張作霖爆殺事件の謎解き

  少し間が空いたが、加藤康男氏の新著『謎解き「張作霖爆殺事件」』「PHP新書)をようやく読み終えたので、そこから見えてきたことをまとめておきたいと思う。

 読者はこの事件にさほどの関心はないかもしれない。
 関東軍の一高級参謀が成したこの暗殺事件など、その後頻発する帝国陸軍軍人によるテロ事件の魁に過ぎないではないか。
 そのうちの一事件が、コミンテルンの仕業かもしれないという可能性が出てきたからといって、それがどうした。
 そんなことを今更ほじくり返してどうする。

 かつて自分もそう思ったのだが、少し調べて、考えるうちに決してそうではないと思うようになった。
 

 今、日本の政権与党は民主党だが、最初の鳩山内閣はもろに中国共産党の傀儡であった。小沢一郎氏は中国共産党の日本解放、人民共和国化の請負人である。
 続く菅首相は、北朝鮮のエージェントである。
 彼もまた日本解体を目指して首相の座にしがみついている。
 民主党の事務局には、旧社会党の共産主義者が流れ込んで、日本解体工作を巧妙に推し進めると同時に、共産革命を密かに夢見る者達が傘下に参集しているのだ。
(例えば以下の討論を参照。http://www.youtube.com/watch?v=Bdn_zZQ7snk&feature=youtube_gdata )

 マスコミはこれを報道しないどころか、国民の目から覆い隠す報道しかしない。


 共産勢力の日本侵食は、遂にここまで至ったわけだが、その起点となる事件の一つがこの張作霖爆殺事件でないかと思われるのである。
 この事件の背景を探ることは現在の日本、および日本人の置かれた状況を知る上で大変有益であることに気づいた。
 その点、歴史とはやはり現在の己の姿を映す鏡であるのだ。
 張作霖爆殺をめぐる諸々の事件もまた、この例外ではない。

 既にいわゆる昭和史家・秦郁彦氏の『昭和史の謎を追う』所載の論文「張作霖爆殺事件の真相」の精読を通じていくつかの問題提議を行っておいた。

 一つは時の内閣総理大臣・田中義一がこの事件に対する対応を通じて、昭和天皇の譴責を被って、内閣総辞職に至った要因について。
 通説とは違って、田中義一首相の忠義心と、保守にとってタブーである昭和天皇批判、君徳未熟の問題を敢えて指摘しておいた。
 そして、ここから、田中首相の最終的な上奏は、決して食言ではなく、最終的な調査結果に基づく、まっとうな処分案ではなかったか、との仮説を立てておいた。

 もう一つは、河本大作大佐という人物に対する懐疑である。
 私は彼を似非愛国者であると断定した上で、次のように書いた。


ここで疑念がわいてくる。
河本が似非愛国者であるとして、彼はなぜ軍法会議にかけられるのをあそこまで拒んだのか、ということである。

 一つ考えられるのは、処罰を恐れたということだが、彼の経歴、言動を見るとこれは少々考えにくい。

 そこでもう一つ考えられるのは、彼には隠された別の目的があって、より詳細な調査によって、自白した単独犯行のシナリオが崩れるのを恐れたということである。

 あるいは、また別のケースがありうるのか。



 これが加藤氏の新著を前にしての認識であった。

 これまでの通説をなぞっただけの秦氏の論文を読んで、論文の主旨とは別の結論、それも正反対の結論が出たとすれば、それはこれまでの通説に対する挑戦となる。

 この認識が、仮説が、最新の研究に耐えられるものであるかどうか、読むのが楽しみであると同時に不安でもあった。
 というのは、自分の歴史に対する感性が本物であるかどうか、日本人としての感性であるところの「やまとごころ」が問われている、と思われたからである。

 その点、ロシアから旧ソ連時代の諜報機関に関する資料が発掘されたといっても、それもまた、伝聞情報であり、外国人の研究に依拠していて、日本人が直接に史料に当たったわけではない以上、確実なものとは言えなかったのだ。
 


 読後感に進む前に一つ付言しておきたいのは、秦氏の論文に見られる中国共産党および左翼勢力に対する遠慮である。

 満州の帰属問題について、中国共産党の公式の歴史観に配慮してのことか、問題を曖昧にしていることは指摘したが、例えば、当論文中に、張作霖爆殺事件勃発当時の唯一の元老であった西園寺公望について触れた次のようなくだりがある。


 西園寺は八十歳の老齢ながら、原書をフランスから取り寄せて読むほどで、頭脳の冴えはいささかも衰えを見せていない。…


 秦氏は、田中首相に対する西園寺の助言の妥当性を裏付ける意図で、耄碌していなかったことをいいたかったのだろうが、これは昭和五十一年十一月七日の『毎日新聞』に掲載された昭和天皇のお言葉が元になっているらしい。

