそういった気風が残っていたのかもしれない。しかし、後世の支那人からすれば、そんな心など自分のどこにもないし、周囲を見回してみても誰も持っていそうにいない。
 そういった私利私欲にまみれた人間を抑えつけて、統治していくために、道徳の重要性が声高に叫ばれた。
 だから林語堂流の解釈では、孟子は老獪だ、ということになるのである。
 二歳児ひき逃げ事件を報じた中国のメディアも、インターネット上で嘆きを呟いた支那の人々も、同じ老獪さから、事件に触れ、あるいは非難した、と考えなければならないのだろう。
 
 ひょっとすると、支那人にしてみれば、孟子は、惻隠の心無きは人に非ざるなり、と言っているから、惻隠の心無き人間は人ではない、ということになって、支那人全般の命が、官民双方において、文字通り、鴻毛より軽く扱われることになったのかと勘繰りたくなってくる。
 もしそうなら、彼らの思想は彼の文明ではむしろ、道徳を圧殺する働きをなしたことになる。考えここに至って、その倒錯した世界観には愕然とさせられる。

 支那においては、少なくとも、孟子が活動した戦国時代を経て、韓非子を中心とする法家の思想によって統一を遂げ(秦の始皇帝による中原の統一)、この本質が漢の時代に儒教の衣を纏った。
 儒教は官学となったその始めから、皇帝が官民を統治する道具と成り果てていた。
 そこで日本人が『論語』『孟子』の言葉に読み込んだのとは全く逆転した世界観が成立した、そういうことであったと思われる。

 そもそも支那の人心の荒廃は、孔子がその嘆きを発した場所であり、すでに中原の趨勢となっていた。 だからこそ、孔子の描いた理想は挫折を余儀なくされたのだ。
 春秋時代。今から約二千五百年前の事だ。
 二百年後の戦国時代、孟子もまたその理想を継いだが、当然のことながらその人心荒廃の趨勢に勝つことは出来なかった。
 孔子も、孟子も、自己の描いた理想が、後世、この地で形式でだけ受け入れられただけでなく、むしろ人を圧殺する働きをなすことになるなどとは夢にも思わなかっただろう。

 かつて支那という文明の生態について、徳富蘇峰の言葉を借りて次のように書いたことがある。


 法家の大家、韓非子は実は孔子の思想を学んだ韓の皇子であったが、社会の現実を見て、その理想を捨てた。聖人はこの支那の乱世に孔子ただ一人であった。だから、そうでない人間から構成される社会には別の規範が必要である、と。それによって生まれたのが『韓非子』の思想である。漢の時代に国教となった儒教はそれが纏った衣に過ぎない。
 この経験が支那文明に深く刻まれている。

 かつて徳富蘇峰は、支那文明に関する次のような卓抜な批評を残している。

「極言すれば、杜甫一たび出でて、支那の詩界は亡びたりと云うも、大なる過言にあらず、即ち王右軍出でて、書亡び、朱晦菴(朱子)出でて、経学亡び、韓退之出でて、文章亡ぶと云う意味に於て然る也。而して此の意味に於て、特に杜甫に於て、痛切なるを見る也。」

 ここ一年ほどシナの近現代について一歩踏み込んで勉強してみたが、この蘇峰の卓抜な表現を借りるなら、次のように支那文明を表現できると思う。

 孔子一たび出でて、支那の道徳は亡びたり。

 これに尽きる。

 辛亥革命から文化大革命まで続いた内乱で、それまで緩慢に衰退し続けた支那の道徳の芽は完全に死に絶えた。それが毛沢東が進めた批林批孔運動という蛮行であった(林は毛の政敵となった林彪、孔は孔子)。
 彼が推しすすめた簡体字化もまたこれに匹敵する蛮行であろう。

 中華人民共和国建国以来の共産党の元勲の一人は言ったそうだ。
 簡体字は、支那人民に過去の文書を読めなくさせるための政策である、と。
 ここには当然支那の古典も含まれる。
 典型的な愚民化政策だが(それ以前に支那人民の多くは漢字の読み書きが出来ない)、これは中華人民共和国建国の正当性に関わる問題があり、専制体制を揺るがせかねない問題をはらんでいるからであろう。
 中国共産党幹部は、『韓非子』『孫子』を読みながら、愚民と化した人民に銃口を突きつけ、君臨し続けているのである。



 これについても長野朗は実見したところから、例を挙げた上で、次のようにまとめている。

 孔孟の教えも支那には形骸だけが残ってそれが却って災いをなし、実質はとうの昔に消え失せ、日本の方に伝わって居る有様である。

 そうなのだ。
 そのことが支那を意識しながら、対抗意識を持ちながら、独自の文明を創り上げてきた日本の国體を考える上で大変重要なのだ。
 南洲翁の事跡を叙述し、征韓論政変から西南戦争に至る不可解さを説く過程で、日本人にとっての切実な問題として浮かび上がってきたのがこのことなのである。

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