続続 張作霖爆殺事件の謎解き 張学良関与説

 前回はコミンテルンの関与を考察したが、今回は張作霖の息子・学良の親殺しを検討する。

 これは加藤氏の新説で、まだ十分な検証がなされているとは言いがたい。
 しかし状況証拠からは十分ありうる説である。

 これまでの通説では、河本大作が国民党の仕業であると偽装しようとして殺そうとした三人の阿片中毒者のうちの一人が、辛くも虎口を脱し、逃げ込んだことで事件の真相を知った学良は、日本軍を密かに恨んで、復讐を誓った、ということになっている。
 儒教国家・中国なら、さもありなん、と思うところだが、ところが、シナの歴史に詳しい台湾人の評論家・黄文雄氏によれば、

「中国の歴代皇帝206人のうち、じつに63人が親兄弟従兄弟縁戚によって殺されている。だから張作霖という中国東北地方の『皇帝』が謀殺されたと聞けば、真っ先に疑うのは家族身内眷属であり、したがって張学良が一番怪しいのです。」

 とのことである。
 権力闘争の激しさ、背徳という点で、シナの歴史は日本の非ではない、ということだ。

 張学良が歴史に与えた影響の大きさということで言えば、西安事件が余りに有名だ。
 一九三六年(昭和十一年)十二月、当時国民党に所属し、西安において共産党撲滅の指示を受けていた張学良の軍は、攻撃に消極的であったため、蒋介石自らが督戦に赴いた。
 張はなんとその蒋介石を監禁したのだ。
 これには世界中が驚いた。
 シナのみならず、日本の運命まで大きく変えた事件だ。

 (「西安事件」ウィキ解説;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%AE%89%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 これによって蒋介石率いる国民革命軍の攻撃で、「最後の五分」というところまで追い詰められていた中国共産党は息を吹き返したのである。

 張学良は事件のかなり前から中共の工作を受け、共産党の主張に傾斜していたようだ。夏ごろには既に、中共の根拠地・延安で、周恩来と会談していたという話もある。
 蒋介石逮捕の報を受けた毛沢東は「殺蒋抗日」を主張したが、スターリンの、蒋介石を生かしてともに日本と戦え、との指示を受け、仕方なくこれに従ったという。
 当事者がこの世を去った今となっては、事件の真相は永遠の謎であるが、この事件を契機として十年ぶりに再び国共合作が成り、国民党軍と中国共産党が日本との戦争に一致して進むことになるのは周知の通りである。

(実は、張学良には、西安事件の前年、すなわち一九三五年末に中国共産党に入党を申請していた疑惑がある。共産党中央文献研究室執務委員を務めた高文謙氏が、二〇〇四年に、三五年末に共産党中央がモスクワのコミンテルンに対し、張学良の入党申請を報告し、その可否を求めた電文を読んだと発言している。)

 この後、第一次国共合作の反省から、蒋介石が唱えていた安内(中共の討伐による内政の安定)を攘外に優先する政治姿勢は汪兆銘が堅持していくことになる。そこでシナの安定を望む日本と汪兆銘は接近することになるのだ。


 張学良の生涯を見ていくと、秀才にして悧巧ながら、一方で、富と権力に執着し、堕落した人物像が浮かび上がってくる。

 彼がある勢力に属しながら、目の前の敵対する勢力に通じたのは西安事件が初めてではない。

 張作霖爆殺事件四日後の一九二八年六月八日、蒋介石は北京に入り、北伐は完了した。
 日本政府は次期後継者と目される学良を懐柔するつもりであったが、彼はいち早く、国民党軍との和平を唱えた。父を殺した日本に対する復讐心からだったということになっているが、そんな殊勝なことではなかった。

 蒋介石が国民政府主席に就任した十月十日の段階で、学良は国民政府委員に就任することになるが、二〇〇六年になって新たな事実が判明した。

 実は、この一年以上前の一九二七年七月二十日の時点で(つまり父が殺されるはるか前に)、学良は国民党への入党を申請していた、というのである。
 つまり、彼はこれが党から認められていれば、父が暗殺された時点で、父の不倶戴天の敵であるところの蒋介石の部下、国民党の隠れ党員だったということになるのである。