 昭和天皇はここで、西園寺公望の思い出として次のような話をされている。


 西園寺公は八十いくつになっても、フランスのマルクス主義の本を八冊ばかり集めひもといていた。さすが一冊しか読み得なかったが、あの年になってフランス語の本をこなしていた。本当に勉強家であるということに感心しています。


 西園寺公望の知力の確かさを言いたいのなら、フランス文学ではなく、当時最新の社会科学として日本の知的エリート層の心をとらえていたマルクス主義の本ということを強調して書いたほうが、勉強家であることを訴えやすかったはずだ。
 
 もちろん西園寺は時局に対する理解、共産勢力に対する警戒心から、これを知っておく必要ありと認めて、フランスからマルクス主義の原書を取り寄せたのだろう。

 幕末、西郷南洲翁が、一度は戦争までした相手である英国公使一行を薩摩に招待することになった際、漢訳『聖書』を上海から取り寄せて、勉強していたことを連想した。
 当時、南洲翁は漢訳の『英国誌』という書物まで薩摩の殿様に読ませようとしていたのである。もっとも、南洲翁は漢語は読めても、英語は読めなかったが、『孫子』「彼を知り、己を知らば百戦して殆うからず」との発想からであった。
 
 レーニンの命令によるロシア皇帝・ニコライ二世の処刑は一九一八年、張作霖爆殺事件を遡ること、ほんの十年前の出来事である。
 ちなみに共産パルチザンによる日本人虐殺事件である尼港事件は一九二〇年の出来事だ。

 最後の元老、西園寺のこの危険な共産主義勢力の脅威に対する警戒心こそ、昭和史の謎を解く一つの重要な手がかりなのである。


 ついでに書いておくと、この元老の孫、西園寺公一はバリバリの赤で、尾崎秀実と親しく、ゾルゲ事件に連座して逮捕されている。大正デモクラシイの空気を一杯に吸った戦前の知識人の一つの典型で、戦後の進歩的知識人の魁といってよい人物である。
 祖父が唯一の元老としてマルクス主義の研究をしているのと前後して、彼は留学先のイギリスはオックスフォードで、共産主義の虜になっていたのだ。
 これは一つのスキャンダルである。
 公一は爵位継承権を剥奪され、戦後は、中国共産党、毛沢東に接近し、北京に居を構えるに至る。
 軽薄で無責任な進歩的知識人の一つの典型といえそうだ。
 名門に生まれた不肖の子という点で、なんとなく織田信雄を連想してしまった。

(「西園寺公一」ウィキ解説;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%85%AC%E4%B8%80


 歴史家として、この問題に興味をそそられない方がおかしいが、秦氏は口を緘して、これには決して触れない。
 秦氏の共産主義勢力に対する遠慮というか、姑息な態度は一体何なのだろう。


 秦氏は張作霖爆殺事件の一月前に起きた済南事件を叙述する中で、次のように書いている。


 昭和三年四月十九日、日本政府は居留民保護の名目で再び一個師団の山東省派兵を決定した。いわゆる第二次山東出兵である。田中首相と鈴木参謀総長が参内して裁可を求めると、昭和天皇は署名しようとして取り上げた筆を戻し、双眼を閉じて考えこんだ。侍立する奈良侍従武官長が、「陛下」と声をかけると、天皇は目を開いて、「これでいいのか。また尼港事件のようなことが起こらぬだろうか」(『背広の天皇』)とつぶやいた。尼港事件とは、大正九年、シベリア出兵の最中に、ニコライエフスク(尼港)の日本領事館員と居留民が赤軍ゲリラに捕らえられ、獄内で大量虐殺された事件のことである。


 昭和天皇の御心配を素直に解釈するなら、大陸情勢に対する不安の吐露と見るべきだろう。出兵しなくとも、居留民は北伐軍によって事件に巻き込まれる危険が高いが、保護のために軍隊を派遣すると衝突して大事件になってしまう可能性がある。共産パルチザンによる尼港事件のように。

 蒋介石率いる国民党の北伐は、大正十五年(一九二六)七月広東に始まり、昭和三年(一九二八)六月の北京入りで終わるのだが、その最終段階で起きたのが、北京に居座っていた張作霖の満州帰還、その途上での爆殺なのだが、北伐軍は、その北上の課程で様々な事件を起こした。
 その最も有名な事件が昭和二年三月の南京事件である。

 南京における日本人居留民は、森岡領事の判断で領事館に集められ、護衛の任についていた陸戦隊の方針もあり、非武装で革命軍の通過を待ったが、やはり暴行略奪を受け、英米もまた同様の事件に巻き込まれた。
 英米は揚子江上より軍艦により城内を砲撃したが、日本軍は、虐殺を誘致するおそれありとして、砲撃には参加しなかった。
 この件で領事館の警備に任じていた荒木海軍大尉は引責自決をしている。

 事件後、森岡領事は、政府に対し、事件の首謀者は北伐軍中の共産勢力の計画的犯行であると報告している。
 当時の外相・幣原喜重郎もこれに同意しているし、国民党軍も同様の見解を日本政府に伝えてきている。
 事件に巻き込まれた英国政府もそのように断じており、各史料から、この事件がコミンテルンの工作であったことは疑う余地はないといっていい。
 
 国民党は、モスクワが北京のソ連大使館に発した指令文書を入手していた。これは事件の前年である一九二六年十一月のコミンテルン第七次会議で採択された方針に基づいたものであった。

 その指令文書には次のようにあった。

「あらゆる方法を用いて国民大衆による外人排斥を引き起こさなければならない。この目的達成のためには、各国と大衆を武力衝突させなければならない。これによって各国の干渉を引き起こすことができたらば、さらに方法を択ばず、それを貫徹すべきである。たとえ、略奪や多数の惨殺をもたらすものであっても構わない。大衆が欧州の軍隊と衝突した時には、その機会を決して逃がしてはいけない。」

 このコミンテルンの指示の下、南京事件は起きたのだ。
 翌四月、この南京事件を受けて、これまで孫文の意思を継承して容共政策を採ってきた蒋介石は、反共クーデターを断行。
 北京では張作霖がソ連大使館の強制捜査を行い、共産党員二十名を逮捕処刑し、数々の秘密文書を押収している。

 以上の状況下で、山東出兵が行われるのはやむを得ざる選択といっていい。

 日本内地においても、無為無策の幣原喜重郎の夢想的協調外交が国民の支持を失い、四月二十日の対シナ強硬外交といわれる田中義一内閣の発足と相成った。共産勢力の策動は、当時既に日本の政局にも大きな影響を与えていたのだ。
 田中首相の対シナ外交が、英国のパーマストン外交に象徴される国際的スタンダードであったことは既に触れたところだ。
 田中首相は愛国者にして、御皇室に対する篤い忠義心を持した人物であり、また、その政策は当時の基準に照らして常識的なものであったこともまた、秦論文の検証により既に述べた。


 昭和天皇は、山東出兵に際して、裁可を躊躇された。
 その背景には、昭和天皇の大陸情勢、および共産主義勢力に対する漠然とした警戒心があるのだが、秦氏はやはり次のように、日本の軍部のせいにして、目をそらすのである。

 奈良は、もう一度参謀総長を呼び戻して説明させた。納得した天皇は決済を済ませたが、天皇の憂慮は的中した。五月一日、済南に入城した蒋介石軍の兵に居留民が殺害され、駆けつけた第六師団と交戦、さらに一個師団を増派する事態となったのだ。
 居留民を保護するために出兵が、逆に相手を刺激して虐殺事件をひきおこし、その報復が本格的な軍事衝突に拡大するという危険な悪循環-天皇の胸中に田中外交への不信が生まれたとしても、不思議はない。


 秦氏の書きざまは、北朝鮮による拉致被害者を知りながら見捨ててきた日本政府の精神のあり方に一脈通じるものを感じる。
 秦氏は済南事件の経緯を省いてこう書くが、実は、事件は日本軍が北伐軍の約束を受け入れて、警備を撤去した後に起きているのである。
 その惨状が例によってまた凄まじい。

 済南事件についてはウィキ解説参照のこと。(「済南事件」;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%88%E5%8D%97%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 この済南事件に中共の工作員が関与した形跡はないが、蒋介石が北伐を断行する中で、国民党に紛れ込んでいた中共工作員が、蒋を窮地に陥れようと、外国人に対するテロを画策していたことだけは確かであった。 


 北伐の目的は、北京に居座っている張作霖を退治することである。

 その張は、「日本に代わって北京で共産勢力と戦っている」と主張し、満州の安定を望んで帰還を勧める日本に対して、「赤化した蒋介石を援助して自分に満州帰還を勧める」との不満を抱いていた。
 確かに日本は満州の安定を望み、張の中原への野心を援助しなかった。これは同時に、蒋介石の北伐完成に対する援助となっていた。
 その煮詰まった状況下で張は遂に満州への帰還を決意する。
 その途上でテロは起こった。

 ともかく、革命を目指す共産主義者たちを直視せず、中国共産党を批判できない者に、昭和史の謎を追うことは出来ない。
 歴史を追えないという事は「彼を知らず」「己を知らず」ということであり、すなわち「百戦して殆う」いということだ。
 既に彼らの工作によって日本は国家の中枢を侵されてしまっている。
 中共創立以来九十年の歴史は日本がやられっぱなしの歴史といっていい。
 これは中共が日本の根源的な敵であることに対する日本人の認識不足に起因している。

 
 前置きが長くなってしまった。
『謎解き「張作霖爆殺事件」』(PHP新書)については次回触れることにする。


《「張作霖爆殺事件の真相 (その八)」 終わり》 

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