 これは米・スタンフォード大学で二〇〇六年に公開された蒋介石の日記によって判明した。
 
「易寅村、彭君が来訪。武漢、北京よりの忠誠伝達について話す。武漢の共産党は間もなく崩壊する。張学良も忠誠を伝達し、入党してきた。」

 これがその記述である。
 これでは父の仇を討つなどという発想が学良に浮かぶはずがない。

 現に、父が暗殺されたその日、彼は北京で開催されていた自身の誕生パーティーの席上にあったが、このパーティーに参加していた清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀の弟・溥傑は次のように書き残している。

「…私は会場をひと目見て、いつもと違っていることに気付きました。楊宇霆などの奉天軍閥のお偉方が皆来ていたので、奇妙に思いました。張学良の様子には少しも慌てたところはありませんでした。彼の話では大元帥(張作霖)は列車で爆発にあったが無事で、呉俊陞が負傷した、ということでした。張作霖が死んだとは一言も言いませんでした。」

 死んだとは一言も言わないのは当然としても、慌てた様子もなかったとは彼の性格からすると少し不自然のように思える。少なくとも彼はこの時点で国民党と通じる意思は持っていたのだから、裏のある態度と考えるのが自然だ。

 その張学良には奉天軍閥内に対立者がいた。
 溥傑の回想に出て来る楊宇霆(よううてい)がそれだ。

(「楊宇霆」ウィキ解説;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%8A%E5%AE%87%E9%9C%86
 
 楊は日本の陸軍士官学校卒業の親日派で、関東軍内部では次期後継者と目されていた。
 政略として張作霖支持を打ち出していた田中義一首相も、内心では、信用のならないこの元馬賊の首領を嫌い、楊を支持していたようだ。(田中と蒋介石の会談の通訳を務めた張群の回想による。)

 張作霖亡き後、学良と楊は権力争いを始めた。
 そういった中で、張は十二月二十九日に易幟を断行する。
 それまでの五色旗を下ろし、青天白日旗満地紅旗(国民政府の旗)を奉天城内外に一斉に掲げたのだ。

(「易幟」ウィキ解説;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%93%E5%B9%9F

 これは国民政府に寝返ったことを意味するが、同時に、前年七月の国民党への忠誠、入党申請以来の行動の帰結であることを意味している。
 ならば、その間の張作霖暗殺は、こういった学良の動きの中でどのように位置づけられるか。

 優勢にある国民党の北伐の標的である父・作霖の首を手土産に、国民政府に参加し、それなりの地位を確保する。

 そういうことを意味はしないか。

 彼なら、暗殺を恐れてさまざまな工夫を凝らしていた張作霖のお召し列車の発車時刻から編成までを自由に知りうる立場にある。
 父殺しの疑惑は、敵対する政治勢力に絶好の攻撃の口実を与え、その後の軍閥の統率のみならず、彼が狙う国民政府内での政治活動に差し支えるから、敵対する日本のせいにすればいい。

 状況証拠から見て、張作霖爆殺事件の有力な容疑者といえるだろう。

 張作霖の殺害は、北伐の早期完了を意味する。
 蒋介石にとってその政治的意義は大きい。
 学良はその功により、十月十日、蒋介石が国民政府主席に就任した時点で、国民政府委員の席を与えられた。

 そう解釈するのが理に適っている。

 それらの一連の行動の仕上げが易幟であったが、これと並行して、学良は、易幟に強く反対した競争者の楊の暗殺を企てていた。
 年が明けて一月十日。
 学良は麻雀をしようと楊を自邸に誘った。
 楊は側近の常蔭槐を連れて、学良邸に赴き、暗殺された。

(楊暗殺事件については次のサイトの解説が詳しい。http://ww1.m78.com/sinojapanesewar/youtei.html

 学良はあらゆるところで楊殺害のさまざまな弁解をしているが、こういった一連の流れを見ていけば、その目的とするところは明瞭だ。

 彼は一年以上かけた周到な謀略によって、国民政府の討伐を受ける立場から、国民政府の有力者への転身を見事に遂げたのである。


 ただ一つ気になるのは、次の事実である。

 十二月二十九日、奉天城内外に翻った青天白日満地紅旗には、既に多くの赤旗が混じっていたというのである。(「満鉄調査時報」一九二九年二月号)
 西安事件を遡ること八年前にして、すでにコミンテルンの影がちらついているのである。


《「張作霖爆殺事件の真相 (その十)」 終わり》

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック